日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(9)
なぜ日本で写真が売れないのか Part-1

いまや写真界では日本で写真は売れないというのが一般論になっている。私どものギャラリーの経験でも、特に日本人写真家による自然や都市の風景がモチーフの写真が売れ難いのは明確な事実だ。
私がよく引き合いの出す例は、アート写真のオークション規模の違いだ。ちなみに欧米では2017年に現代アートを除くアート写真だけのオークションが45回程度開催され、総売り上げは約79億円になる。日本にはアート写真だけのオークションはなく、SBIアートオークションのモダン&コンテンポラリー・アート・オークションのごく一部に写真が出品されるにとどまる。ちなみにギャラリーの店頭市場の規模は、オークションと同等から2倍程度といわれている。

その理由は、日本と欧米の住宅事情に帰せられる場合が多いが、状況を分析すると売れないのは当たり前なのがわかってくる。私はその状況を踏まえて、日本では全く新しい価値基準のアート写真カテゴリーが必要だと意識した。なんで写真の評価に第3者の「見立て」が必要なのか。本連載の読者により理解を深めてもらうために、今回は写真が売れない理由の説明を行いたい。

まず作家活動の意味や定義が海外のファインアートの世界と日本は全く違う事実を指摘しておきたい。念のために最初に述べておくが、これは日本と西洋とを比べてどちらが良いとか上だとかいうことではない。ただ価値基準が違うということ。この点を誤解しないでほしい。そして日本ではこの二つの全く違った価値観が混同されているという事実を伝えておきたい。

いま海外のファインアート分野で活躍する写真家は、社会の中で何らかの問題点を見つけ出して、それを写真を通して表現したり解決策を提示するアーティストなのだ。作品が売れるとは、そのメッセージの意味をコレクターが受け止めて、両者にコミュニケーションが生じることなのだ。日本でも、写真家は表現するという意味でアーティストといわれるが、それは海外とはやや意味合いが違う。アート系の学校の出身者や、海外べースで活動している人を除くと、最初に社会に何か伝えたいメッセージがあって写真を撮影する場合は圧倒的に少ない。また世間一般は、写真家は写真家であり、ファインアートのアーティストとは考えていない。多くの写真家にとって、自分の興味ある対象の写真撮影し、展覧会を開催したり、写真集を出版するのが作家活動なのだ。
また最近は、海外の現代アートの影響で、アイデアやコンセプトを撮影後に探してきて後付けする人も若い人中心に増えている。これは本質が伴わない、外見だけを現代アート風に仕立てた作品となる。
見る側の認識も同じで、展覧会に見に行って芳名帳に記載し、余裕があれば写真集を購入することが作家支援なのだ。

写真家は何もメッセージを発信していないし、見る側も何らかのメッセージを読み解こうという意識がない。だから写真が売れる、つまりアートコレクションの対象になるはずがない。日本では写真はアート作品ではなく商品なのだ。売れるのは、インテリア向けの飾りやすい絵柄の低価格帯の写真、商業写真家のクライエントや関係者が仕事上の人間関係で買う場合。親族・友人が社交辞令で買う場合などだ。しかし、コレクターとして作品のアート性を愛でて買うわけではないので、ほとんどが1回限りとなる。
そこには欧米的なアート史と対比してオリジナリティーを評価するような客観的な価値基準は存在しない。すべてが見る側のあいまいな感覚もしくはフィーリングでの判断となる。写真がアートになる以前の20世紀写真の基準がいまだに反映されがちだ。きれいな写真、うまく撮影された写真、クオリティーの高い写真、銀塩写真なのだ。また作品の客観的な基準がないことから写真家の知名度や経歴によって大まかな差別化が行われる。
それ以外にも撮影方法の目的化や学閥など、複数の価値基準が存在している。それぞれの人が自分の価値基準が普遍的だと考える傾向が強く、どうしてもそれぞれの基準に準じたコミュニティーが生まれやすい。

まとめてみると、欧米のファインアートの世界では、写真展開催や写真集製作は、自分が社会に対するメッセージを伝える手段である。しかし、日本では制作側、見る側ともに手段自体が目的で、それがアート表現になっている。両者の価値基準が全く異なるということだ。海外の基準やデザイン性で評価された日本人写真家は何人かはいるが、日本から世界に認められる写真家が出てこないのは当たり前なのだ。認められるためのメッセージ自体が発信されていないからだ。
これはアマチュア写真の世界と全く同じ構図となる。日本ではアマチュアの個展開催や出版もアート活動だと考えられている。プロの写真家、学校の先生の写真家、アマチュア写真家は、表現者としてみんな同じフィールドの中に存在している。このような現状認識ができて、初めて日本では欧米と違う新しいアート写真の基準が必要なのだと理解できるのだ。

次回は、日本と欧米の創作における決定的な考え方の違いなどに触れたい。

(Part-2 に続く)