日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(5)

新しい日本の新ジャンルのアート写真の可能性について、いままで4回にわたって説明してきた。興味ある人はぜひ過去のブログを一読してほしい。
自ら読み返してもかなり複雑なので、ここで簡単にまとめておこう。今回は新たに気付いた点も加えている。考えが日々進歩しているので、いままでの主張と多少の矛盾点があってもご容赦いただきたい。今後も変わるかもしれないが、最新のものが最善の考え方だと理解して欲しい。

いまのプロ写真のカテゴリーは、大きく分けると、制作者のオリジナルな創造性を愛でるファイン・アート系と、実用的なデザインやインテリアを重視した応用芸術系とがある。
ファイン・アートは元々は欧米から輸入された概念であり、日本では感覚やデザイン性の追求が広くアート行為と考えられている。写真もファイン・アートというよりも応用芸術系が中心になっている。しかし、それらのなかに単なる感覚やデザインではとらえきれない優れた作家性を持つ写真家も数多く存在している。私どもはそれらの写真は、前記2種類の中間カテゴリーに位置するクール・ポップ写真として区別しようと主張している。

これは単なる思いつきではなく、日本の美術・文化史とつながりも見出すことが可能だ。鶴見俊輔が「限界芸術論」で主張した限界芸術の写真版(マージナル・フォトグラフィー)であり、柳宗悦が提唱した民藝の写真版とも拡大解釈可能だろう。民藝は観光地で売られている大量生産の工業生産の土産品の意味ではないので注意してほしい。
また夏目漱石がエッセー「素人と黒人」で述べている、素人にも近いと理解している(「黒人」は今日の表記では「玄人」)。ここでは詳しく触れないが、同文で彼は世間一般のアーティスト像を批判。専門家だと考えられている「黒人」は、表層的で局所的な技巧を追求する職人だとし。「素人」こそが自己に真面目に表現の欲求があり、全く新しいことを創り出す真のアーティストだと主張している。

この新しい分野で重要なのは「表現の欲求」、つまりどうしても世の中に写真を通して伝えたい真摯かつ強い要求を持つ人であること。世の中の評価、名声、お金儲けなどへの一切の執着がなく、写真に関わる、撮影、展示、写真集化などが社会とのコミュニケーションのツールになっている人だ。
彼らをアーティストと呼ぶとすると、その意味も既存のものとは違ってくる。それは、ライフワークとして写真表現で社会に能動的に対峙している人になる。ファイン・アート系のように、社会と関わるテーマやアイデア、コンセプトを紡ぎだして提示する必要はない。また、アート作品を発表して販売して生計を立てるような職業ではなく、生き方そのものになる。実際的には、何らか別の手段で生活費を稼ぎながら写真を撮影し続けている人で、それには商業写真家やアマチュア写真家も含まれる。また20世紀のファインアート写真が追求した、モノクロームやカラーによる抽象的な美しさや、ファインプリントの高い品質を追求する職人的な人も含まれる。写真のデジタル化で失われた手作業的な部分を取り戻そうとしている人だ。

彼らはどのように評価され、見出されるのか?それらは第三者による見立てによる。第三者の評価を嫌い、自らがテーマやコンセプトを語る場合、彼らはファインアート系を目指す写真家となる。また自らの感覚、デザイン・グラフィック性、テクニックを追求する場合は、販売目的のインテリア系となる。
実際のところ、世の中で撮影される多くの写真は、アート性やインテリアとの相性を意識しているわけではない。クール・ポップ写真では、上記のいずれにも属さない写真作品の中から、前記の「限界芸術」、「民藝」、漱石の指摘する「素人」の流れを踏まえながら、写真作品に内在する社会と関わるテーマ性と、背景にある「表現の欲求」が見出されるわけだ。

つまり、見立てる側の持つ、世界観、哲学、視点などから勝手に写真を評価する。繰り返しになるが、感覚、デザイン・グラフィック性、テクニックも評価基準の一部にすぎない。それ自体が目的となると別のカテゴリーの写真になる。

クール・ポップ写真はどのような経緯を経て展開していくのだろうか?
まず、この新カテゴリー写真の考え方と、見立ての行為を世の中に広めなくてはならない。これが普及の第1ステージだ。見立てる行為は、ギャラリスト、ディーラー、評論家以外でも、社会と能動的に生きている人ならだれでもできる。見立てる人はアーティスト同様に、自分の行為を写真家や世の中に評価されることを目指してはだめだ。周りの反応を気にせず、一方的に見立てることになる。フィーリングやデザイン的などの表層部分だけではわかりにくい作家の独自の視点を発見して、言葉にして提示する。それを通して、知的好奇心を満たし、社会とのコミュニケーションが持つ可能性が出てくるのだ。これは写真を撮影しない、コレクションしない、写真の読み解き方を楽しむという新しい写真の楽しみ方になる。
具体的な普及方法はいま色々と思案中だ。

もし広くこの考えが認識されてくると最初の目的から離れて日本独自の新しいカテゴリーの写真売買の市場に展開していく可能性があると考える。これが普及の第2ステージだ。第三者による作品の見立てやその行為自体は目的ではない。しかし、優れた人の作品が継続的に見立てられれば、それに共感する人が出現するかもしれない。また作品を複数の人が評価する状況が生まれる可能性がある。結果的にそこに価値が生まれるかもしれないのだ。見立てる側の持つ視点が情報として評価され、一般の人がそれを参考にして、作品評価、販売、コレクションにつながる可能性がでてくる。その積み重ねにより、本人の意図とは別に写真家や作品のブランド化が図られるようになる。もともと日本の有名写真家のブランドはそのように構築された場合が多い。

当初の販売価格はどのようなレベルになるのか。新人や若手は現代陶芸作家の器の価格に近くなるとイメージしている。しかし写真には陶芸と違い用の美はないので陶芸作家制作の器よりも安くなるべきだろう。最初はオープンエディションのインテリア系写真と同じレベルからスタートではないか。安すぎると考える写真家は、いままでのようにファイン・アート系やインテリア系のキャリアを目指せばよい。インテリア用も高額な値段がついた写真は数多く存在している。クール・ポップの写真家は販売目的で制作してないので原価計算は関係ない。実際上は手取り額が制作コスト以下にはならないレベルからだろう。しかし、もし写真家がブランド化していけば、需給関係から価格も上昇していくことになるわけだ。しかし、ある程度のキャリアや知名度を持つ写真家が見立てられる場合は、新人や若手より高めの販売価格になると考えている。

作品を販売するのは、それらを見立てる人、評価できる人となる。まだ具体的なヴィジョンは描けてないが、ギャラリーやディーラーになるだろうか?しかし、ギャラリーはビジネスなので、セカンダリー作品のディーリングなどの他分野の仕事で利益を上げている必要がある。 日本には、企業がスポンサーのギャラリーが多いが、それらには向いているだろう。

現在進行形で幅広く情報収集を行い、アート史との関連などを研究している。考え方の基本的な部分はある程度固まってきた。そろそろできるだけ多くの人と意見交換して、基本的考えの問題点や矛盾点などを明らかにしたい。近日中にセミナーなどを開催したいと考えている。