日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(2)

前回の新しい写真カテゴリーの提案内容を整理整頓してみたい。

欧米的な基準では、日本の現代写真はファインアート系とインテリア系の二つに分けられるというのが現状認識だ。これからは、その中間に新たなカテゴリーを追加してみてはどうかという提案になる。 これにより、日本のアート写真の範囲が大きく広がると考える。
まず一番大きなシェアーを持つインテリア系写真を二つの分野に再分類できるだろう。また無名な人、凡人であってもこの分野のアート作品を作れる可能性が出てくる。ハイ・アマチュアといわれる写真趣味の人たちが数多くいる。彼らはあくまでアマチュアだったのだが、その中にも新しいカテゴリーに再分類できる人がいると思う。
アーティストの意味を拡大解釈することにもつながると考える。従来のファインアート系とインテリア系の写真家は、作品制作と販売を仕事として行っている。この新しい分野ではアーティストとは、社会と能動的に接している人の生き方だと拡大解釈する。作品販売を主としない写真家や、別の職業を持つ人もアーティストになり得ることになる。ファインアート系、インテリア系の写真家は販売が仕事だからキャリア継続のために真剣な営業活動が必要不可欠だ。しかしこの新しい分野の人は特に必要ない。販売ではなく制作過程が目的なのだ。
もちろんこのカテゴリーと評価された人に何らかの気づきがあり、それがきっかけになってテーマ性を意識できるようになり、何らかの視点が提示できれば、ファインアート系に分類されるようになるだろう。もしこの新しいカテゴリーが欧米で認識されれば、それは多文化主義の流れのなかでアート系写真の一種類と認められる可能性もあると考える。

・ファインアート写真

 欧米の現代アートの要件を満たす写真
・クール・ポップ写真
 時代の価値観を内包するマージナ・フォトグラフィー
・インテリア写真
 デザインとフィーリング重視の装飾系写真

海外にもアイデアやコンセプトが内在されたような写真は存在するのではないか、という指摘もあるだろう。
アーティストを目指す多くの若手や新人は、いまという時代に生きる中で何かを感じて、自分の考えを作品で伝えようと悪戦苦闘している。それをどのように言葉にしたり定義づけして、作品として提示したらよいかわからない場合もある。この状態の写真作品を専門家が見立てればクール・ポップ写真と何ら変わらないだろう、とツッコミがはいるかもしれない。
実は欧米のポートフォリオ・レビューはそのそうな人に創作ヒントを与えるために行われる。写真家は様々なコメントやアドバイスに対して非常にオープンだ。レビュアーとの対話の中で何らかの気づきがあれば、それらを作品に積極的にフィードバックさせてアート作品へと展開させていくのだ。だから、海外のこの種の写真はファインアート系の一部と判断すべきで、クール・ポップ写真ではない。

ちなみに日本のポートフォリオ・レビューは、同じ名称だが内容が全く異なる。まず専門家のアドバイスに対する写真家の対応が決定的に違うの。すでに固まっている自分の感覚や考えの枠組みがあり、それを外れるものには関心を示さない。レビュアーもそれを心得ているので、写真の感想を述べる場になっている。感想はだれでもいえるので、とても広い分野の人がレビュアーを勤めるという状況だ。 写真家のやりたいこと、好きなことの追及が優先され、自分の写真に共感してくれる、寄り添ってくれる人探しの場なのだ。専門家のアドバイスを、世の中への情報発信のきっかけにしようと考える人はあまりいない。感覚はパーソナルなものなので、他人は好き嫌いは言えてもそれに対して評価を下すことはできない。
これらの写真は、インテリア系写真、アマチュア写真となる。しかし中にはそれらに単純にカテゴリー分け出来ない作品も存在する。日本ではクール・ポップ写真が以上のような感覚重視の写真作品と混在している。それゆえ、第三者が見立てを行い、カテゴリー別けが必要だと考えたのだ。

新しいカテゴリー分けを行うことで、曖昧気味だった日本写真の分類がわかりやすくなるのではないか。デジタル技術が進化し現代アートが写真を飲み込んでしまったことで、従来のファインプリントの美しさとモノクロの抽象美を追求していた20世紀写真の流れを踏襲する写真家は、写真分野のアルティチザン(職人)のような存在になりかねない状況だ。しかし、そのような技術的な面を追求している人がいる一方で、無意識のうちに時代性を持つメッセージが含まれた作品も少なからず存在している。それらは、現代アート分野の写真ではないが、デザイン重視のインテリア写真でもない。 その中間に位置する一種のマージナル・フォトグラフィーのクール・ポップ写真といえるだろう。海外で評価されている日本人写真家にはこのタイプが多いと考える。
また、第三者の見立てはによるアートの提示は、ファウンドフォトの展示方法、美術館のキュレーターの企画力、編集者によるフォトブックの編集力とも重なってくる。いま現代アートの概念が拡大され、それらの行為がアート表現の一部だと解釈されるようになっている。写真は撮影しない人が、写真作品の視点を読み解いて提示することでアーティスト的な役割を果たすことになるのだ。千利休、柳宗悦、赤瀬川源平などはまさにそれを行っていたのではないか。

評価の基準は、評価者の直感による。民藝が職人の手作業に注目したように、クール・ポップ写真では写真家が心で世界を見る行為に注目する。しかしそれは主観的な好き嫌いや思いつきではない。また瞑想のような見る行為自体に安易に価値を見出すのには注意が必要だろう。それは感覚の評価と表裏一体だからだ。
またインテリア写真のようにデザイン的視点からだけの評価でもない。「直感」は見る人の頭の中の美術・写真史や、情報の集積、様々な感覚に対する理解の結果もたされる。写真家が無意識のうちに提示しようとしている、新たな組み合わせ、融合された視点に気付くことでもある。そしてそれが時代の中でどのような意味を持つかの判断だ。直感は単に何もないところからわいてくるのではない。この点は創造性と同じなのだ。
内在されているアート性のヒントは、写真家が無意識のうちに写真が撮れるようになったきっかけや背景に隠されているだろう。そこに至るまでの過程には現代社会における何らかの価値観との関係性があるはずだ。以上のように、写真家以上に見立てる人の実力が問われると考える。

どのような人が見立てることになるのだろう。直ぐに思いつくのは、評論家、キュレーター、ギャラリスト、編集者、書店主、クリエーター、コレクターなど。写真家により見立てもあると思う。リチャード・アヴェドンがラルティーグを、リー・フリードランダーのアーネスト・ジェームス・べロックを、ベレニス・アボットがウージェーヌ・アジェを見出した例などが思い浮かぶ。これらの例は写真が必ずしもファインアートだと広く認識される以前の時代の出来事だ。 いずれも無意識に作品に反映されていたアート性を写真家が見立てて紹介した例だろう。

当たり前のことだが、見立てを行う人は自分の判断に責任感を持たなければならないと考える。場合によっては、反発を受けたり、嫌われることもいとわない姿勢が必要だろう。アマチュア写真家以外の人の作品に対して、責任の伴わない感想を述べるのには注意を払うべきだ。感想は相手から反感を買うことはないだろうが、それは作品の客観的評価とその責任を回避していることでもある。写真家がアート作品を作り上げるための手助けをするような考えにこだわることはないだろう。それは相手に自分の考えの受け入れや感謝を期待し、また場合によっては失望ににつながるからだ。相手の反応を気にすることなく、自分の視点で評価してその発言に責任を持てばよい。

この新しい分類によって、アート作品を販売する現場の担当者は精神的に楽になる部分もでてくるだろう。すべての写真家にファインアート系のような厳しい職業的取り組み姿勢を期待しないことになるからだ。クール・ポップ写真の評価を通じで写真家が何らかの気付きに至ってほしいというのが本音なのだが、それらの情報が作品にフィードバックされることを期待することなしに評価を行うこととする。
写真作品の形式もファインアート系とインテリア系の折衷になるだろう。作品ポートフォリオを通じてメッセージを伝えるもの、絵画のように単体のシリーズ、もしくは1枚で評価する場合もでてくるだろう。もちろんフォトブック形式にも多大な可能性があると考える。

マージナル・フォトグラフィーであるクール・ポップ写真は一つの提案である。いままで会う人ごとに大枠を話して反応を見てきた。どれだけの人が共感してくれたかは不明だったのでとりあえず理論編の叩き台として自分の考えを2回に分けて本当に大雑把にまとめてみた。今後は、関心のある人の意見を参考にしてさらに考えを展開していきたい。ぜひ多くの人から様々な意見を聞きたい。ヴィジュアル表現の写真を語っているので、何らかの具体的な作品提示が必要なことは十分理解している。近い将来、何らかの機会で実際の提示を通して個人的な見立てを紹介してみたい。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(1)

欧米ではアートの表現方法のひとつのとして写真は存在している。いまや写真は単独に存在するカテゴリーではなく、ファインアートの現代アート分野のなかの表現方法の一つになっている。もう一方で、インテリア・デコレーション用の写真も明快に区別されて存在している。主に商業写真家やデザイナーが販売目的の仕事として商品開発を行っている。両者の、アーティスト、ギャラリー、アートフェアは明確に区分されている。価格帯でいうと、インテリア系が低価格から始まり、サイズやエディションにより70ドル~2500ドルくらいまである。
ファインアート系では若手新人の作品が700ドルくらいからあるので、全く違うカテゴリーの写真が価格帯では重なって存在していることになる。ファインアート系はアートの理解力を持つコレクターが主要顧客となる。それらはアーティストのキャリア展開によっては資産価値を持つ可能性がある。
インテリア系は、アートの専門知識を持たない人が購入者で、販売者は価値上昇の可能性を示唆するものの実際は消費されるだけの商品だ。

では日本の写真界の現状をみてみよう。
日本人にも杉本博司のように欧米と同様に作品テーマを明確に決めてコンセプトを提示する現代アート的表現を行っている人もいる。しかし彼らの活躍するのは日本国内ではなく、環境が整っている海外市場が中心となる。アート性や作品相場も海外基準で決まっている。市場が小さいことから、国内ベースに作家活動を継続している人は非常に少ない。
また欧米のアート界には、彼らと異なる文化の価値観を愛でるカテゴリーが存在する。 欧米と比べての文化の独自性、特殊性が表現されたものが好まれる。アフリカ、中国、中東、インド、南米などがあるが、日本もそれに含まれる。欧米に比べて、宗教的、性的、肉体的、精神的に異なった価値観を持つ社会から生まれた作品が好まれる。なかにはエロティシズムとグロテスクが強調された作品も含まれる。この分野のコレクターは海外に存在しており、ここで活躍する写真家は少なからずいる。

日本現代写真と呼べばよいような独自市場も存在する。
外見は、上記のような現代アート系の写真作品なのだが中身は全く違うので説明してみよう。世界標準から離れた独自の進化を遂げた携帯電話のことをガラパゴス化というが、アート写真市場もかなり似た構造になっているのだ。
現代アート系の作品の前提は自立した個人があり、論理的思考で構築された自らの世界観を世の中に提示する。日本にもこのような欧米的なテーマとコンセプトを提示している写真家がいる。しかし実態はといえば、個としての自分自身が考えて絞り出したのではなく、世の中にあるアイデアとコンセプトをコピーして持ってきて、作品の体裁を整えるだけのものがほとんどだ。自分自身が意味を理解していない専門用語を並べたと思われる、理解しにくいアーティスト・ステーツメントが非常に多いと感じる。自分の考えでないので、テーマについての議論が行われることはあまりない。この種類の作品は自分のパーソナルな感情の連なりやその場のフィーリングを表現していることが多い。また色彩的、グラフィカル面が重視された写真である傾向もある。
日本では「アート」という言葉が非常に広い意味を持ち、またオランダのようにデザイン性を評価する土壌があるからだろう。優れたデザインがファインアートだと考えている人もいて、これらの要素を持つ抽象的な写真がアート作品として提示されることも散見される。
海外市場の基準に照らし合わせると、それらはヴィジュアル重視のインテリア向けアートにかなり近い存在となる。前記のように海外では2500ドルくらいまではインテリア・アートの価格帯になる。

日本社会では個人は独立してなく、共同体の一部として存在する傾向がいまだにだ強い。個人が社会との緊張関係を持てないのでが利己的になりやすい傾向もある。歴史文化がまったく違うので、日本で欧米基準の現代アート分野に分類される作品が生まれ難いことは否めないだろう。しかし日本でも非常に多くの写真家が作品を制作している。ほんとうに海外で活躍する一部のファインアート系写真と、一般大衆向けのインテリア系写真しか存在しないのか。その他のすべてにアート性がないのだろうか?
実際には写真を通じ世の中と能動的に対峙しており、単に一瞬の感覚だけで写真撮影していない人もいると考える。しかしそれらの写真を市場の中心である海外の基準でアートと評価するのは難しいようだ。
そのように悩んでいるときに出合ったのが評論家の鶴見俊輔による限界芸術という考えだった。欧米の価値観では分類できない多くの日本の写真家の作品群は、彼の提示する限界芸術ににかなり近いのではないだろうか直感した。彼は著書の「限界芸術論」(1967年、勁草書房刊)で以下のように定義している。「今日の用語法で『芸術』と呼ばれている作品を、「純粋芸術」(Pure
Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を『大衆芸術』(Popular
Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を『限界芸術(Marginal  Art)』と呼ぶことにしよう。」としている。また「芸術とはヴィジョンによって明るくされた行動である」「芸術とは、主体となる個人あるいは集団にとって、それをとりまく日常的状況をより深く美しいものに変革する行為である。したがって、状況の内部のあらゆる事物が、 新しい仕方でとらえられ価値づけられることをとおして、芸術の素材となる」とも記している。これは現代のアートの理解とかなり近い認識といえるだろう。
限界芸術の一部だと鶴見が指摘している分野に、柳宗悦が提唱する「民藝」がある。柳は優れた美であれば、鶴見のいう純粋芸術にあたる「作家性のあるもの」とともに、 無名な職人の作品を積極的に評価してきた。彼は「自然は常に完全で、一切のものは自然に含まれている」というロダンの自然観に学び、「美は自然を征服した時にあるのではなく、自然に忠実な時にある」とする。これは、日本の伝統的な美意識を積極的に評価するとともに、人間が自然を支配するという西洋の思想へのアンチテーゼともいえるだろう。
民藝と同じように、写真分野でも、有名になりたい、評価された、お金を稼ぎたいというエゴからかけ離れたところで作品制作に取り組んでいる人が少なからずいる。彼らは意識的にテーマを選びコンセプトを提示してはいないものの、何らかの社会的視点が語れる写真作品を提示している。邪念を捨てて無意識のうちに写真が撮れるようになったきっかけや背景には今の社会の何らかの価値観とのつながりがあるはずではないだろうか?欧米ではそれらの写真はファイン・アート系の一部に分類される。しかし日本では感覚が優先されるので、写真家自身が意識的に作品コンセプトへと展開させることは少ない。日本ではそれらがアート写真なのだと理解されている状況もある。
しかしいくら作品にテーマ性やコンセプトが内在していても、写真家個人が意識的にならなければそれらは欧米的な基準ではインテリア系の写真作品に分類されてしまう。そうであれば、写真家が無意識のうちに撮影して優れた視点を内在する写真作品を、限界芸術の考えを導入して、ファインアート系写真と、インテリア系写真の中間のカテゴリーだと規定して、民藝運動で柳などが無名の職人の仕事を評価したように、第三者が積極的に評価してはどうかと考えた。
第三者が見立てて評価するアプローチは千利休の茶道具の見立てにかなり近い感覚ではないか。見慣れたものに新しい価値を見出す赤瀬川源平の超芸術トマソンなどの美意識とも通底している。日本の写真史を振り返ってみれば、50~60年代の写真も、写真家自身から語られたというよりも海外の専門家が写真家の日本の伝統文化と戦後流入したアメリカ文化との葛藤を見出して評価した面が強いといえるだろう。第三者による見立てが、写真表現を通しての文化の動向を顕在化させる可能性もあるのだ。

そのような限界芸術の写真は「マージナル写真(フォトグラフィー)」というような呼び名になるだろう。ただし、響があまり良くないので、柳宗悦が限界芸術を「民藝」と命名したように、とりあえず「クール・ポップ」写真と命名してみたい。クールはカッコいいという意味で時代との接点があることを意味する。ポップは大衆文化のことで、その両方を兼ね備える写真という意味だ。これは写真家の社会に対する視点が無意識のうちに反映された写真作品といえるだろう。
とりあえず今回は新しい分野の提案だけにしておき、次回ではこの写真をさらに深く考察してみたい。