テリー・ワイフェンバックの新作写真集「Maple and Chestnut」(Nazraeli、2012年刊)にはテキストが一切ない。また写真と余白スペースがうまい具合に共存し、心地よいヴィジュアルのリズムを作っている。その空間は俳句の”切れ”のような役割を果たしているのではないか。写真集なのだが何かヴィジュアルによる俳句集のようにも感じられる。
長谷川櫂の「俳句的生活」(中公新書、2004年刊)によると、「俳句は言葉を費やすのではなく言葉を切って間という沈黙を生み出すことによって心のうちを相手に伝えようとする」という。芭蕉の有名な、「古池や蛙飛び込む水の音」も、切れ字「や」により、現実の世界ではなく心のなかの古池を表現していると解説している。
俳句というと禅と不可欠な関係にある。禅は今ここに生きることを重要視する。ジャズの即興演奏、つまりインプロヴィゼーションはこれを意識したものだ。以前に紹介したがそれを写真集で試みたのがロバート・フランクの歴史的名著「The Americans」。フランクは、導入部分があり、メインテーマがあり、終わりがあるようなストーリ仕立ての写真集は嫌いだった。何か違うものを作ろうとしていたと発言している。「The Americans」では、写っているモチーフで”間”を作っていた。それは、アメリカンイコンを象徴する星条旗や自動車など。なぜ余白空間を使用しなかったのか?たぶんイメージが見開きの右側、左は余白でキャプションがあるという写真集フォーマット故の判断だったのだろう。
写真集には様々な種類がある。その中で、パーソナルな視点でとらえられたコンセプト、テーマを本のフォーマットで表現したアート系の写真集はフォト・ブックと呼ばれている。上記のワイフェンバックやフランクの写真集はこのカテゴリーになるのだ。
この判断は初心者には非常に難しいだろう。もちろん、マーティン・パーなどが著したフォトブックのガイドブックを参考にする手もある。私はレアブック市場の相場を参考にすることをすすめている。つまり、優れたフォトブックはコレクションの対象でプレミアムが付いて高価なことが多いのだ。その他の写真集は絵画の画集と同じように資料的価値しかない。いくら古くてもあまり高い値段は付いていない。
フォトブックでは作家のメッセージ性が重要視される。それを伝える為に”間”は有効なのだ。写真には大きく分けて説明的なもの、感覚的なものがある。社会と接点を持つ何らかのコンセプト、アイデアは、これらの写真を織り交ぜて伝えることになる。その視的、心情的バランスをコントロールするのが余白スペースなのだ。
また流れの中に時間的、空間的な”間”をおくことによって、作家自身の過去の記憶、思い出などとつながっていく効果もある。それはワイフェンバックが撮影時に意識した、かつて中間層が暮らしていた「Maple and Chestnut」の町並みだろう。つまり本作「Maple and Chestnut」も前作「Another Summer」同様に、現実のドキュメントではなくワイフェンバックの心の中の世界だということ。スペースは見る側が色々な解釈を行う仕掛けにもなっているのだ。
世の中にでている多くの写真集では、余白は作家の意図ではなくデザインの見地から挿入される。ドキュメント系の写真集の場合はその傾向が強い。それは同じ系統の被写体や対象物が続いていた時に、その終了を意図する締めの意味合いになる。しかしフォト・ブックを制作する時、デザイナーはヴィジュアルだけでなく作家のメッセージも意識して配列を考える必要があるのだ。デザイナーはギャラリストと同様の能力が求められる。それは写真家と真剣に話をしてそのコンセプトを理解すること。この場合、写真はデザインする素材ではないのだ。高いクオリティーのフォト・ブックを作るには、そこの部分の共通認識が重要なのだと思う。
話がややそれるが、写真展の場合のアプローチも紹介しておこう。通常は壁面の移動によりリズムを作ろうとする。しかし、どうしても会場ごとの物理的な制約があるのでヴィジュアル展開は写真集よりも複雑で難しい。しかし、展示も写真集もあくまで作家のメッセージをオーディエンスに伝えるための方法論。手段が目的化しては本末転倒だ。私は、会場内でのアーティスト・ステーツマントや解説の掲示により作家の視点を明確にし、作品展示はできる限りシンプルを心がけている。
テリー・ワイフェンバックの俳句のような新作写真集「Maple and Chestnut」(Nazraeli、2012年刊、限定1000部)の初回入荷分は完売しました。現在、サイン・プレート付き次回入荷分の予約をギャラリーの店頭で受付中です。