商業写真家7人による”infinity”展が開催 アートとしてのファッション写真は誕生するか?

 

長年、アートとしてのファッション写真を専門にギャラリーを運営している。
最初は海外の有名ファッション写真家の作品を日本に紹介し、過去10年くらいはこの分野の日本人写真家の発掘をテーマに活動してきた。残念ながらいままでに目立った成果を上げることはできていない。
数多くの情報を収集し、現状分析を行い、日本でファッション系写真家が育たない理由を研究してきた。最近になり、その理由の一つは日本にはアートとしてのファッション写真の歴史が存在しないからだと分かってきた。彼らがオリジナルであるかどうかを判断する基準がこの国には存在しないのだ。自分のポジションを海外の写真史に真剣に求める人も少なく、多くは、ただ欧米の表層的なスタイルを取り入れただけだった。
日本のファイン・アート写真と商業写真との関係は欧米とは違う。単純にファッション写真だけを欧米の流れで評価するのにも無理があったのだと思う。 また90年代は、感覚重視の考え方が中心だったことも影響し、”どの写真が好き”というような個人の好みに単純化されてイメージが消費されていた。
感覚重視は、価値の序列を否定すること。アート写真市場はオリジナルであることで値段を差別化する。従って、日本ではアートとしてのファッション写真は成りたたなかったのだ。残念ながら、90年代以降に作品をアートして発表した多くの商業写真家の活動は続かなかった。

しかし、21世紀になり状況は大きく変わってきた。国によりスピードは違うものの、90年代後半ぐらいから、情報化、グローバル化が進み、大きな物語がなくなっていった。それは人々の価値観とともに、夢やあこがれが多様化したことを意味する。同時にファッション写真も多様化して、より広い意味でとらえられるようになってきた。 今や単純に洋服を見せたり、時代の気分をあらわすだけではなく、時代性が反映された写真をすべて含むようになった。
作品の基準をファッション写真の歴史だけでなく、他分野の写真、コンセプト重視の現代アート、パーソナルワークに求めることも可能になってきた。もはや独自の歴史とのつながりだけが重要ではなくなったのだ。
極論すれば、写真家が自分のつながりやポジションを認識できて、そのメッセージが時代との接点があればもはやすべてが広義の”アートとしてのファッション写真”といえるのだ。
またグローバル化により、国を超えた共通の価値観を以前より容易に発見できる時代になってきた。
商業写真家がアート作品に取り組む時、かつてファイアートの定番と思われていたドキュメント系のモノクロ写真にシフトすることが多かった。しかし、もはやその必要はない。ファッション、広告、ポートレートなどの経験を生かし、その延長上での作品制作が可能になってきたのだ。

5月31日から商業分野で活躍する写真家のグループ展”infinity”が広尾のIPCで開催される。参加するは、舞山秀一、北島明、半沢健、中村和孝、ワタナベアニ、魚住誠一、小林幹幸の7名。時代の変化を感じとって、自分独自にその可能性を追求しはじめた人たちだ。主催者の小林氏によると、これから最低5回は開催したいという。この継続する姿勢は高く評価したい。なぜなら、写真家は展示を通して自分のポジショニングの確認とともに、そのメッセージが的確に見る側に伝わっているか、それが自分のエゴの押し付けになっていないかの検証が必要となる。広告と違い、アートの世界では自らが展示を通して最終顧客の反応を見極めなければならないのだ。これは長い試行錯誤の繰り返しとなる。継続できるかどうかで自作への思いの強さも再確認できる。途中に参加者の入れ替わりもあるだろう。しかし、顧客とのコミュニケーションが意識できた写真家はアーティストとしての自らの可能性を確信できるだろう。”infinity”展は、単なる商業写真家のグループ展ではない。私たちが日本における”アートとしてのファッション写真”誕生に立ち会える、現在進行形のプロジェクトなのだ。

アート写真市場の現状 長引きそうな心理的な影響

東日本大震災が起きて2カ月以上が経過した。アート写真の世界もやっと落ち着きを取り戻したようだ。現在は、ほとんどの業者が通常業務を行っている。しかし、来廊者数はまだ大震災前には戻ってない。ギャラリーでは、鑑賞目的の人が大きく減少している。特に有名作家以外は苦戦しているという。アート写真の主要顧客は中間層だ。まだ彼らのセンチメントは本格回復には程遠いのだ。

写真作品は、写真家寄付による販売イベントではよく売れているという。作品相場がある人とない人が、すべて均一価格で販売することには様々な意見があるだろう。今後はより市場性を考慮したオークション形式でのチャリティー販売もあるそうだ。同じチャリティーでも市場価格で販売して一部を寄付する形式だと動きは鈍いという。 要はチャリティーにより新たな需要が創出されるわけではなく、作品次第ということだ。

アート系の写真集の状況も厳しいようだ。洋書専門店での店頭売り上げはかなり苦戦しているという。5月の連休明けには代官山の専門店がクローズ。目利きのコレクターが経営していた地方の専門店も廃業したという。ネットでの売り上げは特に大震災後も大きく変わっていない。昨年から緩やかな売り上げ低下傾向が続いているが、特にショック的な売り上げ急減は発生していない。ただし円高をより享受できるネット購入の傾向が強まっている可能性がある。

ファッションやインテリア感覚で写真集や写真を買っていた人は、いまのところ様子見を決め込んでいるようだ。しかし、まったく売れなくなったわけではない。来廊者の減少ほどには、作品売り上げは落ちていない。写真が好きでコレクションしていた人は適正価格の気に入った作品があれば相変わらず買っている。最近は80円に近い円高なので、海外作家の作品や洋書の動きは悪くない。
全体をまとめると、もともと不況だったのが大震災をきっかけに状況がやや悪化した感じだろうか。

その他、ワークショップ関連は特に大震災の影響は感じられない。アート写真関連講座の参加者やポートフォリオ・レビューの依頼も減っていない。復興時にはアーティストの役割が重要になる。日本ではもともと新しい生き方の提示が求められていた。今後、アーティスト志向の人の動向がより注目されるだろう。
写真家の作品発表意欲も特に大きく落ち込んでいないようだ。運営のお手伝いをしている広尾のIPCのレンタル予約も、節電のある夏場を除いて、 秋以降はかなり入ってきている。写真展開催を考えている人は出遅れないようにしてほしい。

今後のギャラリーの課題は、15%節電がいわれる夏場の営業をどうするかだ。マスコミ等ではエアコン設定温度28度といわれている。これだと多数のスポットライトを使用するギャラリーでは来廊者に快適に作品を見てもらうのは困難だと思う。今年の夏は長期休廊というギャラリーも出てくるだろう。
今はいったん平時に戻った気がするが、夏の節電、長引く原発事故などがあるかぎり心理的な影響は続きそうだ。もしかしたら、このような不透明な状況が定常化するかもしれない。長期夏休みで新しい時代をサバイブする中長期戦略を考えるのも必要かもしれない。

ソウル・フォト2011(Seoul Photo 2011)アジアのアート写真最前線 Part-2

ソウル・フォト2011のレポート第2弾です。

中国や韓国には欧米や日本のように銀塩写真の歴史がない。写真独自に発達してきた市場は存在しないのだ。複雑な政治、社会環境で自由に写真が撮影できる状況ではなかったのだろう。だから、ソウル・フォトの意味合いは欧米のフォト・フェアとは違う。欧米では現代アートや絵画などと、写真は全く別の歴史と伝統がある。その延長上にアート・フェアとフォト・フェアが個別に存在する。韓国では、その境界線はかなりあいまいだ。ソウル・フォトは、ここ10年で表現メディアとして一般化した写真を使用して制作された作品を扱うギャラリーのフェアなのだ。たぶん、彼らには写真専門ギャラリーというは認識はないと思う。

前回に紹介したように、大陸のテイストは繊細な感覚を持つ日本人の好みとはかなり違う。韓国では、少し前までモノクロ写真はドキュメントでアート表現ではないと考えられていたようだ。今回のフェアでもデジタル出力によるモノクロの大判作品の展示はあったが、小振りの銀塩写真を展示する地元ギャラリーはほとんどなかった。しかし、状況には変化の兆しも。それは、今回招待作家だったベー・ビョンウがモノクロで作品制作を行うようになり、その可能性に気付いた人が増えてきたという。いまでは、現代アート写真の新たな表現としてモノクロの写真作品が認知され始めたとのことだ。

会場ではそんなコレクターの好みを意識した現代アート風の、インパクトが強く、カラフルな大判作品が数多く展示されていた。作品のレベルは様々だ。仕上げ面では特に問題ないものの、コンセプトが弱い「壁紙」のような作品も数多く存在していた。しかし不思議なことに、それらのうちかなりの作品が売れているのだ。どうもこの状況は、当局がビル新築時に必ず文化的スペースを設置するようにと指導しているという、韓国市場の特性がかなり影響しているらしい。要は、大きなサイズの作品を求める企業ニーズが相当あるということ。あるギャラリーのディレクターに聞いたら、対企業の売り上げ比率は約20%以上あるという。金額ベースの比率はもっと高いのだろう。日本の写真ギャラリーでは考えられないことだ。購入の判断基準は、作家のアート性だけではなく、ギャラリーと企業との人間関係やコネクションも大きく関係しているらしい。だから、日本のギャラリーが単に大判作品を持ってきても決して売れないのだ。もちろんオークションで取引されるようなブランド作家の大作なら話は別だろう。色々と情報収集してみると、個人コレクターが求める作品サイズはそんなには大きくないようだ。たぶん企業にコレクションされた作家がブランドとなり個人が購入するのでないか。ここにもギャラリストとの人間関係が重視されているようだ。
欧米では、富裕層がコレクションするのが現代アートで、アート写真分野では中間層がメインプレーヤーだ。彼らはアーティストの作家性やメッセージを自ら判断、評価することが多い。しかし、韓国ではまだアート写真に特化した中間層のコレクターは少数で、企業と富裕層が人間関係とブランドで写真作品を買っているようだ。作品の評価基準は、ヴィジュアル的にきれい、面白い、カラフル、奇抜なモチーフ、目新しい制作方法なのだろう。歴史がないことから、オリジナルであることの基準がまだ明確ではないようだ。表現は自由だが、まだ洗練されていない感じだ。

さて、韓国市場は上記のような状況だが、今回のブリッツの展示は、小振りのファッション系の写真が中心だった。他のギャラリーと比べてかなり個性的な展示だろう。実は、アジア地域でも私どもの扱うファッション系写真に可能性があると考えているのだ。現在の富裕層コレクターはともかく、もし中間層コレクターが育ってくると彼らはソウル・フォトで地元ギャラリーが展示しているような作品にリアリティーを感じないのではないかと考えている。ファッションの意味だが、それはカッコいい写真のことだ。もう少し難しく説明すると、共同体社会のウェットなしがらみから解放されたいという、ドライで自由な感覚が表現されている写真作品のことなのだ。つまりイメージ自体ではなく、その背景にある思想やライフスタイルを重要なセールスポイントとしている。
儒教的精神が強かった韓国でも、核家族で育った若者の中にはドライな人間関係を求める層も増加しているという。大家族的な伝統的文化との軋轢が生まれつつある状況は容易に想像できる。これは、アメリカン・カジュアル・ファッションのブランド戦略と類似しているかもしれない。実際、ソウルの街中で見かけるファッションや関連広告はアメリカン・カジュアルが中心になっている。それらを好む層は、ドライな感覚のモダンな写真に魅力を感じるのではないだろうか。
実際、今回主要作品を展示したマイケル・デウイックの写真には現地のギャラリストたちも魅力を感じていた。あるギャラリストは、ドライでクールな雰囲気を持つマイケル・デウイックの世界に若い世代は共感はするだろう、しかし最低でも2000ドル以上する作品は高額でなかなか売れないと話していた。これは日本と同じ状況だと感じた。市場拡大のための課題はやはり値段だろう。欧米写真家の作品はまだ高価。同じようなテイストを持つアジアの若手や新人なら可能性は十分にあると思う。どちらにしても、作家と中間層のコレクターの育成のために地道な啓蒙活動の継続が必要なのだと思う。