まず写真集からは始めよう!
アート写真コレクションへの誘い

 

先週末に、I.P.C.のサマーレクチャーで写真集コレクションについて話をした。猛暑の中、10名余の熱心な人が来てくれた。参加者の皆さん本当にありがとうございました。
実は、写真集関係のレクチャーはずっと温めていた企画だ。アート写真と同様に、写真集を買ってみたいがその入り口が分からないという声が多くずっと気になっていた。 しかし、レクチャーの新プログラム構築にはとてつもない時間がかかるのでなかなか実現できなかった。

写真集といっても実は様々な種類がある。その中で作家の視点が明確に構築されており、それを見る側に伝えるために制作された本がフォトブックとして区別されている。
つまり大きく分けると、写真集は作家の自己表現としてのフォトブックと、作家のキャリアを参照する資料的な本がともに存在するのだ。集めるのはもちろん前者のフォト・ブック。最初は両者の区別は難しいかもしれない。最近は写真集のガイドブック本”The Photobook: A History Volume 1 & 2″(Phaidon刊)などが刊行されている。ここに収録されているのがフォトブックと考えればほぼまちがいがない。

フォトブックはどこが違うのだろうか。以前も紹介したが、フォトブックの代表作といわれる「The Americans」の著者ロバート・フランクの言葉がよく説明している。少し長いが引用してみる。「写真家は社会に無関心ではだめだ。意見は時に批判的でもあるが、それは対象への愛から生まれている。写真家に必要なのは博愛の気持ちで状況に対すること。そのように撮影されたのがリアリズムだ。しかしそれだけでは不十分で、視点を持つことが重要だ。この二つがあって優れた写真が生まれる」
視点の原点となる感情は様々あるだろう。その一つは、個人が持つ違和感だと思う。欧州のスイスから繁栄している戦後のアメリカに来たフランクは、その文化を目の当たりにしてなんかこの国はおかしいと感じたのだろう。その原因を探るべく情報収集を行って考えを深めたのが、グッゲンハイムの奨学金で行った全米の旅だった。彼は撮影後、1年間かけて作品セレクションを行っている。問題点を総合化して視点を明確にして発表したのが「The Americans」なのだ。「決定的な瞬間」から解放されたフランクの撮影アプローチだけが注目されがちだが、重要なのは彼が写真で探求した違和感を見る側に伝えようとした姿勢や精神なのだ。

写真集コレクションに興味ある人は、作家の視点を共有したいと考える人たちだと思う。たぶん作家と同じ問題意識を持って世界を眺めているのだ。生きていて自分のいだいた強い感情に対する答えを写真集の中に探しているのだろう。さて、フランクの精神を受け継いでいるのはどのような写真家だろうか。現代人は、「The Americans」の歴史的評価は理解できるが、時代が違うのでリアリティーを感じることはできないだろう。個人的な好みでいうと、ジェフ・ブロウス(Jeff Brouws)、エドガー・マーティンス(Edgar Martins)、アレック・ソス(Alec Soth)などは、カラー撮影だがフランクの流れを引き継いでいると思う。このあたりは様々な意見があると思う。今後、何らかの機会を設けて興味のある人と意見交換をしてみたい。

現在は、市場環境的にも写真集コレクションを始めるのに絶好のチャンスだ。長引く不況で、相場自体がかなり安くなっている。特に、数年前まで人気が高く高額だった和書はかなり安くなっている。円高と不況で外人コレクターが買わなくなったのが大きな要因と言われている。欲しかったが手が出なかった写真集でも入手できる可能性が高まっている。しかし、売る側も高値を見ているので、安くは売りたがらない。しばらくは取引が大きく減少する時期が続くのだ。時間が経過すると、必ずいまの相場でも売りたい人が出てくるもの。欲しい人にとって、これが買い場だと思う。また洋書も、80円近くの円高でかなり割安になっている。欲しかったが高くて諦めていた写真集があったなら、いま一度現在の相場を調べてみるとよいだろう。

目指せアート写真の世界
地方在住写真家の可能性

 

最近、地方の写真家の作品を見てアドバイスすることが多い。私が出張することもあるし、わざわざ上京してくれる人もいる。彼らは地元で活躍する商業写真家や、ハイアマチュアの人たちで、キャリアの一環としてアート作品に取り組みたいと考えている。だいたいの人が生活ベースを持った上で、自分のペースで地道に活動を続けている。作品を見る前に、市場の現状解説や、アート写真の価値観のことを一通り説明する。都市部の人よりも真剣に聞いてくれる印象だ。

彼らは全般的に心がオープンで、素直な気持ちで写真に取り組んでいる感じだ。そしてアドバイスを積極的に受け入れてくれる場合が多い。何か新しい分野のことを学ぶときには、自分を空っぽにして専門家の意見や解説を受け入れてみるのが有効だ。それにより、いままで気付かなかった自分が発見できたり、新しい価値観が生まれる。アート写真を目指す人の作品自体のレベルは、都市部でも地方でも大きくは違わない。それらの背景にある感動を、収集、集約して、さらに考えていく過程が重要になる。最終的にテーマを明確化して作品ポートフォリオとしてまとめていく。地方在住写真家の場合、シンプルなアドバイスで、テーマが顕在化したり、視点がひらめいたり、ステーツメントの内容が飛躍的に改善したり、作品作りの方向性が突然見えてくることが多い。たぶん、自分の心を開いて素直な気持ちで取り組んでくれるから、見えなかった色々なつながりが顕在化するのだろう。それは、複雑なパズルが解けたような感じで、写真を見る側にとって極めて心地より瞬間だ。

一方、地方在住写真家とは全く逆のタイプの写真家にも遭遇することがある。都市部に比較的多いだろう。彼らは、自分の中に凝り固まった考えや、好みの感覚があってそれを認めてもらうため、補強するために写真を見せにくる。アドバイスをしても、自分に都合のよいことだけを受け入れる。アートの世界は、個人の存在と自由が重んじられるはずだ。しかし不思議なことに、彼らは自分が感覚で良いと感じる写真を、他人も良いと感じるはずという思い込みを持っている。これは、多くの人が同質の価値観やモラル観を持っていた時代の名残を引き継いでいるのかもしれない。
戦後に自由と民主主義が導入されたことで、”同質性を前提とした日本人の文化”はもはや存在しない。同様に、個人の(美的)感覚も人によって様々になっている。90年代以降はさらにばらけている。日本社会でいま起きている様々な問題は、同質性は崩れているのに、多くの人が自分と同じモラル基準を持っているはずで、それに従うべきと考えるからだ。
アートは作品を通して人間どうしのコミュニケーションが行われること。そのコミュニケーションは、それぞれが違うことを認め合うのが前提だ。従って、みんな同じと考える人とは会話が成立しない。アートとしての写真を語りあう場で、永遠に不毛な平行線の会話が続くのだ。あるキュレーターは、運悪くそのような人と出会ったら、場の雰囲気を壊さないため逆に作品を徹底的に褒め倒すという。やや極端な対応だと思うが、気持ちはよく理解できる。

上記のように、作品制作の過程では思い込みにとらわれることなく、自由な気持ちで周りの意見を聞きながら、自分の内面を深く探求する必要がある。しかし、作品が完成するとこんどはまったく別の素養が求められる。一転して外界への積極的な働きかけが必要となるのだ。シャイな地方在住の人はこの部分が弱いことが多い。作家を目指すなら、これらの外向きの活動は仕事の一部であると認識してほしい。社会に存在する仕事には営業系が多いだろう。知らない人に会ってと話すのが苦手でも、営業活動に従事して実績を上げている人は数多くいる。なぜできるかと言えば、生活のために必要な仕事と割り切っているからだろう。作家を目指す人にとって、営業活動は作品制作と同じくらい重要な仕事だと理解してほしい。
特に新人の場合は、どれだけ自分を広くアピールして、多くの人をギャラリーに動員できるかにかかっている。最初はだれでも作品は売れないもの、興味を持って見に来る人の数が作家の将来性を占う目安になる。本人が行動して、それにギャラリー、友人、仲間の営業努力が重なることで、情報が広く多くの人に伝わるようになる。

日本のアート写真界の問題点は、プライマリー市場で継続的に活躍する作家が育たないことに尽きる。上記の理由から、新たな新人は東京だけでなく、地方部からも出てくる可能性が高いのではと感じている。今後も、東京以外でのワークショップ開催や、その後の作品フォローアップに取り組むとともに、彼らの作品を一番大きな東京市場に紹介するシステムを構築していきたいと思う。

地方都市での、レクチャーやワークショップに興味ある人はぜひご連絡ください。