写真展レビュー
「TOPコレクション-平成をスクロールする 春期  いま、ここにいる」
東京都写真美術館

平成を迎えたばかりの90年代の日本は、ちょうど資本主義が発展し多くの人が便利な生活を送れるポスト工業社会へ移行した時期だ。それ以降、IT社会化、グルーバル社会化が進展することになる。昭和のような大きな物語が世の中からなくなり、人々が多様な生き方が可能になった時代でもある。それは価値観が相対化していった時代ともいえる。昭和には、多くの人が共感可能な時代の気分や雰囲気が反映された写真作品の提示が容易だった。特に現代アートのようにテーマ性がなくても、写真家と見る側のコミュニケーションが成立した。
平成が進んでいくと、多くの人が共感するような将来の夢、幸福が減少していき、また時代の気分や雰囲気もあいまいになっていく。時代性がどんどん相対化していったのだ。自分の実感している世界を表現する創作行為は、細分化した時代感覚をすくい上げることとなり、複雑な社会の中でテーマを見つけ出す現代アートと変わらなくなった。
そのような平成という時代を「いま、ここにいる-平成をスクロールする 春期」で美術館がどのように解釈しているかは非常に興味あるところだ。同館のキュレーター伊藤貴弘氏は90年代の中ごろに評論家の宮台真司氏が主張していた「終わりなき日常」を引用していた。佐内正史、ホンマタカシ、高橋恭司などの風景写真にはそのような時代状況が反映されていると見立てているようだ。しかし、「終わりなき日常」もまた、平成の数多くある価値観のひとつに過ぎないともいえるのではないか。冷徹なる現実として、いくら意味が見いだせない世の中でも人間は社会の中で生きるしか選択肢がない。このような価値観が相対化した時代の写真は、アートとしてパーソナルな視点での写真家の世界の認知がテーマとして提示されない限りは、それぞれの撮影者のその時の個人的な感覚の連なりが反映されたものになりがちになると考える。
本展にはそのような感覚が重視された写真作品が中心に展示されている印象を持った。感覚は撮影した人の数だけ存在して、それぞれに優劣がないのが特徴だ。誰もそれらを比較して価値の上下を付けられないということになる。

今回の展示には既視感を感じた。以前に同館で開催された東京をテーマにした展覧会「東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13」を思いだした。巨大都市東京もあまりにも多様で、認知も感じ方も細分化している。上記の平成の認識も東京とかなり重なっている。どのような断面で切り込んで撮影しても、それは撮影者の心と頭で認識された東京がある。東京と場所が限定されるだけで、撮影した人の数だけ東京の認識と心象が存在していて、それを誰も否定できない。ある写真家が同展を見て、共感できる写真がなかったという意見を述べていた。それは、その写真家が認識している東京が反映された写真が展示に見つからなかったことを意味する。それがさらに大きなくくりの平成となると、もっと表現の範囲は大きくなってしまうだろう。

最近は自分が理解できない写真が多いという意見を、写真家や写真趣味の人からよく聞く。同じような疑問として、なんで今回の写真家と作品が同展に選ばれたか理解できないという意見も、たぶん多くあるかもしれない。しかし、それらは見る人が持っている時代の気分や雰囲気と、展示されている写真作品のものが合致しなかった理解すればよい。自分と違う感覚の写真を理解できないのは当たり前なのだ。当然だが、感覚がシンクロする人も存在しているだろう。そのような状況は、写真の時代感覚が多様化、相対化が進んだ平成という時代には当たり前だ。それは、アート写真が美術史や写真史を知らないがゆえに理解できないのとは意味が違う。
本展は秋にわたって3回にわけて3人のキュレーターが選んだ作品群が展示される予定とのことだ。多様化している状況をできる限り適切に提示するには、幅広い年齢の写真家の多種の写真を複数のキュレーターが選んで展示するしかないだろう。それらの中には、必ず見る人の感覚とシンクロした写真が発見できるはずだという意図だと思われる。本展は、現在の日本の「写真」の現状を的確に示しているといえるだろう。
7月15日からは夏期の「コミュニケーションと孤独」が始まる。多くの現代人が立ち止るキーワードが含まれたタイトルで、実際の展示がいまからとても楽しみだ。
総合開館20周年記念 TOPコレクション
平成をスクロールする 春期 「いま、ここにいる」
東京都写真美術館
参加写真家

佐内正史、ホンマタカシ、高橋恭司 、今井智己、松江泰治、安村崇、花代 、野村佐紀子 、笹岡啓子