バランス感覚を取り戻せ
トミオ・セイケ写真展が語るもの

現在開催中のトミオ・セイケ写真展「Untitled」では、デジタル・カメラによるアート作品制作の可能性を示唆している。それが作品コンセプトとどのようにつながるかを考えてみたい。

セイケが今回撮影したのは、プラハ、アムステルダム、ブライトンなどのシティー・スケープ。彼は単純に欧州に残る古い街の外観を愛でているのではない。欧州人は古いものを大事にする一方で、優れた新技術を受け入れる柔軟性も持っている。古い外見の建物の中に暮らす人々は、薄型テレビ、インターネット、携帯電話、携帯型デジタル音楽プレイヤーも利用しているのだ。西洋文化には古いものと新しいもの意識的に組み合わせる知恵がある。その精神性こそが欧州都市の魅力の源泉なのだ。

なんで、セイケの撮影した欧州のシティースケープに私たちは惹かれるのだろう。それは、日本の現在の都市環境に本能的に違和感を感じるようになったからに他ならない。いままでは、こんな状況を成長、進歩の最前線として、まるで映画ブレード・ランナーの世界だなどと肯定的に解釈してきた。しかし、その前提が崩れた現在、革新的だったはずの未来都市がただエゴに満ちたなカオスの集積に見えてくる。実は、日英を往復しているセイケによる日本都市の認識はずっと一貫していた。欧州でしか作品制作を行わないのはそのためだったのだ。
戦後日本人の進歩と成長のみを妄信する一元的な価値観がいま大きく揺らいでいる。今回、セイケが長い歴史を持つ欧州都市を日本製最新デジタル・カメラで撮影したのは、西欧のようなバランス感覚を意識したらという、迷える私たちへのメッセージではないだろうか。

彼は欧米市場を中心に活躍している作家だ。当然、今回の試みは彼らへのメッセージも含んでいる。欧米市場はいまだに銀塩写真が中心。デジタルプリントはかなり普及しているが、カメラはまだフィルム式だ。しかし技術進歩により、伝統的な写真に見えても、実はデジタル写真だったという状況も、もはやおかしくないのではないか。ただし、作品クオリティーは絶対条件。銀塩写真の歴史が長い欧米写真界でも、最新デジタル写真のクオリティーを見れば考えが変わるかもしれない、という期待が感じられる。実際にセイケの話を聞いたロンドンの老舗写真ギャラリー、ハミルトンズのディレクターは、初めてのデジタル写真により写真展開催を意識したとのこと。
来年には、何とデジタル・カラー作品によりセイケの個展が開催されるかもしれないのだ。
セイケのデジタル作品は本家本元のアート写真の歴史を変えるきっかけになるかもしれない。

コンデジでアート作品が出来るのか?衝撃のトミオ・セイケ写真展が始まる

 

あるお客様がギャラリーでの展示作品を一通り見終わると、どの作品がデジタル・カメラの撮影ですかと聞いてきた。全ての作品です、と伝えると眼を丸くして驚いていた。
ライカ・マスター、銀塩写真の魔術師と呼ばれるトミオ・セイケ。彼の新作は、なんとデジタル・カメラ、インクジェット・プリンターによるものだ。アナログでしか作品制作していなかった作家がにわかにDP-2に興味を持ったり、その衝撃はいまでも続いている。

一般の人が普通によい写真を撮影するのに、もはやライカなどの機材にこだわる必要はなくなったのではないか。これが本展のセイケのメッセージの一つだろう。
ライカやノクチルクス・レンズは簡単には買えないが、シグマのDP2Sを買える人は多いだろう。それゆえ、本展ではカメラ、レンズの先入観なしに純粋にセイケの作家性を愛でている人が多いという感じだ。そして見れば見るほど、同じカメラでも自分はセイケの”Untitled”シリーズのような作品を作り出せないことを思い知るのだ。これこそが作家のオリジナリティーを知ることだ。それに気付いた人たちはセイケの写真の価値が真にわかり、作品が欲しくなるのだと思う。

9月18日にトミオ・セイケと、本作で使用したDP-2,SD-14を制作したシグマ社広報の桑山輝明氏とのトークイベントが開催された。純粋のセイケ・ファンはもちろん、DP2に興味ある参加者も多かった印象だった。狭いギャラリーでのトーク・イベント。キャパシティーの問題で先着順の受付となった。希望者全員参加とはならずにたいへん申し訳ありませんでした。お二人のトークをここに簡単に再現します。参考になさってください。
(敬称略)

パート1:SIGMA広報の桑山氏とセイケ氏とのトーク

桑山
(まずは、カメラDP2について)
写りとしては、良い。コンパクトカメラで中のセンサーは一眼レフと同じものが入っている。センサーが大きいと、小さいところまで写るが、デジタルカメラとしての細かい機能は備えていない。ゆっくり動くので使いにくい。じっくりと作品を撮りたい方向け。

セイケさんは何故このカメラを選んだのか。

セイケ
DP1も使ったが、あまりに使いにくく返品の代わりにオリンパスのデジカメに交換してもらったくらいだった。その後、アート・ディレクターの福井さんが手掛けられたキャンペーンに強い印象を受けて、日本からDP2を買ってきてもらった。イギリスでの使用中は夢中になることはなかったが、東京に戻ってA3でモノクロのプリントアウトをしたときに、その出来をライカのスキャンのプリントアウト、R—D1などと比べてみたが、DP2のプリントが一番良かった。それであれば一度作品を展示してみようと思った。

桑山
DPのカメラは撮影に7秒かかり最初はとまどう。使用後1週間の壁があり、これを超えないとヤフーオークションに出してしまう。1週間我慢して使って、1ヶ月くらいたつとカメラのことがわかってくる。そのうち使う人の方がカメラに慣れて合わせるようになる。
このカメラは、現場ではドキドキするが、その後パソコン(モニター)で開いたときに別物に変わることでワクワクする。プリントするとまた違う。是非そこまで使って欲しい。
ところで、何故今回はカラーでも制作されたのか。

セイケ
デジタルカメラはカラーが本筋だと思っている。フィルムだけを使っているときは、カラーには全く興味がなかった。カラーで自分が欲しいと思う作品に出会ったことがなく、モノとしての魅力がないと思っていた。カラーは印刷でよいと思っていた。
だが、デジタルならカラーのプリントが可能となる時代になったのではないかと思った。そのきっかけを与えてくれたのがDP-2だった。いずれデジタルで欲しいと思うカラーの作品が出てくるのではないかと思いSD14を買ってみた。それがすぐに欲しいと思うカラー作品に直結するかどうかはわからないが。

桑山     楽しみにしています。

パート2 : 参加者との質疑応答

Q1         デジタル写真のアートとしての価値、フィルムとの違いは何か

セイケ
それは誰にもわからない。確かに一部ギャラリー等には拒否反応があるし、同等ではない。撮る方とギャラリーではギャップがある。様々な解釈基準があるのだ。だが、いまの革命的なデジタル時代において、2-3年後はだれも予測できない。デジタルとフィルムは全くの別物と考えたほうが良い。

Q2         カラーでとってモノクロに変換するときの注意は?

セイケ
感覚的に言えば、シグマさんのセンサーのカメラは、撮った後に撮りっぱなしでモノクロに変換すればよい。どこのメーカーでもすべての調子を出さなければならないということにこだわりすぎ。全てが表現されるのは写真的でないこともある。デジタルからそのまま出したプリントでも階調は出る。

Q3         フィルムでも、デジタルでも、写真を撮ってからプリントが出来上がるまでの調子はどの時点でどのように決めるのか。

セイケ
例えば、写真を撮るときは、当然色のついた被写体を見ているわけだが、既に私の頭の中ではモノクロの仕上がりを考えている。その頭の中の感覚を実際にプリントするときに実現化する。

桑山       逆に、撮影時とモニターに向かうときと変わることはあるのか

セイケ    それはない。

桑山       データには手を入れるのか。

セイケ
手順を言えば、撮る→現像する=SPP(Sigma Photo Prp)で操作する(=画面を見ながらレバーをスライドして操作する)→パソコンにおとしてフォトショップで若干さわるだけ。モノクロのときはさわならい。今回20X24インチのフレームで展示している3点は何もしないでそのまま出力している。(ギャラリー右奥に展示)その表現力は驚きだ。

Q4         ブライトンの魅力について、何故ブライトンで撮るのか

セイケ
80年代の終わりから住んでいるが、当時はブライトンではあまり撮らなかった。最近は、若いころと比べて行動範囲が狭くなり、身近なものを撮るようになってきたので、ブライトンで撮るようになっている。もともとブライトンはBright が語源らしい。光が美しく画家も多く住んでいる。だが、イギリスの中でとりたてて魅力がある街ではない。自分としては木が少ないのが残念でさみしく思っている。

Q5         フィルムの暗室作業と、インクジェットのプリンターを扱うのと違いがあるか

セイケ
全く別の感じだ。銀塩は自分の心と直接つながっている。プリントする前日からは、余計な電話に出ないなどして、集中して気持ちを高めている。インクジェットは電源を入れればできる。制作するときの気持ちは全く違う。

Q7         撮るときの気持ちはどうか。

セイケ
これは、同じだ。カメラによって気持ちが分かれるというのは良くない。写真を撮るときは、撮りたいものに、全身でぶつかってシャッターを押している。
そういう意味では、DP2は時間がかかるので「よーく見る」ことになる。これは大事だ。作品制作の時は、必ずしも機能的なカメラが良いわけではない。

Q8         使用しているプリンタと紙は

セイケ
プリンタはエプソンPX5002
本展では紙は三種類使っている。紙については、これが決定的というものはない。かつての印画紙のように安定的に供給される紙がでてくるのかどうかも不安に思っている。

以上。

アートとしてファッション写真 日本はどうなっているの?

 

9月8日まで渋谷パルコ地下1階のロゴスギャラリーで開催している「レア・ブックコレクション2010」。今年は「ファッション」をテーマに、ファッション写真家による写真集とオリジナル・プリントを展示販売している。

実は欧米でもファッション写真はアートとしては新しい分野なのだ。80年代くらいまでは、ファッションは作りものの、虚構の世界であることからアートとしては一般的には認められていなかった。戦前のマン・レイなどは生活の為にファッション写真を撮影していたと言われている。いまでこそ、有名なアート・ディレクターのアレクセイ・ブロドビッチも以前は忘れ去られた存在だった。

写真が真実を記録するメディアから写真家のパーソナルな視点を表現するものと理解されるようになるに従い状況が変化する。ファッション写真には人々の夢や欲望、つまり時代の雰囲気が反映されている点が注目されたのだ。
20世紀末になると、資本主義の高度化とグローバル化、情報化が進行し、世の中の価値観が大きく多様化する。皆が共通の未来像を持っていた時代への懐かしさが強まり、当時の気分を感じさせるファッション写真のブームが到来する。

欧米のアート写真の評価軸は歴史の積み重ねで成り立っている。ファッション写真分野でも、当初は美術館による歴史の掘り起こしと再評価が行われた。 ファッション写真をテーマにした本格的展示は1975年に ホフストラ・ユニバーシティ(米国ロングアイランド)で最初に開催。美術館での展覧会は1977年にジョージ・イーストマンハウスの国際写真センターで行われている。
その後は、1986年に英国ヴィクトリア&アルバート美術館で「Shots of Style」展、1989年にセントルイスのザ・フォーラムでファッション写真のグループ展「Images of Illusion」、1990年にマン・レイのファッション写真を特集する展覧会がICPニューヨーク、1994年には戦後ファッション写真を回顧する展覧会「Appearences」が英国ヴィクトリア&アルバート美術館で行われている。
1990年代以降はパーソナルな視点でファッション写真に取り組んでいた過去の人たちの再評価が進み、数多くの写真集が刊行された。ギイ・ブルダン、リリアン・バスマンなどはその流れからでてきたのだ。いまでは、写真家に自由裁量を与えられて撮影されたファッション写真はアート作品の一部と認められ、ギャラリーや美術館の壁面に普通に展示されるようになったのだ。
ちなみに「レア・ブックコレクション2010」では、それらの写真展開催に際して刊行された多くの写真集や、日本での知名度の低いファッション写真家の写真集を多数用意した。 嬉しいことに多くの人が興味を持ってくれて、開催期間を一日残した段階でそれらはほぼ完売してしまった。

さて本イベントで展示されているのは外国人ファッション写真家の作品が中心で日本人写真家のものは、ナオキと中村ノブオだけ。その理由は、上記の欧米で行われたファッション写真家の評価の積み重ねが日本では全く行われていないからだ。
東京都写真美術館の金子隆一氏とこのことを話す機会があった。彼の見立ては、日本ではファッション写真の評価が中抜けとのことだった。歴史評価の積み重ねがないから、現在のファッション写真家の評価軸が明確に存在しないのだ。このことが理由で、日本人広告系写真家の写真集は、高い作家性と充実した内容でも市場価値が低いのだ。

それでは、いまでこそ当たり前のように語られる日本写真における歴史と伝統はどうだろうか。私はこれは欧米の基準、つまり外人が日本的と考える視点で語られていると感じている。そこで語られるオリジナリティーに現代の日本人はリアリティーを感じるかという疑問を持っているのだ。それをファッション写真に当てはめようとしても無理があると思う。欧米と違い、日本では大衆文化と正統派アートとの明確な区別がない。実はそのような新たな基準、視点を提示することで戦後日本のファッション写真や商業写真のアートとしての再評価はできないものかと考えている。これについては機会を改めて考えを披露したい。