アートとしてファッション写真 日本はどうなっているの?

 

9月8日まで渋谷パルコ地下1階のロゴスギャラリーで開催している「レア・ブックコレクション2010」。今年は「ファッション」をテーマに、ファッション写真家による写真集とオリジナル・プリントを展示販売している。

実は欧米でもファッション写真はアートとしては新しい分野なのだ。80年代くらいまでは、ファッションは作りものの、虚構の世界であることからアートとしては一般的には認められていなかった。戦前のマン・レイなどは生活の為にファッション写真を撮影していたと言われている。いまでこそ、有名なアート・ディレクターのアレクセイ・ブロドビッチも以前は忘れ去られた存在だった。

写真が真実を記録するメディアから写真家のパーソナルな視点を表現するものと理解されるようになるに従い状況が変化する。ファッション写真には人々の夢や欲望、つまり時代の雰囲気が反映されている点が注目されたのだ。
20世紀末になると、資本主義の高度化とグローバル化、情報化が進行し、世の中の価値観が大きく多様化する。皆が共通の未来像を持っていた時代への懐かしさが強まり、当時の気分を感じさせるファッション写真のブームが到来する。

欧米のアート写真の評価軸は歴史の積み重ねで成り立っている。ファッション写真分野でも、当初は美術館による歴史の掘り起こしと再評価が行われた。 ファッション写真をテーマにした本格的展示は1975年に ホフストラ・ユニバーシティ(米国ロングアイランド)で最初に開催。美術館での展覧会は1977年にジョージ・イーストマンハウスの国際写真センターで行われている。
その後は、1986年に英国ヴィクトリア&アルバート美術館で「Shots of Style」展、1989年にセントルイスのザ・フォーラムでファッション写真のグループ展「Images of Illusion」、1990年にマン・レイのファッション写真を特集する展覧会がICPニューヨーク、1994年には戦後ファッション写真を回顧する展覧会「Appearences」が英国ヴィクトリア&アルバート美術館で行われている。
1990年代以降はパーソナルな視点でファッション写真に取り組んでいた過去の人たちの再評価が進み、数多くの写真集が刊行された。ギイ・ブルダン、リリアン・バスマンなどはその流れからでてきたのだ。いまでは、写真家に自由裁量を与えられて撮影されたファッション写真はアート作品の一部と認められ、ギャラリーや美術館の壁面に普通に展示されるようになったのだ。
ちなみに「レア・ブックコレクション2010」では、それらの写真展開催に際して刊行された多くの写真集や、日本での知名度の低いファッション写真家の写真集を多数用意した。 嬉しいことに多くの人が興味を持ってくれて、開催期間を一日残した段階でそれらはほぼ完売してしまった。

さて本イベントで展示されているのは外国人ファッション写真家の作品が中心で日本人写真家のものは、ナオキと中村ノブオだけ。その理由は、上記の欧米で行われたファッション写真家の評価の積み重ねが日本では全く行われていないからだ。
東京都写真美術館の金子隆一氏とこのことを話す機会があった。彼の見立ては、日本ではファッション写真の評価が中抜けとのことだった。歴史評価の積み重ねがないから、現在のファッション写真家の評価軸が明確に存在しないのだ。このことが理由で、日本人広告系写真家の写真集は、高い作家性と充実した内容でも市場価値が低いのだ。

それでは、いまでこそ当たり前のように語られる日本写真における歴史と伝統はどうだろうか。私はこれは欧米の基準、つまり外人が日本的と考える視点で語られていると感じている。そこで語られるオリジナリティーに現代の日本人はリアリティーを感じるかという疑問を持っているのだ。それをファッション写真に当てはめようとしても無理があると思う。欧米と違い、日本では大衆文化と正統派アートとの明確な区別がない。実はそのような新たな基準、視点を提示することで戦後日本のファッション写真や商業写真のアートとしての再評価はできないものかと考えている。これについては機会を改めて考えを披露したい。