細江英公氏が語る日本人写真家のヴィンテージ・プリント

先週、日本写真家ユニオン主催の講演会があり、細江英公氏(1933-)のお話を聞くことができた。
以前、日本人写真家の60~70年代の写真集が海外で非常に人気が高いことを紹介した。 フォト・ブックの歴史検証作業が行われ、日本人写真家はオリジナルプリントではなく写真集を重要視すると理解されるようになったのがきっかけだ。いまや日本人写真家のヴィンテージ・プリントに当たるのが初版写真集という解釈なのだ。
細江氏はまさにその時代に、「おとこと女」(1961年刊)、「薔薇刑」(1963年刊)、KAMAITACHI」(1969年刊)などの、いまや貴重なコレクターズ・アイテムになった写真集を発表した中心人物なのだ。今回の講演は、当時の日本におけるオリジナル・プリントや写真集についてのお考えが聞けるもので、非常に面白かった。

やはり、当時の写真家はプリントとしての写真作品に価値を置いていなかったらしい。 この時代は印刷されて初めて原稿料がもらえたので、雑誌などに印刷されることの方が重要だと考えられていたのだ。その究極の形が写真集化されることだったのだろう。プリントと写真集は全く別物と考えていたと細江氏は断言された。お金にならないプリントよりも、明らかに写真集を重要視していたことがよくわかる。プリントはネガがあればいつでも安価で制作できるという発想だったのだ。
なんと木村伊兵衛氏は邪魔になるということで、自らのヴィンテージプリントを燃やしてしまったとのこと。もし、それらが残っていたらビルが3つ位建っただろうと細江氏は残念がっていた。
実は収納スペースの問題もプリント軽視の風潮にかなり影響していたという印象だ。つまり、当時の日本の住宅はスペースが狭く、多くの写真家はプリントで作品を収蔵するより、ネガを整理して保存する方法を選んだようなのだ。桑原甲子雄氏は家業が質屋で倉があったからプリント作品が残っているそうだ。細江氏もガウディー作品保存のため、自宅ガレージから車をだしてスペースを確保したとのことだ。

彼がオリジナル・プリントの重要性に気付いたのは、ワシントンD.C.のスミソニアン協会で開催された写真展がきっかけだった。現地キュレーターが写真集「おとこと女」を見て企画されたものらしい。会期終了後、一部作品がコレクションとして購入されることになった。購入用の作品にはサインを入れる必要がある。彼は万年筆でサインをして作品を送ったところ、鉛筆で書き直すようにと指摘されたのだ。これがきっかけで、細江氏はプリント自体に価値を見出す欧米の価値観を知るようになるのだ。
その後の細江氏の啓蒙活動がなかったら、日本にはヴィンテージプリントなどほとんど残っていなかったかもしれない。写大ギャラリーの持つ土門拳コレクションなどは彼の尽力なしでは存在しなかったのだ。

講演の参加者の多くはオリジナル・プリント販売を目指す写真家だった。「いま写真を取り扱うギャラリーが増加しており、日本のアート写真市場もやっと動き出す気配を強く感じる。」写真界の重鎮による彼らへの激励の言葉に私も勇気付けられた。