ジョセフ・クーデルカ展(Josef Koudelka) 旅の人生からのメッセージ

ジョセフ・クーデルカ(1938-)は、ハイ・コントラストのモノクロ写真で知られるマグナム所属の写真家。彼はソヴィエト軍のプラハ侵攻を撮影、それが原因で国を離れて亡命者として旅の人生を送ることになる。代表作に「ジプシーズ(1962~1970年撮影)」、「エクザイルズ(1968~1994年撮影)」などがある。彼の本格的な展覧会が先ほど東京国立近代美術館でスタートした。初期作品から最新作の「カオス」までの約280点でキャリアを回顧するものだ。日本では2011年春に東京都写真美術館で開催された「ジョセフ・クーデルカ プラハ
1968」以来の写真展となる。

どの場所や時代でも写真だけで生活していくのは容易ではない。クーデルカも最初は航空技師として働きながら写真家活動を行っている。1962年ごろに劇場の撮影から写真家キャリアをスタートさせ、1967年にフリー写真家に転じている。
1962年~1970年までに撮影された劇場写真では、演劇のリアリティーや演技シーンのモノクロームでの抽象性を追求。虚構世界の演劇を単に記録ではなく作品として取り組んでいる。
ほぼ同時期に取り組んでいたチェコスロバキアのジプシーをテーマにしたシリーズでは、彼らの存在をドキュメントとしてではなくパーソナルな視点で撮影している。一般社会から離れて独自のコミュニティーの中で暮らすジプシーたち。彼らの存在はクーデルカにとっては劇場と同じ非日常の世界だったのだ。クーデルカの視線には、それはまるでストリートで演じられている演劇のように映っていたのだろう。

そして有名なプラハの春の写真ではソ連軍の侵攻というリアルな出来事をドキュメントというよりも、これもチェコスロバキア人の視点でとらえ撮影している。 あたかも映画のワンシーンのように見えないこともない。図録収録のカレン・フィシダーラとのインタビューの中で、彼は当時の状況を以下のように語っている。
“写真をとることが重要だと思ったから撮影した。自分が何をしているかについては深く考えなかった。後になって、君は殺されるところだったかもしれないぞと言われたが、その時はそんなことなど考えもしなった”(図録インタビュー、P53)

東京国立近代美術館の増田玲氏は図録に収録されたエッセーで、クーデルカにとってのプラハの春を以下のように解説している。
“世界を陰影に富んだものとしてとらえる世界観を獲得していったプロセスだったと考えていいだろう。何しろ、クーデルカがその時プラハで目の当たりにした事態とは、「現実それ自体が非現実」な出来事だった”(図録 クーデルカの世界、P158)

彼は、プラハの春の写真がきっかけで亡命者として生きることになる。誰もが思い浮かぶ疑問は、なぜ彼が旅の中に生き続けてきたかだろう。彼はそれまでの両極端の実体験により、世の中には客観的な現実などは存在しない、すべて見る側の意識がつくりだしている虚構のようなものだと気付いたのだと思う。そしてカメラを通すことでそれらは並列して提示することが出来ると考えたのではないか。彼の写真に写されているのはこの社会に幻想を持たない人が目の当たりにしているシーンなのだ。

図録のカレン・フィシダーラとのインタビューの中で、彼は自分の人生を以下のように 語っている。
“私は私の生きたいように人生を生きてきた””私はつねに自分にできる最良のものは何かを見究めようとしてきた”(図録インタビューP122.)

多くの一般人は妥協した人生を送ることで不自由だが安定した生き方を選択する。好きに生きることの追求は社会の最下部の人生をいきることになるかもしれないのだ。 それでもそれを追求する人は、自分の中に強い心のよりどころを持たないと、本能から湧き出で膨張していく不安や欲望に負けてしまう。彼は旅の中で生き続けることで世界に客観的な実体がないことを確認しているのではないか。
依頼仕事を受けないのも、お金をもらうことで不自由になることを避けるためなのだ。 危険にさらされている人たちにカメラを向けるのも同じような理由があるだろう。やや乱暴だが、危険を感じることで人はいまこの瞬間に生きることが可能になるからだ。

図録のインタビューでこんなエピソードが語られている。(図録インタビューP23.)
あるジプシーがクーデルカの旅の人生を、”おまえが旅を続けるのは、まだ(1番と思える)土地をみつけていないからだろう。まだそんな土地を探しているからなんだろう”と質問している。それに対するクーデルカの答えは”それはちがうよ。私はそんな場所を見つからないように必死になってがんばっているんだよ”
つまり彼にとって旅は人生の何かを見つける手段ではなく、旅自体が人生であり目的なのだ。

展覧会のレセプションにご本人が参加していて遠目でゲストの人たちと歓談しているシーンを拝見することができた。一瞬だがお会いして短い会話を交わすこともできた。とても気さくで、気取りや、飾り気のないまるで童心を持ったような人物に感じられた。 彼は自らの高い意志と感情により行動する力強い人物なのだと思う。
日本人の私には、それがまるで旅の途中で亡くなった松尾芭蕉の「軽み(かろみ)」に通じる境地に達した写真家ではないかと感じてしまう。「軽み(かろみ)」を簡単に語るのは難しいが、人生は良いことばかりではないが他に選択肢があるわけではないのだから、逆にそれを楽しむ、のような意味。
そのように気付くと、1986年~現在まで取り組んでいるカオスシリーズには俳句のような「間」を感じられる。組写真の余白スペースはまさに「間」だ。またパノラマ作品では長さがあるので視点を何度か変えて見ることになる。その視点の移動が「間」を生むのではないだろうか。その効果の結果、私たちは現実からクーデルカの心の世界に誘われる。観客はいままで会場で見てきた彼の旅の人生そのものに思いをはせることになる。クーデルカのような人生を歩むことはできないことを思い知らされて、改めて彼の写真に惹きつけられるのだ。カオスシリーズは、クーデルカの回顧展でこそ魅力が強調されると感じた。

彼のオリジナルプリントはニューヨークの有名ギャラリー、ペース・マクギルが取り扱っている。オークションでの取扱いはまだ多くはないが相場は、数千ドル~4万ドル程度。2011年春、クリスティーズ・ニューヨークではジプシーからの1枚、銀塩の”Romaina,1968″が、43,750ドルで落札されている。これは80年代にプリントされた作品。ちなみに本展でも同作は展示されている。サイズも同じだ。(図録P.60)

本展は今秋開催のベストの写真展。アート写真ファンは必見だろう。