女性ファッション写真家の再評価が進行中
美術館展が相次いで開催!

今年の海外美術館で開催された展覧会では、以下のように女性ファッション写真家が非常に多く取り上げられていた。

デボラ・ターバビル(1932-2013)スイス・ローザンヌのエリゼ写真美術館、
シーラ・メッツナー(1939-) 米国ロサンゼルスのゲッティー・センター
エレン・フォン・アンワース(1954-) 米国アトランタのSCAD FASH Museum of Fashion + Film などだ。

美術館展の開催準備には通常は短くても数年以上の時間がかけられる。たぶん上記の展示はコロナ前の時期から企画されていたのだと思われる。ファインアート業界は男性優位社会の傾向が強く、市場で高額落札されるのも男性アーティストが比率が高い事実は広く知られている。生成AIに聞いてみたところ、以下のような回答だった。

「アートの世界において、男性が女性よりも優位であるという認識が広くあります。しかしながら、美術業界における男女比率は、国や地域によって異なります。例えば、米国の18の美術館の常設コレクションに収蔵された作家の男女比は、男性87%、女性13%であることが報告されています。美術品のオークション大手Artnetのベストセラーアーティスト100の中で女性はわずか5人と報告されています。」

世界中で起きている「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に能力を生かし自由に活動できること)」の動きがアートの世界でも進行中なのだ。これが男性写真家が圧倒的に優位だったファッション写真の世界でも起きており、女性写真家の再評価が海外の美術館中心に行われているのだろう。写真展の詳細は以下のようになる。

ブリッツ・ギャラリー/1991年の個展の案内状

◎デボラ・ターバビル展 “Deborah Turbeville – Photocollage”
@スイス・ローザンヌ「エリゼ写真美術館(Photo Elysée)」
会期:2023年11月3日~2024年2月25日

デボラ・ターバビル(1932-2013)は、マサチューセッツ州ボストン生まれ。ヴォーグ、ハーパース・バザー、ノヴァ、ニューヨーク・タイムズや、コム・デ・ギャルソン、ギィ・ラロッシュ、シャルル・ジョルダンなどの有名ファッション・ブランドでファッション写真を撮影してきた。日本では1985年に渋谷パルコで開催された「Deborah Turbeville」展、パルコの広告写真で知られている。実はブリッツでも、ギャラリーが広尾あった1991年11月に個展を開催している。

本展は、エリゼ写真美術館と彼女の作品アーカイブを収蔵するMUUSコレクションのコラボレーションにより実現。キュレーションは同館ディレクターのナタリー・エルシュドルファー(Nathalie Herschdorfer)が担当している。
ファッション写真から極めてパーソナルな作品まで、ターバビルの写真表現の探求の過程を紹介し、彼女の作品がメディアにおけるファッションの表現にどのような変化をもたらしたかを探求している。未公開作品のセレクションを公開するほか、手作りのコラージュ作品にも焦点を当て、写真史における彼女の貢献について新たな評価を提供を試みている。

同名のフォトブックもThames & Hudsonから刊行。

“Deborah Turbeville – Photocollage”、Photo Elysée

美術館の公式サイト

フォトブック

◎シーラ・メッツナー展 “Sheila Metzner : From Life”
@米国ロサンゼルス「ゲッティー・センター(GETTY CENTER)」
会期:2023年10月31日~2024年2月18日

シーラ・メッツナーは、1939年ニューヨーク・ブルックリン生まれ。1960年代にドイル・デイン・ベルンバッハ広告代理店(Doyle Dane Bernbach)で初の女性アートディレクターとして活躍。その後、子育てを行いながら写真家キャリアをスタートさせる。1978年、彼女のポートレートがニューヨーク近代美術館で開催された「Mirrors and Windows: American Photography Since 1960」展で注目される。それがきっかけで、ギャラリー展やヴォーグ誌アレクサンダー・リバーマンからの仕事依頼へとキャリアが展開していく。当時のヴォーグ誌はリチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペン、デニス・ピールが中心的に仕事を行っていた。その状況下で、メッツナーはヴォーグから安定的に仕事を依頼された最初の女性写真家となる。

彼女は、19世紀フランスで開発されたフレッソン・プリントという版画に近い古典的手法を採用し、1980年代にはクラシックでロマンティックな質感と美を持ったスタイルを確立させる。それらのイメージは 普通のカラー写真にない、柔らかな色味と質感を持っているのが特徴。常に芸術の境界線の拡大を探求するメッツナーの写真美学は、やがてファッション写真から、ファインアート、ポートレート、静物、風景などの分野でも地位を確立していく。写真作品は、メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館、国際写真センター、J.ポール・ゲッティ美術館、ブルックリン美術館、シカゴ美術館などがコレクション。日本では1992年に大丸ミュージアムで写真展を開催している。

本展は、ファッションと静物の分野で20世紀後半の写真史にその名を刻み、国際的に高く評価されたシーラ・メッツナーの芸術性を称えるもの。彼女のユニークな表現は、ピクトリアリズムとモダニズムの側面を融合させ、写真史の中で傑出しているだけでなく、1980年代の最高のファッション、スタイル、装飾芸術のトレンドと密接に関連する美学を作り上げている。本展では、1960年代のウッドストックでの親密な家族のポートレート、ファッションのエディトリアル、ヌード、神聖な風景など、彼女のライフワークを紹介している。

美術館の公式サイト

フォトブック

◎エレン・フォン・アンワース展
“ELLEN VON UNWERTH: THIS SIDE OF PARADISE”
@米国アトランタ市「SCAD FASH Museum of Fashion + Film」
会期:開催中~2024年1月7日

エレン・フォン・アンワースは、1954年、ドイツ・フランクフルト生まれ。ドイツとフランスでモデルとしてキャリアをスタートし、その後フォトグラファーに転身している。彼女の作風は、ヘルムート・ニュートンやピーター・リンドバークと比べられることが多いが、その挑発的なエロチシズムの中にはロマンチシズムや女性らしさが感じられるのが特徴。また強く、自信に満ちた女性のパラダイムを写真世界に再構築した独自の写真スタイルを確立している。モデル出身だけに特に被写体の表情や感情の引き出し方の巧みさでも有名。孤独でタフな幼少期を過ごしたことから人間力をつけ、どんな人にも心が開けるようになった、と本人は語っている。

数十年にわたるキャリアの中で、シャネル、ディオール、ミュウミュウ、アズディン・アライア、エージェント・プロヴォケーター、ゲス、ジミー・チュウ、フェラガモ、アブソルートなど、数え切れないほどのブランドのキャンペーンを手がけ、地位を確立する。彼女の写真は、ヴォーグ、i-D、インタビュー、エル、ヴァニティー・フェア、グラムール、プレイボーイなどに頻繁に掲載。本展「This Side of Paradise」展のキュレーションは、SCAD FASH美術館のクリエイティブ・ディレクター、ラファエル・ゴメスが担当。

美術館の公式サイト

欧米のファインアート写真の世界では、80年代後半まではファッション写真は作り物のイメージであることから全く評価されていなかった。巨匠のリチャード・アヴェドンやアーヴィング・ペンでもファッション写真の市場評価は低かったのだ。それが英国のヴィクトリア&アルバート美術館などがファッション写真の中に、単に洋服の情報を伝えるだけではなく、言葉にできない時代に横たわる気分や雰囲気が反映されているイメージが混在している事実を発見し、それらに新たなアート性を見出すのだ。その流れにフォトブック出版社やギャラリーが乗って、この分野のコレクターが増加したのだ。4半世紀が経過して、いまやファインアート系ファッション写真はオークション市場で最も人気のあるカテゴリーに成長した。しかし唯一いまだに過小評価されていたのが女性ファッション写真家だった。この分野の写真家は、サラ・ムーンだけではないのだ。

今年の一連の美術館展の開催は、間違いなく女性ファッション写真家の市場に影響を与えると思われる。今後はオークションへの出品も増加し、相場も適正価格になっていくのと思われる。
この流れだと、次はどこかの都市の有名美術館が、リリアン・バスマン(1917-2012)やルイーズ・ダール=ウォルフ(1895-1989)などの女性ファッション写真家を取り上げて、そのアート性を再評価するような展覧会が行われるのではないか。もしかしたらすでに企画は進行中かもしれない。ファッション写真ファンにとって今後の動向がとても楽しみだ。

大転換期のアート作品
いま何が求められているのか?

(C)Terri Weifenbach/ Cloud Physics

2020年代のいま、社会は従来の価値基準の大転換期を迎えているといえるだろう。キーワードを思いつくだけ挙げてみても、幅広い分野に及ぶ。
それらは、気候変動、脱炭素化、SDG’s、コロナの世界的感染、グローバル化の揺れ戻し、所得/地域格差の拡大、民主主義の危機などがある。また経済的には、インフレ懸念、過剰債務問題、ワクチン格差、中国の不動産バブル崩壊、再生エネルギー転換による原油高騰、コロナ禍による在宅勤務、リモートワーク、オンライン会議の一般化、など枚挙いとまがない。今まで内在化していた変化の兆しが、地球温暖化防止の流れ、コロナウイルスの世界的な感染拡大がきっかけで、一気に顕在化してきた感じだ。

このような時にいままでのようなアートは機能するのだろうか?私が最近ずっと抱いている素朴な疑問だ。
社会が長期に渡り安定しているときの方が、人は様々な先入観に影響され、思い込みに囚われやすくなる。変化が少ない時の方が、それらが強化されるからだ。そのような時には、アーティストが一般人の気付かない社会に横たわる問題点を発見して、新しい視点を提示する。人々を客観視させるような行為には意味がある。しかし社会で次々と起こる大きな変動や問題点の噴出の前に、アーティストが紡ぎだす視点の影響力は弱くなるのではないか?いままでのように、アーティストが世の中の何かに心が動かされ、情報を収集したうえで新たな視点を獲得し、それを社会と関わるテーマとして作品で提示するのは極めて難しい状況だともいえる。個人レベルで提示されるテーマやアイデア、コンセプトはあまりにも小さいのだ。いま世の中では、アートがなくても誰もが容易に意識でき、気付くテーマだらけなのだ。このような現実を前に、多くの個人は生き残りに必死で、社会経済的な思い込みに囚われているどころではないのだ。
最近は欧米のアート界でも、NFTなどの新しい仕組みのみが注目され、また市場でもブランドが確立した人の作品に人気が集中するのは、このような状況が反映されているからではないだろうか。

変動や不安定を誰もが当たり前に意識する時代には、自分の外側に広がる、社会的、文化的な事柄への視線を持つ作品ではなく、より本源的な人間の存在に向いた作品が求められているのではないか。人間は空蝉(うつせみ)のような空虚な存在と言われるが、幻想である世界に生きていくしかないことに気付かせてくれる何かだ。私はそれこそがすべてのアーティストが表現を行う究極の動機だと考えている。しかし、それが果たしてアートで、また写真でどのように表現可能なのかと常に思い悩んでいた。例えば悟りの境地と言われる円相などをヴィジュアルで象徴的に表現したような、ややわざとらしいようなものしか思いつかなかった。人間の存在自体を問う表現とはどのようなヴィジュアルなのだろうか。

そのように悩んでいるときに、今回のテリ・ワイフェンバックによる2つの写真展示に関わることになった。そしてそのような作品では、人間は究極的に孤独であると、その存在をリアルな視点で見ているアーティストによる発せられる言葉が重要な役割を果たすかもしれないと気付いた。

小作品による「Until the Wind Blows」については以前に詳しく解説した。ワイフェンバックは、一瞬穏やかなフランス郊外の田園地帯の風景を、良い時も悪い時もある、波乱万丈の人間の人生に重ね合わせている。様々な出来事に過度に喜んだり悲しんだりする必要はない、いまという瞬間を生きるのが重要だと示唆している。自然が撮影対象だがアーティストの人生を達観したリアリストの視点が文章から伝わってくる。ここでは彼女の言葉がヴィジュアルの理解や感じ方に大きな影響を与えている。

(C)Terri Weifenbach/ Cloud Physics

そして「Cloud Physics」では、SDG’sで謳っている持続可能な開発目標のひとつの「気候変動に具体的な対策を」が作品テーマと重なっている。「Until the Wind Blows」で表現されているのは、気候が大変動する前の嵐の前の静けさのシーンとも解釈できる。ここで「Until the Wind Blows」が提示する、アーティストの人間存在に対する冷徹な視線が、「Cloud Physics」の外部の社会的なテーマとつながるのだ。たぶん「Cloud Physics」だけの提示では、見る側が誤解する可能性があっただろう。彼女がこのテーマを長年追及している事実を知らない人は、今の世の中にある流行りの大きなテーマを取り上げたと理解するのではないか。それだと作品は見る側に感嘆は呼び起こすが、大きな感動はもたらさないのだ。彼女は本展で言葉を駆使して見る側に重層的にメッセージを伝えようとしている。本人が意識的に二つの作品を同時に提示しているかは、ぜひ今度聞いてみたいところだが、どちらにしても、この組み合わせからは現在においてのファインアート作品の新たな提示の可能性が感じられる。

(C)Terri Weifenbach/ Until the wind blows

ワイフェンバック作品には見る側の感情のフックに引っかかる様々な仕掛けが、ヴィジュアルと言葉でちりばめられている。どこで共感するかは、見る側のもつ経験と情報量で左右される。そして、それぞれが反応する所で立ち止まり、それらと能動的に対峙することになる。そして、彼女の深遠な写真世界に引き込まれていくのだ。彼女のフォトブックや写真作品のコレクションする人は、それらが提示する彼女の世界観に賛同していることの意志表明を行っているのだ。
「写真作品に触れることで、心動かされて、また世の中の見方が本当に変わることがあるのですね。」これはある女性の来廊者の感想だ。彼女は熱心に掲示されている彼女のメッセージを読み、時間をかけて作品を鑑賞し、最終的に
「Until the Wind Blows」 シリーズの作品を購入し写真集を予約してくれた。

(C)Terri Weifenbach/ Until the wind blows

「ファインアート写真の見方」(玄光社、2021年刊)でも指摘したが、写真作品に対して能動的に接して、アーティストのメッセージを読み解こうという意思を持った新しい世代の人が増加している。そのような人たちが、この時代で求めているのが、まさに今回のワイフェンバック作品のような、複数のレイヤーを持つ作品ではないだろうか。ややわかり難い、小難しい解説となったが、今回の気付きはもう少し深く掘り下げてみたい。もう少し分かりやすい解説を試みたいと考えている。これから「大転換期のアート作品”のパート2に展開していきたい。

新型コロナウイルスのアート界への影響
ニューヨーク市場は機能停止状態

3月末から4月はじめはニューヨークで定例のアート写真オークションが開催される時期だ。それに合わせて、アート写真のアート・フェアや、美術館やギャラリーでの展覧会が開催される。
今年は新型コロナウイルスの影響で状況は様変わり。ニューヨーク近代美術館などの大規模美術館は閉館、早くも一部の美術館では従業員のレイオフが始まっているという。メトロポリタン美術館は従業員が感染したことから7月まで閉鎖される可能性があり、約1億ドルの損失が発生する見通しとのこと。
アートフェアでは、多くのアート写真関係者が待望していた「Paris Photo」の最初のニューヨーク市開催が延期。オークションハウスも定例のアート写真オークションの開催の延期を発表。ササビーズはオンラインのみの開催に変更している。

メトロポリタン美術館ニューヨーク

アートフェアは、コレクター、ディーラー、アーティストなどが、閉鎖空間ではないものの同じ場所でかなり混雑した中で対面で交渉や接客を行う。新型コロナウイルスの感染リスクはかなり高いと思われる。オークションは、すでに電話やオンラインでの参加がかなり一般的になっているので、システム強化の手当てができればかなり通常通りの運営は可能だと思う。また、高額作品については不特定多数の人との接触が少ないプライベート・セールにより力を入れていくと思われる。

大手オークション会社クリスティーズ・ニューヨーク

新型コロナウイルスの蔓延は、オークション市場に多大な影響を与えるだろう。株価が短期間で大きく下落している状況では相場はどのあたりに落ち着くのかは見極め難い。たぶん新しい経済環境での新レベルの相場を模索する動きがしばらく続くだろう。貴重作品を持つコレクターは、相場が安定するまで出品を見直すと思われる。高額落札作品が少なくなるので市場規模は縮小していくと予想される。ちなみに2008年のリーマンショックの後の、2009年春に開催されたニューヨーク・アート写真オークションでは、大手オークション会社3社の総売り上げが前年同期比約85%減の約582万ドルまで落ち込んでいる。

プライマリー市場では、いまニューヨークやロンドンのギャラリーは軒並み閉まっている。多くのギャラリーはオンライン・ヴューイング・ルームなどを行っている。これらはアート情報の発信にはなるが取引につながるかは不明だ。オンライン販売は資産価値のある作品の売買とは相性が良い。しかし知名度がない若手新人は、やはりコレクターが現物をみて彼らからのメッセージが伝わらないと売買は成立しないだろう。ブランド力の劣る作家や、若手新人の作品には厳しい状況が続くと思われる。
また欧米大都市の家賃は高額なので、閉鎖が長引くと中小のギャラリーの資金繰りにも影響が出てくることが懸念される。どのくらいディーラー/ギャラリーへの政府支援が行き渡るかが注目されている。

私が経済ニュースの中で気にしているのが債務返済のための資産売却の動きだ。安全資産で株価下落の時は買われるはずの長期米国債の利回りが一時上昇し、安全資産の金価格も下落している。米国債や金のドルの現金化の動きが影響しているという。米連邦準備制度理事会(FRB)の量的緩和によるドル供給でセンチメントはやや改善したものの不安定な状況は続いている。アート作品は流動性があまり高くない資産だと考えられている。状況が長引いて本当に厳しくなると、運転資金確保のためのディーラーによる在庫処分の売りが市場に出てくるかもしれない。ブルムバーグによると、株価が急落した3月の第2週目などは、アートコレクションを持つ資産家に、緊急の流動性を求めるコレクターからの大幅な割引による「パニックオッファー」が散見されたという。今後しばらくの間は、相場水準の調整とともに、流動性が低くなり、人気作家と不人気作家、そして人気作品と不人気作品の2極化はさらに進む可能性があると考える。
しかし、見方を変えると人気作家の人気作品が以前より市場で安く買えるチャンスがあるかもしれない。不安定な相場を買い場探しだと考えると違う世界が見えてくるのではないか。悩ましいのは人気作家の不人気作品だろう。個人的にはいくら安くなっても、本当に自分がその作品が好きでない限り買わない方が良いと思う。このような時は、悩んだらぜひ経験豊富な専門家に相談してほしい。

新型コロナウイルスの影響は日本のアート界にも及んでいる。大規模な美術館などの公共施設は閉館が続いていたが、いままでは小規模ギャラリーやアートスペースは営業を続けていた。しかし、感染拡大防止にむけた東京都等による先週末の外出自粛要請を受けて、ついにブリッツを含む多くのギャラリーも3月28日(土)3月29日(日)を臨時休廊とした。テリ・ワイフェンバックが参加する大宮の「さいたま国際芸術祭2020」も会期が再延期となってしまった。ここにきて、会期途中での休廊や中止のギャラリーや展示スペースも出てきた。ブリッツも今週以降の状況を総合的に見て営業方針を判断したいと思う。

日本人が普段から清潔好きな国民なので、コロナウイルスの蔓延が欧米やアジア諸国と比べて少ないことを心より願っている。

令和時代のアーティスト・デビュー
メッセージの明確化と継続的情報発信

2020年代を迎えたいま、写真とアートとの関係性は大きく変化した。写真がデジタル化したことで、だれでも写真が簡単に上手に撮れるようになり、同時に現代アートの市場規模が急拡大した。アナログ時代にはアート界で独立して存在していた「写真」は、現代アート表現の一つの方法となった。かつては、何かに感動して写真を撮影して、印刷で表現できない高品位のプリントを制作したものがアート写真だった。今やそれだけでは表層の情報提供に過ぎないと考えられるようになった。「写真」そのものだけではなく、その中身も問われるようになったのだ。自分が何に心動かされて作品作りに取り組んでいるかを意識して、関連情報を収集して、そこに共通項を見つけ総合化して、社会と接点を持つテーマやコンセプトとして提示することが求められるようになった。
アート・フォト・サイトで行っているアート写真の講座では、デジタル時代の現代アート的要素を含んだ作品を「21世紀写真」とよんで、それ以前の「20世紀写真」と明確に区別している。

このような環境下で、新人アーティストがデビューするにはどのような努力が求められるだろうか?まず作品で伝えたい感動にどのような社会的意味があるかを明確化しなければならない。そのコアとなるメッセージを意識して作品タイトルやアーティスト・ステーツメントとして提示することが重要となる。見る側を刺激する何らかの感情のフックがないと誰も振り向いてくれないのだ。写真表現でも、アーティストに求められる素養が変化した事実を理解しなければならない。

表現者の中には優れた感性を持つものの、自分の感動を客観視して、社会と接点を持つテーマとして展示することが不得意な人も多い。作品を制作して、その意味を後付けする人も多く見られる。これは体裁を整えるだけなので注意が必要だ。できない人は、専門家の力を借りることを検討してほしい。
私は、作品制作は企業活動のイノベーションを起こす行為に似ていると考えている。新しい発見や、道を極めるにはアドバイザーが必要なのはいつの時代も変わらないのだ。しかし、それは自分の言うことをきいて応援してくれる人探しではない。アーティスト自身が気付かない作家性を見立てて、言語化して世の中に伝える語り部となる人探しのことだ。

現代の情報社会では、この部分の理解が極めて重要になる。人間は簡単に想像できることは、現実になりやすいと感じる心理的な特性を持つ。成功しているアーティストの情報は話題性があるので数多く提供される。しかし世の中で全く認知されずに消えていく膨大な人たちの情報などはどのメディアも紹介しないのだ。また写真のデジタル技術の進歩で、いわゆる上手い写真を撮影するのが極めて簡単になった。画像の補正もアプリで簡単にできる。結果的に、多くの人が自分の感覚で好き勝手に表現するのがアーティストだと勘違いし、積極的に生きれば自分も成功すると思い込んでしまう。また情報を持たない経験が浅い人ほど、学ぶべき情報量を過小に考えがちだ。以上から、特に学生や新人やキャリアの浅いアマチュアは自らを過大評価しがちになる。思い込みに囚われると、その時点で成長や進歩が停止してしまう。できる限り自分を客観視する姿勢を持つように心がけてほしい。

21世紀になりメディア環境も大きく変化した。インターネットの普及で、誰でも簡単に情報発信が可能になった。世界的に生成されるデータ量が急増し、個別情報の価値がはるかに薄まっている。アート関連情報も同様で、いまや新人賞受賞、美術館やギャラリーでの個展やグループ展選出に対して世の中の関心度はかつてのように高くない。それだけだと単なる情報の断片でしかなく、世の中が瞬間的に注目してくれきっかけにはなりうるがキャリアが大きく変化することはない。
もはや突然の大成功は起きない、それは宝くじが当たるようなものだ。新人デビューはますます困難になっているといえるだろう。したがって新人の行うマーケティングも従来のメディアや関係者への「売り込み」のような努力だけでは効果が上がらなくなった。売り込み先だったメディア自体の影響力も低下しているのだ。さらにオーディエンスの価値基準も多様化、細分化している。アーティスト情報を求めている人まで届けるのが極めて困難な時代となった。

アーティストは、前記のように特徴を明確化した次のステップとして、自らでそのまわりに共感するコアとなる人を囲い込む地道な努力が求められるのだ。コーリー・ハフ(Cory Huff)著の「How to sell your art online」には、50対50の法則が紹介されている。アーティストは、50%の時間を作品制作に使い、残りの50%を自らのマーケティングに費やせという意味だ。このルールは今やすべての新人アーティストに当てはまるだろう。自らの特徴を伝えるために、展覧会開催、フォトブック出版などの従来の方法だけでなく、SNSなどで情報発信を続け、できるだけ多くの支持者を集めファンを固めていくのだ。繰り返しになるが、マーケティングは自分のコアのメッセージを伝える手段だ。その行為自体を目的化しないように注意して欲しい。
もし社会との接点を持つメッセージを長期にわたり提示し続けたら、キュレーター、ギャラリスト、編集者、美術評論家など、誰かが必ず見立ててくれる。複数の人からの見立てが積み重なることで情報発信が重層的になり、アーティストとしてのブランドが次第に確立していくことになる。
新規参入するギャラリー、ディーラーなどの販売業者も全く同じ努力が求められる。独自の極を作り上げるために尽力しなければならない。その特徴に合致したアーティストを見立てて情報発信を行うのだ。複数の特徴が育っていけば、共感するファンとなる顧客が集まってきて経営が成り立つだろう。

成功するかどうかは誰もわからない。アーティストもギャラリーもまずは仕事の継続に挑戦てほしい。もし続けられるのであれば、伝えたいメッセージの内容に何らかの社会との接点があるということ。独りよがりだと、社会とのコミュニケーションは成立しない。ポジティブな反応がないのでモーチベーションを保つことができないだろう。令和の時代、やり方は多少変わったものの、アート表現と情報発信の地道な努力が続けられる人が成功をつかむのだ。たぶん、同じ種類の情報発信を行うアーティストとギャラリーの、互いにリスペクトしあうコラボレーション成立が「21世紀写真」の理想の展開だと思う。
私はいつも新人に対して次のようなアドバイスを行っている。アーティストとは社会に対して能動的に接する生き方を実践している人のこと。そして、短期的な成功を求めることなく、ライフワークとして継続するのが成功の秘訣だと理解しようというものだ。

平成時代のアート写真市場(7)
写真が売れる時代はいまだ到来せず

いままで、平成約30年のアート写真市場を、ギャラリー、写真集、フォトフェア、オークションなどの活動を通して振り返ってきた。

“The Photography As Contemporary Art” Thames & Hudson, 2004

当初はアート界の最後の成長分野として注目されていた写真。平成時代を通して、多くの人が様々なアプローチで、日本における欧米並みの市場構築のために尽力した。残念ながら、平成の終わりまでには欧米並みの市場は確立されなかった。
日本の平成時代、海外では「写真」の概念は大きく変化した。写真はデジタル化進行により真に表現技法として民主化された。かつては独立したアート分野として存在していたが、制作者のアート性を重視する現代アートにおける一つの表現方法を意味するようになっていった。かつてのモノクロの抽象美を追求する表現は20世紀写真と呼ばれるようになり、さらに現代アート的視点から再評価が行われた。
いまや国内外での大きな情報格差は存在しない。日本でも、現代アートでよく語られるアイデアやコンセプトという言葉自体は多くの人に知られている。現代アートとして提示される作品も数多く存在している。しかし、実際は最初に感覚やデザイン重視で制作されたヴィジュアルがあり、制作者は内観して作品の文脈を後付けで作り出している場合が多い。体裁や外見上は現代アートっぽいが、中身がない写真作品がほとんどなのだ。
日本に海外の写真表現が紹介される場合、その表層だけが取り入れられ、本質が伝わらないことが多い。例えばドイツのオットー・シュタイナートが20世紀中盤に提唱した写真表現の「サブジェクティブ・フォトグラフィー」。

“Subjektive Fotografie: Images of the 50’s” Museum Folkwang,1984年刊

自立した個人が世界の事象に対する自分の解釈や視点を、写真テクニックを駆使して表現する現代アート表現に通じるスタイルのこと。日本では、「主観主義」と訳され、当時流行のリアリズム写真に対抗する活動となった。しかし抽象写真のような撮影方法やテクニックの一種だと理解され、一時期に流行したものの次第に忘れ去られていった。現代アート風の写真も抽象作品が多い。それらが同じような経緯をたどらないことを願いたい。
一方、いまでも20世紀写真の価値観を踏襲するような「アート写真・芸術写真」は存在している。それは伝統工芸の職人技の写真版のような意味あいが強い。いわゆる現代陶芸と同じような位置づけなのだ。

日本では、写真を取り扱うギャラリーやディーラーの役割も独特だ。いまだに貸画廊の伝統が残っていて、多くの場合ギャラリーは不動産賃貸業者、ディーラーは写真家の作品を単純に売買するブローカーだと考えられている。日本では、写真家がギャラリーをオープン、運営することが多い。業者に手数料を払わないために制作者が顧客に直売するという単純な発想だ。陶芸家も工房に販売所を併設する場合が多い。それと全く同じなのだ。
一方で、欧米では繰り返しになるが写真はファインアートの中の現代アートの一部として存在する。ディーラーやギャラリーの存在は写真家にとって非常に重要となる。彼らには、見る側が気付いていない写真に秘められたメッセージを見出して、社会の価値観と比較して評価してメディアや市場に伝える、情報発信やプロデューサー的な役割があるからだ。
また写真はアート作品なので、売買される市場が存在している。暗黙の了解として、ギャラリー・ディーラーには主要な取扱いアーティストの相場を支える役目もある。彼らは、オークション(オンラインを含む)などの市場での取扱い作家の作品の売買動向を常に監視している。必要に応じて作品を購入したり、下値で仕入れのために入札したりする。一種の作家相場の買い支えを行っている。最近は、新人のプロモーションのためにオークションが活用される場合がある。これに関しては様々な意見があるのでここでは触れない。

日本では写真家と業者とに上記のような相互依存の関係性は存在しない。しかし日本人写真家でも、写真の販売価格だけは海外のアート写真の相場を基準に決められる場合が多い。商品として売られているのに値段が高すぎるのだ。
いまミニブームになっている現代陶芸。個展開催時に行列ができるような人気の高い「うつわ作家」の作品でも、サイズにより1万円前後から購入できる。器はすべて作家の手作りとなる。一方で写真ではデジタルのインクジェット作品が、ギャラリー以外の様々なショップで、若手でも数万円以上で売られている。
わたしは、いま潜在的に写真を買う人は、現代陶芸にも興味を持つ人と重なると考えている。もはや、単に気に入ったから、作家を支援するため、などの理由だけでは買ってもらえない。生活のクオリティーを高めてくれるかなど、値段もふくめて総合的に判断して購入を検討するのだ。誰でも撮れるデジタル写真が、手作りで用の美を持つ、生活でも役立つ現代陶芸よりも高価で売られている。これでは日本人写真家の作品をコレクションする人たちが増えないのは当然だろう。

話はそれるが、現代アート風作品や伝統工芸的写真でも、値段を適正化されればインテリア向けの写真として十分に市場性があると考えている。ファインアート系とインテリア・アート系では、写真の価値基準が異なるだけで、売れるということはそれぞれの規準で評価されるという意味に変わりはない。ギャラリーと称して、インテリア系写真を中心に取り扱う販売店も多数存在している。彼らは、売りやすい作品を制作する写真家をリクルートしてインテリア系ショップに作品を供給したりしている。
インテリア・アート系に市場性があると考えるのには根拠がある。ブリッツは平成時代を通して、ギャラリー以外の様々な場所で写真販売の実験を行ってきた。カフェ、バー、インテリア・ショップ、ブック・ショップ、写真のDPE店、デパートのインテリア・アート売り場、アパレル・ショップ、リゾート地のイベントスペース、住宅展示場、額縁販売店などだ。

リゾート地で企画開催した写真展

それらは写真をアート作品として販売する試みだったので大きな成果を上げることができなかった。
しかし、唯一売れたのは、デパートやショップでのインテリア向け商品として用意した作品だったのだ。特徴は、抽象系の絵柄の比較的小さめの写真作品。モノクロよりもカラーの方が比較的人気が高い。ただしカラーの自然風景は不人気。そして重要なのは額装作品で値段が安いこと。また版画同様に制作者のサインが表面に記載されている方が好まれる。
デパートのインテリア小物売り場には、額装された飾りやすいプリント小作品が1~5万円程度で売られている。そのカテゴリーと重なる絵画表現に近い写真作品には、写真家の知名度と関係なくある程度の市場性が存在するのだ。ただし、多くの業者が関わる典型的な薄利多売ビジネスとなる。事業として将来性の判断は極めて難しいだろう。

いまブリッツは、平成初期の90年代と同様のビジネスモデルである、海外で評価されている作品を日本に紹介するアート写真輸入販売業者に戻ってしまった。平成は、ビジネスを展開していく中で、そこで直面する数々の疑問点を解き明かす時代だった。いままでのさまざまな経験から、日本では写真家本人に作品の説明責任を求める手法は機能しないと気付いた。日本のファインアート系写真は、訪米とは違った流れで評価され、最終的に市場が確立されるという流れがあるのだ。私どもが何度も主張しているような、創作を継続している人の中から、第三者が「見立て」により写真家のアート性を評価するという考えだ。令和においても、引き続きこの「見立て」を生かした、日本独自のアート写真の価値基準を継続的に提案していきたい。これについては、ブログの別の連載で考えをしつこく紹介している。興味ある人はご一読いただきたい。
令和の時代には、見立てられた写真家の中から、国内外で評価される人が登場するのを期待したい。

今後、新たなプログラムを展開していく予定だ。

おわり

平成時代のアート写真市場(6)
写真オークションは日本に定着せず

日本でのアート写真アークション事情にも触れておこう。
オークションはセカンダリー市場と呼ばれている。かつてギャラリー店頭(プライマリー市場)で売られた作品が再度売買される市場のこと。ただし、オークションで取り扱われるのは、時間経過とともに市場で評価が高まった作品が中心となる。コレクター人気の高い作家が亡くなると、作品がギャラリーで買えなくなるので、売買の中心がオークションに移行していく。
多くの日本人写真家の場合、国内外のギャラリー店頭で継続的に作品が販売されていないことが多い。市場での作品の流動性がないので、そのような写真家のオークションでの市場は存在しない。

実はブリッツは代官山にギャラリーがあった1994年2月に「オリジナルプリント/絶版写真集/サイレント・オークション」を開催している。これは、入札制のオークションで、ヘルムート・ニュートン、ブルース・ウェバー、ハーブ・リッツ、ジャンル―・シーフ、カート・マーカス、ノーマン・パーキンソン、ロバート・メイプルソープなどの写真作品が出品されている。この時期は、1995年1月に起きた阪神・淡路大震災の前で、バブルは崩壊して株価は下落していたものの景気実感は悪くはなかった。予想以上の売り上げがあったと記憶している。

ブリッツ開催「オリジナルプリント/絶版写真集/サイレント・オークション」

また2000年には、アート写真総合情報サイトのアート・フォト・サイトを立ち上げて、オリジナルプリントと写真集に特化したオンライン・オークションも一時期運営していた。たぶんそれらのオークションは日本では初めての試みだったと思われる。

東京オークション・ハウス・アール・ローカスのフライヤー

2006年には写真専門のオークションが、東京駅八重洲の東京オークション・ハウス・アール・ローカスで開催されている。10月29日に開催された「Vol.1 写真・オリジナルプリントと写真集」では、ハリー・キャラハン、エルンスト・ハース、ヤン・ソーデック、アーヴィング・ペン、エリオット・アーウイット、リチャード・アヴェドンなどのオリジナルプリント29点と写真集24点の公開入札方式のライブオークションが開催された。2007年12月9日に「Vol.6 20世紀写真」の開催資料までが手元に残っている。委託者の希望だと思われるが、回を重ねるごとに次第にオリジナルプリントの落札予想価格が不自然に高くなり、落札率が低迷してきた記憶がある。アール・ローカスのオークションは、日本におけるアート写真の潜在需要を掘り起こすための極めて意欲的な試みだった。しかしその後に経済状況化が悪化したこともあり、撤退を余儀なくされている。

大手のシンワアートオークションは2007年ごろには写真に積極的で、「CONTEMPORARY ART AUCTION」の一部で取り扱っていた。しかし良質の作品の出品がなく、落札率も低迷したことから、その後は取り扱いに消極的になって現在に至る。

SBIアートオークション「Inaugural Auction」

SBIアートオークションは、2012年2月25日の最初の「Inaugural Auction」から、コンテンポラリーアート作品オークションの一部として継続的に写真を取り扱っている唯一の業者だ。昭和、平成初期に売買された外国人写真家の作品と、荒木経惟、森山大道、杉本博司、森村泰昌などの日本人作家が出品されている。

2010年代になると、インターネットの普及で日本開催のオークション情報が世界中のコレクター・業者で共有されるようになる。またネットでの入札も一般的になる。そうなると重要なのは出品作品の市場性と、最低落札価格、為替相場となる。ドル高傾向だった時期には、日本では業者が設定する最低落札価格が海外より低めに設定される傾向があったことから、転売目的の海外からの入札が積極的にあったときく。日本では写真は売れないものの、オークション市場は世界とつながっており、海外で市場性が高い優れた作品が相場以下で出品されるとほぼ確実に落札されるようになった。不落札作品もアフター・セールで売れていた。日本での落札作品が海外のネットオークションに出品されるケースも散見された。ネット普及の初期には、情報格差による国際間での転売が可能だったのだ。

アイアートオークションのカタログ

2018年7月28日に、普段写真を全く取り扱わないアイアートオークションがアンセル・アダムス、エドワード・ウェストン、ビル・ブラント、杉本博司などの79点の写真作品の単独コレクションからのオークションを開催した。主催者は非常に控えめの落札予想価格を表示していたものの、海外で市場性が高い写真家の作品はほぼ実勢相場に収斂して落札された。理由は不明だが相場以上のレベルでの落札も散見された。海外相場の情報を持たない日本人どうしが競上げたのだと思われる。

平成後期になると、世界中がネットでつながったことから、国内オークションであっても、市場性のある作品の相場は海外の業者やコレクターが支えるという市場の仕組みが実現した。コレクターにとって、地域による情報格差による、相場から乖離した低価格でのバーゲンセールは起きにくい状況になってしまった。もちろん転売で利益を上げるのも極めて難しくなる。しかし、国内コレクターはコストのかかる海外オークションに出品することなく、国内でほぼ同様の相場での売却が可能となった。このような状況は今後に作品売却を考えている団塊の世代のコレクターには朗報だといえるだろう。

最近、海外のオークションを分析して気になる事象が目立つようになってきた。情報格差のない時代なのに、中小業者が開催するオークションでは、特に20世紀写真で従来の規準ではかなりバーゲンセール価格の作品でも買い手が付かないことがあるだ。もしかしたら従来のアート写真の価値基準が変化してきているのかもしれないと感じている。

平成時代のアート写真市場(7)に続く

平成時代のアート写真市場(5)
アジアのフォトフェア・ブーム

2000年代に起きたフォトブックの世界的ブームで注目されたのは、1970年代くらいまでの日本人写真家によるフォトブックだった。前記の欧米で出版されたガイドブックに取り上げられたのがきっかけだった。海外のコレクターが注目するようになり相場も上昇する。
相場のピークだった、2008年4月10日にクリスティーズ・ニューヨークで開催された「Fine Books」オークションでは、川田喜久治の「地図(美術出版社、1965年刊)」が2.5万ドル(@102/約255万円)で落札されている。同書はプライベートセールではもっと高額で取引されたそうだ。

それに伴い同時代に活躍した日本人写真家のオリジナル・プリントにも関心が集まった。しかし、海外のアート写真業界の基準は日本には当てはまらないという事実がしだいに明らかになる。ヴィンテージ・プリントの概念、エディションの理解、写真家が複数のギャラリーに同時に写真作品を提供するシステムなどだ。2008年のアートフェアのパリ・フォトでは日本が招待国としてフィーチャーされ、特別に14業者や出版社が招待されて参加した。残念ながら、全体の参加者の展示作品をコーディネートするという視点が抜けていた。複数の参加業者が、特定の写真家の同じような作品を、異なるエディションや販売価格で展示したことから、海外のコレクターはかなり混乱したと言われている。
今では、日本は浮世絵の国なので、日本人写真家のヴィンテージプリントに該当するのは、初版のフォトブックだと理解されている。70年代くらいまでのガイドブック収録の初版フォトブックはいまでも高価で取引されている。それは、写真集ではなくヴィンテージプリントの代替品だと考えられているからだ。その他のモダンプリント作品は、主に作品の人気度により相場が決まってくる。

アート界では、経済のグローバル化に伴い、富裕層を目当てにした様々な規模のアートフェアが世界各地で開催されるようになる。
写真は、ニューヨークの「ザ・フォトグラフィー・ショー」と「パリ・フォト」が有名だ。日本でも、フォトフェアを通して欧米のようなファインアート系写真の市場確立を目指す様々な試みがあった。これの動きはアジア全体で盛り上がり、ソウル、タイペイ、上海でも同様のフォトフェアが行われた。

Photo Shanghai 2014

日本では、2009年から東京フォトが6回にわたり開催された。
たぶんピークだったのが2012年に六本木ミッドタウンで開催されて時期で、主催者の誘致活動により、世界中の有力写真ギャラリーが参加した国際的なイベントになった。しかし、それはあくまでの表層的な状況であり、実際のところフォトフェアに対する考え方には参加者と来場者で根本的な違いがあった。

Tokyo Photo 2012 at Midtown Tokyo

つまり、参加者は世界で有数の経済規模を持つ日本での、新規コレクターの発掘と販売機会を求めて参加する。一方で来場者は世界のトップ・アーティストの高価な写真作品を鑑賞する場だと理解していた。多くの人が来場するものの、売り上げは期待通りではなったと推測できる。次第に、海外ギャラリーの参加者が減少し、日本人写真家の展示と国内ギャラリーの参加が中心となっていった。それに伴い来場者も減少し、最終的に2014年を最後に中止となった。

Seoul Photo 2011 at Coex

2008年から開催されていたソウル・フォトも同様の経緯をたどった。最初は世界中から多くの参加者が集まったものの、売り上げが上がらないことから海外からの参加者が減少していき開催中止となった。

アジアでは写真は撮影するもので、ファインアートとしてコレクションの対象ではないようだ。フォトフェアでは海外の優れた作品が日本に紹介された。しかし欧米市場で評価されている作品は、日本人には非常に高価に感じられたのだと思われる。アート作品の適正価値が判断できる人がほとんど存在せず、多くは鑑賞するものだと理解したのだ。

日本でのフォトフェア開催は日本人写真家に、「写真が売れるかもしれない」と感じさせた。2000年代後半から、商業写真家からアマチュア写真家までが写真販売に乗り出し、数々の販売イベントが行われるようになる。
しかし、フォトフェアで写真が売れるのは、それがアート作品として市場で評価されているという意味だ。そのアートの意味も2000年代に入り、現代アート市場の拡大とその影響を受けて大きく変化。写真は現代アート分野の一つの表現方法になっていった。しかし、多くの人は自分の感性を生かした写真や、モノクロームの抽象美とファインプリントの高品質を追求する工芸的な写真がアートだと考えていた。これについては様々なところで書いているのでここでは詳しく取り上げない。
またフォトフェアの影響で、写真が商品として簡単に売れると勘違いした人もいた。確かに世界的に写真は版画同様にインテリア向け商品として販売されている。販売される写真作品は、商業写真家が仕事の一環として取り組んで制作している。それには、企業が関わっており、綿密なマーケティングと商品開発が行われる典型的な薄利多売の手間がかかるビジネスなのだ。個人ベースでビジネスモデルの理解なしに簡単に売れるものではない。ちなみに平成の終盤期には、海外のインテリア向けの写真プリント販売店が日本上陸している。

アートとして作品を売るには写真家のブランディングが必要。それには多額の先行投資と膨大な時間がかかる。インテリア向け写真は、家賃の高い場所にショップを出店する必要がある。多くの写真家が様々な種類の写真販売を試みたものの、彼らが期待したような短期的ビジネスとしては成功しなかった。
フォトフェアの開催と共に盛り上がった平成の写真を売るブームは、いつしか消え去ってしまった。

平成時代のアート写真市場(6)に続く

平成時代のアート写真市場(4)
写真集ブーム到来と終焉 

90年代から2000年代にかけて、当時の主流メディアだった雑誌媒体で写真集特集が繰り返し組まれていた。そして、記事で紹介された写真集の実物は、現物を撮影用に提供した洋書専門店や古書店の店頭で手に取り見ることができた。当時の若い世代の人たちはそれらの情報を通して自分の好きな写真家やカテゴリーを絞り込んでいった。マーケティング上の世代区分では、1961年生まれから1970年生まれの「新人類世代」くらいの人が主に含まれると考える。
いま思い返せば、洋書店や古書店の店頭はメディア的な機能を果たしていた。各店には写真集情報に詳しいカリスマ店員や店主がいたものだ。過去に出版された写真集の情報も豊富に紹介されていた。それが自分の興味ある写真家がどのような影響を受けてきたかの興味につながり、フォトブック・コレクションに目覚めた人が生まれてきた時代だった。「高度な知的遊戯としてのフォトブックのコレクション」というセールス・トークはこの時代に生まれた。

2000年代前半の日本は、洋書写真集コレクションのミニ・ブームに沸いた時代だったといえるだろう。ブームのきっかけは、上記のような90年代以降に雑誌メディアなどにより多種多様な写真集情報が豊富に消費者に提供されことにあると考える。これにより興味を持つ人が増え、潜在的な需要が拡大した。その様な状況下でネット普及によりアマゾンなどで洋書が割安で購入可能になったことでブームに火が付いたと分析している。
90年代、洋書店で売られていた写真集は高額の高級品だった。よく雑誌のインテリア特集や広告ページ内でお洒落な小物として使用されていた。興味があっても気軽に何冊も買えるものではなかった。私は30年くらい洋書を買っているが、かつてのニューヨーク出張ではスーツケースの持ち手が破損するくらい膨大な数の重い写真集を持ち帰ったものだ。
アマゾンの登場は衝撃的だった。とにかく重い写真集が送料込みで、ほぼ現地価格で入手可能になったのだ。最初は欧米のアマゾンでの購入だったが、2000年11月に日本語サイト「amazon.co.jp」が登場する。日本の一般客も今まで高価だった洋書写真集がほぼ現地価格で購入可能になったのだ。2008年のリーマン・ショックくらいまで続いたブームは、かつて高価で高級品だった洋書写真集が信じられないような低価格で買えるようになったから起きたのではないか。今まで高額だったカジュアルウェアをユニクロが高機能かつ低価格で発売してブームになったのと同じような現象だろう。新刊が売れたことで、顧客の興味が絶版写真集いわゆるレアブックにも広がった。

ブリッツは90年代から絶版写真集の海外からの輸入販売を積極的に行っていた。ネットが普及する前の時代には、年に何回もニューヨークを訪れて古書店で仕入れを行った。また各地の古書店が制作する在庫カタログを送ってもらい、FAXで注文していた。手間はかかったが業者と顧客との価格情報の大きな格差があった。顧客が求める本の的確な仕入れができればビジネスとして魅力的だった。
2000年代以降は、前回に紹介したように海外でフォトブックのガイドブックが相次いで販売されたので、それらに収録されているレアブックを積極的に取り寄せた。この時期、ギャラリーでは将来を見据えたつもりで日本人写真家の写真展を中心に行っていた。残念ながらこの試みは失敗、写真の売上が低迷していたことから、レアブックに力を入れたという経緯がある。

2004年から2010年までの7年間に渡り、5月の連休明けや夏休み期間の約2週間、渋谷パルコパート1地下1階のロゴスギャラリーで洋書のレアブックとオリジナルプリントを展示販売する「レブック コレクション」の企画運営を手掛けた。

2004年~2009年、ロゴスギャラリーで開催された”レアブックコレクション”のDMの一部

同ギャラリーの隣には写真集の新刊を販売する洋書ロゴスがあった。目黒のギャラリーよりはるかに集客が多い好立地。当時は、場所が良ければ偶然通りがかった富裕層の人が興味を示してアート写真を買うようなことがあるかもしれないと想像していた。この企画では集客が多いことを生かし、レアブック販売と共に、会場の壁面を使用して顧客の興味を探るために様々な実験を行った。ストレートに資産価値の高い額装写真の展示、日本人写真家のミニ個展開催、8X10″サイズのフレームに入れた額装1万円のミニプリント約60点販売、額装したフランスのファウンドフォトの販売、額装ポスター、ポストカード、ヴィンテージ・ファッション・マガジンの販売も行ってみた。
2009年には「渋谷・アート・フォト・マーケット」と称して、会場全体を一種のフォトフェアとブックフェアの合体したようなスペースにプロデュースした。1万円から100万円越えまで、様々な価格帯と多種多様なジャンルの写真作品を展示。しかしいくら立地が良く来店客数が多くても、イベント会場に来る一見客には写真作品は売れないことがよくわかった。アート作品を取り扱う商業ギャラリーは立地がすべてではないのだ。たぶんインテリア向けのアート写真の場合はショップの立地は極めて重要だろう。

“レアブックコレクション2009″渋谷パルコ・ロゴスギャラリーの展示風景

写真は売れなかったものの、レアブックはかなり売れた。当時はこのイベントのために1年間かけて在庫の仕入れを行っていた。しかし2000年代後半になるとインターネットが広く普及し、世界中の業者在庫の価格が比較可能になった。それまでは神田神保町と田舎の古書店では、同じ写真集でも家賃や運営費の差が販売価格に反映されていた。ネット上では経費に関わらず完全な値段勝負となる。
そしてプラットフォーム企業のアマゾンでも絶版写真集が販売されるようになるのだ。業者と顧客の情報格差が縮小していき、人気本は個人がネットオークションで販売するようにもなる。次第に業者の利益率、売り上げは減少していき、レアブックの販売は単体では事業として成り立たなくなった。

その後の状況をまとめておこう。時間経過とともに、洋書写真集が安く買えるという当初の驚きがなくなり、次第にコモディティー化し始める。そのような時期にリーマン・ショックが起き市場が一気に縮小するのだ。ブームが過ぎ去ったもう一つの理由は、欧米ではアート写真コレクションの一分野として写真集(フォトブック)が存在しているが、日本では自分の感覚にあったビジュアルが収録されたお洒落なファッション・アイテムとして買われていた面があっただろう。消費財としてみると、アート系商品は、心は豊かにするが、お腹を満たしてくれない、不要不急の典型的商品だ。
2010年代には、アベノミクスによる円安で洋書の輸入価格が上昇して、景気の長期低迷とともに市場規模は縮小均衡してしまった。いまや、本当にアート写真が趣味の人が、自分が好きなアーティストの本を購入するという従来のパターンに戻ってしまった。
これから新しい市場の中心となっていくミレニアル世代の動向は気になるところだ。しかし彼らは「シェアリング・エコノミー」を好み、モノの所有に関して消極的と言われている。スペースを占有する写真集コレクションにはあまり魅力を感じないかもしれない。

平成時代のアート写真市場(5)に続く

平成時代のアート写真市場(3)
写真集ブーム到来の前夜

日本でアート写真が注目されるようになったのはバブル経済終盤期の80年代後半期。前回に書いたように、当時アート(絵画)は土地、株に続く第3の財テク商品だと注目されていた。絵画価格は世界的に急上昇し、その影響が比較的価格の安い版画や、市場がまだ黎明期で市場拡大の可能性が高いアート写真が注目されたという構図。それでもアート写真の有名写真家の作品は最低でも10万円以上はしていた。そこで注目されたのがアート系の写真集の存在だった。アート写真市場で大きく注目されていたのは従来の20世紀写真ではなく、時代の気分や雰囲気を表現したアート系のファッションやポートレート写真だった。
その流れに呼応して新しいスタイルの写真集が海外から登場してくる。流通効率化を無視した大判で、費用がかかる高級紙を使用した高品位のグラビア印刷、文字情報が少なくヴィジュアルを重視したシンプルなレイアウトの写真集だ。
その代表が80年代初めに設立された米国カリフォルニアの独立系写真集専門出版社Twelvetrees Pressだろう。従来の薄利多売ではなく、多少高額でも売れる本を作るという新しいビジネスモデルを追求していた。彼らが手掛けたブルース・ウェーバー、ロバート・メイプルソープ、同系列のTwin Palmsからのハーブ・リッツの写真集は、本自体の美しい存在感が際立っており、写真やデザイン好きの人の間で話題になった。

写真集はハード版の高品位印刷による豪華本の場合が多い。実は写真集の制作数は数千冊程度のことが多い。しかし、読むのではなく、見ることが目的のヴィジュアル本の写真集市場は世界に広がっている。数千冊は国内だけでは多いが、世界にファンがいる人気写真家の本だと瞬く間に売り切れてしまう。日本でこれらのアート系写真集は、ギャラリーやイベント会場で開催される写真展に合わせて輸入販売された。アマゾンなどがない時代、大判の洋書の豪華本は非常に高価だった。しかし、もっと高価なアート写真を買えない人たちが先を争って購入した。いわゆる心理学のアンカー効果だ。そして、もともと輸入冊数はそんなに多くないので、店頭での在庫が売り切れになる場合が見られた。キャプション・ページに記載されていた「Limited edition XXXX copies」という限定数の記載や人気が高くて売り切れてしまうという心理も消費者の購買意欲を刺激したと思われる。

Bruce Weberのデビュー写真集

実際は出版社もしたたかで、ブルース・ウェーバーのデビュー写真集の初版は5000部、2刷が5000部も刊行されていた。ハーブ・リッツ「Pictures」は初版6000部、ロバート・メイプルソープ「Certain People」も初版5000部で、ともに再版が繰り返された。

Herb Ritts “Pictures”

90年代の個人は、まだ消費スタイルによってアイデンティティーを確立するような時代だった。流行に敏感な若い世代がインテリアの中でのお洒落アイテムだった洋書写真集に興味を持った面もあったと考える。

海外では、2000年代になってから、写真集の一部のフォトブックは、アート写真の自己表現の一形態だと認識されコレクションの対象になった。歴史的写真集のガイドブック「The Book of 101 Books」(Andrew Roth、2001年刊)、フォトブックの初美術館展のカタログ「The Open Book」(Hasselblad Center、2004年刊)、「The Photobook : A History Volume 1 & 2」(Martin Parr & Gerry Badger、2004-2005年刊) など、過去の優れたフォトブックのガイドブックの出版が相次いだのがきっかけとなった。

しかし、日本ではそれより早い時期から写真集のガイドブック的な情報が雑誌や単行本の一部で紹介されていた。
手元の資料を調べてみると、雑誌ブルータス1983年8/1号の「カメラの新境地を探検する」では、写真集18冊を1ページで紹介している。書店リストが銀座にあったイエナと丸善なのが興味深い。

ブルータス1983年8/1号の「カメラの新境地を探検する」

ブルータス1988年12/1号「時代を映した写真が見たい。」でも「エピソードに読む、写真家の肖像。」特集で、有名写真家の写真集13冊を4ページに渡り掲載。

「写真集をよむ ベスト338完全ガイド」と「現代写真・入門」

1989年8月10日刊行の別冊宝島97号「現代写真・入門」では、金子隆一氏が「写真集202冊で見る 現代写真入門」を、鈴木行氏が「本自体が面白い厳選101冊の写真集」という章を編集執筆している。

スタジオ・ボイス 172号/1990年4月号

ファッション誌の流行通信の関連会社インファスは、メディアミックス・マガジンと称して「スタジオ・ボイス」という月刊誌を出していた。毎号様々な若者カルチャーを特集していた。同誌の172号/1990年4月号は「特集PHOTO ALIVE 写真集の現在、全120冊」で写真集を本格的に特集した。文章は高橋周平氏が担当。同号では写真集の表紙写真と中身ページの写真を複写して紹介する手法を採用している。ブルース・ウェーバーの「O RIO DE JANEIRO」(Knopf、1986年刊)の見開きページ56点を、ピーター・ベアードの「THE END OF THE GAME」(Chronicle Books)は見開きページ68点を大々的に紹介。その後の写真ブームの盛り上がりと共に、「写真集の現在」は「スタジオ・ボイス」の定番のレギュラー特集となる。だいたい1~2年ごとにそれまでに刊行された人気写真集や絶版本を幅広く紹介していった。
ネット時代は情報へのアクセスや価格比較などで便利になったが、情報量が膨大になりすぎて自分の望む情報になかなかたどり着けない。「写真集の現在」は、雑誌1冊で主要写真集が網羅されていた。資料、レファレンスとして非常に役に立った。
352号/2005年4月号「写真集中毒のススメ」などは、当時の世界各都市のフォトブック・ショップやコレクター、写真家、コレクターを紹介したかなりディープでマニアックな特集号だった。 休刊前の373号/2007年1月号では「写真集の現在 特別総集編 写真のすべてを知るための最重要写真集250冊」が出されている。同誌が日本における写真集コレクションの火付け役だったのは間違いないだろう。

90年代から2000年代にかけて、女性誌、男性誌などでは頻繁に写真や写真集の特集が組まれた。フィガロ92年4月号では「刺激的、心地いい、愉快な、写真集をさがす。」という16ページの写真集特集を組んでいた。美術手帖1997年8月号では「特集 アートブックの魅力」でアーティストブックの1種として写真集を紹介。エスクァィア日本版は2002年3月号「写真は語る。」で、「写真集傑作選28」を掲載。なんと同号の付録は奈良美智の初写真集「days・・・」。モノ・マガジン403号/2000年3-16号は「写真術」、ブルース・ウェーバーの写真世界が巻頭特集だった。雑誌の編集的にも、写真集の紹介目的だと有名アーテイストのヴィジュアルが比較的自由に、また無料で使用できたというメリットもあったようだ。
1997年には、メタローグから「写真集をよむ ベスト338完全ガイド」という写真集のガイドブックが、2000年には、続編の「写真集をよむ ベスト338完全ガイド2」が刊行された。単行本だったので、ジャケットはカラー印刷だったが、中身の写真集表紙の紹介がすべてモノクロだった。資料としてのガイドブックというより、写真集を紹介する写真関連の読み物的な傾向が強かった。ちなみに同書には2000年当時の「写真集が豊富にそろう書店」を紹介。リストには、青山ブックセンター本店(神宮前)、On Sundays(神宮前)、Shelf(神宮前)、Mole(四谷)、PROGETTO(渋谷円山町)、洋書ロゴス(渋谷パルコなど)、NADiff(神宮前など)、嶋田洋書(南青山)、タワーブックス(渋谷)、紀伊国屋(新宿南店)、松村書店(神保町)が載っている。

2000年代になると、インターネットがより広く一般に普及して業界の構造が激変していくことになる。

次回、平成時代のアート写真市場(4)「写真集ブームの到来」に続く

平成時代のアート写真市場(2)
90年代初めのアート写真ブーム!

平成の初めの時期、1990年代前半期には、アート写真のおいては東京と海外はつながっているというような感覚があった。欧米都市のギャラリーで開催された注目写真家の展覧会情報が次々雑誌で紹介され、しばらくして日本での巡回展が開催されていた。また外国人の新進気鋭写真家、日本人写真家の発掘も積極的に行われた。知名度や市場性のある写真家の企画はそんなに多くはない、またどうしても作品価格は高価になる。したがってネタ不足と低価格帯の作品が求められたのが背景にある。

”にっけい あーと”1993年1月号の写真特集

アート写真や写真展の情報が流行最先端のニュース・トピックで、週刊誌、情報誌、月刊の男性誌、女性誌、美術専門誌、ファッション誌などで積極的に国内外の写真関連特集が組まれた。日経BP社は1988年から”にっけい あーと”というアート専門誌を刊行していた。1993年1月号は”特集 写真の誘惑-最後の未開拓市場”。表紙には杉本博司の劇場シリーズのモノクロ作品が採用されていた。
テレビでも、NHKの衛星放送、テレビ東京のファッション通信でも写真展情報を紹介していた。
なんとフジテレビのクイズ番組カルトQでは、1992年(平成4年)に“フォトアート”をテーマに取り上げている。

アート写真を展示する場所も増加していった。渋谷パルコでは、パート1にパルコギャラリー、パート2に写真専門のイクスポージャーがあり、新宿にはバーニーズの上層階にはギャラリー・ヴィア・エイト、伊勢丹のICACウェストン・ギャラリー。商業ギャラリーも、高円寺にイル・テンポ、大塚にタカイシイ・ギャラリー、神宮前にバーソウ・フォト・フォト・ギャラリーなどが開業。ブリッツもこの時期に広尾でオープンしている。やや遅れて1995年には、赤坂に東京写真文化館がオープンした。
商業施設では百貨店、流通、不動産、ブライダルなどの企業の施設で、不定期だが写真展がかなり頻繁に行われていた。入場料収入が主目的だったがオリジナル・プリントも販売されていた。

1988年にプランタン銀座で開催された”ロベール・ドアノー”展

プランタン銀座、青山ベルコモンズ、シブヤ西部シードホール、有楽町西武アート・フォーラム、松屋東京銀座、横浜ランドマークタワー・タワーギャラリー、横浜エクセレントコースト、新宿小田急グランドギャラリー、二子玉川のC2ギャラリー、新宿伊勢丹美術館、日本橋三越本店、三越美術館新宿、渋谷文化村ギャラリー、ラフォーレミュージアム原宿、アニヴェルセル表参道、池袋西武ギャラリー、PISAギャラリー紀尾井町などだ。

1990年に二子玉川のC2ギャラリーで開催された”Great Contemporary Nude 1978-1990″展

実際のところは、写真が爆発的に売れるようになったのではない。しかし、コンテンツの質も比較的高く観客動員数は多かった、商業施設全体の集客や広告宣伝には魅力的だったと思われる。また将来的に市場が拡大するという確信を皆が共有していた。今では信じられないほどの活気がアート写真業界にあったのだ。

美術館の動向も簡単に記しておこう。メディアでは民間の写真ブームは権威の象徴である美術館が写真を購入するようになったというニュースと共に語られることが多かった。川崎市市民ミュージアム(1988年11月開業)、横浜市美術館(1989年11月開業)は、写真部門を持つ公共美術施設としてオープン。1990年6月には東京都写真美術館が暫定オープン、1993年に本格オープンしている。暫定オープン時まで約10億円の予算で国内外の約6000点の作品を購入して話題となり、新聞でも大きく取り上げられた。
美術系の学部を持つ大学も、日大、東京工芸大、大阪芸大、九州産業大などが写真コレクションを行っている。百貨店やギャラリーなどの業者にとって、美術館は重要な大口顧客になる。彼らが一番購入するのは本格開館前の時期となる。それがちょうどバブル経済の最後半期と重なる。しかし、オープン後は運営が重視され新規購入予算額は減少する。その後、運営する自治体の税収減少に伴い購入予算が減少していくこととなる。

オリジナルプリントの購入者は写真家、デザイナー、編集者などが多かった。特にまだ写真がアナログだった時代の写真家は高額所得者だった。広告写真家はもちろん、地方在住で写真エージェンシー向けにストックフォトを提供する写真家でも、1億円近く売り上げる人も珍しくなかった。写真家であるがゆえに写真購入費用の一部が経費扱いになったともいわれている。また、企業に勤める女性が、頑張った自分にご褒美としてアート写真を買う、といった今では都市伝説になっている事象が本当に見られた時代だった。
10万~30万円くらいの作品は普通に売れていた。しかし、多くの購入は信販会社が提供するショッピング・クレジットの利用だった。今では信じられないが、分割60回払いなどが一般的。同時期にブームになった、いわゆるハッピー系版画販売と同じ構図だったのだ。まだ個人に対する信用供与が甘く、また多くの個人もバブル崩壊の実感はなく、景気は循環して再び上向くと盲信していた。アート購入のための長期借金への不安など誰も感じていなかった。
しかし、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災以後くらいから潮目が変わっていった。個人への信用供与が厳しくなっていくのだ。不動産価格の下落・景気低迷によるいわゆるデフレにより企業の経営悪化が本格化。中小金融機関の経営破綻が相次ぐ。1997年には山一證券が自主廃業を決め、1998年には長銀が破綻する。その後、長期不況に突入してデフレ状態となる。モノが売れなく、物価が下がる状況になり多くの企業は本業不振に陥り、写真展開催事業やアート部門からも撤退する。アート関連事業は、最初は開催予算を持つ文化事業部が担当、それが広告宣伝部の直轄となり、最後には売上を求める営業部の一部門となる。最終的に単体業務としては採算が合わないので撤退するという流れだった。残念ながら上記の展示スペースの多くは、いまは消えてなくなってしまった。

海外の展覧会の美術館、ギャラリーでの日本巡回は激減、結果的に欧米のアートシーンと日本との情報が分断されることとなる。その状況は平成時代を通じて変わらなかった。

“平成時代のアート写真市場の変遷(3)”に続く