写真展レビュー
“山崎博 計画と偶然”は限界写真か?
東京都写真美術館

いままで日本における新たなアート写真のカテゴリー創出を提案してきた。現在、東京都写真美術館で開催されている”山崎博 計画と偶然”を鑑賞して、彼こそはこのカテゴリーの写真家ではないかと直感した。
少しばかり長くなるが、いま一度新カテゴリーの概要を説明しておこう。過去に書いた解説と重なる部分があるのはご容赦いただきたい。
現在の写真カテゴリーを大きく分けると、制作者のオリジナルな創造性を愛でるファイン・アート系と、実用的なデザインやインテリアを重視した応用芸術系がある。ファイン・アートは元々は欧米から輸入された概念であり、日本では感覚やデザイン性の追求がアート行為だと拡大解釈されてきた。写真表現もファイン・アートというよりも応用芸術系が中心になっている。
ファインアート系には、かつて20世紀写真という分野があった。20世紀には、写真はアナログ制作の特殊性によりアート界でも独立して存在していた。そこでは印刷で表現できないファインプリントの美しさと、モノクロの抽象美が追求されていたのだ。しかし21世紀になり現代アートの市場規模が急拡大し、また写真のデジタル化進行で技術的な敷居がなくなり誰でも制作できるようになった。この大きな変化により、写真は大きな現代アート表現の一部になって、現在の状況に至るのだ。従来の20世紀写真の流れを踏襲する写真家は、写真分野のアルティチザン(職人)のような存在となった。
しかし、そのような写真独自の美学や技術を追求している人が、無意識のうちに時代特有のメッセージが反映された作品を提示している場合も少なからず存在している。それらは意識的に行われるのではないので、現代アート分野の写真ではない。しかし、デザインや感覚を重視するインテリア系写真でもない。
これらは全く新しい分野というよりも、従来の日本の美術・文化史とのつながりから見出すことが可能なのだ。かつて評論家の鶴見俊輔が提唱した限界芸術という考えにかなり近い。彼は著書「限界芸術論」(1967年、勁草書房刊)で以下のように定義している。「今日の用語法で『芸術』と呼ばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を『大衆芸術』(Popular Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を『限界芸術(Marginal Art)』と呼ぶことにしよう。」
限界芸術の一部だと鶴見が指摘している分野に、柳宗悦が提唱する「民藝」がある。柳は優れた美であれば、鶴見のいう純粋芸術にあたる「作家性のあるもの」とともに、無名な職人の作品を積極的に評価してきた。
欧米の価値観では分類できない多くの日本の写真家の作品群は、この限界芸術ににかなり近いとのでないかというのが私どもの気付きなのだ。そしてこの限界芸術や民藝の写真をクール・ポップ写真と呼ぼうと提案してきた。新しいカテゴリー分けを行うことで、いままですっきりしなかった日本のアート写真の分類がわかりやすくなると主張してきたのだ。
ファイン・アート系写真家の場合、その最終的な評価は死後にセカンダリー市場で取引が成立するかどうかだ。つまり歴史に多少なりとも存在の痕跡が残せるかにしのぎを削っている。限界写真(マージナル・フォトグラフィー)のクール・ポップ写真では、写真家が作品販売のしがらみから解放される。写真家にとって、写真は市場の評価を得るものではなく撮るもので、社会とのコミュニケーションを交換する手段となる。アーティストとは写真を販売して生活する人ではなく、写真撮影をライフワークとする人になる。それは人生を通して能動的に社会と接する一種の生き方を意味する。どれだけ心を開いて世界を真剣に対峙したうえで撮影されたかが重要視される。逆説的だが、作品を売ろうという気持ちが消えた時にクール・ポップ写真は生まれるのだ。

評価は第三者の直感による見立てにより行われる。現代アートのようにテーマやアイデア・コンセプトは写真家自身から語られない。民藝が職人の手作業に注目したように、クール・ポップ写真では写真家が心で世界を見る行為に注目する。しかしそれは評価者の主観的な好き嫌いや思いつきでは行われない。また瞑想のような見る行為自体に安易に価値を見出すのには注意が必要だろう。それは優劣がない感覚自体の評価と表裏一体だからだ。またインテリア写真のようにデザイン的視点からだけの評価でもない。「直感」は見る人の美術・写真史や各種情報の集積、様々な感覚に対する理解の結果もたされる。写真家が無意識のうちに提示しようとしている新たな組み合わせ、融合された視点に気付くこと。そしてそれが時代の中にどのような意味を持つかの判断だ。

内在しているアート性のヒントは、写真家が無意識のうちに写真り続けるようになったきっかけや、その背景に隠されていると考える。そこに至るまでの過程には現代社会における何らかの価値観との関係性があるはずだ。
以上のように、写真家以上に見立てる人の実力が問われると考える。
さて、山崎博の写真展”計画と偶然”をみてみよう。
同展では、45年を超える作家活動の軌跡を初期作から新作までの182点の作品展示で回顧している。新カテゴリーの写真との類似性を見てみよう。
カタログの資料によると、彼の創作は「被写体を探して撮る」ことの否定、作為性を排した自身の新たな写真行為の実践であったという。また、写真はコンセプトに従属せず、コンセプトは写真に奉仕する、と山崎は述べていると紹介されている。同展キュレーターの石田哲朗氏は、”彼はいわゆるコンセプチュアル系の美術家がコンセプトの提示ために写真を用いるスタンスとは全く異なっている”と指摘している。山崎の写真制作のアプローチは、民藝などの陶芸作家の創作に近いという印象を持った。彼は、当時主流だった20世紀写真の価値観の、ファインプリントの美しさとモノクロの抽象美の追求を意識的に避けてきたのだ。それ自体を現代アート的に、方法論自体を作品コンセプトにしていると解釈できないことはない。
ここからは私の想像だが、どちらかというとカメラの構える方向などの撮影方法は大まかに決定されているものの、その後の創作過程は本人の内側から湧き出た衝動により突き動かされ、無意識に近いのではないか。それを抽象的写真と呼ぶ人もいるのだが、陶芸家と同じように真に心を開いて、無心の境地で世界と真剣に接したうえで撮影しているとも解釈可能ではないか。そして彼は従来の写真美の追求を避けてきたものの、完成した作品群は非常に美しいのだ。陶芸家が無心の境地から美しい作品を生みだすのに近い。それならば限界芸術の写真版と言えないことはないだろう。

限界写真のクール・ポップ写真では、アーティストとは、ライフワークとして能動的に社会と接する人の生き方を意味する。カタログのプロフィールを見るに山崎は作品の評価や市場性を求めることなく、写真を教えながら約45年も制作を継続している。彼の人生はまさに上記のようなものだったと解釈可能だろう。カタログでは石田氏が、山崎のフィルムの時代のケミカル・プロセスへのこだわりも評価している。ここも手作業に価値を置くクール・ポップ写真の評価と重なる。

新分野の写真は、誰かが見立てを行うことで評価される。今回の展覧会開催で美術館が見立てを行ったということだろう。山崎作品の評価は、20世紀写真の美意識にこだわる人や、現代アート的なテーマ性、アイデア、コンセプトを重視する人にはすんなりと理解できないかもしれない。しかし、日本の美術界に限界芸術や民藝が存在していたように、写真界にも独自の価値基準が存在していたことが本美術館展により明らかにされたのではないか。私どものような単なる業者が主張するのとは重みが違う。
同館での展示方針は、現代アートと20世紀写真の基準が混在した形式だと理解している。世界的にも珍しい”写真”の美術館であるから、このような展示スタイルになるのは自然だと感じている。しかし、海外から日本は特殊だと指摘される可能性もある。誤解を避けるために、将来的にはどこかの段階で日本独自の写真カテゴリーの提示は必要だろう。今回の展覧会を、その価値観を発信するきっかけにして欲しいと願っている。