展覧会レビュー
MEMENTO MORI
ロバート・メイプルソープ写真展
シャネル・ネクサス・ホール

ロバート・メイプルソープ(1946-1989)は、エイズでわずか42歳で亡くなった伝説の米国人写真家。80年代に写真をファイン・アートのコレクション対象物に広めたことで知られている。彼は、当時はタブーだった黒人メールヌードやSMなどをテーマにするとともに、自らがエイズで若くして亡くなったことからスキャンダラスな写真家の印象が強い。アート性の評価は、ゲイの美意識により制作された、モノクロの抽象美を追求した高品位のファインプリント作品のというものだった。フォーマル・デザイン、被写体のディーテールや対称性、フレーミングへのこだわりが結合して、耽美なメイプルソープの写真世界が構築されていた。

彼の作品相場は、エイズであることが明らかになった1986年ごろから大きく上昇した。しかし1989年の死後の価格上昇は穏やかなものだった。当時の写真としては斬新だったものの、現代アートが市場を席巻するのに従い、表層重視の20世紀写真カテゴリーの人という評価から抜け出せなかったのだろう。
しかしメイプルソープの近年の展示は、美術史との新たな関係性発見を試みるようなものが多くなっている。特に2004年にグッゲンハイム美術館ベルリンで開催された展覧会は、メイプルソープの写真作品と古典芸術、特に16世紀のマニエリズムの木版画、銅版画彫刻との関連を探求したもので印象深かった。ロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館の版画、彫刻などのマニエリズム作品と、グッゲンハイム・コレクションのヌード、花などのメープルソープ作品の多くがセットで紹介。表現方法や場所を超越した、過去から現在につながっているアート史との関連性が見立てられていた。
近年行われたその他の紹介は、作品カテゴリー別の編集、評価による企画が多かった。それらには、ポラロイド写真、セルフポートレート、SMやフェティズム、フラワーシリーズなどが含まれる。
いまメイプルソープ再評価の試みが世界中でゆっくりと着実に進行中なのだろう。もしかしたら最近の彼の相場は過小評価なのかもしれないと感じている。
今回のシャネル・ネクサス・ホールでの展示は、シャネルとかかわりが深い有名建築家のピーター・マリーノによるコレクションからの出品とのこと。ちなみに会場のあるシャネル銀座ビルディングは同氏の設計なのだ。プラベートな収蔵作なので新たな視点でメープルソープ作品の再評価を試みるような展示ではない。展示数はホワイトギャラリー1が26点、ホワイトギャラリー2が22点、ブラックギャラリーが43点の合計91点。リストによると5点がプラチナ・プリント、残りがシルバー・プリントだ。
彼は1976年からハッセルブラッドを入手してネガフィルムでの作品を制作している。本展ではそれ以前の、自作フレームを利用した作品、インスタレーション、ポラロイド、またカラー作品は含まれていない。日本での本格的な作品展示は2002年に大丸ミュージアム(東京)などで開催された回顧展以来とのことだ。
セレクション的には、モノクロのポートレート、花、黒人ヌードが中心に編集されている、1992年に刊行された”Mapplethorpe” (Random House Trade刊)に近いだろう。同書には、より衝撃的な部分的ヌードやハードなSM作品が収録されている。ちなみに日本版は1994年にアップリンク社から刊行された。想像するに、ピーター・マリーノのコレクションにもその種の作品は当然含まれているが、本展では総合的な判断から比較的穏やかな印象の作品がセレクションされたのだろう。
とても印象深く感じたのは銀塩やプラチナプリントで制作されたモノトーンな美しさだ。特に被写体の肌の部分の中間トーンの諧調の再現力は秀逸だった。最近の写真はモニターで見る機会が圧倒的に多い。特にそれに慣れた若い世代の人はコントラストが強めの写真プリントを制作しがちだ。それ自体が、何らかの作品テーマとの関わりがあれば問題ないのだが、最近の写真は私たちの実際に見て感じている世界とはかなり違っている。本展ではファイン・プリント写真のモノクローム表現の美しさを再発見させてくる。

カタログの紹介文でシャネルのコラス社長は、メイプルソープとシャネルの革新性を指摘し、「メイプルソープもシャネルも、物議を醸しだしたり、ルールを破ったり、予想を裏切ることを恐れませんでした」と書いている。しかし、死後約28年が経過し、メイプルソープの革新性はもはやクラシックになったのではないだろうか。私は、本展は現代アートが市場を席巻する前夜の、アナログ写真の歴史と伝統の集大成を見ているように感じる。それは老舗シャネルのブランド・イメージとも重なるだろう。

これだけの貴重なメイプルソープ作品を一堂に鑑賞できる機会はめったにない。写真ファン、アートファンは必見の展覧会だろう。なお同展は4月開催の「KYOTOGRAPHY 京都国際写真祭」のメイン展示にもなるそうだ。
「MEMENTO MORI ロバート・メイプルソープ写真展 ピーター・マリーノ コレクション」
3月14日~4月9日、12:00-20:00、無休無料
シャネル・ネクサス・ホール
東京都中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4階

写真展レビュー
“山崎博 計画と偶然”は限界写真か?
東京都写真美術館

いままで日本における新たなアート写真のカテゴリー創出を提案してきた。現在、東京都写真美術館で開催されている”山崎博 計画と偶然”を鑑賞して、彼こそはこのカテゴリーの写真家ではないかと直感した。
少しばかり長くなるが、いま一度新カテゴリーの概要を説明しておこう。過去に書いた解説と重なる部分があるのはご容赦いただきたい。
現在の写真カテゴリーを大きく分けると、制作者のオリジナルな創造性を愛でるファイン・アート系と、実用的なデザインやインテリアを重視した応用芸術系がある。ファイン・アートは元々は欧米から輸入された概念であり、日本では感覚やデザイン性の追求がアート行為だと拡大解釈されてきた。写真表現もファイン・アートというよりも応用芸術系が中心になっている。
ファインアート系には、かつて20世紀写真という分野があった。20世紀には、写真はアナログ制作の特殊性によりアート界でも独立して存在していた。そこでは印刷で表現できないファインプリントの美しさと、モノクロの抽象美が追求されていたのだ。しかし21世紀になり現代アートの市場規模が急拡大し、また写真のデジタル化進行で技術的な敷居がなくなり誰でも制作できるようになった。この大きな変化により、写真は大きな現代アート表現の一部になって、現在の状況に至るのだ。従来の20世紀写真の流れを踏襲する写真家は、写真分野のアルティチザン(職人)のような存在となった。
しかし、そのような写真独自の美学や技術を追求している人が、無意識のうちに時代特有のメッセージが反映された作品を提示している場合も少なからず存在している。それらは意識的に行われるのではないので、現代アート分野の写真ではない。しかし、デザインや感覚を重視するインテリア系写真でもない。
これらは全く新しい分野というよりも、従来の日本の美術・文化史とのつながりから見出すことが可能なのだ。かつて評論家の鶴見俊輔が提唱した限界芸術という考えにかなり近い。彼は著書「限界芸術論」(1967年、勁草書房刊)で以下のように定義している。「今日の用語法で『芸術』と呼ばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を『大衆芸術』(Popular Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を『限界芸術(Marginal Art)』と呼ぶことにしよう。」
限界芸術の一部だと鶴見が指摘している分野に、柳宗悦が提唱する「民藝」がある。柳は優れた美であれば、鶴見のいう純粋芸術にあたる「作家性のあるもの」とともに、無名な職人の作品を積極的に評価してきた。
欧米の価値観では分類できない多くの日本の写真家の作品群は、この限界芸術ににかなり近いとのでないかというのが私どもの気付きなのだ。そしてこの限界芸術や民藝の写真をクール・ポップ写真と呼ぼうと提案してきた。新しいカテゴリー分けを行うことで、いままですっきりしなかった日本のアート写真の分類がわかりやすくなると主張してきたのだ。
ファイン・アート系写真家の場合、その最終的な評価は死後にセカンダリー市場で取引が成立するかどうかだ。つまり歴史に多少なりとも存在の痕跡が残せるかにしのぎを削っている。限界写真(マージナル・フォトグラフィー)のクール・ポップ写真では、写真家が作品販売のしがらみから解放される。写真家にとって、写真は市場の評価を得るものではなく撮るもので、社会とのコミュニケーションを交換する手段となる。アーティストとは写真を販売して生活する人ではなく、写真撮影をライフワークとする人になる。それは人生を通して能動的に社会と接する一種の生き方を意味する。どれだけ心を開いて世界を真剣に対峙したうえで撮影されたかが重要視される。逆説的だが、作品を売ろうという気持ちが消えた時にクール・ポップ写真は生まれるのだ。

評価は第三者の直感による見立てにより行われる。現代アートのようにテーマやアイデア・コンセプトは写真家自身から語られない。民藝が職人の手作業に注目したように、クール・ポップ写真では写真家が心で世界を見る行為に注目する。しかしそれは評価者の主観的な好き嫌いや思いつきでは行われない。また瞑想のような見る行為自体に安易に価値を見出すのには注意が必要だろう。それは優劣がない感覚自体の評価と表裏一体だからだ。またインテリア写真のようにデザイン的視点からだけの評価でもない。「直感」は見る人の美術・写真史や各種情報の集積、様々な感覚に対する理解の結果もたされる。写真家が無意識のうちに提示しようとしている新たな組み合わせ、融合された視点に気付くこと。そしてそれが時代の中にどのような意味を持つかの判断だ。

内在しているアート性のヒントは、写真家が無意識のうちに写真り続けるようになったきっかけや、その背景に隠されていると考える。そこに至るまでの過程には現代社会における何らかの価値観との関係性があるはずだ。
以上のように、写真家以上に見立てる人の実力が問われると考える。
さて、山崎博の写真展”計画と偶然”をみてみよう。
同展では、45年を超える作家活動の軌跡を初期作から新作までの182点の作品展示で回顧している。新カテゴリーの写真との類似性を見てみよう。
カタログの資料によると、彼の創作は「被写体を探して撮る」ことの否定、作為性を排した自身の新たな写真行為の実践であったという。また、写真はコンセプトに従属せず、コンセプトは写真に奉仕する、と山崎は述べていると紹介されている。同展キュレーターの石田哲朗氏は、”彼はいわゆるコンセプチュアル系の美術家がコンセプトの提示ために写真を用いるスタンスとは全く異なっている”と指摘している。山崎の写真制作のアプローチは、民藝などの陶芸作家の創作に近いという印象を持った。彼は、当時主流だった20世紀写真の価値観の、ファインプリントの美しさとモノクロの抽象美の追求を意識的に避けてきたのだ。それ自体を現代アート的に、方法論自体を作品コンセプトにしていると解釈できないことはない。
ここからは私の想像だが、どちらかというとカメラの構える方向などの撮影方法は大まかに決定されているものの、その後の創作過程は本人の内側から湧き出た衝動により突き動かされ、無意識に近いのではないか。それを抽象的写真と呼ぶ人もいるのだが、陶芸家と同じように真に心を開いて、無心の境地で世界と真剣に接したうえで撮影しているとも解釈可能ではないか。そして彼は従来の写真美の追求を避けてきたものの、完成した作品群は非常に美しいのだ。陶芸家が無心の境地から美しい作品を生みだすのに近い。それならば限界芸術の写真版と言えないことはないだろう。

限界写真のクール・ポップ写真では、アーティストとは、ライフワークとして能動的に社会と接する人の生き方を意味する。カタログのプロフィールを見るに山崎は作品の評価や市場性を求めることなく、写真を教えながら約45年も制作を継続している。彼の人生はまさに上記のようなものだったと解釈可能だろう。カタログでは石田氏が、山崎のフィルムの時代のケミカル・プロセスへのこだわりも評価している。ここも手作業に価値を置くクール・ポップ写真の評価と重なる。

新分野の写真は、誰かが見立てを行うことで評価される。今回の展覧会開催で美術館が見立てを行ったということだろう。山崎作品の評価は、20世紀写真の美意識にこだわる人や、現代アート的なテーマ性、アイデア、コンセプトを重視する人にはすんなりと理解できないかもしれない。しかし、日本の美術界に限界芸術や民藝が存在していたように、写真界にも独自の価値基準が存在していたことが本美術館展により明らかにされたのではないか。私どものような単なる業者が主張するのとは重みが違う。
同館での展示方針は、現代アートと20世紀写真の基準が混在した形式だと理解している。世界的にも珍しい”写真”の美術館であるから、このような展示スタイルになるのは自然だと感じている。しかし、海外から日本は特殊だと指摘される可能性もある。誤解を避けるために、将来的にはどこかの段階で日本独自の写真カテゴリーの提示は必要だろう。今回の展覧会を、その価値観を発信するきっかけにして欲しいと願っている。

カール・ラガーフェルド写真展 “太陽の宮殿 ヴェルサイユの光と影” @シャネル・ネクサス・ホール

ヴェルサイユ宮殿を撮影した作品というと、米国人女性写真家デボラ・ターバヴィル (1932-2013) の代表作”Unseen Versaille”(Doubleday、1981年刊)を思い起こす人が多いだろう。

彼女は、一般の人が立ち入って見ることのできない宮殿内部を主に撮影。絵画のような雰囲気を持つソフト・フォーカスなヴィジュアルで、この特別な場所の幻想的な雰囲気を表現しようとした。

一方で、本展はドイツ出身のデザイナーでアーティストのカール・ラガーフェルド(1933-)によるもの。彼のほとんどの被写体は宮殿の外見や庭園など。ターバヴィルとは対極のヴェルサイユ宮殿の姿を提示している。写真は本当にオ―ソドックスなモノクロ写真だ。彼は宮殿で生活していた王族が何気なくみていたようなシーンを紡ぎだしている。広大な敷地の中でそのような場所を探し出して撮影したのだろう。この特別な世界遺産の各所で、観光客がいない何気ないシーンを見つけ出すのは非常に困難だと思う。作品の中に、一部人影は発見できるがほとんどが小さいシルエットとして表現されている。彼はこの一見普通の写真を撮るために特別な許可を得て作品制作に取り組んだのだ。
写されているのは、宮殿外観、庭園の野外彫刻・花瓶、人工池、階段など。それらの中には、フランス人写真家ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)が撮影したのと似たようなシーンも散見される。アジェは1901年ごろから約12年にわたりヴェルサイユ宮殿と庭園を撮影。それらは彼の最も美しい作品群と評価されている。ラガーフェルドは間違いなく19世紀のフランスの残り香を表現したアジェを意識していたと思う。個人的な印象だが、アジェの客観的でシュールにさえ感じるな視点での撮影と比べて、ラガーフェルドの写真の方がよりグラフィック的な要素を強く感じる。興味ある人はぜひ20世紀前半のアジェのヴェルサイユと見比べて欲しい。

ニューヨーク近代美術館が1983年に刊行した有名なアジェの4巻本”The Work of Atget”の第3巻”The Ancient Regime”に多くが紹介されている。
ラガーフェルドは、これらの写真を通して、宮殿が持つ過去、現在そして未来への歴史の流れを表現しているのではないか。17世紀後半に建造されたヴェルサイユ宮殿は、21世紀の現在はもちろんん、未来にも不変な存在であることを念頭に置いているのだろう。それはシャネルという彼がデザインを手掛けるブランドの歴史とも重ね合わせていると思う。アジェを意識しているのであれば、写真やアートの歴史も本品に取り込んでいるとも解釈できる。ラガーフェルドは、抽象的な歴史という概念を、宮殿、ブランド、写真という具体的な要素を重ね合わせて表現しているのだ。これこそが彼のヴェルサイユ宮殿に向けられたユニークかつパーソナルな視点の意味なのだ。
プリントは、羊皮紙を模した紙を使い、スクリーンプリントの古い技法によって制作されたものとのこと。時間と歴史の経過と流れを意識した作品であることから、あえて取り入れたと想像できる。作品が額なしで直接壁面に展示されているのもプリントの質感を見せたかったからだろう。決してプリント手法が目的化されたのではなく、それ自体も作品テーマの一部なのだ。

カール ラガーフェルド写真展
“VERSAILLES A L’OMBRE DU SOLEIL”
(太陽の宮殿 ヴェルサイユの光と影)

会期/2017年1月18日 – 2月26日 入場無料・無休
会場/シャネル・ネクサス・ホール 中央区銀座3-5-3シャネル銀座ビルディング4F

東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13 東京都写真美術館 21世紀東京の表現アプローチを探る!

21世紀のいま、写真家にとって”東京”をテーマに作品制作するのは極めて難しいだろう。それは展示企画するキュレーターにも当てはまる。世界中の大都市と同様に、東京には無数の問題点が横たわっている。しかし戦後の昭和のように、経済成長優先という多くの人が共有できた大きな価値観はもはや社会に存在しない。したがって、多くの戦後に生きた写真家がテーマにした、社会のダークサイドなどはもはや明確ではない。定常型社会化した東京では、多くの人とコミュニケーションが交換出来るような作品制作は非常に困難なのだ。
実際この地で暮らす人々には東京というキーワードは既に無意識化しており、それぞれが日々の生活に追われている。大都市であるがゆえに多種多様な価値観を持つ人が生活しているわけで、個別になされる問題提起も大都会の片隅に存在するわずかなノイズでしかありえない。それが偶然に見る側とコミュニケートする確率はもはや非常に低いと思われる。
一人の写真家の叫びも、価値が多様化した世界では激しい反発にあうことなどなく、ただスルーされるだけだ。東京をテーマにする写真家は、そのような表現者にとって最も残酷な状況に直面する可能性が高いといえるだろう。
いまそのような状況で多くみられるのは、様々な撮影技法や画像処理を駆使したもの、デザイン的感覚を重視した写真だ。見る側が少なくともその撮影アプローチやビジュアル自体に関心を示すからだ。いわゆる方法論の目的化で、それらはどうしても表層的で深みがない東京の作品になってしまう。それはパリやプラハの中世の面影が残る風景を撮影しても作品になり得ないのと同様の構図だ。

 

本展では上記のような方法論が目的化してない、誰もが違和感を感じない写真がセレクションされている。参加者は強いテーマ性を提示することなく、パーソナルな視点で東京という場所で淡々と写真を撮影している。大都市に横たわる局地的な現象や価値観を提示している作品をキュレーターがすくい上げているともいえるだろう。
個人の興味の違いによって、被写体は都市の風景、生活する人間、ヌードなどに、またプリントはカラーとモノクロ、制作手法はアナログとデジタルと、見事にばらけてセレクションされている。彼ら自体が現在の東京の多様な価値観そのものを反映させている存在だ。見る側は個別の写真家の作品に能動的に対峙するのではなく、展示全体がキュレーターが創作した一つの作品ととらえるとわかりやすいだろう。
ただし参加写真家の人数がやや少ないのではないかとも感じた。今回は新進の写真家を選出するという展示の性格上難しかっただろうが、東京はもっと多種多様なので紹介する写真家の人数を増やした方がより面白い展示になったのでないか。
それは同時開催されている「TOPコレクション展」のような様々な時代に生きた約40名もの写真家の展示ではなく、現代に生きる写真家10~15人展くらいが適当ではないかと考える。将来的により多数の写真家が参加する何らかの企画展に発展することを望みたい。
本展では、現在の東京における価値観の流動化もしくはカオス化が提示されている。21世紀東京の表現に挑戦した優れた企画だと思う。企画者の独断的な視点の押しつけがないことが展示全体の調和を見事にもたらしていた。
しかし、それが高度であるがゆえに文脈の説明を少し丁寧かつ明確に行ってほしかった。
東京の写真なので、一般来場者も感情的には親しみを持ちやすい。きっかけが提示されれば、さらに意識のフックへの引っ掛かりがもたらされるかもしれない。そこに新たなコミュニケーションが生まれる可能性があると考える。このあたりが現代社会でアートが果たすべき役割でもあるだろう。
・展示写真家
小島康敬、佐藤信太郎、田代一倫、中藤毅彦、野村恵子、元田敬三
・開催情報
11月22日(土)~17年1月29日(日)
10:00~18:00 (木金は20:00まで) 入館は閉館の30分前まで、 休館日 月曜日
・料金
一般 700円/学生 600円/中高生・65歳以上 500円

杉本博司 ロスト・ヒューマン
東京都写真美術館

世界的に活躍するアーティスト杉本博司(1948-)。彼の「ロスト・ヒューマン」は、9月にリニューアル・オープンした東京都写真美術館の総合開館20周年記念展となる。本展は、2年前の春にパリの現代美術館パレ・ド・トーキョーで開催された<今日 世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>をベースとして、世界初公開となる<廃墟劇場>、インスタレーションで提示される<仏の海>の3シリーズで構成されている。展覧会カタログによると、本展は、人類と文明の終焉という壮大なテーマを、アーティストがアートを通して、近未来の世界を夢想する、形式で提示するものという。
本展の杉本のメッセージを読み解くヒントをカタログ内で探してみた。それは学芸員の丹羽晴美氏のエッセーの最後の一文から見つけることができた。以下に引用してみる。
“<今日 世界は死んだ>の多様な展示物の中から自らの身に刻んだ歴史や現実を拾い上げ、<廃墟劇場>のスクリーンの前で普遍的な道理と呼応させ、<仏の海>の前で無になる。そして日常へ帰っていく。杉本博司がつくりあげた21世紀の黙示録は、まるで十牛図そのもののようだ”と書いている。
この一文こそが本展の要旨を見事についていると直感した。
私が反応したのは「十牛図」(じゅうぎゅうず)という言葉だ。これは禅にでてくる一種の啓蒙書で、10枚続く絵画テキストから成る。牛(悟り)を求める子供が様々な経験を通して悟りにいたる様子が描かれている。禅修行を行い、悟りに至るステップををわかりやすく説くために牛の絵を利用した解説である。禅の解説書やネット上には必ず紹介されているので興味ある人は参考にしてほしい。ここでは本展を十牛図と照らし合わせて読み解いてみよう。
会場3階で展示されている<今日 世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>の33の物語は、戦争、政治、経済、環境、人口、少子高齢化などの、現在すでに私たちが直面している事実をもとに、杉本がその行く末を想像して展開させている。最終的に文明が終わるストーリーを自身のコレクションや作品によるインスタレーションで表現したもの。会場は経年経過したトタン板で囲まれている。会場規模は決して大きくはないものの、その空間は細部まで綿密に計算され作り込まれている。そこに身を置くだけで場の圧力で圧倒される。見る側はアーティストの強い表現への思いを否応なく感じてしまう。それぞれの物語自体は現代アート的なテーマとして語られてもよいだろう。ここで現代社会の様々な問題点を見つけ出して提示しているとも解釈できる。この段階は、まだ「十牛図」の、最初の尋牛(じんぎゅう)という、 悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた状況ではないか。
会場2階の”廃墟劇場”は、しだいに「十牛図」の5番目の牧牛(ぼくぎゅう)に続く過程だろう。ここで悟りに近づいていくわけだ。写真の中心に映画一本分の白いスクリーンが描写されている。これこそは私たち人間の一般的な社会の認識を意味する。つまり時間は過去から現在、そして未来に渡って連なっているという感覚。実は白いスクリーンは約17万枚の写真が投影された結果に現れている。過去、現在、未来が連なっているのではなく、写真1枚のように、ただこの瞬間のみが個別に存在する事実を暗に示している。禅の精神を知るための公案に近い作品群ともいえるだろう。
ここまでに、杉本は現代社会に横たわる様々な深刻で気の滅入るような問題点をあぶりだして展示している。それだけだとあまりにも救いがないので、2階の残り半分のスペースでは<仏の海>で解決策を提示している。京都の三十三間堂の千手観音を撮影した九点の作品と五輪塔一基からなるインスタレーション作品だ。杉本によるカタログ収録エッセーによると、平安時代当時の、末法の世に西方浄土を出現させたいという思いがこの建築には秘められている、という。ここでは、欧米の現代アート作家のようにアイデアやコンセプトを提供するのではない。杉本は、人の心の本当の姿は「無」なのだと展開する。末法再来を考える「私」自体は存在しないということ。まるで禅問答だ。
前回、トーマス・ルフの展覧会評で、”釈迦は、人間の行為そのものも結果も存在する。しかしそれを行った人間は存在しない”と語ったというエピソードを紹介した。<仏の海>もこれと同じ意味を持つ。杉本との違いはなにかというと、西洋人のルフは自己がある種の幻想や物語である点を意識しているものの、私という自己の存在と決断を肯定的にとらえる立場に立っていることだ。
「十牛図」の最後の絵では、悟りを開いた人が町に出て人と接している場面が描かれている。悟りを開いた禅者は人々と接して、人々が救われることが仏教の究極の目標であることを表している。これこそは杉本が考えている現代社会でのアーティストの使命、役割。その実践が本展ということを示唆しているのだろう。

作品テーマのスケールは、杉本のいままでの創作をひとまとめにするような大きなものだ。一見難解な作品展のようだが、彼は一般の人でもわかり易いヴィジュアル、オブジェを用い、インスタレーションなど駆使して表現している。

<今日 世界は死んだ>などは、非常にポップな面を持った展示になっている。<23 漁師の物語>では、アメリカ製のロブスターのおもちゃが突然立ち上がり歌い踊る。<20 ラブドール・アンジェ>では、ラブドール・アンジェが裸体のままカウチベットに横たわっている。
一般客を作品世界に誘うような様々な感情フックが散りばめられている。
前回も触れたが、これがトーマス・ルフ展との大きな違いだ。壮大で難解なテーマを、わかりやすく提示するのには非常に高度な創作能力が求められる。
世の中には様々なレベルのアート理解力を持つ人がいる。本展はそれぞれが、それなりに楽しめるように計算された上で制作されている。
私の周りの様々な人に感想を聞いてみたが、本展の評価はかなり高いようだ。杉本の作戦は見事に成功を収めていると思われる。アートや写真が好きな人は必見の展覧会だ。
「杉本博司 ロスト・ヒューマン」
2016年9月3日(土)~11月13日(日)
会場:東京都写真美術館 2・3階
時間:10:00~18:00(木・金曜は20:00まで、入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜(ただし月曜が祝日の場合は開館、翌火曜休館)
料金:一般1000円 学生800円 中高生・65歳以上700円

トーマス・ルフ展 東京国立近代美術館
現代アート最前線の作品を体感しよう!

本展は、写真を使用した現代アート作品で知られるドイツ人アーティストのトーマス・ルフ(1958 – )の展覧会。キャリアを代表する18のシリーズをセレクションして、彼のキャリアの概観しようとするもの。初期作の約2メートルの巨大ポートレートから、過去の報道写真から制作された最新作まで約125点が展示されている。今秋に日本で開催されている写真関連美術展の中で最も注目されている展覧会となる。
 
展覧会のレビューを書くにあたり、ルフ作品の実像を知るために、展覧会のカタログ、IMAマガジン17号の特集記事など関連の資料に目を通した。
カタログには、「世界の探求と写真家の変容」(増田 玲)、「トーマス・ルフ「写真」の臨界へ」(中田耕市)。IMAには、ルフのインタビュー、「「画像化する写真」をめぐるアート」(若林 啓)、「写真そのものへの問い」(鈴木 崇)、「世界が無意味である真実」(山形浩生)のエッセーが収められていた。インタビュー記事の最後に「時代とともに移り変わる写真とメディアに向き合い、世界に対する新たなヴィジョンを打ち出してきたルフの全体像が、いまここに立ち現れる」とまとめている。これが多くの識者の大まかなエッセーの要約に近いのではないか。私はルフの一環したテーマは、世の中の様々な仕組みをヴィジュアル化して提示することなのだと理解した。

彼はデュッセルドルフ芸術アカデミーでベッヒャー夫妻に写真を学んでいる。アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトゥルートらとともに、「タイポロジー(類型学)」の方法論を取り組んで写真で作品制作する"ベッヒャー派"の代表的アーティストとして理解されている。

私はそれとともに、おなじドイツのオットー・シュタイナートが50年代に提唱したサブジェクティブ・フォトグラフィーとの関係性を感じる。サブジェクティブ・フォトグラフィーは、カメラの持つ特徴や撮影テクニックを駆使して、現実世界に存在する多様なフォルムやシーンを発見して自由に表現することを目指した。これは、写真家は主観的に自らの考えや人生観を表現に生かすという意味でもある。
写真表現の幅は非常に広く、造形美を追求した抽象的作品から、リアリズム的作品までを含む。これは、1920~30年代に登場した、ラズロ・モホリ=ナジ、マン・レイ、アルベルト・レンガー=パッチェらによる、新しい写真のリアリズムとフォトグラムやフォトモンタージュのような造形美を追求した、いわゆる「新興写真」を発展継承した運動だった。
シュタイナートは、「サブジェクティブ・フォトグラフィは、非対称的(ノン・オブジェクティブ)な、画面の抽象的な構成を中心とする実験写真なフォトグラムから、深みのある、美学的に満足できるルポルタージュまで、個人的な写真創造のあらゆる局面を含んだ枠組みを意味する」と語っている。
 
ルフの一連の作品を見るに自分の周りの世界を綿密に観察・探究し、情報収集しているのがわかる。以前も指摘したが、観察を行う前提として、目の前に広がる世界は見る人によって違って存在しており、客観的な見え方などないという理解がある。綿密な観察を行った結果、世界で見たり、感じるものに一連の法則を見つけ出し、一貫してそこから創作テーマへと展開していく。ルフの内面にはその法則に従った宇宙観が形作られて、それに従って世の中を解釈してきたのではないだろうか。その視点で、ストリートシーン、シティースケープ、ランドスケープ、自然植物、静物、ヌード、星空などをモチーフに作品制作してきたということだ。
巨大な作品スケールも、観客が彼の宇宙観と一体化するための仕掛けなのだ。小さいと作品を客観視してしまい一体感は生まれない。
画家が筆と絵具を通して絵画でその法則を描くように、彼は写真撮影、既存イメージと画像ソフトを駆使して写真作品を作り上げる。その写真を使用した方法論の探求自体に意味があるのではない。ここの理解ができないと、"頭でっかちな"アーティストというような評価が下されるだろう。私たちが写真などのビジュアルを見ていだく認識には、なんら客観的な根拠があるわけではないことを作品で問題提起しているのだ。
 
彼の持つ宇宙観とは、無限の宇宙の中では一人の人間の悩みなど意味をなさない、というような当たり前のことなのだと思う。彼の作品には、天文写真を用いた"Stern(星)"、土星とその衛星を素材にした"Cassini(カッシーニ)"などがある。彼は子供の頃から宇宙に関心があったという。これら宇宙と関わる作品群があるのは偶然ではないと考える。「宇宙からの帰還」(立花 隆 著)に書かれていたと記憶があるが、宇宙飛行士は、宇宙空間で漆黒の闇と明るい地球を見ると、何らかの人間を超えたパターンの存在を直感するという。ルフ少年は宇宙の観測とサンプリングを続けながら、自分なりの世界を理解する法則を探し求めたのではないか。
忙しい現代人は宇宙の中の自分の存在などをすっかり忘却して、日々の些細なことがらに心悩ませながら暮らしている。ルフは写真やヴィジュアル素材を通して、私たちにそんな当たり前の事実に気付かせようとしているのだ。
 
彼の優れている点は、そんな自分の作品さえも根源的には意味を持たないと分かったうえで確信犯で創作を行っていることだ。上記の山形浩生氏による「世界が無意味である真実」の分析に近いだろう。釈迦は、人間の行為そのものも結果も存在する。しかしそれを行った人間は存在しない、と語ったという。私たちの多くは、いくら社会に意味がないと思っても山里の草庵で一人の人生を送ることはできない。社会の中で一定の役割を担って生きていくしか選択肢はないのだ。しかし、自分なりの宇宙観を持ったうえで生きるのと、ただ社会に流されて生きるのでは、私たちに見える世界の光景はかなり違ったものになるだろう。
アートの使命は、私たちに新しい視点を提供して、自らの思い込みに気付かせることだ。ルフは、様々な写真の方法論を駆使して、アートの王道を行くテーマを私たちに問い続ける。強いて欠点をあげるとすれば、テーマのスケールがあまりにも大きすぎて伝わりにくい点だろう。多くの人は、将来にわたって"自己の感覚"に囚われ続けながら生きていくのだ。
そのような人はルフのメッセージに気付くことすらなく、写真の表層をただ通り過ぎていくだろう。
例えば、同様のメッセージを持つ杉本博司の"海景"などは、一般の人でも海と空と空気による抽象的なヴィジュアルから彼の世界観へ入って生きやすい。アンドレアス・グルスキーも、一般人がリアリティーを感じやすい高度消費社会の最前線のヴィジュアルを提示している。大きなテーマには、わかり易いヴィジュアルがセットされる場合が多いのだ。たぶんその方が作品を売りやすいという事情もあると思う。
しかし、ルフはインタビューで"人がまだ見たことのなりような新しイメージを生みだしたいのです"と語っている。もしかしたら、彼は確信犯で一般の人が既視感を持たないヴィジュアルを制作しているのかもしれない。
 
最後に彼の作品相場にも触れておこう。
2016年春にニューヨークのDavid Zwirnerで開催された"Thomas Ruff, press++"展では、2メートル近くある巨大作品が8.5万ユーロ(@118/約1003万円)で販売されていた。ルフはオークションでも頻繁に取引される人気アーティストだ。相場はシリーズごとにかなり異なるが、Stern (Stars) の人気が高いようだ。2015年5月のササビーズ・ニューヨークでは、"STERN 16H 30M/-50°,1989"が18.75万ドル(@110/約2062万円)で、2012年11月のフリップス・ニューヨークでは、"21h 32m/-60˚,1992"が19.45万ドル(@110/約2139万円)で落札されている。
 
トーマス・ルフ展は、写真やアートに興味を持つ人には必見の展覧会だ。いろいろ考える前に、まずは作品のスケールや存在を会場内で体感してほしい。現代アート系の作品は、写真集やウェブ上の画像だけを見ても決して理解できない。自分自身で体験し、感じて、そして考えなければならないのだ。
 
トーマス・ルフ展
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー 
2016年8月30日(火)~2016年11月13日(日) 
開館時間:10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで 
休館日:月曜日(9月19日、10月10日は開館)、9月20日(火)、10月11日(火) 
 
観覧料: 当日(前売/団体)
一般  1,600(1,400/1,300)円
大学生 1,200(1,000/900)円
高校生  800(600/500)円
 
 

カルロス アイエスタ +
ギョーム ブレッション 写真展
「Retrace our Steps/
ある日人々が消えた街」

日本人は過去を忘れやすい国民性を持つと、メディアなどでいわれることが多い。原発事故後の福島の報道は、5年が経過したいまは以前よりもはるかに少なくなってきている。
今回、銀座のシャネル・ネクサス・ホールで開催されている、ベネズエラ出身の写真家カルロス アイエスタ(Carlos Ayesta)とフランス人写真家のギョーム ブレッション(Guillaume Bression)による写真展「Retrace our Steps ある日人々が消えた街」は、原発事故後の福島を多方面からドキュメントしたものだ。この写真家デュオは、津波と原発事故が環境や人間生活にどのように影響を及ぼしたかを多様に表現するために、福島第1原発周辺の無人地帯に何度も訪れたという。
展示は「光影」、「悪夢」、「不穏な自然」、「パックショット」、「回顧」の5つのパートで構成されている。各内容を簡単に説明しておこう。
「光影」」(2011-2013)、避難地域の人気のない夜の街並みをフラッシュを利用して撮影。展示空間では暗闇を再現している。
「悪夢」(2013-2014)、放射能のような不可視のものを明らかにするために演出写真の手法を取り入れている。汚染地の境界線のあいまいさを表現するためにプラスチック製の巨大泡やセロハンを利用。
「不穏な自然」(2014-2015)、放置された地域が廃墟と化し、人工物の多くが木や草に覆い尽くされている状況を撮影。
「パックショット」、立ち入り禁止区域内のスーパーで見つけた、賞味期限が切れて遺物と化した食品などを現地のアスファルト上で撮影。
「回顧」(2014)、被災された人たちとのコラボ作品。帰宅困難地区の様々な場所に立ち入ってもらい、和食屋、ミュージックストアー、スーパー、美容院、パチンコ屋、オフィス、店舗などで、被災前に戻ったかののように振るまってもらい撮影。
本作の本質は現代社会における現象を伝えるドキュメンタリー写真だろう。アート的な様々な方法論が用いられているが、それらに特に目新しいものはない。
ギョーム・ブレッションは、インタビューで「どんなことが起きているのかを伝えることが僕たちの役目だと考えています。それを見た人たちが自分たちは何をしたのか、何をすべきかを考え始める。それが僕たちの狙いなのです」と語っている。またプレス資料やフライヤーの巻頭にも「僕たちの目的は、福島第一原発事故によって周辺地域に起きた影響を、つぶさに記録することだった。」というメッセージが引用されている。

アートの解釈法にもよるが、少なくとも制作者二人は現代アート的な意識で制作しているわけではないと思う。メイキングの映像を見るに作品はデジタルカメラで撮影され、展示作はインクジェットで出力されていると思われる。アート系の人はプリントの完成度を高めるために、デジタル技術に過度に頼ることなくもっと現場のライティングに技巧を凝らす。あえて大型フォーマットのアナログカメラを使用するかもしれないだろう。
だいたい現代アート系アーティストは積極的に大震災や原発事故を取り上げない。作品テーマの社会的インパクトが強すぎるので、その前にはどんな作家性も色あせてしまからだ。しかし、今回の展示会場がシャネル・ネクサス・ホールであることから、アート的な作品提示は絶対に必要であった事情はよく理解できる。

会場内の展示作品には一貫したトーンが感じられた。(真っ暗な空間で展示されていた「光影」シリーズ以外の作品)ただしこのあたりは技術的なイッシューだと解釈する人もいるかもしれない。私には現実というよりも、何か夢心地のようにシーンを見ている気分があった。それを伝えるのにどのような言葉が的確か考えてみた。もしかしたら死者が現社会に舞い戻ってかつて自分が存在した場所をみたら、このような感じになるのではないかと思いついた。私たちは死んだ後に霊になるのか、また霊界から一時的にかつていた場所に戻れるかなどは生きている限り知る由もない。しかし、生きている人間の想像できるのは、たぶん現実のリアリティーをあまり感じられない風に見えるだろうということだ。死んでいるがゆえに同じ場所でも存在する次元が違うはずだからだ。

作者たちがこのようなことを意識してプリント制作したかは不明だ。しかし、テーマが非常に重いものであるがゆえに、今回展示されていたやや現実とずれたトーンは単純なドキュメント写真ではないことを暗示している。作品テーマとの関連を語れると直感した。そう解釈すると、プラスチック製の巨大泡やセロハンを利用した演出写真の「悪夢」シリーズは、単独のシリーズにしたほうがよかったのではないか。これが本展に含められたのは、やや写真家たちの独りよがりのように感じさせられた。
アート的な作品提示は、それっぽい方法論のアプローチがなくても機能するのだと思う。しかし、非常に繊細なテーマを取り扱った写真作品であり、諸事情から確信犯で行ったとも解釈できる。
本展では、色々な展示方法や撮影アプローチに目を奪われることなく、彼らが慎重に計算した上で提示している原発事故が巻き起こした悲劇の本質をしっかりと受け止めたい。
 

AXISフォトマルシェ3
同床異夢の参加者による写真イベント

欧米の写真界では、ファイン・アート系のフォト・フェア、写真家が集うフォト・フェスティバル、インテリア・デザイン系の商品見本市が全く別に行われている。今回のフォトマルシェはそれらの個別分野のイベントが一体化して開催されたと理解すればよいだろう。まさに日本の写真の現状を見事に表しており、共通項は写真というメディアを使用しているという点だけだ。
参加者には、ファイン・アート系、現代アート系、インテリア・デザイン系、写真家のプロデュース系、個別の写真家系、日本独自のレンタル・ギャラリー系などが見られた。それぞれの目指す目的や夢、価値観が全く違う。同グループ内では交流するものの、違うとまったく互いに関心を持たず交流もない。
それら参加者のカテゴリー別のシェアー比率もまさに日本の写真の現状が反映されていた。中心となるのはインテリア・デザイン系、個別写真家系、レンタル・ギャラリー系となる。ファイン・アートや現代アート系は少数で、ほとんど存在感がない。
今回は4日の会期中に約1300名が来場したという。各カテゴリーの観客動員をみてみよう。それは膨大に存在しているアマチュア写真家との関連性で決まってくる。アマチュア写真家を多数取り込んでコミュニティーを作っている個別写真家系、写真展示の場を提供するレンタル・ギャラリー系、幅広い商品の品揃えを目指してアマチュア写真家を含む若手写真家をリクルートしているインテリア・デザイン系の観客が多くなっている。
アート系はそのギャラリーの特色を生かした少数のコレクターを意識した展示を心がけている。アマチュアは相手にしないので、動員力は他のカテゴリーより著しく劣る。

2000年代になってアジアでも、パリ・フォトやフォトグラフィー・ショー(NY)のような海外のフォト・フェアを意識したイベントが開催されてきた。しかし、コレクターがいないのに表層だけ海外のフェアの真似をしても長続きしない。市場規模が小さいアジアでは海外のギャラリー参加が必要不可欠となる。しかし彼らは純粋に利益目的で参加する。最低でも経費が出るほどの売り上げがないと、二度とフェアに戻ってこない。海外参加者は回を重ねるごとに、激減していったのだ。

写真が売れない現状を踏まえて、フェア主催者も新たな可能性探究を行ってきた。東京・フォトもソウル・フォトも、販売目的のフォト・フェアと写真家が集うフォト・フェスティバルを融合したイベントを試みた。しかし、方向性が違う写真を無理やり融合させたイベントは中途半端なものになってしまった。うまく機能しなかった原因は、アート系の市場規模を大きく見積もり過ぎていたからだと解釈している。アジアでの現実的なイベントは、もっとアート系の比率を落として、写真家やアマチュアの取り込みを中心としたスタイルだろう。そして欧米的基準の価格帯の写真が売れないことを前提に、参加費を安くすることが現実的な主催者の運営方法と考える。
今回のフォトマルシェは、このような日本写真の現状が見事に反映された、様々な写真がサラダボール的に展示された現実的なイベントだったといえるだろう。3回目のイベントにして、かなり”写真の蚤の市”に近いものになっていた。
様々な意見があるだろうが、もし参加者が現状を正しく認識していれば(これが難しそうだが)、私はこのような日本およびアジア独自のイベントがあってよいと考える。来年以降の更なる展開に期待したい。

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2016
古都京都で体験する写真の見立て

“KYOTOGRAPHIE”は、京都市内の15会場で写真作品を展示する今年で第4回目となる町興しのフォト・フェスティバルだ。昨今は、国内の主要観光地は海外からの人で溢れていると伝えられている。しかし日本人による国内旅行はあまり盛り上がってないとも聞く。関東出身の人なら、多くの人が修学旅行で京都を訪れた経験はあるだろう。しかし、よほどお寺回りや歴史好きの人でないと、わざわざ京都へ再度観光に訪れるきっかけはない。また関西地方在住でも京都に行く機会はあまりないという話も聞いたことがある。私も一時期、京都に近い高槻市に住んでいたことがあるが、京都はほとんど訪れなかった。
“KYOTOGRAPHIE”はカメラや写真趣味の人に「今一度、新緑の京都を訪れよう」という誘いかけなのだ。観客が展示会場を順に回ることで古都京都の魅力を再発見してもらおうという趣旨。京都にはカメラ好きには嬉しい撮影に最適の観光名所も数多い。
また本イベントでは、ギャラリーや美術館以外にもステレオタイプにとらわれない意外な場所での写真展示の試みも行われている。寺院内や古い京町屋での写真展示は、建築、インテリア、デザインが好きな人でも興味を持つことができるはずだ。

このようなフォト・フェスでは、集客力が期待できる核となる展覧会が必要不可欠となる。今回は京都市美術館別館で開催される「コンデナスト社のファッション写真でみる100年」がそれに当たる。これはフランスのラグジュアリー・ブランドであるシャネルの協賛により実現している。シャネルは毎年銀座のネクサスホールで年初に開催される美術館級の写真展を京都に巡回させることで”KYOTOGRAPHIE”を全面的にサポートしている。このイベントは、日本の古都京都とフランスの老舗シャネルという両強力ブランドによるコラボレーションでもある。その上、なんとこのフォト・フェスの中心となる展覧会は無料なのだ。文化支援とブランド構築に対する日本企業との考え方の違いを実感する。

 2013年の第1回以来の訪問になったが、今回も写真の”見立て”を意識した興味深い展示が多かった。作家のアイデアやコンセプトを提示するようなアート表現ではなく、京都という歴史伝統のある場所で、日本の伝統的な見立てを意識した写真の見せ方が提案されているのだ。展示場所が古い家屋や寺院などなどで、壁面にフック利用して行うような一般的な写真展示が不可能なことも理由だと思われる。写真家以外の、キュレーターによる写真をセレクションして、写真の展示方法つまり設えを考え、空間の取り合わせを意識した自己表現が楽しめるのだ。

古い家屋と見事にマッチングしていたのがサラ・ムーンの写真だった。ギャラリー素形/招喜庵(重森三玲旧宅主屋部)、何必館・京都現代美術館での展示は見事に空間に調和していた。ギャラリー素形では、壁面や障子の前に、屏風の骨組みだけ残したような細いつや消し黒色ポールが長方形に組まれており、それに額装されたプラチナプリント作品を吊っている。画像のように、ポール部分が全く目立たないで、写真がうす暗いスペースに浮いている感じだった。

何必館は壁面展時なのだが、額装写真が魯山人の陶芸作品と違和感なく存在していた。これらは、サラ・ムーンの写真作品が絵画的で柔らかな佇まいで、あまり強く自己主張していないから成立するのではないか。このような写真は見立てやすいのだ。日本で彼女の人気が高い理由はそのあたりにもあるだろう。
写真はいまやテーマやコンセプト重視の現代アートの一部として存在している。
展示のなかには、強く作家性が表現された作品も見られた。
ロームシアター京都で展示されていた銭海峰(チェン・ハイフェン/中国)の”The Great Train”は、展示スペースが合板のベニヤ板で新たに造作されていた。壁面はなにも加工されておらず、裏打ちされた作品が直接展示されている。壁面一部には窓のような穴が開けられており外界とつながっている。(上記画像の右側)中国で最も安く乗れる客車の緑皮車で8年間にわたり撮影されてきた写真には、一般大衆への人間性あふれる眼差しと中国の生の活力が感じられる。それらが無造作に作られた安っぽい板による展示スペースと見事に調和しているのだ。
 それと対極だったのが、両足院(建仁寺内)での、アルノ・ラファエル・ミンキネン(フィンランド)の展示だ。自然風景とともに撮影されるセルフ・ヌード作品が中心なのだが、ヴィジュアルと歴史と伝統のある禅寺空間との空気感がやや対立している印象だった。見方を変えると東洋文化と西洋文化との違いを象徴的に示した展示内容といえるだろう。もしかしたら他のとの対比を強調する意味での、主催者の確信犯での演出かもしれない。
誉田屋源兵衛 黒蔵での、クリス・ジョーダン(アメリカ)+ヨーガン・レール(ドイツ)の展示は環境問題をテーマのした作品展示だった。この蔵は普段は非公開とのことだ。
特に印象に残ったのがデザイナーのヨーガン・レールによる作品。彼は晩年を石垣島で過ごし、日課で清掃していた浜辺で拾ったゴミで照明器具を制作していた。本来は醜いゴミなのだが、それらはポストモダン的な光のオブジェとして蔵内部の天井高の曲面の空間で新たな意味を与えられていた。光輝くオブジェの照明はとてもカラフル、ポップで美しいのだ。これとともに、ミッドウェー島で行われた、ゴミによる海鳥への影響を告発したクリス・ジョーダンの写真作品がテーマつながりで展示されている。
今回の外国人作家の展示では、テーマ性が分かり難い、複雑な技法による抽象的なヴィジュアルが多かった。イメージを作る方法論が目的化しているように感じられるものも見られた。その点、誉田屋源兵衛 黒蔵での展示は作家のメッセージがストレートでわかり易かった。
写真家が参加するイベントとしては、”KG+”という約40の写真展示が市内で同期間に開催されている。趣旨は、「京都から新たな才能を国際的に発信することを目指し、世界を舞台に活躍する意欲ある参加者を公募し、約30の展覧会を選出します。国際的に活躍する写真家やアーティスト、国内外キュレーター、ギャラリストとの出会いの場と国際的な情報発信の機会を提供します」とのこと。やや無味乾燥気味な正式コメントのように感じるが、これだけ多くのイベントでの統一感演出は不可能だろう。
優れたアート表現を愛でるのが好きな人以外にも、写真を通して社会で認められたい考えている膨大なアマチュア写真家がいる。”KG+”そのような人にはとても興味深いイベントだろう。積極的に動く人には何らかの出会いがあるかもしれない。
今回は、ロームシアター京都やホテルなどの数カ所の展示しか見ることができなかった。私の訪れた先が公共スペースの一部での展示が多かったのだが、そこでは不思議と違和感なく空間の中に写真が溶け込んでいた。一種の写真によるパブリック・アートだった。公共空間での取り合わせが行われている意味では、”KYOTOGRAPHIE”が意識的に行っている展示と通底していると感じた。
“KYOTOGRAPHIE”は、アート写真の作家性の紹介とともに、作品展示自体に”見立て”の要素が感じられるところが大きな魅力だと考えている。東京で同様な試みが行われると「デザイン」として語られてしまうところが、京都の歴史的空間だと違うのだ。少なくとも私はそのように感じた。結果的に、写真を違和感なく日本家屋に展示するのは可能である事実が提示されている。しかし、それには適切な作品セレクション、額などの設え、展示方法、空間との取り合わせなどの極めて高度な見立てが必要であることも教えてくれる。さらに考えを推し進めると究極的な疑問がわいてくる。それでは写真がない元の空間と比べてどちらが居心地がよいのだろうか?これについての評価は観る側に委ねられるだろう。
また、作家性が全面に出た作品の展示は伝統的な日本家屋には難しいようだ。一方で、東京にもある多くのモダンなギャラリー空間での作品展示を見て感じたのは、テーマ性が明確に作家から語られないと、作る側の自己満足のヴィジュアル・デザイン重視のインテリア系写真作品になってしまうという厳しい現実だ。様々な会場を短期間に一気に見て回ることで、目が肥えた観客はそれらの違いを明確に感じてしまうだろう。
“KYOTOGRAPHIE”は、古都京都の様々な場所で、写真を見て、感じて、考えるきっかけを与えてくれる楽しいフォト・フェスだ。会期は5月22日まで。東京からは日帰りでも主要会場だけなら鑑賞可能、一泊すればだいたいの場所は見て回れる。ただし、月曜休みの会場も多いので注意してほしい。
(番外編)

この時期の京都では”KYOTOGRAPHIE”以外にも興味深い写真作品の展示が行われている。

○「杉本博司 趣味と芸術-味占郷(みせんきょう)」
  細見美術館
京都市美術館別館の近くの細見美術館では「杉本博司 趣味と芸術-味占郷(みせんきょう)」が6月19日まで開催されている。平安時代から江戸時代の作品を中心に、西洋伝来の作品、昭和の珍品を含む杉本コレクションで25の床飾りのしつらえを作りあげている。昨年に千葉市美術館で開催された展覧会の巡回展となる。
本展は、古美術~現代アートを好む人向けの展示だ。しかし写真好きには、杉本の代表作の「海景」シリーズから、”Yellow
Sea,Cheju,1992″も展示されている。
世界のアート・シーンの最先端を行くアーティストによる究極の”見立て”だ。
○「ロベール・ドアノー写真展」
  ライカギャラリー京都
建仁寺に行く途中にあるライカギャラリー京都では、5月15日まで「ロベール・ドアノー写真展」を開催している。
・住所:京都市東山区祇園町南側570-120
・営業時間:11時~19時
・定休日:月曜日 入場無料

「コンデナスト社のファッション写真で見る100年」 シャネル・ネクサス・ホール ファッション写真の現在・過去・未来を考える

ファッション写真ファンは絶対の見逃せない日本巡回展が先週から銀座のシャネル・ネクサス・ホールで始まった。
「コンデナスト社のファッション写真で見る100年」では、1911~2011年までの各国版のヴォーグ誌をはじめとしたコンデナスト社のファッション誌に掲載された作品のオリジナルプリント約120点と実際のヴィンテージ・ファッション雑誌が展示されている。
同展は、2012年からC/O ベルリンで始まり、世界中を巡回してきた展覧会の東京展。企画は、FEP(Foundation for the Exhibition of Photography)、キュレーターは、スイス・エリゼ写真美術館元キュレーターのナタリー ヘルシュドルファー(Nathalie Herschdorfer)が担当。彼女がコンデナスト社のニューヨーク、パリ、ミラノ、ロンドンのアーカイブスから作品をセレクションしている。
展示されている写真家は、バロンド・メイヤー、ホルスト、エドワード・スタイケン、マン・レイ、ジョージ・ホイニンゲン・ヒューネ、アーウィン・ブルメンフェルド、ジョン・ローリングス、ウィリアム・クライン、ノーマン・パーキンソン、ヘルムート・ニュートン、ギイ・ブルダン、デビッド・ベイリー、デボラ・ターバヴィル、ピーター・リンドバーク、ブルース・ウェバー、コリーヌ・デイ、マリオ・テスティーノ、ティム・ウォーカー、マイルズ・オルドリッジ、ソルヴァ・スンツボなど。
キュレーターは写真史の専門家であることから、ファッション写真をアート写真の視点から評価。時代ごとのアイコン的な作品を中心としたセレクションではない。ファッション写真特有の時代性よりも、20世紀写真の評価軸を重視している。フォルムやデザイン性などの作品同士の連続性や関連性にも焦点を当てた展示だとも感じた。それゆえ写真家の知名度が低いが、写真的には魅力的な作品も多数展示されていた。ファッション写真の歴史を見せる展示ではなく、キュレーター視点で解釈された各時代の優れたファッション写真のセレクションとなっている。
すべての展示作が実際に雑誌で掲載されたファッション写真だ。初期のジョージ・ホイニンゲン・ヒューネやエドワード・スタイケンなどの写真は正真正銘のヴィンテージ・プリントだと思われる。ファッション写真にアート性が認められたのは80年代以降になってから。それ以前の写真でオリジナルプリントが厳密に管理されて残っているのは出版社のアーカイブのみだろう。資産価値を生むアート作品という認識がなかったので、写真家もネガは残していても、プリントは保存してない場合が多かったのだ。これだけの美術館クオリティーの貴重作品を一堂に鑑賞できるのは本当に貴重な体験だろう。
80年代のブルース・ウェバー、ハーブ・リッツ、70年代のアーサー・エルゴート、アルバート・ワトソン、パトリック・デマルシェリエ、60年代のヘルムート・ニュートンなど、有名写真家のキャリア初期の作品セレクションが多いのも本展の特徴だろう。
またダイアン・アーバスのタイプCプリント”Glamour, May 1948″も展示してあるので見逃さないでほしい。彼女はドキュメント系で知られる写真家だが、ファッションの仕事も行っていたのだ。
さて、本展では100年を以下の4つのパートでファッション写真の変遷を見せている。
パート1 1911~1939年、
パート2 1940~1959年、
パート3 1960~1979年、
パート4 1980~2011年になる。
各時代別のアートとしてのファッション写真の鑑賞方を簡単に解説しておこう。
ファッション写真の社会での役割は時代とともに変化してきた。戦前のファッション写真は階級制の中で上流階級の趣味を中産階級に紹介する機能があった。戦後は女性が社会に進出してファッションもそれに合わせて民主化される。欧米社会、特にアメリカでは、50~70年代にかけて大量生産と大量消費の経済システムが浸透して所得格差が少なくなり、中間層が生まれる。市民の努力が報われる可能性を持つ時代となり、多くの人が共有する価値観や夢が存在するようになる。ファッション写真は、そのような時代の気分や雰囲気を作品に取り込むとともに、さらに社会の理想や未来像までも反映させることが求められるようになる。ここまでが展示のパート3までだ。ところがその構図が80~90年代以降に徐々に変化してくる。情報革命が始まり、欧米諸国で経済グローバル化が広まっていく。日本では、それらの本格的な影響は2000年以降なのだが、90年代以降はバブル崩壊と金融危機で長期不況に突入する。結果的に今につながる中間層の没落と貧富の拡大がはじまる。社会で多くの人が共有する大きな物語がなくなり、価値観は多様化していった。そうなると、ファッション写真の肝である時代の気分や雰囲気は社会の各層でバラバラに存在することとなる。さらに2000年以降には携帯電話、インターネット普及などの高度情報化が進み、さらにソシアル・ネットワーキング・サービスが普及することで、ファッション自体がコミュニケーション・ツールとしての地位から没落していく。複数の要因により、かつての情報伝達手段としてのファッション写真が機能しなくなるのだ。
2012年刊の同展カタログ最終章”A New Generation”で、キュレーターのナタリー ヘルシュドルファーは、ファッションは作り物のイメージだが、リアリティーとつながっていることが必要で、読者に夢を提供しなければならなかった。しかし、いまや現実とかい離した、まるでSF映画の世界のような新しいアイデンティティーが創作されている、と指摘している。回りくどい言い方なのだが、彼女は、21世紀を迎えた最近のファッション写真はリアリティーとのつながりも、夢の提供もできなくなってきたと分析しているのだろう。これは写真家の能力の問題ではない。世界的な社会の構造変化とファッション自体の役割の変化により人々が持つリアリティーや夢が分散したことにより起きたのだ。
アートとしてのファッション写真の意味も変質するだろう。多数ではなく、個別もしくは少数の人たちの生き方や考え方が反映されたものになる。それは社会と関わるかなり絞り込まれたテーマ性が重視される現代アート作品とほとんど同じものになるだろう。ファッション写真家に求めるのは酷かもしれないが、撮影者が何を考えを持って生きているかが重要になってくる。
たぶん相変わらず、服の情報を提供するファッション写真は残るだろう。アート写真市場には、時代性を写したアートとしてのファッション写真として、多くの人が価値観を共有していた90年代前半くらいまでの作品群は残る。懐かしいという感じでその時代を生きた人とつながり、作品はコレクションされるだろう。
それ以降、特に21世紀以降になると、従来の基準のアートとしてのファッション写真はなくなり、ファッション的な要素がある、テーマ性を持つ現代アート的な写真になる。それらは、かつてのようにファッション雑誌の中ではなく、より自由な表現空間の、フォトブックや美術館やギャラリー展示から生まれるのだ。
それらが同展の最後のパートで展示されるべきなのだが、今回のような雑誌アーカイブからのセレクションでは限界があったと考えられる。上記の彼女の文章には、このあたりのキュレーターとしての苦しい心の内がにじみ溢れている。もし自由な展示ができるのならば、ファッション写真の未来像を提示したかったのだろう。しかしそれらはもはやファッション雑誌の中には存在しないかもしれないのだ。
鑑賞者は最終コーナーの作品展示を通して、ぜひ戦後のファッション写真の一時代の終わりを意識するとともに、それがどこに向かうのかにも思いを馳せてほしい。
本展はファッション写真の歴史を独自視点で見せているとともに、その最前線で起きている変化を見事に提示している。ファッション、アート、写真、経済、社会との複雑な関連性の解釈を試みた優れた展覧会だと評価したい。
◎開催情報
「Coming into Fashion A Century of Photography at Conde Nast
(コンデナスト社のファッション写真でみる100年)」
期間/2016年3月18日(金)~4月10日(日)  12:00~20:00
場所/シャネル・ネクサスホール
東京都中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4F
入場無料・無休
※2016年4月23日(土)~5月22日(日)、
京都市美術館別館で開催される「KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭2016」で展示予定。