写真とともに生きるアマチュア
継続の先には何があるのか?

今年になってから、東京、札幌で約30名くらいの人の作品ポートフォリオを見させてもらった。皆さんお忙しいところありがとうございました。
私はギャラリーの立場で評価していくのだが、最近は作品レベルが上がってきた印象がある。以前は表層面だけの組み合わせで写真をまとめる人が圧倒的に多かった。写真に写っているのが現実の世界であると言われてきた影響がまだあるのだろう。しかし、それ自体がいまやコンセプトの一部になっている点には注意が必要だ。最近は写真を通して自分の生き方や人生を見つめている作品も確実に増えている。特に長期間継続して写真を撮影している人にその傾向が強い。

いくつか例を挙げてみよう。
学生時代に住んでいた町の風景を通して当時違和感を抱えていた自分の世界観をいま受け入れようとしている人、
自分の心地よいシーンだけをところかまわず撮ることで生き難い現代社会の中に一種ファンタジーの世界を作り上げている人、
一見カオスのような都市風景の中に抽象と色彩のパターンを見つけ出そうとする人、
パーソナルな視点の延長上に自分の周りにある自然や花を撮影している人、
自動販売機を擬人化してそれを通して日本社会の仕組みを明らかにしようとする人、
西欧と日本の都市風景の違いと共通点を通して文化の比較を試みる人、
などは印象に残っている。

また撮影方法やプリント制作方法も非常に多様になっている。フィルムで撮って、バライタにプリントする人がいる一方で、様々な個性的方法を駆使してまるで写真で絵を描いているような人も見られる。

普段は誰もが忙しい日常生活を送っている。みんな過去の失敗を悔い、将来の不安を抱えながら生きているのだ。写真とともに暮らす人にとって撮影は過去、未来に囚われず現在に生きている瞬間なのだと思う。それは一種の瞑想のような行為。心地よい感覚なのでやめられないのだ。同じスタンスで継続して撮っていると写真を通じて写真家自身が変化する。自分の感情に寄り添いながら撮っていると自分を客観視できるようになる。人によっては、意識的に世界の表層を撮り続けていることで自分の気持ちの流れがわかるようになる場合もある。写真を通して社会と対峙することで、自分がどのような考えや感情を持つ人間なのかが明らかになっていく。
そのような姿勢で撮られた写真はアマチュアであっても作品になる可能性がある。私が行うのは、写真家が伝えたいと思う気持ちが現在社会でどのような意味を持つかをみつけるヒントを提供すること。うまくいけば、本人は自分の現状を受け入れることが可能になり、一歩進んで人生とポジティブに向き合うようになる場合もある。それから後のステップは自分の気持ちをどれだけ外にオープンにできるかにかかっている。それが出来ると写真を通して、生き方で悩んでいる多くの人に新たな視点を提示できるのだ。
アマチュア写真家は、プロでないがゆえに写真で自分と社会との関わりを素直に見つめられる人が多いと感じている。日本では、プロと言われる写真家の方がロマンティストである場合が多い。

2月21日から広尾のIPCでグループ展「ザ・エマージング・フォトグラフィー・アーティスト2012年(新進気鋭のアート写真家展)」が行われる。本展の特徴は、専門家が若手・新人を推薦する点だ。私は上記のような姿勢で写真に取り組んでいる人たちを選んでいる。しかし推薦者によりその基準は様々だろう。その違いを見比べるのもこの展示のもう一つの重要な見どころなのだ。
まだ今年の開催も行われてないのだが、今月に拝見させてもらった写真家の作品の中には制作を継続すれば次回展に推薦可能だと思える人が何人もいた。真剣に作品作りに取り組めば1年などあっという間に過ぎてしまう。短期、中期的に目標がないアーティスト希望者はぜひ来年のイベントのための準備をいまから始めてほしい。

第2回日本のファッション系フォトブック・ガイド 篠山紀信「オレレ・オララ」&「ハイ!マリー」

いまでもグラビアの第一線で活躍している売れっ子写真家の篠山紀信(1940-)。2009年には美術手帳で特集が組まれるなど、アートの枠組みで彼の仕事を再評価しようとする動きも散見される。
写真集で市場が最も高く評価しているのが、「晴れた日」(平凡社、1975年刊)だ。”The Photobook:A History Volume 1 “(Mrtin Parr &Gerry Badger,2004年刊)、と”802 photo books from the M.+M. collection”(2007年、 Edition M+M刊)に掲載されている。また、フォトブックのオークションにもたびたび出品されている。これは1974年に起きた様々な出来事を無造作に配列したもの。写真はスタジオ・ポートレートから、自然風景、ニクソン大統領のテレビ映像など無作為なセレクション。ガイドブックの解説では、日本人の予測不能な自然への不安、日米関係など、を無作為に並べることで当時の日本人にとっての重要な出来事を提示している。自然と社会の中で任意に生きる人間の人生が表現されていると評されている。なかなか難解なのだが、時間が連続していないという禅的な視点での評価なのだろうか。その他、彼の写真集では、「食」(潮出版社、1992年刊)がたまにレアブックのオークションにでてくる。
前回の横須賀 功光 「射」でも指摘したが、篠山の場合も欧米的な感覚を持ったクールでドライな写真を収録したものは市場で高く評価されていない。その他、初期のヌード作品を収録した2冊の写真集、「篠山紀信と28人の女たち」(1968年、毎日新聞社刊)、「Nude」(1970年、毎日新聞社刊)は、ヌード写真集のガイドブック「BOOKS OF NUDES」(2007年、Abrams刊)に収録されている。
特筆すべきは、金子隆一編の「日本写真集史」(2009年、赤々舎刊)には上記2冊が掲載されている点だ。私は金子氏にお会いして話したことがあるが、同氏は70年~80年代日本では商業写真に才能のある写真家が集まっていた事実を良く理解されている。その分野の代表として確信犯で篠山の2冊を収録したのだと思う。

日本には欧米にない雑誌の増刊形式で刊行されるタイプの写真集がある。それらはどうしても欧米の感覚では写真集と認められないだろう。雑誌のほうが書店で売りやすいこと、既存雑誌のフォーマットを使用できること、企業のタイアップ広告を掲載できることなどが登場してきた背景だろう。
今回は篠山の70年代前半に出されたこの雑誌形式の写真集2冊を紹介する。これらはフォトブックとして評価しても全く問題がない高いアート性と完成度を持っている。

まず、1971年5月に集英社プレイボーイ特別編集として刊行された「オレレ・オララ カーニバル 灼熱の人間辞典」。1971年のブラジルのリオ・デ・ジャネイロのカーニヴァルを4日間でドキュメントしたもの。当時まだ30歳だった篠山の写真撮影への凄まじいパワーを感じる。人間の欲望、エネルギー、汗臭さ、サンバのリズムまでがカーニヴァルの熱狂シーンとともに伝わってくる珠玉のドキュメント。男性誌プレイボーイ特別編集ということもあり、セクシーなダンサーや、解放的なヌードも全編に散りばめられている。カラー、モノクロ、様々なトーンの単色カラー印刷が全体のリズム感を作り出している。
リオを撮った有名写真集には現代で最も影響力あるのファッション写真家であるブルース・ウェバーの「O rio de Janeiro」(1986年、Alfred A.Knopf刊)がある。内容は、ドキュメント手法を取り入れ、完全に計算尽くされて制作されたリオの魅惑的シーン。洗練された、ときにゲイ・テイストが入ったウェーバーの世界観が見事に再現されているのだ。この本も、「オレレ・オララ」と同様に、カラー、モノクロ、様々なトーンの単色カラー印刷を駆使したデザインになっている。この点に関しては、同書は「O rio de Janeiro」のブックデザインに影響を与えた可能性があるといわれている。

もう1冊は、週刊プレイボーイ別冊としてでたアサヒカメラ1972年10月号臨時増刊の「ハイ!マリー」だ。日系ファッションモデルのマリー・ヘルヴィン(Marie Helvin)とその姉妹の7日間のハワイ・モロカイ島での休日をドキュメントした作品。美しい常夏のハワイの自然の下での、水着あり、ナチュラルなヌードありで、憧れの彼女と自由にヴァケーションを過ごす男性のファンタジーの世界だ。
計算されているのだが、果てしなく自然でモデルとの距離感を感じさせない写真が続く。被写体への愛さえ感じさせるスナップ風のイメージの完成度は高い。「オレレ・オララ」と同様に、カラー、モノクロ、様々なトーンの単色カラー印刷などが混在したページ展開はいまでも斬新だ。
マリー・ヘルヴィンはその後ロンドンに渡り、写真家デビット・ベイリーと結婚する。1980年刊の写真集「Trouble and Strife」のモデルといえば思い出す人も多いだろう。ちなみにこのタイトル名はロンドンの下町言葉で「奥さん」という意味。
今回紹介した2冊ともにアート・ディレクションは鶴本正三(1935-)が行っている。これらは篠山と鶴本とのコラボレーション作品でもある。

上記2冊とも雑誌形式のペーパーバックのため、傷みやすいのが欠点だ。古書市場では状態によって販売価格にはかなり幅がある。経年経過による、傷み、汚れがある普通状態で、「オレレ・オララ」は7,000円~。「ハイ!マリー」は更に傷みやすい雑誌と同じ製本なので状態の悪いものが多い。こちらは普通状態で、4,000円~。個人的には、この2冊の方が「晴れた日」よりもポップで素直に篠山らしさが出ていると感じている。この時代の篠山の作品は、私が専門のアートとしてのファッション写真のカテゴリーに入る。
2冊とも雑誌形式なので発行冊数は多いと思われるが、状態よく保存されていたものは少ないだろう。間違いなく市場では過小評価されているので、状態のよいものはいま買っておきたい。

アート写真の現在 2012年をパーソナルに展望する

昨年の3.11東日本大震災は、アート業界にも経済的に多大な影響を与えた。それは震災による消費意欲の減退というだけではない。人間が自然中の一部であるという当たり前のことを私たちが意識してしまったことが重要だろう。
現代人は、普段はそんなことを忘れて色々なことに囚われ思い悩みながら生きている。平時にはアートは違った方面から世の中を見ることを教えてくれるのだ。問題なのは、いまでも多くの人が非常時の精神状態を引きずっていること。そして、たまにある余震や次の大震災の可能性が報道されることで大自然の中の無力な自分を確認させられる。このような状況で既存のアートはその本来の役割を果たすことは難しいのだ。たぶんこんな雰囲気は数年は続くのではないか。
また、大震災を作品テーマに取り込む動きも散見された。しかしこれは取り扱いが非常に難しいので注意が必要だろう。それ自体をテーマにすると作家として自らの存在基盤を危うくするリスクをかかえている。事実をパーソナルな視点でとらえるのが賢明だと思う。

2012年のアート写真市場はどうなるだろうか?
欧州債務危機問題、米国家庭におけるバランスシート調整による長引く不況から、市場の先行きには不透明感が強まっている。欧州発の信用収縮が改めて意識されたからか、年初からのユーロ急落は不気味だ。このような状況下で昨年来進行しているアート写真市場の2極化がさらに進むと思う。
ブランドが確立した作家の希少作品は、高い資産価値がある。金融資産の価値が揺らいでいる中、それらに対しては根強い需要がある。海外オークションでも高額落札されるのは、ほとんどが20世紀の有名写真家によるヴィンテージ・プリントだ。その顔ぶれを見ると90年代のオークション・シーンを思い出す。一番影響を受けるのが中間価格帯の作品となる。さらにその中でも作家ブランドによる2極化が細かく進むのではないか。アート写真界でのブランド確立は個展開催とともに写真集の有無が影響する。作品ごとに写真集が刊行され、売れている人以外はこの分野でも苦戦するだろう。一番厳しいのは、作品集も出ていない上に、中途半端に高い値段が付く現代アート系の新進作家だろう。
もう一極となるインテリアの一部としての取り扱われることが多い比較的低価格作品の需要は悪くない。海外では約2500ドル(約20万円)以内、国内だと約1000ドル(約8万円)以内の写真作品の動きは活発だ。

昨年は、商業写真で活躍する人たちがアート分野への関心を示すようになった年でもあった。アート分野でのキャリアを目指すのは、いままでは中堅商業写真家が中心だった。長引く不況とデジタル化の波により、いまや彼らにはお金のかかる作品作りを続ける余力がなくなりかけている。逆にいままで仕事で忙しかった売れっ子の写真家が写真販売に興味を示すようになった。いまや彼らにしか作品制作を継続する余裕がなくなってきているのだ。昨年、2回開催されたインフィニティー展はその表れだった。多忙な実力者たちが作品の展示販売に挑戦してくれたことは喜ばしい出来事だった。しかし、一方で広告写真やパーソナルワークがすぐにアートになるわけではない。いまだに多くの人は、イメージ重視の作品から抜け出し切れていない。
作家を目指すことは自分の拠り所をアート写真の歴史の延長上に見つけることに他ならない。違う分野の写真に挑戦する時には市場の現状認識、市場の調査、研究が不可欠になる。 その点に気付く人がどれだけ増えるかに今年は注目している。
例えばそのための絶好の学びの機会が年末に開催した、ザJpadsフォトグラフィーショーだった。約100点にも及ぶ資産価値が認められた写真作品のクオリティー、値段を比較できる機会はめったにない。来場した写真家の人たちはかなり刺激を受けたようだ。作家を目指すことは、会場で展示されていた有名写真家の仕事を引き継ぐ行為であることを直感的に実感出来たのだろう。彼らのように本当にアート分野でのキャリアに挑戦しようと思う人たちが少ないながら商業写真家から出てきたことは嬉しい兆候だ。今後もアート分野での可能性を本気で探求したい人を応援していきたいと思う。

一方、高いレベルを目指すハイアマチュアの積極的な活動が目立ったのも昨年の特徴だった。この傾向は間違いなく今年も続くと思う。
世間では震災後の不安感のたかまりからつながりを求める人が増えているという。その手段の一つが写真を通してのつながりなのだ。アートとは元々は写真を通じて作家とオーディエンスがつながることだ。
11月に写真家の横木安良夫の主催するアマチュア写真家のグループ展をお手伝いした。自分の作品が展示され、またカタログに収録されていることで彼らの多くは本当に幸せそうな表情をしていた。アートとしての写真とは別にして、自分のアイデンティティー確認や人とのつながりを演出する写真の素晴らしい効用を確認できた。多くの人はそこで満足するのだが、中には更に高いレベルを目指す人も出てきている。商業写真家のように職業的プライドがないので専門家のアドバイスに対しても高い対応力を示す。短期間に驚くべき成長をみせる人も多いのだ。写真では、もはや技術力のみは問われない。今後はアマチュアの中から優れた作家がでてくる可能性が十分にあると思っている。安定的な本業も持っていることが継続的に作品に取り組む上で大きなメリットだろう。 今年も、ワークショップやJpadsの活動を通してハイ・アマチュアの活動を支援していきたいと思う。

2012年もアート写真市場拡大のために、現実を直視しながら分相応で実行可能なことをひとつひとつ行っていきたいと思います。
本年もよろしくお願いします。