ファインアート写真コレクターには嬉しい、珠玉の19~20世紀写真が一堂に鑑賞できる写真展だ。
東京都写真美術館は、1990年6月に第1次オープンしている。当時の新聞報道によると、都は開館前に約10億円かけ、国内外の写真コレクターや業者から主に写真の歴史的を語るときに欠かせない約6000点を買い集めた。本格開館までの3年間でさらに約20億円の収集費があったという。(朝日新聞90年5月30日夕刊) 今ではにわかに信じられないが、この潤沢な予算は好景気で余裕があった都の財政によるところが大きいと思われる。当時は「有名作品買いあさり?!」などの批判もあったようだが、開館に際してのコレクション構築は素晴らしい判断だったといえるだろう。80年代のオークションやギャラリー市場では、まだ写真自体が独立したカテゴリーとして存在していた。いまのように、ファンアートの一分野としての写真表現ではなく、どちらかというと写真プリントのコレクタブル系のように考えられていた。したがって、写真史上の重要作品でさえ、いまでは考えられないほど価格は安かった。東京都は本当に税金を極めて有効に使って基礎となるコレクションを構築したのだ。
本展で展示されている、アンナ・アトキンス、ウジェーヌ・アジェ、ベレニス・アボット、モーリス・タバール、マン・レイ、アンドレ・ケルテス、ウィリアム・クライン、マイナー・ホワイトなどは、想像するに初期のコレクションだと思われる。多くが、写真史の教科書に掲載されている写真家たちの代表作となる。実はこれだけの数の逸品の写真がグループ展でまとめて展示される機会はあまりない。ウジェーヌ・アジェ作品では、鶏卵紙プリントと、アボットがプリントしたゼラチン・シルバー・プリント写真が同時展示。ブレ、ボケ、荒れ、大胆なトリミングの元祖ウィリアム・クライン作品は、人気の高い50年代のニューヨークで撮影された12点がセレクション。マン・レイ作品では、代表作の「黒と白、1926」、「アングルのヴァイオリン、1924」を鑑賞できる。
1987年2月号の雑誌ブルータスに高橋周平氏による「写真経済学」という特集が組まれている。当時のニューヨークのオリジナル・プリント(当時はそう呼ばれていた)の相場が紹介されている。それによると、アンドレ・ケルテスの相場は1300~2800ドル、本展で展示されている「水面下の泳ぐ人、1917」が1500ドルと書かれている。マン・レイは5000~1万数千ドル、ウジェーヌ・アジェのアボットのプリントは400~800ドルと信じがたい販売価格だったのだ。ちなみに1987年のドル円の為替レートの平均値は144円67銭だった。
日本人では、奈良原一高、杉浦邦恵、寺田真由美、山崎博が展示されている。奈良原一高は、フイラデルフィア美術館収蔵のマルセル・デュシャンの「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも、(通称)、大ガラス」を1973年に撮影した作品を展示。奈良原は当時ニューヨーク在住。美術評論家、詩人、画家の瀧口修造による撮影依頼とのこと。この「大ガラス」の1980年制作の東京ヴァージョン・レプリカは東京大学駒場博物館に収蔵されている。2018年に東京国立博物館平成館で開催された「マルセル・デュシャンと日本美術」展に貸し出され展示されていたので覚えている人も多いと思う。今回のコレクション展のフライヤー、図録のカヴァーに使用されているメイン・ビジュアルは、この奈良原の「デュシャン/大ガラス」となる。作品の一部をクローズアップ気味に切り取った、抽象的でモダンなカラー写真なので、現代アート的作品が多く展示されているグループ展だとの印象を持つかもしれない。しかし、展示作の中心はクラシック写真の展示なので勘違いしないでほしい。
中国からはチェン・ウェイ作品が展示されている。令和5年度の新規収蔵作品とのことだ。彼のプロフィールには、メインの展示になっている「In the Waves」シリーズは、ダンスクラブで音楽に陶酔する若者を写しだし、彼が作り出すシーンにおいて、今日の中国における社会問題を表現している、と記載されている。
社会問題とは非常に幅広い意味を持つ。それは何なのかに疑問に感じたので、会場にいた本人に通訳を通して質問してみた。
私たちは、クラブは一般の若い世代が集う西洋的な息抜きやストレス発散の場だと感じる。しかし、彼によると中国のクラブ文化は80年代に独自に発展したとのこと。西洋のクラブ文化が中国に輸入されたのではないそうだ。したがって作品制作には西洋文化/民主主義と中国文化/共産主義とは関係性の提示はないそうだ。そして中国でそこに集うのは、一般人ではなくインテリ層だったとのこと。たぶん当時のクラブの若い人たちは中間層以上の社会的に恵まれた人々であり、彼らが日常生活のストレス発散目的で踊りに陶酔したのだろう。会場で展示されている2点の大判写真「In the Waves」のクラブシーンは2013年制作だ。
私は同じ政治思想を持つ国家のキューバを思い出した。米国人写真家マイケル・ドウェックは「Habana Libre(ハバナ・リブレ)」(2011年)で、西洋社会では知られていないキューバのクリエイティブ・クラスという階級の存在を私たちにドキュメントを通して知らせてくれた。キューバの多くの住民はいまでも経済的には非常に貧乏だ。しかしキューバ政府が文化振興に力を入れた結果、アーティスト、作家、俳優、モデル、ミュージシャンたちの一種の特権階級が生まれているとのこと。彼らは裕福ではないが、ファッショナブルな生活を楽しんでおり、そこにも彼らがダンスを楽しんでいるナイトクラブのシーンが撮影されていた。
しかし、チェン・ウェイの話によると、どうも中国の状況はキューバとは全く違うようだ。キューバのような新たな階級の存在の提示を意図してはいないようだ。彼は、その時にクラブで踊っている人たちが、我を忘れて真に心の底から楽しんでいるとは決して感じられなかった、その発見が作品を作るきっかけになったという。
今の中国社会では、若者の失業率の高さや格差拡大など様々な問題があるとマスコミで指摘されている。いまから10年前のまだ経済が絶好調だった中国でも、すでにインテリ層は社会の軋みを感じていたのだろう。つまり、当然のこととしてクラブやディスコは当局が承認しているストレス発散の娯楽なのだと思う。本来なら社会システムの抑圧から一瞬でも自由になるために若者はクラブに集うのだ。しかし息抜きの娯楽さえも社会システムに組み込まれていて、インテリの若者たちは狭い空間に押し込められて、お上からストレス発散という価値を与えられているのだ。個人的に自由がない隠れた独裁や横暴な官僚主義が存在するディストピア的な社会を暗示していると感じた。これは戦後の昭和日本の、経済的安定を対価に会社に人生をささげたサラリーマンと同じだと感じた。レジャーに出かけても死んだ魚のような眼をした、不自由な人生を生きるサラリーマンの絶望感/閉塞感と重なる印象を持った。
チェン・ウェイ作品は中国の80年代以降に生まれた「80後」世代の若者たちの、とめどもない閉塞感や精神的な抑圧感が反映されているのだ。たぶん現在の若者の絶望感はインテリから幅広い層に広がり、さらに深くなっているのではないか。
またこのクラブシーンはドキュメントではなく、完全に演出されたいわゆるステージド作品とのこと。これは、作品の含むメッセージが社会的な重い要素を含むがゆえに、あえてアーティスト自身が完全にコントロールできる環境で、美しいビジュアル制作を意図したのではないか。人物の配置やポーズは巧みに秩序だっている、とても美しいライトが織りなす色彩の幻想的なビジュアルとして制作されている。チェン・ウェイ作品は、作品の美しい表層と深淵な社会的メッセージを併せ持っていた。本展の現代アーティスト作品の中で一番見応えがあった。
本展はファインアート写真のコレクションに興味ある人、写真撮影が趣味の人には今年の夏休み必見の写真展だ。
地下1階の展示室では、絵本作家/メディア・アーティストの岩井俊雄の展覧会「いわいとしお X 東京都写真美術家 光と動きの100かいだてのいえー19世紀の映像装置とメディアアートをつなぐ」も開催中。こちらは子供や学生を意識した展示内容になっているので、家族で一緒に訪れても皆が十分に楽しめるだろう。
TOPコレクション 見ることの重奏
東京都写真美術館 公式サイト