アート写真市場の現在 2010年春オークション・レビュー

景気は世界的に回復傾向にある。しかし、その原動力は各国の大規模な財政支出、つまり借金により賄われている。いままではその恩恵を受けて、生産、消費が改善したが、最近になりその負の面の弊害が目立つようになってきた。ギリシャに端を発した、欧州の財政と金融危機が新たな火種として顕在化。欧州各国は市場からの攻撃を恐れて急激に財政再建路線に軸足を移し始めた。米国では、政府の減税が4月末に終了したことが影響して新築住宅販売が過去最大の下落幅を示すなどその反動も散見されるようになってきた。景気は最悪期は脱したものの、今後の見通しは決して楽観が許されない状況だろう。

さてアート市場はいまどのような状況だろうか。
5月にはニューヨークのクリスティーズでパブロ・ピカソの「NUDE, GREEN LEAVES, AND BUST 」が、アート作品としてオークション最高額の約1億648万ドル(約96億円)で落札された。一方で、6月のロンドンのクリスティーズではクロード・モネのレアな睡蓮の絵画が不落札になっている。やや全体の方向性がつかみにくい印象だ。
6月に世界で最も権威があるフェアーのアート・バーゼルが開催された。専門誌のレポートの見出しは、”豊富な資金、しかし市場の方向性のコンセンサスはない” というものだった。まさにアート市場の現状を言い当てた表現だと思う。
つまり、アート史で評価の定まったような名品を展示できたギャラリーの売り上げは概して好調で、それ以外の中途半端に高額な作品の売り上げは苦戦ということのようだ。
現代アートとしては安い価格帯になる10万ドル(約950万円)以下の動きは悪くないそうだ。実際、作品を出品していた日本人作家によると、新作を含めてかなりの点数が売れたという。しかし、バーゼルは世界中の富裕層相手のフェアーなので、市場の断片的な状況だけを示しているかもしれない。つまり、不況の時でも富裕層は潤沢な余裕資金を持っている。逸品が適正価格で売られていれば買う人は確実に存在する。アート・バーゼルはニューヨークの五番街と同じようなところで、常に買い物客が多く活気があるように感じられるのだ。

価格レベルにかなりの違いがあるが、この傾向はアート写真にもあてはまるだろう。
ちなみに今春のオークションでは100万ドル(約9500万円)超え作品は1点しかなかった。
ササビーズで落札されたエドワード・ウェストンのオウムガイを正面から撮影したヴィンテージ・プリントの”Nautilus,1927″。1,082,500万ドル(約1億283万円)で落札されている。
繰り返しになるが、写真も希少で価値のあるものは高額でも売れるが、それ以外の動きははまだケース・バイ・ケースなのだ。
今春は、アート写真の新たなコレクション構築とみられる、良品の積極的な買いが見られたという。このようなまとめ買いが高額作品の市場を活性化させた印象が強い。
この流れで好調だったのは、クリスティーズで開催されたアーヴィング・ペンの単独セール、”Three Decades with Irving Penn”だ。これはペンのスタジオのマネージャーを長年勤め、彼の右腕として活躍していたPatricia McCabeのコレクションからのもの。ほとんどがクリスマス・プレゼントだったのだが、ペンは普通に販売されているエディション番号付きを贈っていた。抜群の来歴と完璧に近い保存状態からセールは完売だった。

一方で、中間価格帯から以下の作品が中心の複数委託者からのセールは方向性が定まらない印象だった。オークションハウスがかなり厳しい出品作の選別を行っているのに、全般的に普通の落札結果が多かった。
モダンプリントやエディションが付いた希少性が高くない作品は、予想落札価格の範囲内での落札が多い。アーヴィング・ペンやダイアン・アーバスなど有名作家でも最低落札価格が強めと感じる作品は不落札になるケースが見られた。
一般コレクターは、欲しい作品の価格が自分の相場観の範囲内なら買う。しかし、無理して高値を追うことはしないというスタンスだ。転売目的のディーラーは、今のレベルで作品を仕入れても相場の短期的な急上昇は予想しにくいと考えているようだ。従って自分の相場観と比べて過小評価されているものにしか興味を示さない。今まで不調だったファッション系や現代アート系作品も売れるようになってきた。しかしブランド作家の作品以外は相変わらずコレクターは慎重だった。

オークションが行われた4月のニューヨークのダウ平均株価は2月の急落から回復していた。しかし、5月には欧州の財政問題への懸念から再び一時一万ドル割れとなった。株価チャート的にも、リーマンショック後の最安値からの戻りの節目となるポイントを抜くことが出来なかった。中長期トレンドはまだ弱きが続いている。株価動向は経済の先行指標でもあり、オークション参加者に心理的な影響を与える。5月に開催された、ブルームズベリー、やササビース・ロンドンのオークションはかなり厳しい結果だった。目玉が少ない、普通の作品が中心だったからと思われる。これらの価格帯のアート写真のコレクションは中間層の人たちが中心に行っている。彼らには今回の不況のダメージがまだ残っており、先行きにも決して楽観視ていない表れなのだろう。
春先までの市場は、慎重だがやや強気に傾いていた。ここにきて再び慎重スタンスにややトーンダウンした感じだ。

約583万円の写真集 ロバート・フランク「The Americans」

5月21日にロンドンのクリスティーズで毎年恒例の「Photobook」オークションが開催された(上の写真がオークションカタログ表紙)。今年の話題をさらったのが、ロバート・フランクの古典写真集「The Americans」が当日のオークション最高値の43,250ポンド(約583万円) で落札されたこと。落札予想価格の上限は15,000ポンド(約202万円)。もちろん、この本の史上最高値段でもある。プレスリリースによると、戦後に正規に流通した普及版写真集での最高価格とのことだ。
これ以上の値段をつけている写真集もあるが、オリジナルプリントがついていたり、1点物の実物大見本などだ。つまり今回は印刷され流通した写真集のオークション新記録ということだ。

「The Americans」は数多くの版があることは広く知られている。オリジナルは1958年の5月15日にフランスのRobert Delpire社から”Les Americains”。今回落札されたのは、1959年の米国Grove press刊行による、米国版の初版だ。最近では、米国版と欧州版は、出版社が違うだけで内容は全く同じ場合が一般的。しかし、上記の2冊は収録写真数は同じだが編集がかなり違い、別物と解釈されている。90年代くらいは、フランス版の方が最初に出たということで市場での価値が高かった。 しかし、フォトブック自体が再評価されるようになってからは、作家性がより反映されているということで米国Grove press版の評価が上昇した。状態にもよるが、現在では2冊は同じくらいの値段がつくこともある。

さて今回オークションで落札されたのは、1959年のGrove press刊行による米国版だ。何でこれほどの高評価を得たかというと、ロバート・フランクの直筆サインが、「For Leo Stahin. Dec. 1959 Robert Frank」と書かれているからだ。この1959年12月という記述が非常に重要。この本は1959年刊となっているが実際に店頭に並んだのが1960年1月だという。つまり、これは写真集「The Americans」のまさに刊行時のサインということ、アート写真でいうと、ヴィンテージ・プリントという意味になるのだ。クリスティーズによると、過去30年間で同時期にサインされた写真集はオークション市場には登場していないとのこと。
彼のオリジナルプリントは、サイン入りモダンプリントなら1万ドル(約92万円)以下でも購入可能だ。今回の高額落札は、もはや写真集はコレクターの資料という位置付けにとどまらず、それ自体が写真表現のカテゴリーの一つであることを明らかにしたことになる。
写真集「The Americans」はいままでに多くの出版社から数多くの再版が世界中で刊行されている。表紙デザインやサイズも様々だ。2008年にスタイドル社から刊行50周年記念版が刊行された(下の写真)。これは、原点回帰で本のサイズが再び1959年米国Grove press版に戻されている。現在、アマゾンや洋書店で売られているのは、約583万円で落札された写真集とほぼ同じたたずまいなのだ。興味ある人はぜひ手に取って本の雰囲気を確かめてほしい。

フォトブックス市場の動向にも少し触れておこう。他のアート市場と同様に世界的な景気後退の影響を受けて市場は弱含んでいる。ロンドンで開催のオークションを比較すると、景気の底は2009年だったようだ。総売り上げ285,562ポンド(約4000万円)、落札率約62%と低迷した。2010年は出品作を厳選したこともあり、総売り上げは353,438ポンド、落札率は約72%に回復している。ちなみに最高売り上げは2006年の643,832ポンド、落札率は約86%。ちょうどリーマンショック前の2008年春には市場の大きなニューヨークでもフォトブックス・オークションが開催され、その時はなんと約260万ドル(約2億6千万円)の総売り上げだった。 落札状況をフォローしてみると、アート写真市場の動きと全く同じだ。現在は、本当に資産価値があり、状態が良い写真集なら需要はある。しかし、いつでも買えるような流通量が比較的多い中級品の動きは鈍いといことだろう。 ヴィンテージは売れて、モダンプリントが苦戦するという構図だ。その状況が象徴的だったのが、今年5月19日ブルームズベリー・ニューヨークでアート写真の一部で開催されたフォトブックのオークション。際立った目玉がない中級品中心だったこともあり、約50点の出品で落札率はわずか30%だった。
従ってピークと比べて個別写真集の相場も下落気味。特定の欲しい写真集があったが手が出なかった人、特に高額本の場合は好機到来かもしれない。しかし、フォトブックには、アート・ギャラリーだけではなく膨大な数の古書店ディーラーが関わっている。10万円以下の本の場合、相場の下限ではこれらディーラーが仕入れの買いを入れる。参加者が少ない現代アートのように値段が急落することはない。以前より多少安く買えるくらいに考えてほしい。