歴史の重みとブランド力
アート市場の二極化の先

最近の日本経済新聞の記事、「高価で長持ちに向かう消費」を興味深く読んだ。不況が続いているなかで、最近のデパートでは高価な腕時計、宝飾品、美術品が売れているという。この記事は、高額品は従来好景気時に売れるもの、いまのような株価低迷と長期不況時代に売れるのは新しい傾向ではないか、という問題提起だ。その理由を、高価でも長持ちするものに向かう新しい消費者心理と分析していた。記事によると、3500万円の横山大観、500万円の棟方志功が売れたという。10月に開催されたあるデパートの絵画催事の売り上げはきわめて好調だったという。

横山大観、棟方志功という巨匠の作家名をきいて感じたのは、日本のアート市場でも消費の二極化が進んできたということ。二極化は、一般的に高級ブランド品と価格の安い商品しか売れない状況。実は私の専門のアート写真界では、リーマンショック以降その傾向がずっと続いている。
2011年秋のニューヨーク・アート写真オークションではその傾向がさらに強まった印象だ。
ちなみに、今シーズンの最高額は、フィリップス(Phillips de Pury & Company)で落札された、リチャード・アヴェドンによる1967年撮影のビートルズ・ポートフォリオの$722,500.(@80、約5780万円)。巨匠アヴェドンとビートルズというダブルネームの作品だ。
2位が同じくフリップスのNadarとAdrien Tournachonによる19世紀作品"Pierrot with Fruit,1854-1855"の$542,500.(@80、約4340万円)。
次が、ササビーズが取り扱った写真季刊誌カメラワークの50冊セット。これはスティーグリッツが編集に携わった写真史に残る代表雑誌。フォトグラビア、ハーフトーンによるエドワード・スタイケン、ポール・ストランドなどの写真が多数収録されているもの。 カメラワーク・セット最高価格の$398,500.(@80、約3188万円)で落札された。
マン・レイの"Untitled(Self Portrait of man Ray)1933"もフィリップスで同金額で落札されている。
上記の作家以外には、アンセル・アダムス、ピエール・デュブレイユ、アルフレッド・スティーグリッツなどが目立って高額落札されていた。作家名を見るに、まだ現代アート系やファッション系が未評価だった90年代のオークションを思い出す。作家のブランドとともに、古い時代の作品であることがより注目されている印象だ。

歴史的作品を愛でる傾向は、ブランド作家だけにとどまらない感じがする。古い時代の作品であることが一種のブランド価値になっている。実際、同業者の話では19世紀の古いダゲレオタイプ、ティンタイプ、ヴィンテージ・ポストカードなどの写真は無名作家だが良く売れているとのことだ。
また、写真制作の技法に関しても同じような傾向がみられる。多少高額になるが、古典的手法のシルバープリントやプラチナプリントを好んでコレクションする人がここ数年明らかに増えている。

不況が続くと人は安定を求めて保守的になる。どうしても新しいことよりも基本に戻るようになる。時代の価値観が多様化し評価軸が不安定になっていることもあるだろう。アートの基準を、作家のブランドと歴史の重みに求める人が増えているのだと思う。現在の市場では、中間価格帯の、特にブランドが未確立で歴史的背景がない作品が苦戦している。このような流れだと、一時期高額で取引されていた現代アート系写真、コンテンポラリー系ファッション写真には厳しい時代が続くような予感がする。
2011年秋のアート写真オークションの詳しいレビューは、11月のロンドン・オークション終了後にアート・フォト・サイトに掲載します。

ファッション写真の現在
日本人写真家の挑戦

ファッション写真は時代の憧れを提示するメディアだった。戦前は上流階級に憧れる中流階級の憧れを、戦後はしがらみから自由になり社会進出する女性の理想像を表現するものだった。それが90年代に入り、欧米から始まった高度情報化、グローバル化が進むとともに変化していく。大きな物語が消失して、ファッションもブランド一辺倒から、個人のセレクト、着こなしなどの表現が注目されるようになる。つまりファッションにおいて、服以外の世界とのつながりが重要視されるということ。人々の生き方がばらけてくる中で、ファッション写真は、時代のライフスタイルや若者文化、大衆文化を語るメディアへとなっていくのだ。

2004年にMoMAで開催された、”Fashioning ficition in photography since 1990″展(カタログは上のイメージ)では、それを表現する手段として、シネマティックとスナップ、ファミリー・アルバム的なアプローチが増えていると分析している。簡単に説明すると、映画的なテクニックは見る人の記憶とつながりやすい、スナップや家族アルバム的写真は見る側の感情と結びつき、リアリティーを感じやすい点が指摘されている。
それから7年くらいが経過し私はファッション写真の意味がより広く解釈されるようになった考えている。いまという時代が語られている限りにおいて、その拠り所は、歴史だけにとどまらず。パーソナルワーク、現代アート、他分野の表現や思想などにも求められるということだ。

先週末にinifinityに参加している3人の写真家とのトーク・イベントに参加した。写真家が感じている時代性と、それを語るアプローチが様々で非常に興味深かった。
北島明はシネマティックなアプローチで若きシンガーソングライター加藤ミリヤを起用して日本のいまのユースカルチャーのリアリティーを伝えようとする。撮影時には、詳細なストーリーとキャラ設定をモデルとの間で作り上げるという。まさに上記のシネマティックのアプローチを実践している。
舞山秀一は動物園の動物たちの撮影を通して、人間社会のありそうもなさを明らかにする。彼にとって撮影する行為自体が自分を確認する行為なのだと思う。やや難解なコンセプトなのだが、会場では多くの人が意味を読み解こうと作品と対峙している。舞山の策略はうまく機能しているようだ。12月に開催される個展が楽しみだ。
半沢健は、シュールな非現実的な世界を様々なプリント技法やセッティングで構築する。不思議なヴィジュアルで現実とは何かを意識させ、現代社会の嘘っぽさを撃つ。前回のinfinityの作品”blink”とは印象がまったく違うがメッセージは一貫している。
3人の写真家とも無意識のうちに、いまや多様化したアートとしてのファッション写真の流れとつながっている。彼らがそれを意識することでアーティストとしてのキャリア展開に踏み出してほしいと願う。