祝!世界文化遺産登録
岡田紅陽の富士山

富士山がユネスコの世界遺産のなかの「文化遺産」に登録された。

マスコミ報道によると、富士山は、山頂の信仰遺跡群や登山道、富士山本宮浅間大社、富士五湖、忍野八海などで構成。古くから、日本人の重要な信仰対象であったことに加え、江戸時代後期の葛飾北斎らの浮世絵作品の題材になって海外にも影響を与えた芸術の源泉であったことが文化遺産として評価されたとのことだ。

写真分野で富士山と言えば岡田紅陽(1895-1972)だろう。
彼はライフワークとして富士山を撮影し続けてきた写真家。早稲田大学在学時に、当時の大隈総長から「目的に向かったら命を捨ててかかれ」と言われたことを心にカメラで富士山に立ち向かった。実際、何度も撮影時に死にかけた経験があるという。

私は紅陽の写真は、いわゆるアンセル・アダムスのように雄大な富士山を精緻に撮影しているものという先入観を持っていた。しかし、展覧会で実物を鑑賞してやや意外な感じがした。決してプリント・クオリティーだけを追求した写真ではなかったのだ。写真集をみたり、本人のエッセーを読んでみて感じたのは、彼にとって富士山撮影自体が一種の修行に近かったのではないかということだ。最終的に、彼は富士山撮影を通して一種の悟りの境地に達したのだと思う。

最初のうちは多くのアマチュア写真家のように富士の秀麗な姿、フォルムの美しさを狙っていたそうだ。しかし、撮影は天候などの自然条件によって左右される、決して自分の思い通りにはならないのだ。そのような経験を積んで、50歳を超えたくらいから撮影スタンスが変化する。
彼は、自身が64歳だった1959年刊の写真集「富士」のあとがき「富士山と私」で、「14年前ごろ(50歳前後)までは、主として彼女(富士山)の外貌の美しさ、秀麗の姿に打ち込んできたが、近ごろになって彼女の内面、心の良さに見せられた・・・」、続けて「近ごろは(富士山の)会心の傑作を彼女に求めようとする野心など少しも持っていない」と語っている。
さらに写真作品は「私の心が彼女の鏡に映った姿にすぎないと解釈している」と書いている。そして(富士山から)健康に生きていることを意識させられて「感謝の思いが心の奥底からしみじみと浮かんでくるのである」と続けている。

撮影を続ける中で、彼は次第に自分の精神状態や心が反映した富士山を撮影するようになったのだ。それがモノクロの濃淡に反映されている。ときに暗部や明部が強調されシュールで抽象的な印象でもあるのだ。秀麗な富士山よりも、そのようなイメージの方が魅力的だと思う。
紅陽は絶対的な富士山の傑作などは存在しないことの理解した。見る人の心さえ穏やかな状態でそれが反映されていればそれぞれの人にとっての富士山の傑作写真なのだ。

さらに富士山を通して紅陽の意識は宇宙とつながっていたのではないか。彼は関東大震災と太平洋戦争という厳しい禍を経験している。そのような極端に日本が荒廃した時でも、富士山は美しい姿を変えることはなかったと語っている。凛としてそびえる富士山は自然の中で生かされている無力な自分の存在を直感的に意識するきっかけになったのだ。

しかし、世間一般では紅陽は秀麗な富士山を多数撮影している写真家のイメージが強い。彼の写真が切手や紙幣に採用されていることも影響しているだろう。決してアート系の作家の印象はない。
写真集を見ていると、彼は確信犯でオーディエンスが喜ぶ秀麗な富士山を仕事として撮影していたのではないかと感じる。とくにカラーで撮影したものはその印象が強い。
高価な写真集をだす以上、商業的に成功させることがプロの務めだ。ちなみに1970年に刊行された「富士」(求龍堂)の定価は15,000円だ。2012年と消費者物価指数を単純比較すると約2.99倍になる。つまり刊行当時のこの本の価格はいまの約44,000円位もする豪華本だったのだ。自分の心情が反映されたアート作品としての富士は、一般大衆が期待する秀麗な姿、美しい色合いの富士山とは違う場合が多々ある。
実は21世紀のいまでも、写真集を購入する人のうちで写真家の作家性やアート性を愛でて購入する人は僅かだという。ほとんどの人が撮影している土地や場所のブランド性、ヴィジュアルが美しいかで購入する。紅陽は富士山で商業的な仕事と作家の仕事の両方を行っていたのだろう。写真集は両方のバランスを考えた編集になっていたのだと思う。

富士山の文化遺産登録をきっかけに岡田紅陽の作家性が再評価されることに期待したい。