フィーリングを意味づける
写真を考えるためのヒント

自分自身で考えることは当たり前だ。しかし、日本ではそれが当たり前でないという意見がある。その理由は、わたしたちは伝統的に世間の中に生きてきたから。そのしきたりに従って生きていれば特に個人が自分で考え、決断を下さなくてもよかった。戦後には世間は会社組織に置き換わり、終身雇用崩壊後は「空気」が代用するようになったというのが最近の識者の主張だ。自分で考えて判断する習慣がないから「空気」を読んでそれに従おうとするわけだ。意見を求められると、空気に合った発言をしている識者の主張を取り入れて自分の考えのように話す人が多い。受け売り知識なので、妙にすっきりした断定的な意見になる。これらの分析は、実生活での経験と照らし合わせても納得する部分も多い。この辺のことは、最近のベストセラー「日本辺境論」(新潮新書 内田樹 著)や、「検索バカ」(朝日新書 藤原智美 著)に書かれている。興味ある人は読んでほしい。

私は、日本で感覚重視の写真作品が多いのは、上記のような歴史的な背景があるからではいないかと疑い始めている。学校ではテーマについて徹底的に考えることを教えない。それでもまったく問題視されない理由もここにあるだろう。そもそも一般人が個人として考えを追求する必要はなかったのだ。しかし、作家を目指す人にはこれは大きな弱点になる。自分が見て感じたことを総合化しテーマを明確に提示しないと見る側にメッセージは伝わらない。アート作品としての評価が非常に難しくなる。

もし考えるのが苦手なら、いっそ海外作家の作品テーマとのつながりを考えることからはじめてもよいと思う。色々なきっかけで訓練すれば自然と慣れてくるはずだ。
現在ブリッツ・ギャラリーで開催している下元直樹の作品で説明してみよう。
彼は抽象表現の絵画が好きで、同じような写真を撮影しようとしたという。作品をいきなり絵画との関連で語ることもできるだろう。しかし、彼は写真家なので写真史との関連で語られた方が立ち位置が明確になる。彼の作品のベースになるのはアーロン・シスキン(1903-1991)の作品だ。シスキンは、テーマがないこと自体をテーマにしている作家。写真で絵を描いたともいわれる。町の壁面などを絶妙なフレーミングとクローズアップで抽象的に撮影している。写真界では理解されず、抽象表現主義の画家が最初に評価した。シスキンの70年代の作品をまとめた写真集「Places」(Light Gallery1976年刊)には、アーティスト・ステーツメントも作品タイトルがない。写真には撮影場所と撮影地の制作番号のみが記されている。下元作品は、まさにカラー版のシスキンだ。
抽象表現主義絵画とシスキンの写真との違いは、このカラーとモノクロということ。これをつなげる写真家としてウィリアム・エグルストンが登場する。彼は、最初はモノクロで作品を制作していた。しかしテーマの一部の米国ディープサウスの色彩はモノクロで表現できないとカラーに取り組んだ。下元も東北の漁村の抽象的でカラフルなシーンを的確に表現するためにカラーで撮影しているのだ。
もうひとつのつながりは、ドイツ現代写真の重鎮ベッヒャー夫妻だ。彼らのタイポロジーは、作品をグリッド状に組み合わせることで互いを関連づけ、比較可能にしている。ドキュメント写真をアート作品としてコレクターの部屋に飾りやすくした、ともいわれている。下元作品のアプローチはまさにこれそのもの。彼の作品のベースは寂れた東北の漁村のドキュメント。影が出来ないように曇天の日を選び、できるだけ同じポジションでの撮影を心がけている。ギャラリーではベッヒャーを意識して複数作品をグリッド状に並べて展示している。

このように海外作家の仕事との関連から作品の様々な視点を引き出したり、明確にすることは可能だ。現代写真はその上で時代との接点が重要だ。それは、経済成長から取り残された東北人のメンタリティー。日本の伝統的美意識とのつながりが見られる点も忘れてはならないだろう。そして最後に、彼が撮影した海岸地帯が今回の大津波で流されてしまったことで作品は時代の記憶と重なった。
作家を目指す写真家には本作のコンセプトとテーマ性をぜひ見てもらいたいと思う。