定型ファインアート写真の可能性
Zen Space Photographyの提案 
第1回

久しぶりに「日本の新しい写真カテゴリー」への文章の追加になる。今回はいままでとは全く別の角度から日本的なファインアート写真の可能性を考えてみたい。
日本人はその文化的背景から、自分の考えや思いを他人に伝える習慣があまりない。いわゆる、忖度が中心で情緒的で空気を読むハイコンテクストの文化を持つ社会だからだ。文化のローコンテクスト型とハイコンテクスト型については、日本写真芸術学会の記念講演で紹介したようにエドワード・ホール(1914-2009)の「文化を超えて」(1976年)を参考にした。現代アートの必要十分条件の、テーマやアイデア/コンセプトを自分で論理的に考えて語る行為に日本人はなじみがないのだ。
それでは、一般の人がファインアートの視点を持って写真撮影を行う別の方法がないかを考え続けてきた。日本人の文化的な背景を考慮したときに浮かんできたのが、定型のファインアート写真の可能性だ。最初から作品テーマやアイデアなどを用意しておく、写真を撮る人はそれを意識したうえで、そのルールに従って創作を行えばよいのではないかと考えた。
例えば、日本の茶道、華道などもルールやパターンの型があり、その中で創作を行う。定型詩の俳句や、短歌の叙景歌なども日本人にはなじみがあるだろう。
写真で同じような方法を行うアイデアだ。私は、「ファインアート写真の見方」(玄光社/2021年刊)やブログなどで、創作を長年継続している写真家の、無意識のアート性を第三者が見立てる方法を主張してきた。それは継続するが、今度は新たなアプローチとして、最初に見立てありきで、その枠の中で写真を撮る行為の提案をしてみたい。

写真はビジュアルなので、本当に様々な定型創作の可能性はあるだろう。その中の一つとして私の頭の中でまとまってきたのが「Zen Space Photography」という、風景や都市ストリートを撮影する写真の考え方だ。風景写真では、文脈の中で写真家のメッセージが提示されるケースはあまりない。強いてあげると、グローバル経済や、環境破壊、地球温暖化などの非常に大きな問題になってしまう。それ以外は、カメラやレンズの性能検査になる、コンテスト応募用のアマチュア写真となる。この分野は定型ファインアート写真と相性が良いのではないかと考えたのだ。また都市やストリートのスナップの中にも同様の写真が含まれるだろう。
まずキーワードの、ややわざとらしく感じる「禅/Zen」。写真を撮ること自体が、「今という瞬間に生きる」禅の奥義につながる。「いまに生きる」手段の実践として、瞑想や座禅のように、写真撮影自体には可能性があるのだ。
定型のテーマ作りでヒントになったのは以前に「Heliotropism」というテリ・ワイフェンバックとのグループ展を行ったアメリカ人写真家ケイト・マクドネルの以下のような認識だ。「いまの宇宙/世界/自然界のどこかで、誰も気付かない、見たことがないようなシーンが発生していて、存在するはず。世の中の美しさやきらめき、つかの間の閃光など。私たちの知らないうちに世界のどこかで発生して、誰も気づかないうちに消えてしまっている」

「Heliotropism」展でのケイト・マクドネルの展示

彼女は、ネイチャー・ライティング系作家のアニー・ディラードの著作「ティンカー・クリークのほとりで」に影響され、上記のような世界観を写真で表現しようとしている。そのアニー・ディラードは、以下のように語っている。「美しさと優雅さは私たちがそれらを感じるかどうかに関係なく出現している。我々ができるせめてものことは、その場所に行こうとすることです」そのようなシーンの出現を求めて、目の前の世界や宇宙の観察に集中するのは、今に生きるという禅の奥義と通底している。瞑想のように心を無にして世界や自然と対峙し、丹念に観察する。頭に邪念が浮かんだら、それを意識的に考えないようにする。頭でデザイン的にバランスの良いシーンを求めるのではなく、心が動き「はっ、ドキッ」とする瞬間、調和して美しく整っている奇跡的な瞬間の訪れを待って作品化する。

「A Visual Inventory」John Pawson, Phaidon刊

しかし実際のところ、そのような奇跡的なシーンは簡単に、また頻繁に私たちの目の前に出現しないだろう。さらに探求していたら、ミニマリズム建築家として知られるジョン・ポーソンの2012年の写真集「A Visual Inventory」に行き着いて、その著作からもヒントをもらった。彼は1996年にPhaidon社から出版された「Minimum」で、様々な歴史的・文化的文脈におけるアート、建築、デザインにおけるシンプリシティという概念を検証し、それが体現したビジュアルを1冊の本にまとめている。ミニマムの視点で見立てたモノ、建築。アート、自然や都市のシーンを提示しているのだ。「A Visual Inventory」では、 自らが長年に渡り、世界中で撮影したスナップ・ショットを見開きのペアの写真にまとめて発表している。彼は、建築家やデザイナーとしての仕事に役立つようなパターン、ディテール、テクスチャー、空間の配置、偶然の瞬間を常に探し求めている。被写体は、モノの表面テクスチャーのクローズアップ、建築物の外観やインテリアのディテール、自然や都市の風景などまで。主観を排して、実際の事物に即して撮影しているのが特徴。トリミングなしの写真は、私たちが実際に見ている何気ないシーンに近いと感じられる。彼は「その瞬間には二度と起こらないようなことを、いつも見ているのだということを強く意識しています」と語っている。この本に含まれているのは、一部にデザイン的な視点の強いものあるが、ほとんどが「Zen Space Photography」の範疇に含まれると直感した。ポーソンの写真は、マクドネルが語る、「誰も気付かない、見たことがないようなシーン」は、何か特別なものではなく、普段は見過ごしてしまうような世界に現れるシーンの中にも存在する事実を教えてくれる。

「A Visual Inventory」John Pawson, Page 20-21

先日、世田谷美術館で開催されていた「藤原新也 祈り」展を鑑賞してきた。藤原は写真家というよりも、文章を書く作家、画家、書道家として多分野で創作しているアーティストだ。同展は半世紀にわたる彼が世界を見てきた批判的な視点を、写真、文章、書で本格的に回顧する展覧会だった。展示作品の一部には、文章が添えられていない、テーマが明確に提示されないスナップ、風景、ストリートなどの写真が含まれていた。それらは撮影場所などでカテゴライズされて展示されているのだが、まさにここで展開している「Zen Space Photography」に他ならないと直感した。それは、いろいろな人の作品の中に発見できるのだ。

「藤原新也 祈り」展 図録 世田谷美術館

人間は普段生活しているとき、常に頭で思考している。そして自らの作り上げた思考のフレームワークを通して、世界の中にある自分の見たいものだけに反応している。思考の過程で様々な解釈が行われるのだが、それは過去の経験との比較になる。自分の過去の経験の範囲内で比較対象がないシーンは見えていないのだ。「Zen Space Photography」の、心で「はっ、ドキッ」とする瞬間を撮影する行為は、思考にとらわれていない、今という瞬間に生きているときのビジュアルを記憶する行為になる。
通常のファインアート作品は、新しい視点の提示を通して見る側に自らの思い込みに気づくきっかけを提供する。ここで提案しているのは、思い込みにとらわれていない精神状態で撮影した写真を、決まり事として提示すること。撮影者が無心の状態で自然や世界と対峙して、心が動いた瞬間をとらえたビジュアルは、本人がエゴを捨て評価を求めないがゆえに、すべて「Zen Space Photography」になるなのだ。そのような無の状態での撮影の実践自体が、自らを客観視している行為だと理解して取り組めばよい。
本作では、それらが社会生活の中で様々な思い込みにとらわれている人たちに提示されるわけだ。デフォルトの撮影意図を理解したうえで接すれば、彼らにとっても、自分を違う視点から見直すきっかけになるかもしれない。これが定型ファインアート写真「Zen Space Photography」の作品コンセプトになる。この「禅/Zen」のタイトルゆえに、禅問答的になっているのをどうかご容赦いただきたい。
(以上が第1回。次回は 「Zen Space Photography」の心構えや実践のアイデアを詳しく解説する予定だ )