2023-1-22

  

ホルスト

HORST P. Horst (1906-1999)

ホルストは1906年東ドイツの中流家庭に生まれます。青年期のバウハウスの若いメンバーとの交流が影響して、輸出入の仕事に短期間ついたもののハンブルグの有名なグロピウス芸術学校で建築を学ぶ道を選びます。
ル・コルビュジエに出した手紙がきっかけで、思いがけずパリのル・コルビジュ・スタジオで見習い学生として働く機会が訪れ、1930年にパリへ移り住みます。ル・コルビジュのスタジオでの経験は若い彼の理想の考えとは違い、短期間で辞めてしまいます。
その頃、ヴォーグ誌の写真家ジョージ・ホイニゲン・ヒューネ(1900~1968)と出会い、男性モデルの仕事をするようになります。彼の紹介でヴォーグ誌のアート・ディレクターの下で働くかたわら写真を撮るようになります。 1931年にはヴォーグ誌のカメラマンに採用され、いきなり11月号に写真が掲載されました。それ以前ファッションの知識も写真の経験も全くなかったというから夢のような成功ストーリーです。

1932年に行なった最初の写真展が ヴォーグ誌のオーナーであるコンデ・ナスト氏の目に留まりニューヨークに呼ばれます。しかし最初の訪問は彼の写真が未完成で英語力も不足していたので満足のいくものではありませんでした。 パリに帰り再びヴォーグ誌で仕事を始めたホルストはスティル・ライフやファッション写真の仕事をこなし実力をつけ、次々と重要な仕事を任されることになります。

建築とデザインにバックグラウンドがあるホルストは状況が完璧にコントロールできる室内のスタジオ撮影を好みました。彼は撮影前に自分の写真の完成イメージを綿密に計算していました。特にセットにこだわり、自分自身がデザインすることもあったそうです。そしてイメージ通りの 写真を作り上げりことができたのです。
しかし彼の撮る女性イメージはいくら作り込まれていても個性的でセクシーな女性らしさを持っていました。時代も彼を味方します。ちょうどファッション誌の中で求められる女性のイメージが完璧な人形から個人のパーソナリティーを求められるものに変化してきたのです。

ヒューネが1935年にハーパース・バザーに移籍するとホルストがヴォーグ誌のチーフ・フォトグラファーに昇進します。ニューヨークでのホルストの評価も高まりこの時期から第2次大戦の勃発まで、彼はパリとニューヨークを往復して仕事を行ないます。この時期がホルストの最もクリエイティブな時期と評価されています。 1939年にホルストとヒューネは戦火を避けパリから米国へ移住します。彼の代表作のマンボシェ・デザインのコルセットのイメージはパリ時代の最後の年にヴォーグ誌用にに撮影されたものです。
アメリカに渡ったホルストは一時兵役につき、1944年に市民権を取得しています。1945年には 当時のトルーマン大統領のポートレートの撮影を行なっています。除隊後は再びコンデナスト社に戻り、パリコレクションの撮影や広告の仕事を行ないます。この時期にはイスラエルやイランなどの外国を精力的に訪れて現地の風景や遺跡を撮影しています。
1960年代になると35ミリカメラによる動きのあるイメージが求められ彼の活躍もピークを迎えます。 この時期にヴォーグ誌のダイアナ・ブリーランドの提案で、欧米の有名人の家と庭の撮影を通して 彼らのライフスタイルを紹介する仕事を始めています。ブリーランドが編集長を辞めた後は主に"House & Garden"誌で活躍します。
1970年代後半に流行が再び戦前のエレガンスさを求めるようになり、1978年にホルストは再びパリ・ヴォーグに呼ばれて戦前と同じスタイルでファッションを撮ります。 1980年代に入りファッション写真がアートとして再評価されます。ホルストの写真もこの流れにのって オリジナルプリントとしてギャラリーやオークションで取り扱われるようになります。ヒューネのオリジナルプリントもホルストが管理して彼がサインをいれて販売されていました。

多くの有名人がホルストのプリントを集めていることも有名です。カール・ラガーフェルド、カルバン・クライン、 ジェフリー・ビーン、エルトン・ジョン、キャサリン・ターナーが彼のコレクターとして知られています。 現代の一流写真家であるブルース・ウェバー、ハーブ・リッツ、デュアン・マイケルズもホルストの コレクターです。
彼のイメージは今後も時代を越えて多くの人に愛されていくでしょう。