日本のファッション系フォトブック・ガイド(第7回)小林響「tribe」(1998年、光琳社出版刊)

1990年代前半の欧米ファッション・ヴィジュアル分野では、フランス人アート・ディレクターのファビアン・バロンが大活躍していた。彼は1988年にイタリアン・ヴォーグの刷新を成功させ、1992年にはマドンナのヌード写真集「SEX」(スティーブン・マイゼル撮影)を制作したことで一躍時代の寵児となっていた。1992年9月には米国版ハーパース・バザーのリニューアルをリズ・ティルベリス編集長とともに手がける。モダンでシンプルな余白を生かしたスペース使いと、大胆かつ巧みなタイポグラフィーで低迷していた同誌を復活させた。40~50年代に同じく同誌で活躍した名アート・ディレクター、アレクセイ・ブロドビッチの再来とも呼ばれていた。

日本にも、ブロドビッチとバロンに魅了された編集者の林文浩(1964-2011)がいた。彼は雑誌シンクの編集者を経て、やがて独立系のハイ・ファッション誌「リッツ」、そして「デューン」を創刊させる。ブロドビッチといえばリチャード・アヴェドンを見出したことで知られている。バロンはパトリック・デマルシェリエやピーター・リンドバークを起用して雑誌を改革した。林も自分が憧れるバロン風の、シンプルでモダンな表現ができる写真家を探していた。

彼が目をつけたのが小林響(1955-)だった。小林は世界中の消えゆく少数民族のポートレート撮影プロジェクトに取り組んでいた。 彼はどんな遠隔地にも白バックを持参し、野外簡易自然光スタジオを設営して中判カメラで撮影を行っていた。それらはリチャード・アヴェドンが行った”In the American West”プロジェクトを思い起こす写真だった。当時はポストモダンの過剰なデザインが中心だったので、彼の白バックのシンプルなモノクロ写真は非常に魅力的に感じられたのだ。林は彼の作品を一種のファッション写真と評価した。かつてヴォーグ誌のアレキサンダー・リーバーマンがアーヴィング・ペンを起用して世界中の少数民族を現地の簡易スタジオで撮影したことを意識したのではないだろうか。
林はみずからが編集長を務める雑誌「デューン」のファッション・ページやポートレート撮影で小林を起用するようになる。「デューン」2号のニューヨーク特集で、林は憧れのバロンにインタビューしている。バロンのポートレート撮影はもちろん小林が担当。ちなみにバロンはこの中で、写真を選ぶ基準を発言している。それは、”Strength(強さ)”、”Directness(直接さ)”、”Quality(高い質)”、”Impact(衝撃性)”だという。これは人の感動を呼ぶ写真が一番重要だという意味で、アート写真の基準にもつながってくる。

90年代前半の日本のアート写真業界はいまよりもはるかに活気があった。1991年に東京都写真美術館が開館したこともあり、写真がアートとして扱われることをマスコミが非常に珍しがった。アート写真に関する新聞での記事掲載、雑誌での特集がかなり頻繁に行われていた。当時はテレビ東京の「ファッション通信」やNHKーBSの「東京発エンターテインメント・ニュース」で、写真展をニュース・トピックとして紹介していたほどだ。
ビジネス面でも、流通業の伊勢丹やパルコが写真専門ギャラリーを実際にオープンさせ、デパートでも頻繁に写真展が開催されていた。写真展のコンテンツも外国人作家の海外ギャラリーからの巡回展などが多く、いまよりも内容レベルが遥かに高かった。活気があった背景には、写真を含むアートビジネスが将来的により活況になるという予感があったからだ。
そんな明るい未来像が、そうなったときに恩恵を被るだろうと考えられる、カメラマン、ギャラリー、キュレーター、流通業者、イベント業者、デザイナー、マスコミ、編集者、コレクターのあいだで共有されていたのだ。ネットが普及する前だったので、人同士のコミュニケーションがいまより広範囲に、また頻繁に行われていた。林文浩や小林響もその流れの中で活動が注目されたのだ。 いま思い返せば、当時はまだバブル時の残り香が残っていたのだろう。景気は循環し、再び良くなるとまだ信じられていたのだ。現実には長期不況の失われた20年が始まったばかりの時期だった。

1990年のケニアから始まった小林の少数民族撮影プロジェクト。多分野の人からの作品に対する高い評価が彼の背中を押した。ちなみ1993年夏には、当時代官山にあったブリッツでも彼の個展を開催している。最終的に、彼は約5年間でアジア、中近東、アフリカ、ニューギニア、アマゾンを旅し3000人以上のポートレートを撮影することになる。
1998年ついに彼の少数民族ポートレートが京都の光琳社出版から「tribe」として写真集化される。ADはあのファビアン・バロンが担当、小林とバロンは「デューン」誌でのインタビューで知り合ったのだろう。二人の付き合いはいまでも続いているという。序文はアフリカ像の乱獲をテーマにした写真集「The End of the Game」の著者で有名アーティストのピーター・ベアード(1938-)。モノクロ図版が100以上収録された35.5X28.5cmの大判サイズのハードカバー。タイトルが印刷された透明ラミネート製ダストジャケット付きの豪華本だ。国内価格は9800円(税別)。この本は世界同時発売を前提に編集制作されている。文字はすべて英文で、光琳社版ではベアードと小林のメッセージの日本語訳のブックレットと帯が付く。米国では”powerHouse Books, NY”、フランスでは “Edition Assouline, Paris” から刊行されている。本書は世界最高峰のクリエーター、アーティストが関わった、グローバルに通用する高いクオリティーを持つ日本発のフォトブックだったと思う。当時の光琳社には、アート系の写真集で世界市場に挑戦するという意思があったことは間違いないだろう。

ベアードの以下から始まる文章は15年以上たった今でも示唆に富んでいる。
「小林響の作品には、読者にフェアであることについて考えさせる何かがある。それは、尊大さ、純粋さ、平穏さ、辛抱強さ、そして他者への思いやりといった、複雑な人間の交わりのなかで、あたたかく受け入れられるもの全てであり、現実にいま、この地上で起きている事柄とは正反対の事柄である」。彼は現実に絶望しているかのように「人間は、強欲で狡猾なこの人口爆発・汚染爆発という代表的な一例を、従来にも増して、みずからが造出した破壊機構の中にひたすら形を整えながらも取り組んでいるのである」と続ける。
最後に「結局のところ、人間が団結するには。地球外からの侵略が必要なのではないだろうか? 確実にいえることは、小林響のこの本に含ま
れているような作品、より多くの謙虚さと寛大さをもつ作品こそが、我々人間のグローバルな戦略、つまり地球に住む目的を再考するチャンスをあたえてくれる、ということである」とまとめている。

小林響の写真、ファビアン・バロンのアート・ディレクションとともに、このピーター・ベアードの序文により本書は優れたフォトブックになっている。写真のシークエンスはベアードの文章が見事に反映されている。まず20あまりのtribeたちの写真を大胆な裁ち落としのレイアウトで連続して見せ、いったん見開きの全黒ページで流れを止め、最後にオレンジ色の帯状のデザイン・スペースの手が入った頭骸骨のポートレートで終わらせている。これは、ボルネオ奥地に住む首狩り族の犠牲者の頭蓋骨だ。最後に「死」の象徴を入れることで消えゆく少数民族の「生と死」を表現しているのだろう。それはもちろん私たち全人類のことでもある。
刊行された1998年以降、ベアードの思いとは裏腹にグローバル化経済がさらに進行していく。90年代に撮影されたtribeたちの多くはいまやそのシステムに取り込まれてしまったのではないか。それゆえに、写真集「tribe」の当時のメッセージはいまでも十分に有効だと思う。

残念なことに光琳社は本書が刊行された翌年に倒産してしまった。優れた写真集が正当な評価を受けるのには時間がかかる。もしかしたら、同社の倒産により写真集「tribe」は多くの読者の手に行き渡る前に処分されてしまったかもしれない。
作家として認められた小林は、その後ファッション、広告写真家として成功する。しかし、写真集「tribe」以降の新作はまだ完成していないようだ。「tribe」のテーマがあまりにも壮大で、また被写体たちが強烈な存在だったので、それ以上の、”Strength(強さ)”、”Directness(直接さ)”、”Quality(高い質)”、”Impact(衝撃性)”を持った対象に出会えてないのだろう。

本書の国内古書市場での相場は4,000円~。流通量は少ないのは版元の倒産が影響しているのだろう。ネットではときに低価格で売られていることもあるが、透明カヴァー、帯、ブックレットの有無は要確認だ。海外では米国版中心に普通状態のものが50~75ドルで販売されている。ベアードが文章を寄せて、バロンが手掛けた90年代の優れたフォトブックとして認知されているようだ。
この写真集がレア・ブックとして更に高く評価されるかどうかは小林の次回作にかかっていると思う。彼はまだ50歳代後半、作家としての今後の展開をおおいに期待したい。