岡村昭彦「生きること死ぬことのすべて」パーソナルな視点による戦争・紛争写真

本展は一般にはあまり知られていない戦争写真家、岡村昭彦(1929-1985)のキャリアを本格的に回顧するもの。
彼は1964年6月12日号の「ライフ」に9ページにわたり掲載されたベトナム戦争の写真でフォトジャーナリストとして国際的デビューを果たし「キャパを継ぐ男」として世界的に注目された写真家。学芸員の金子隆一氏によると、展示作品は5万点におよぶ写真原版にまで遡り、研究者と関係者の監修のもとに既発表、未発表を問わずに新たにセレクトをおこない、オリジナル・プリントとして制作したもの、とのことだ。知名度の高くない岡村の本格的紹介を試みた意欲的な展示といえるだろう。

私の写真に対する第一印象は予想とかなり違っていた。岡村は戦争や紛争を撮影していたと聞いていたが、特に被写体の悲惨さや残酷さを強調するものではなかった。フレーミングといい、モノクロではなくカラーで撮影されている点など、オーディエンスがその場にいて見ているような普通に感じるイメージが多いと感じた。
全くの畑違いの写真なのだが、ウォルフガンク・ティルマンス(1968-)の最近のフォトブック「Neue Welt」(2012年、Taschen刊)に収録されている、ストリートを撮影した写真に雰囲気が似ている気さえした。

写真展カタログに掲載されている写真研究者、戸田昌子氏のエッセー「目の中の傷」を読んだら、私がそのような印象を持った理由が良く理解できた。戸田氏は岡村の写真を「コンテンポラリー・フォトグラファーズ(社会的風景に向かって)」の流れで捉えているのだ。これはイーストマン・ハウスで1966年から3回にわたって開催された展覧会のこと。ブルース・デビットソン、リー・フリードランダー、ゲイリー・ウィノグランド、ダニー・ライアン、ドゥェイン・マイケルズらが選ばれている。彼らは記録目的のドキュメントの対象になるドラマチックな出来事ではなく、個人的な普通の日常の出来事に対して視点を向けているのが特徴だ。もちろん、その原点はロバート・フランクの「アメリカ人」とウィリアム・クラインの「ニューヨーク」にある。

かつて、写真は大衆に世界の様々なイベントを目撃させて真実を伝えることが可能だと考えられていた。その後、テレビがその役割を担うようになり、真実を伝えるという写真神話は崩壊した。 一方で写真が自己表現の可能性なメディアであることが認識されるようになった。それが写真表現にも変化を与え、それまでのタブーだった、アレ・ブレ・ボケなども表現方法として取り入れられるようになる。「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」展はそのような状況変化を提示した60年代の写真動向を語るうえで重要な展覧会なのだ。

岡村がいままで美術館レベルであまり注目されなかったのは、戦争写真という性格上、ドキュメンタリーの視点からの評価しかされなかったからだろう。しかし、実際は戦地や紛争の場所が彼の日常だったのだ。写真家デビューが遅く、初期写真はピントが甘かったり、また決定的瞬間を重視した写真でなかったことも影響していたのだろう。しかし、彼がパーソナルな視点で戦争現場の出来事を撮影していたと解釈すると、その一見技術が劣ると感じる写真がとてつもなく魅力的になると思う。当時の感度の低いカラーフィルムで撮影したのも、戦争現場がモノクロで抽象化されインパクトを強めることを意識的に回避したからだろう。会場で配られている、モノクロ写真をコレクションしたパンフレット「monochrome」を見ると、それらはまさにステレオタイプの戦争写真だ。カラーとモノクロだと印象が全く変わってくることが良く理解できた。

戸田氏は「その衝撃度は日常的なまなざしであるカラー写真だからこそ増したのではないだろうか」と指摘している。そして岡村のパーソナルな視点で撮影されたベトナム戦争の写真がアメリカ人に戦争を「他者の問題」ではなく「自己の問題」として認識させるきっかけを作ったとしている。岡村の写真はグラフ・ジャーナリズムの崩壊を象徴しているというわけだ。これは写真史とアメリカ史を踏まえた的確な分析だと思う。
彼はベトナム戦争後も、ドミニカ、ハワイ、タヒチ、北アイルランド紛争、ビアフラ戦争などを取材している。戸田氏によると「岡村のテーマは、戦場だけではとらえきれない戦争の姿を探し続けることだった。日常の中に深く根を下ろした戦争の惨禍と傷みを、どのように受け止めていくのか、ということが岡村の仕事のすべてを貫く中心にある問題意識である」としている。そして彼のキャリアを通しての様々な活動を「戦争のすがたをあらゆる日常の中に見出す」姿勢から行われていると分析している。これこそが岡村の一貫した作品コンセプトということだろう。戸田氏の「目の中の傷」では、非常にわかり易い優れた写真家のテーマ分析が行われている。日本では感想文的なエッセーが多い。このような写真家の視点を明確にした写真評論は非常に珍しい。岡村昭彦の写真を写真史の中で再評価した優れた仕事だと思う。
なお都写真美術館は大規模改修工事に伴い2014年9月から約2年間休館する。本展は最後の美術館主催展にふさわしい、素晴らしい内容とメッセージ性を持つ展覧会だといえるだろう。ぜひ海外の美術館にも巡回してほしい。

スティーブン・ショア(Stephen Shore)の新作「WINSLOW ARIZONA (SEPTEMBER 19th, 2013)」

六本木のアクシスに今春オープンしたIMA Galleryの3回目の企画展「THE STREET GOES ON」が8月10日まで開催されている。
運営する(株)アマナは、季刊写真雑誌IMAの刊行を皮切りに、アート写真分野の幅広い業務に積極的に取り組んでいる。ギャラリー、ブックショップを含むコンセプトストアーの運営、ワークショップやセミナー開催、複数の写真ギャラリー経営者と共同での写真販売会社の設立、独自の業界団体の立ち上げ、フォトフェアの企画開催、写真集の出版、プラチナプリントの工房アマナサルト設立などを行っている。また現代アート・写真分野で活躍する日本人写真家・アーティストの作品を独自の視点から積極的にコレクションしている。

これらはすべて利害関係がからむことから、彼らの事業方針や方法論には様々な意見がある。しかし日本のアート写真市場はまだ黎明期で、市場がまだ非常に小さい規模にとどまっている。どんな形でも上場企業による先行投資は、市場拡大のための好ましい活動といえるだろう。もし彼らのここ数年の取り組みがなかったならば、いまの日本の写真界はいまよりもアマチュア写真が中心となり、アート写真は世間で忘れ去られた存在になっていただろう。

本展のIMA Galleryの案内コピーは「世界の写真家たちのストリートフォトの共演。路上を様々なアプローチで切り撮った7人の写真家の中からあなたのお気に入りの1枚を見つけてください」というもの。参加者は、スティーブン・ショア、マーク・コーエン、北島敬三、ホンマタカシ、ピーター・サザーランド、春木麻衣子、ロレンツォ・ヴィットォーリ、オスカー・モリソン。資料には特定のキュレーターのクレジットはないので、IMA編集部が中心になって参加者が選ばれたと思われる。

展示のメインはウィリアム・エグルストンとともにシリアス・カラー写真を代表する米国人写真家スティーブン・ショア(1947-)の新作「WINSLOW ARIZONA (SEPTEMBER 19th, 2013)」の展示だろう。
彼は、1970年代から米国中のロードトリップを敢行し、何気ない普通のアメリカン・シーンを撮影している。代表作に、35ミリカメラで撮影した写真によるロードムービー的な作品の「American Surfaces」や、大型8X10インチ・ビューカメラによる「Uncommon Places」がある。客観的な視点で撮影された一連のカラー作品は、アンドレアス・グルスキーやトーマス・シュトゥルートなどの現代アート系アーティストに多大な影響を与えている。いま市場を席巻している巨大風景作品の原点がショアだともいえるのだ。

本作は「アート・トレイン」で全米を横断するという、現代アート作家ダグ・エイケンの「Station to Station」プロジェクトにショアが参加した時に制作されている。これは、エイケンが列車を貸し切り、事前に決められている駅に到着するたびに参加しているアーティスト、映像作家、パフォーマーがその地に用意された会場で作品を展示したり、パフォーマンスを行うようなイベント。ショアは本プロジェクト参加に際し、単なる展示やフォトブックのために写真を撮るのではなくパフォーマンスを行いたいと考えたという。彼は、南カリフォルニアの小さな町バーストウが停車駅に含まれ、そこのドライビングシアターが発表の場であることを知らされていた。 彼は「American
Surfaces」の撮影の際に、バーストウの一つ前の駅となるアリゾナのウィンスローを訪れたかことがありそこには土地勘があったようだ。彼は、列車がウィンスローに到着する2日前に町に入り、その地で1日中撮影を行い、それらの写真をバーストウのドライビングシアターでスライドショーとして上映する計画を立てる。写真の編集は一切行わず、シークエンスもそのままで上映すれば写真撮影の行為自体が一種のパフォーマンスになるのではないかと考えたのだ。前半の写真撮影、後半の上映を通してのパフォーマンスということで、彼はこれを「Visual  Improvisation(即興映像)」と呼んでいる。実際のスライドショーでは、なんとロックバンドのノー・エイジとベックがライブ演奏する中で約180点が上映されたという。

撮影は8X10インチの大判カメラではなくニコンD3Xで行われている。しかし撮影スタイルは不変で、彼はひとつの被写体について1枚だけシャッターを押している。ギャラリーの資料によると、展示作品は50.8X61cmのサイズ、C-Print、エディション8枚とのこと。販売価格は売れた枚数により異なるが、人気アーティストであることから展示作はすべて100万円を超えていた。
なお「WINSLOW ARIZONA」は写真集化もされ、それには上映された180点のうち約64点が収録されている。パフォーマンスで使用された作品を、その当初の意図から離れて写真集化するのはどのような意味があるのかはやや気になるところだ。単にその資料として制作されたということだろうか?ショアというと私たちははどうしても「American Surfaces」や「Uncommon Places」を思い起こしてしまう。特に本作は撮影場所や写真フォーマットが「American Surfaces」と重なることから、オーディエンスはその延長上の作品と捉えてしまいがちになるだろう。
写真集のページをめくるに、どうも彼が21世紀のウィンスローに代表作を制作した70年代の残り香を求めているような印象を感じてしまう。当時の未発表作として提示されても信じる人が多いのではないか。シティー・スケープを撮影する場合、頻繁にモデルチェンジを繰り返す車に時代性が反映されることが多い。本作でショアは、ファイヤーバード・トランザムなど70年代以前の車を多く撮影している。また、古びて朽ち果てた看板、ネオンサイン、家屋や町の断片を意識的に撮影している。 またデジカメでの撮影なのだが人間は撮影されていない。ポートレートは髪型やファッションを通して時代の雰囲気が写真に現れることが多い。インテリアの写真がないのも同じ理由からだろう。「Visual Improvisation(即興映像)」ということは、アイデアやコンセプトはないオーディエンスは自由にヴィジュアルを見て楽しんで欲しいという意味だろう。しかし、普通で何気なく感じられる一連のイメージは、決してドキュメントではなくショアのパーソナルな視点で映し出された風景なのだ。
「Visual Improvisation(即興映像)」として作品を提示したのは、「Station to Station」の企画者であるダグ・エイケンへ敬意を表したということだろう。自分のスタイルを確立した写真家は、特に明確なコンセプトを提示しなくても観る側がどのように意識するかを想像できる。ショアは、本作のオーディエンスが自分の70年代の作品を思い浮かべることを最初から意識しているのだと思う。
彼は70年代のアメリカがすでに懐かしむ対象になっていることを示そうとしているのではないか。70年代は、石油危機、ベトナム戦争、スタグフレーションなどがあり経済や社会文化が決して良い時代ではなかったと思う。
だから、彼は当時の作品でアメリカン人の心に沁みるような原風景の残り香を提示し、消費文化が盛り上がった黄金の50年代の断片を皮肉を多少込めて表現した。それはかつてアメリカンドリームが描けた古き良き時代の象徴なのだ。

ではなぜ「WINSLOW ARIZONA」で、決して良い時代だと感じていなかった70年代の断片を求めたのだろうか?、それは現在と比べると、まだ当時の方が多くの人が将来に対して夢が描けたということなのだと思う。貧富の格差が広がり、中間層が没落している現在の状況を考えて欲しいという意図があるのだろう。かつて道の先にあると信じられていたアメリカンドリームは、いまやはるか遠い昔の記憶の中にしか存在しないということなのだ。
彼は、かつてインタビューで『私の作品は、写真、世の中、自分自身などを探求した結果として生まれている』と語っている。本作は今に生きるアメリカ人へのメッセージなのだと思う。過去を振り返ることは、いまを考えるきっかけにもなると伝えたいのだろう。そして現実をリアルに認識して、新たな生き方を見つけてほしいという願いが込められている。アメリカ文化の影響を受けた世代の日本人も、リアリティーを感じる作品ではないだろうか。

ジュリアン・レヴィ (Julien Levy)「Beauty Is You Chaos Is Me」展 欧米におけるアート写真最前線の表現!

シャネル・ネクサス・ホールは、数ある日本のアート作品展示スペースの中でも、最も熱心に最先端の欧米のビジュアル表現を紹介している。常にアーティストの展示意図をできる限り尊重する彼らの姿勢には敬意を表したい。 そこからは、日本とは違う欧米社会でのアート支援の基本姿勢が垣間見えてくると思う。

現在、同ホールではジュリアン・レヴィ(Julien Levy)「Beauty Is You Chaos Is Me」展が7月20日まで開催されている。レヴィは1982年パリ生まれ。現在はニューヨーク中心に活躍しているアーティスト。本展では、東京、パリ、ニューヨークで制作された、写真、映像、インスタレーション、フォトブックなどを複合的に展示している。それらはデジタル革命第2ステージを迎えた欧米の最先端のアート写真表現といえるだろう。

彼自身は「眼で見る詩のコレクション」と自作を語っているが、詩人が様々な映像手段を使用して3次元空間で表現していると解釈したほうがわかり易いかもしれない。
アストリッド・ベルジュ=フリスベ、水原希子などの女優たちのポートレートやメランコリックな風景が主なモチーフになっている。すべてが観る側が写真家の視点を共有できるようなカジュアルなスナップ的なヴィジュアルだ。 アート的な写真として非日常的に展示会場の壁面に存在するのではなく、あくまでも観る側が自分の視点の延長上にあるように感じるシーンが連なっている。
そのための仕掛けとして、フィルムの半分だけが露光されて写真や、大きなマットの中に数センチの四方の極小の写真をセットしてそれをルーペで拡大する方法、部屋のインスタレーションの中で見せる方法などが導入されている。私たちの頭の中で、浮かんでは消えていく過去の記憶イメージを表現するかのような布や壁へのビデオの映写もその一部なのだろう。
これらはすべて、観る側が作品に入り込んでリアリティーを感じてもらうための仕掛けなのだと思う。この部分の展示アイデアもが彼の作品コンセプトと一部になっている。
ただし、自由な表現を目指し、作品がフレームからも自由になろうとしながらもその中にあえて留まっている印象もある。個人的にはフレームでの展示パートにやや違和感を感じた。会場設営に1週間もかかったそうだが、広いシャネル・ネクサス・ホールでの短時間での展示には限界があったのだろう。

全体の様々な形態の作品を俯瞰するに、一種のヴィジュアル・ストーリーのような印象だ。会場がシャネル・ネクサス・ホールであることから美を追求するシャネルというブランドの世界観をビジュアルで表現しているような感じもする。同社のリシャール コラス氏は彼のことを”ジュリアン・レヴィの作品は私たちの心を揺さぶり、混沌と嵐、無垢と残酷、エレガンスと無頓着とを問いかける。過去に例の見ないポエティックな「美」の賛歌であり、シャネルがこれに関心を寄せたのは当然の成り行きであった”と評している。彼もそのような印象を持ったのだろう。

現代社会の中で自由に生きることもレヴィの重要なテーマとなっている。彼はココ・シャネルと自分は「美」のとらえ方が共通していると主張している。さらに続けて”「美」は、パーソナルで、形がなく、変化し続けるもの。闘って手に入れなければならないもの。与えられるのではなく、この手で掴みとるもの-。私にとって、美を渇望することは、独立宣言と同じなのです。”と語っているのだ。ここの「美」は全て「自由に生きる」に置き換えられるだろう。
生きにくい社会生活のなかでできる限り自由に生きるために、シャネルは服を通して、レヴィはヴィジュアル表現を通して、「美」を追求してきたのだ。
この点を正しく知っていないと、本展の趣旨は理解できないだろう。自由に生きることを自分の夢を一方的に追求すること、権威を否定することと勘違いしている人がとても多い。しかし自由とはある一定の条件の中で成し遂げられることなのだ。アーティストは好き勝手なことを行っている人ではない。それができるのはアマチュアだけだ。

シャネルのような有名ブランドとの仕事では、レヴィはアーティストとしてある程度の妥協が求められるだろう。時に納得がいかなくて精神的に落ち込むこともあるかもしれない。それは一般の社会人が行っている仕事と何ら変わらない。そこで自己主張だけを一方的に行えば仕事は成立しない。自由と不自由との落としどころを的確に見つけ出す能力がプロのアーティストには求められるのだ。
またそれは仕事を行う相手にもよっても変わってくるだろう。フランス人の彼は、同じような考えを持って苦労してブランドを構築したシャネルの生き方に敬意を払っている。だからこそ妥協点が見つけられるではないか。彼のように自分より上位のものを尊敬して、認められる人は自分自身をそこまで高めることができるのだ。それで逆に彼は自由を獲得しているといっても良いのではないか。またアートの世界で生きていくこと自体も、資本主義という大きなシステムの中で確信犯で自分をそれに合わせることを意味する。彼は、若い時は「美」を追及していたが、いまは「優雅」を追求しているという。その優雅「Grace」とはシステムをうまく乗りこなすという意味も含んでいるだと思う。 彼はアーティスト活動を続けていくうちに自由に生きるということの真の意味を理解して実践しているのだと思う。

本展では、欧米のアートシーン最前線で活躍するアーティストの写真表現を見ることができる。まさに「デジタル革命第2ステージ」の現場といえるだろう。特に写真表現でアーティストを目指す人には見て、考えて欲しい展覧会だ。