20世紀を代表する写真家の一人ドウェイン・マイケルズ(Duane Michals)が、6月9日にニューヨーク市マンハッタンの病院で94歳亡くなった。
私が彼を初めて知ったのはロックバンド・ザ・ポリスの1983年アルバム「シンクロニシティー」のカバーなどの撮影を彼が行なっていることをLPスリーブの写真クレジットで確認した時だった。当時は記号消費財としてのレコードは若い世代のライフスタイルに多大な影響を与えていた。私もLPの写真から写真家を知る機会が多かった。いまでも印象に強く残っているのが、ジャズレーベルECMのLPの一連のジャケット写真。パット・メセニー・グループの1979年の「American Garage」の写真で初めてジョエル・マイロウィッツ(1938-)を知った。彼の写真はビル・コナーズのアルバムにも採用されていた。

さてマイケルズは1932年ペンシルバニアのマッキースポートにチェコスロバキアの移民を祖先とした労働者階級の家族に生まれる。14歳の時ドローイングのコンテストで入賞したことがきっかけで幾多の奨学金を得て、その後デンバー大学で学んでいる。卒業後、軍隊でドイツ滞在を経験し、退役後ニューヨークに出てパーソンズ・デザインスクールでデザインを学びアートディレクターを目指す。ダンス雑誌でアシスタント・アートデレクターを経験後タイム社に転職しキャリアを積み重ねていく。
しかし、彼は1958年頃までに安定した生活に疑問を持つようになる。そして当時外国人に観光が解放されたばかりのロシアに親から借金をして3週間の旅行に出かける。彼はそれまで写真撮影の経験が全くなかったが、この旅行のスナップで写真の魅力に取りつかれる。帰国後、タイム社を辞め、デザイナーから写真家を志すのだ。
彼は写真の経験もコネも全くなかったが、いくつかの幸運に恵まれる。商業カメラマンのダニエル・エンティンと出会い、手ほどきを受けることができ、またかつての仕事仲間も彼のデザイナー時代の仕事を覚えてくれていた。いくつかの幸運が重なり、写真家を目指しはじめて1年が経過した1961年には雑誌“エスクワイヤー”、“マドモアゼル”などの写真の仕事で生計が立てられるようになっている。

この時期に制作されたプライベート作品に“Empty New York”がある。世紀末のパリで19世紀の残り香や誰もいないパリの風景を撮影したフランス人写真家ウジェーヌ・アジェに触発されて撮影された、無人のバーやホテルなど、人影が絶えたニューヨークの作品だ。1964年から開始されたシリーズはその後2年間で70点ほど制作。それらの作品は1966年にはイーストマンハウスでネーサン・ライオンズが企画した60年代を代表する写真展である“Contemporary Photographers Towards A Social Landsacape(現代写真・社会的風景に向かって)”展にブルース・デビットソン、リー・フリードランダー、ゲイリー・ウィノグランド、ダニー・ライアンとともに選出されている。日常生活の中の場面を演劇のように見る姿勢は、後に自身で写真によるドラマ上演を始めるきっかけとなる。

1965年、マイケルズは敬愛していたルネ・マグリットの家を訪れるためブリュッセルを訪れる。話す言語は異なるが彼はマグリットと5日間過ごし、多数の肖像画を制作。それらは後に1981年に「A Visit With Magritte」(Matrix刊)として刊行される。多重露光やその他の技法を用いた肖像写真は二人のアーティストが共有するシュルレアリスム的な視点を伝えている。
彼はキャリアを通じて、あらゆる種類のアーティスト――写真家、画家、俳優、作家、監督のポートレートを撮影し続けた。彼は「散文の肖像画」と呼んだ手法を開発し、自身の一貫したヴィジョンを持ちつつ、被写体のアイデンティティのオーラを明らかにし、彼らの個性や芸術的スタイルの要素を伝えている。
その後偶然のシャッターチャンスを待つのではなく、自分自身で状況をセットアップする写真に興味を持ちスタイルを大きく変化させる。これが彼を有名にしたストーリーを持ったシークエンス写真に展開していく。1966年ころから開始されたこのシリーズは一種の連続の組写真。彼がストーリーを練り上げ、状況を設定し、登場人物を選ぶもので、映画を何枚かの写真で行なうような手法だった。彼は現実を再現しようとするのではなく、内面世界、夢、形而上学的な問いの表現に関心を持っており、写真のシークエンスを演出し、映画のフレーム・バイ・フレーム形式を取り入れた。

19世紀に活躍したマイヤーブリッジが似たような連続写真を制作している。しかし、マイケルズは被写体の動きでなく、ストーリー展開を中心コンセプトに置き、見る側に色々な想念を思い浮かばせるアプローチを採用。この作風は彼オリジナルの作品制作方法だといえる。彼は、インタビューで、“正規の写真教育を受けなかったことが自由な作品制作の発想につながった”、また”この手法は日本の俳句を生み出すコンセプトに近い”とも語っている。一連の作品は1968年にニューヨークのアンダーグラウンド・ギャラリーで公開され、2年後に写真集“Sequences”としてまとめられる。その後、ニューヨーク近代美術館で個展が開催されアート界で次第に注目されるようになる。
1974年からはプリントされた写真に直接自筆の詩をキャプションとして書き加えることを始め、再び写真のタブーを打ち破る。彼の手書きテキストは説明的な役割を果たすのではなく、写真の意味にもう一つの次元を加え二重の物語性を持たせる。当時は写真プリントや写真が真実を表現する手段だという概念がまだ残っていたので、彼の従来の規範を完全に破壊するアプローチは極めて急進的だった。その後も、彼はキャリアを通じて写真の限界を押し広げ続け、絵画、コラージュ、彫刻、映画を自身の制作に取り入れている。

彼は商業写真の分野でも長年にわたって活躍。ヴォーグ米国版の為に映画「華麗なるギャッピー」の撮影、ライフ誌を含む各種雑誌の表紙撮影、前記のロックバンド・ポリスのアルバム『シンクロニシティー』のカバー撮影、広告ではエリザベス・アーデン、レブロンなどの仕事を手掛けている。
過去50年間にわたり、これまでに40冊以上のフォトブックを出版し、作品はニューヨーク近代美術館での初個展(1970年)以来、世界各地の美術館/ギャラリーで広く展示されている。日本では1990年5月にパルコギャラリー(渋谷)で個展「DUANE MICHALS STORIES」、1999年2月に「ドゥエイン・マイケルズ写真展」小田急美術館(新宿)で開催されている。

彼は自らの性的指向を、ロバート・メイプルソープ のように性的表象を前面化していない。また、ナン・ゴールディンのようにコミュニティの生態をドキュメントしたわけでもない。しかし、それは人生は幻想のように実体がなく演劇のようなものであるという達観につながり、作品に反映されていると考える。したがって、死、時間、スピリチュアリティ、アイデンティティなどを作品テーマに扱っているものの、それらを重くとらえるのではなく、一種の軽みが感じられる点が特徴といえる。またこのような人生観をもっていたからこそ、時にアーティストが思い悩む、商業写真とアーティスト活動の葛藤を少ないストレスで、バランスよくこなしていた。個人的な見解だがその姿勢により94歳まで長生きできたのだと思う。彼の作品は自らの人生哲学の提示とその実践自体が大きな作品テーマでコンセプトだったのではないだろうか。見る側は、まず彼の独自の構造を持った写真作品の前で立ち止まり、さらに興味ある人はその背景にある彼の人生観に触れることで作品に意味を見出し、自らを思い込みから客観視することができるのだ。

現在のセカンダリー・マーケットでの作品相場は、かなり控えめでおよそ1,000ドルから35,000ドルの範囲。今までの最高額落札は、2015年にサザビーズ・ニューヨークで落札された “PORTRAIT OF ANDY WARHOL”。キャリア初期の1973年にプリントされた3枚組の銀塩写真で、3.5万ドルで落札されている。彼の作品制作にはAIが生成できない、人間にしかできない手作業が大きな役割を果たしている。また文脈的には性的マイノリティーの作品を見直す流れにも乗っている。今後は、美術館で回顧展開催などが行われると再評価が進む可能性が高いと思われる。市場では、アンディー・ウォーホル、ルネ・マグリット、ジョゼフ・コーネルの人気シリーズで、特に初期制作のエディションの少ない銀塩写真は注目されるのではないだろうか。
ドウェイン・マイケルズ氏の写真界へのご功績を偲び、心より哀悼の意を表します。







