平成時代のアート写真市場(3)
写真集ブーム到来の前夜

日本でアート写真が注目されるようになったのはバブル経済終盤期の80年代後半期。前回に書いたように、当時アート(絵画)は土地、株に続く第3の財テク商品だと注目されていた。絵画価格は世界的に急上昇し、その影響が比較的価格の安い版画や、市場がまだ黎明期で市場拡大の可能性が高いアート写真が注目されたという構図。それでもアート写真の有名写真家の作品は最低でも10万円以上はしていた。そこで注目されたのがアート系の写真集の存在だった。アート写真市場で大きく注目されていたのは従来の20世紀写真ではなく、時代の気分や雰囲気を表現したアート系のファッションやポートレート写真だった。
その流れに呼応して新しいスタイルの写真集が海外から登場してくる。流通効率化を無視した大判で、費用がかかる高級紙を使用した高品位のグラビア印刷、文字情報が少なくヴィジュアルを重視したシンプルなレイアウトの写真集だ。
その代表が80年代初めに設立された米国カリフォルニアの独立系写真集専門出版社Twelvetrees Pressだろう。従来の薄利多売ではなく、多少高額でも売れる本を作るという新しいビジネスモデルを追求していた。彼らが手掛けたブルース・ウェーバー、ロバート・メイプルソープ、同系列のTwin Palmsからのハーブ・リッツの写真集は、本自体の美しい存在感が際立っており、写真やデザイン好きの人の間で話題になった。

写真集はハード版の高品位印刷による豪華本の場合が多い。実は写真集の制作数は数千冊程度のことが多い。しかし、読むのではなく、見ることが目的のヴィジュアル本の写真集市場は世界に広がっている。数千冊は国内だけでは多いが、世界にファンがいる人気写真家の本だと瞬く間に売り切れてしまう。日本でこれらのアート系写真集は、ギャラリーやイベント会場で開催される写真展に合わせて輸入販売された。アマゾンなどがない時代、大判の洋書の豪華本は非常に高価だった。しかし、もっと高価なアート写真を買えない人たちが先を争って購入した。いわゆる心理学のアンカー効果だ。そして、もともと輸入冊数はそんなに多くないので、店頭での在庫が売り切れになる場合が見られた。キャプション・ページに記載されていた「Limited edition XXXX copies」という限定数の記載や人気が高くて売り切れてしまうという心理も消費者の購買意欲を刺激したと思われる。

Bruce Weberのデビュー写真集

実際は出版社もしたたかで、ブルース・ウェーバーのデビュー写真集の初版は5000部、2刷が5000部も刊行されていた。ハーブ・リッツ「Pictures」は初版6000部、ロバート・メイプルソープ「Certain People」も初版5000部で、ともに再版が繰り返された。

Herb Ritts “Pictures”

90年代の個人は、まだ消費スタイルによってアイデンティティーを確立するような時代だった。流行に敏感な若い世代がインテリアの中でのお洒落アイテムだった洋書写真集に興味を持った面もあったと考える。

海外では、2000年代になってから、写真集の一部のフォトブックは、アート写真の自己表現の一形態だと認識されコレクションの対象になった。歴史的写真集のガイドブック「The Book of 101 Books」(Andrew Roth、2001年刊)、フォトブックの初美術館展のカタログ「The Open Book」(Hasselblad Center、2004年刊)、「The Photobook : A History Volume 1 & 2」(Martin Parr & Gerry Badger、2004-2005年刊) など、過去の優れたフォトブックのガイドブックの出版が相次いだのがきっかけとなった。

しかし、日本ではそれより早い時期から写真集のガイドブック的な情報が雑誌や単行本の一部で紹介されていた。
手元の資料を調べてみると、雑誌ブルータス1983年8/1号の「カメラの新境地を探検する」では、写真集18冊を1ページで紹介している。書店リストが銀座にあったイエナと丸善なのが興味深い。

ブルータス1983年8/1号の「カメラの新境地を探検する」

ブルータス1988年12/1号「時代を映した写真が見たい。」でも「エピソードに読む、写真家の肖像。」特集で、有名写真家の写真集13冊を4ページに渡り掲載。

「写真集をよむ ベスト338完全ガイド」と「現代写真・入門」

1989年8月10日刊行の別冊宝島97号「現代写真・入門」では、金子隆一氏が「写真集202冊で見る 現代写真入門」を、鈴木行氏が「本自体が面白い厳選101冊の写真集」という章を編集執筆している。

スタジオ・ボイス 172号/1990年4月号

ファッション誌の流行通信の関連会社インファスは、メディアミックス・マガジンと称して「スタジオ・ボイス」という月刊誌を出していた。毎号様々な若者カルチャーを特集していた。同誌の172号/1990年4月号は「特集PHOTO ALIVE 写真集の現在、全120冊」で写真集を本格的に特集した。文章は高橋周平氏が担当。同号では写真集の表紙写真と中身ページの写真を複写して紹介する手法を採用している。ブルース・ウェーバーの「O RIO DE JANEIRO」(Knopf、1986年刊)の見開きページ56点を、ピーター・ベアードの「THE END OF THE GAME」(Chronicle Books)は見開きページ68点を大々的に紹介。その後の写真ブームの盛り上がりと共に、「写真集の現在」は「スタジオ・ボイス」の定番のレギュラー特集となる。だいたい1~2年ごとにそれまでに刊行された人気写真集や絶版本を幅広く紹介していった。
ネット時代は情報へのアクセスや価格比較などで便利になったが、情報量が膨大になりすぎて自分の望む情報になかなかたどり着けない。「写真集の現在」は、雑誌1冊で主要写真集が網羅されていた。資料、レファレンスとして非常に役に立った。
352号/2005年4月号「写真集中毒のススメ」などは、当時の世界各都市のフォトブック・ショップやコレクター、写真家、コレクターを紹介したかなりディープでマニアックな特集号だった。 休刊前の373号/2007年1月号では「写真集の現在 特別総集編 写真のすべてを知るための最重要写真集250冊」が出されている。同誌が日本における写真集コレクションの火付け役だったのは間違いないだろう。

90年代から2000年代にかけて、女性誌、男性誌などでは頻繁に写真や写真集の特集が組まれた。フィガロ92年4月号では「刺激的、心地いい、愉快な、写真集をさがす。」という16ページの写真集特集を組んでいた。美術手帖1997年8月号では「特集 アートブックの魅力」でアーティストブックの1種として写真集を紹介。エスクァィア日本版は2002年3月号「写真は語る。」で、「写真集傑作選28」を掲載。なんと同号の付録は奈良美智の初写真集「days・・・」。モノ・マガジン403号/2000年3-16号は「写真術」、ブルース・ウェーバーの写真世界が巻頭特集だった。雑誌の編集的にも、写真集の紹介目的だと有名アーテイストのヴィジュアルが比較的自由に、また無料で使用できたというメリットもあったようだ。
1997年には、メタローグから「写真集をよむ ベスト338完全ガイド」という写真集のガイドブックが、2000年には、続編の「写真集をよむ ベスト338完全ガイド2」が刊行された。単行本だったので、ジャケットはカラー印刷だったが、中身の写真集表紙の紹介がすべてモノクロだった。資料としてのガイドブックというより、写真集を紹介する写真関連の読み物的な傾向が強かった。ちなみに同書には2000年当時の「写真集が豊富にそろう書店」を紹介。リストには、青山ブックセンター本店(神宮前)、On Sundays(神宮前)、Shelf(神宮前)、Mole(四谷)、PROGETTO(渋谷円山町)、洋書ロゴス(渋谷パルコなど)、NADiff(神宮前など)、嶋田洋書(南青山)、タワーブックス(渋谷)、紀伊国屋(新宿南店)、松村書店(神保町)が載っている。

2000年代になると、インターネットがより広く一般に普及して業界の構造が激変していくことになる。

次回、平成時代のアート写真市場(4)「写真集ブームの到来」に続く

写真展レビュー
宮本隆司 いまだ見えざるところ
@東京都写真美術館

宮本隆司(1947-)は、建築写真を通しての都市の変容、崩壊、再生などのドキュメントで知られる写真家。建築解体現場を撮影した「建築の黙示録」(1986年)、香港の高層スラムを撮った「九龍城砦」(1988年)などが評価され、1989年に第14回木村伊兵衛賞を受賞している。1996年に、第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展に参加し、阪神淡路大震災により破壊された建築物の作品で金獅子賞を受章。2004年には世田谷美術館で「宮本隆司写真展」を開催。2005年、第55回芸術選奨文部科学大臣賞、2012年、紫綬褒章を受章している。2001~2005年、京都造形芸術大学教授、2005~2017年、神戸芸術工科大学教授を歴任、着実にキャリアを積み重ねている写真家だ。

本展では、会場後半の約半分の大きなスペースで、自らの出身地の奄美群島の徳之島で撮影された「シマというところ」、「ソテツ」、「面縄ピンホール2013」を展示。入口から続く前半の展示では、ネパールの標高3,789メートルの辺境地にある城壁都市を撮影した「ロー・マンタン1996」、アジアのマーケットを撮影した「東方の市」、いま東京都写真美術館の建っている旧サッポロビール恵比寿工場の解体を撮影した「新・建築の黙示録」、イタリアのシュルレアリスム画家キリコの絵画に触発されたというスカイツリーの建築過程をピンホールで撮った「塔と柱」が展示されている。
展示作品数は合計112点、全体を通して写真のドキュメント性に注目した作品の展示。しかし特にキャリア自体を本格的に回顧するものではない。自らの生まれ故郷の徳之島に残る現地住民の祭りや生活にフォーカスした、キャリアの回顧と共に自分のルーツ探し的な要素が強い作品展示となる。

私たちは、普段は自分の見たいものだけに意識を向けるという認知的な特徴があると言われている。いわゆる認知バイアスと呼ばれ、心理学の世界でよく知られている傾向だ。これは個人だけの傾向ではなく、集団や社会にも当てはまるのではないだろうか。効率化が求められる現在社会では、その流れから外れて、人々に見られなくなった多くのものが、気付かないうちにどんどん世界から忘れ去られ消えていく。歴史の必然と言えばその通りかもしれない。
本展タイトル「いまだ見えざるところ」は、色々な解釈が可能だろう。私は、「いまだ見えざるところ」を意識する重要性を示唆していると直感した。タイトルの“見えざる”は“見えていない”、もしくは“見ていない”なのだ。それは宮本自身が自らの生まれ故郷を見ていなかったという意味でもあるのだろう。
写真家である宮本は意識的に世の中を客観的、批判的に見る習慣を持っている。今回展示の一連のドキュメント作品は彼の冷徹なまなざしの存在をよく物語っている。優れた写真家は、思い込みにとらわれず、感情的にならず、自分自身をも客観視できる人なのだ。このような素養を持った写真家は案外少ない。

“面縄ピンホール2013″の展示風景と宮本隆司

宮本の両親はともに徳之島出身。しかし彼は幼少期に島で短期間だけ暮らしたものの、その記憶を持たないまま世界中で仕事を続けてきた。しかし彼の心の中には、生まれ故郷の徳之島の無意識化した記憶がひっかかっていた。キャリア後期になり、自分のルーツへの対峙を意識する。2014年に手掛けた「徳之島アートプロジェクト」以来、この島での作品制作に取り組むことになる。そこで「見えてきた」、琉球文化の影響を受ける島の特徴的な文化の存在の提示が本展の大きなテーマなのだ。
宮本が撮影した、サトウキビやソテツ、現地住民のポートレートを見ていると、本土とは全く違う時間が流れているのがわかる。しかし、これらは厳密な民俗学的ドキュメントではない。彼は自分の無意識化した幼い時の島の思い出を、現在の島に残る様々な断片的なシーンの中からパーソナルな視点で紡ぎだしたのだ。ソテツやサトウキビ畑が展示の中でフィチャーされているのは、幼少時に感じたそれらの存在感が記憶に強く残っていたからだろう。
本展には、1968年、彼が21歳の時に島を再訪した時に撮った、たぶんオリジナルはやや変色しているであろうカラー作品3点が展示されている。その他の最近に撮影されたカラー作品も、何か色のトーンが1968年作品に近いように見えてきてしまう。特に図録の図版にはそのような印象が強い。現在と過去との時間感覚が混ざりあい、まるで幼少の宮本が見たであろうシーンが現代に蘇ったようだ。

島の特徴的な文化や人々の生活風習を写真で撮影する行為は、効率重視で多様性を失っていく現代社会の是非を世に問う、より広い社会的メッセージ性も感じられる。メインビジュアルに抽象的なアナログのピンホール写真を持ってきたのは、現代社会の象徴であるデジタル技術を駆使したヴィジュアル・テクノロジーに対抗する表現だからではないか。それは現代建築技術の粋を集めて制作されているスカイツリーをピンホールカメラで撮影したのと同じアプローチだと思う。

いま時代の流れは大きく変化し始めたように感じられる。1990年代から拡大してきた貿易重視の経済のグローバル化が大きな曲がり角を迎えている。経済のナショナリズム化、ローカル化が今後の大きな流れになるような予感がするのは私だけだろうか?いままでのグローバル化の世界は効率重視で、文化の多様性にあまり寛容ではなかった。本展の「東方の市」、「建築の黙示録」などの前半展示の流れは、まさにそのような今までの世界的な流れを回顧している。最初のロー・マンタンの展示は、全体との関連はややわかり難い。しかし、世界から隔離された電気もガスも通っていない、標高3,789メートルの城壁都市のシーンは、グローバル経済から孤立した世界として象徴的に展示されていると読み取れる。それは日本に当てはめると、徳之島と同じような場所だという意味でもある。そしてメイン展示である徳之島のシリーズでは、世界の現状と変わりゆく未来を暗示していると解釈できるのではないだろうか。

宮本隆司 いまだ見えざるところ
東京都写真美術館(恵比寿)
5月14日(火)~7月15日(月・祝)
10:00~18:00、木金は20:00まで
入館は閉館の30分前まで
休館日 毎週月曜日 ただし、7月15日(月・祝)は開館
入場料:一般 700円/学生 600円/中高生・65歳以上 500円

平成時代のアート写真市場(2)
90年代初めのアート写真ブーム!

平成の初めの時期、1990年代前半期には、アート写真のおいては東京と海外はつながっているというような感覚があった。欧米都市のギャラリーで開催された注目写真家の展覧会情報が次々雑誌で紹介され、しばらくして日本での巡回展が開催されていた。また外国人の新進気鋭写真家、日本人写真家の発掘も積極的に行われた。知名度や市場性のある写真家の企画はそんなに多くはない、またどうしても作品価格は高価になる。したがってネタ不足と低価格帯の作品が求められたのが背景にある。

”にっけい あーと”1993年1月号の写真特集

アート写真や写真展の情報が流行最先端のニュース・トピックで、週刊誌、情報誌、月刊の男性誌、女性誌、美術専門誌、ファッション誌などで積極的に国内外の写真関連特集が組まれた。日経BP社は1988年から”にっけい あーと”というアート専門誌を刊行していた。1993年1月号は”特集 写真の誘惑-最後の未開拓市場”。表紙には杉本博司の劇場シリーズのモノクロ作品が採用されていた。
テレビでも、NHKの衛星放送、テレビ東京のファッション通信でも写真展情報を紹介していた。
なんとフジテレビのクイズ番組カルトQでは、1992年(平成4年)に“フォトアート”をテーマに取り上げている。

アート写真を展示する場所も増加していった。渋谷パルコでは、パート1にパルコギャラリー、パート2に写真専門のイクスポージャーがあり、新宿にはバーニーズの上層階にはギャラリー・ヴィア・エイト、伊勢丹のICACウェストン・ギャラリー。商業ギャラリーも、高円寺にイル・テンポ、大塚にタカイシイ・ギャラリー、神宮前にバーソウ・フォト・フォト・ギャラリーなどが開業。ブリッツもこの時期に広尾でオープンしている。やや遅れて1995年には、赤坂に東京写真文化館がオープンした。
商業施設では百貨店、流通、不動産、ブライダルなどの企業の施設で、不定期だが写真展がかなり頻繁に行われていた。入場料収入が主目的だったがオリジナル・プリントも販売されていた。

1988年にプランタン銀座で開催された”ロベール・ドアノー”展

プランタン銀座、青山ベルコモンズ、シブヤ西部シードホール、有楽町西武アート・フォーラム、松屋東京銀座、横浜ランドマークタワー・タワーギャラリー、横浜エクセレントコースト、新宿小田急グランドギャラリー、二子玉川のC2ギャラリー、新宿伊勢丹美術館、日本橋三越本店、三越美術館新宿、渋谷文化村ギャラリー、ラフォーレミュージアム原宿、アニヴェルセル表参道、池袋西武ギャラリー、PISAギャラリー紀尾井町などだ。

1990年に二子玉川のC2ギャラリーで開催された”Great Contemporary Nude 1978-1990″展

実際のところは、写真が爆発的に売れるようになったのではない。しかし、コンテンツの質も比較的高く観客動員数は多かった、商業施設全体の集客や広告宣伝には魅力的だったと思われる。また将来的に市場が拡大するという確信を皆が共有していた。今では信じられないほどの活気がアート写真業界にあったのだ。

美術館の動向も簡単に記しておこう。メディアでは民間の写真ブームは権威の象徴である美術館が写真を購入するようになったというニュースと共に語られることが多かった。川崎市市民ミュージアム(1988年11月開業)、横浜市美術館(1989年11月開業)は、写真部門を持つ公共美術施設としてオープン。1990年6月には東京都写真美術館が暫定オープン、1993年に本格オープンしている。暫定オープン時まで約10億円の予算で国内外の約6000点の作品を購入して話題となり、新聞でも大きく取り上げられた。
美術系の学部を持つ大学も、日大、東京工芸大、大阪芸大、九州産業大などが写真コレクションを行っている。百貨店やギャラリーなどの業者にとって、美術館は重要な大口顧客になる。彼らが一番購入するのは本格開館前の時期となる。それがちょうどバブル経済の最後半期と重なる。しかし、オープン後は運営が重視され新規購入予算額は減少する。その後、運営する自治体の税収減少に伴い購入予算が減少していくこととなる。

オリジナルプリントの購入者は写真家、デザイナー、編集者などが多かった。特にまだ写真がアナログだった時代の写真家は高額所得者だった。広告写真家はもちろん、地方在住で写真エージェンシー向けにストックフォトを提供する写真家でも、1億円近く売り上げる人も珍しくなかった。写真家であるがゆえに写真購入費用の一部が経費扱いになったともいわれている。また、企業に勤める女性が、頑張った自分にご褒美としてアート写真を買う、といった今では都市伝説になっている事象が本当に見られた時代だった。
10万~30万円くらいの作品は普通に売れていた。しかし、多くの購入は信販会社が提供するショッピング・クレジットの利用だった。今では信じられないが、分割60回払いなどが一般的。同時期にブームになった、いわゆるハッピー系版画販売と同じ構図だったのだ。まだ個人に対する信用供与が甘く、また多くの個人もバブル崩壊の実感はなく、景気は循環して再び上向くと盲信していた。アート購入のための長期借金への不安など誰も感じていなかった。
しかし、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災以後くらいから潮目が変わっていった。個人への信用供与が厳しくなっていくのだ。不動産価格の下落・景気低迷によるいわゆるデフレにより企業の経営悪化が本格化。中小金融機関の経営破綻が相次ぐ。1997年には山一證券が自主廃業を決め、1998年には長銀が破綻する。その後、長期不況に突入してデフレ状態となる。モノが売れなく、物価が下がる状況になり多くの企業は本業不振に陥り、写真展開催事業やアート部門からも撤退する。アート関連事業は、最初は開催予算を持つ文化事業部が担当、それが広告宣伝部の直轄となり、最後には売上を求める営業部の一部門となる。最終的に単体業務としては採算が合わないので撤退するという流れだった。残念ながら上記の展示スペースの多くは、いまは消えてなくなってしまった。

海外の展覧会の美術館、ギャラリーでの日本巡回は激減、結果的に欧米のアートシーンと日本との情報が分断されることとなる。その状況は平成時代を通じて変わらなかった。

“平成時代のアート写真市場の変遷(3)”に続く

新連載 平成時代のアート写真市場(1)
平成前夜 新たなアート市場として注目される

新元号の令和になったので、平成約31年間の日本でのファインアート系写真市場の変遷を振り返ってみよう。何回かに渡って不定期の連載になる予定、記載している年月日や名称は手元資料による。もし間違いや勘違いを発見したり、新たな情報があったらぜひ連絡してほしい。

日本で写真専門の独立系アートギャラリーが生まれたのは70年代後半。1978年に日本橋に石原悦郎氏(1941-2016)がツァイト・フォト・サロンを、1979年に医療機器輸入商社である東機貿の佐多保彦氏がフォト・ギャラリー・インターナショナル(現在のPGI)を虎ノ門にオープンさせている。1986年には、城田稔氏が目黒碑文谷の当時のダイエー(現イオン・スタイル)の裏に主にアメリカ西海岸の現代写真を取り扱うギャラリーMINを、1989年には横浜に井上和明氏が欧州写真を紹介するパストレイズ横浜フォトギャラリーをオープンさせている。80年代、大阪心斎橋にピクチャー・フォト・スペース、京都には1986年にプリンツが開業している。残念ながら今ではほとんどのギャラリーが閉廊している。PGIは東機貿の“心の事業部”として東麻布に移転して、いまでも定期的に写真展を開催。2019年にオープン40周年の記念展を開催している。

ギャラリーMINは、マイケル・ケンナ、リチャード・ミズラックなどを初めて日本に紹介した

欧米でも写真がアート・コレクションとして本格的に注目されるのは70~80年代になってから。初の写真オークションは1967年にニューヨークのオークション業者のSotheby Parke Bernetが開催、定期開催になるのは1975年だ。リー・ウィトキンがディーラーとしてニューヨークにアート写真ギャラリーをオープンしたのは1969年、それ以来、約200余りの業者がアート写真マーケットに参加するようになる。


本格的な写真のコレクションのガイドブック”PHOTOGRAPHS: A COLLECTOR’S GUIDE”(Richard Blodgett著)が刊行されたのが1979年だ。同書では、米国での写真ブーム拡大は、(1)60年代のアートブームで他分野のアート相場が上昇して多くのコレクターが割安な新分野を物色していた、(2)テレビ普及で映像表現が多くの人にとってなじみ深くなり、カメラ普及で写真撮影する人が増え、また写真の歴史をキャンパスで学ぶ人が増えたこと、(3)低価格で推移していた写真相場がゆっくりと上昇していき、ついに売買するディーラーが商売としても成り立つレベルになった、という3点の相乗効果によるとしている。

日本でも、80年台になり当時の主要メディアだった雑誌で、海外でアートとして写真が取り扱われている記事が紹介されるようになる。
私が最初に読んだのはブルータス1983年8月1日号の見開き特集の“making the most of photography”という記事。そこで“オリジナル・プリント”が初めて紹介されていた。
本格的な紹介記事は、これもブルータス1987年2月号の4ページにわたる“写真経済論”。当時編集者だった高橋周平氏がコレクションのノウハウを記した記事を担当、田中弘子氏がニューヨークの写真ギャラリーの取材をしている。当時の国内外の作品相場が丁寧に紹介されている。
やがて新聞でも写真が取り上げられるようになる。1988年6月1日付の朝日新聞は「写真が売れている」という特集記事を掲載。PPS通信社が1988年3月に開催した「オリジナルプリント即売会」で、写真が40枚売れて約1千万円の売り上げがあったと報道している。
雑誌アエラの1989年の1989.1.3・10号でもオリジナルプリントを特集。写真が売れている、都会派女性が購入、と紹介されている。

日本でアート写真が本格的に注目されるようになったのはバブル経済終盤期の80年代後半期になってからだ。今ではにわかに信じられないが、当時はアート(絵画)は土地、株に続く第3の財テク商品だと注目されていた。絵画などのアート作品価格は世界的に急上昇して、市場がまだ黎明期で市場拡大の可能性が高いが相場が低めのアート写真に注目が集まるようになる。上記の朝日新聞の記事にも「絵は高価すぎて・・・ 写真なら十数万円」という囲みの見出しが書かれている。当時は、海外のトレンドは時間差で日本にも訪れると言われていた。その流れで、アート事業を検討していたが、高騰しすぎて手が出なかった企業が写真に注目する。
時を同じくして、ロバート・メープルソープ、ハーブ・リッツ、ブルース・ウェバーなどの新世代の写真家たちが海外で活躍するようになる。リチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペン、ヘルムート・ニュートン、ジャンル―・シーフなど、それまでは作り物の写真だと低く評価されていたファッション写真にもアート性が見いだされるようになる。
バブル時代には、モノクロの抽象美を愛でる20世紀写真は古めかしく感じられた。当時の活気に満ち溢れ、勢いがある時代の感覚とはズレがあった。新世代の写真家によるゲイの美意識で撮影された作品や、ファッション/ポートレート系の作品は時代の気分と合致していたと言えるだろう。

伊勢丹が運営したフォトギャラリーのICACウェストンギャラリー、オープン記念展のフライヤー

昭和から平成初期の90年代前半期にかけて、流通系、不動産系、ブライダル系企業が写真の将来性に期待して、次々と写真展を開催するようになる。企画を手掛けたのが、PPS通信社、マグナム、G.I.P.などの写真エージェンシーだった。流通系企業は特に積極的で、パルコや伊勢丹はアート写真を取り扱う専門の商業ギャラリーを一時期は運営していた。1990年に伊勢丹は新宿にICACウェストン・ギャラリーを、パルコはイクスポージャーを渋谷パルコパート2にオープン。当時の日本のアート系写真市場は、主に海外で評価された作品の輸入販売が中心だったといえるだろう。

平成当初には、海外写真家作品が売れたことで、値段が安い日本人写真家による作品の将来の値上がりが期待されるようになる。実際に若手新人写真家の作品も売れるようになるのだ。1991年8月17日の日本経済新聞の記事は、ツァイト・フォト・サロンの石原氏による、90年に開催した写真展で“40歳代初めの作家が3週間の会期で数千万円の売り上げがあった”というコメント紹介している。
しかし日本では、欧米市場のように長い文化歴史的背景があった上で、機が熟して市場が立ち上がったのではなかった。投資的な視点でのコレクションは、その後バブル経済崩壊と長期の不況の影響を大きく受けることになる。上記の日本経済新聞の一部の「ブームの落とし穴」という囲み記事では、写真家古屋誠一氏が当時の市場の活況を、“単なるブーム。金が余ってきたので絵画から写真に広がってきたのではないか”と分析している。また前記の朝日新聞記事で、写真家細江英公氏がオリジナルプリントが見直されている動きを的確に分析し、最後に“ただオリジナルプリントが単なる投機の対象になっては困る”と発言している。残念ながら彼らの予感は的中することになる。

“平成時代のアート写真市場の変遷(2)”に続く