日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(4)
はてしなく自由な新山清の作品制作

新山清(1911-1969)は、サブジェクティブ・フォトグラフィ(主観主義写真)の写真家として、ドイツのオット・シュタイナート(1915-1978)に認められた写真家だ。私どもは、彼こそはマージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真に分類されるべきだと考え、先月のAXISフォトマルシェ2で展示している。

サブジェクティブ・フォトグラフィとは、20世紀中盤に世界的に起きた写真表現の動きで、自立した個人が世界の事象に対する解釈や視点を写真技術を駆使して積極的に表現すること。しかし、日本では独立した個人という感覚が希薄なことから、写真撮影の方法論、テクニックだと理解されて定着せずに忘れ去られてしまった。しかし、ドイツではベルリンのキッケン・ギャラリーが2013年と2014年にサブジェクティブ・フォトグラフィを再評価するグループ展を2回開催している。いまアート写真の世界では、デジタル技術を駆使した、現代アート的作品が市場を席巻している。このグループ展は、サブジェクティブ・フォトグラフィをその原点と解釈しようという意図があるのだろう。

さて民藝が職人の手作業に注目したように、マージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真では、写真家がどれだけ心を開いて世界と対峙しているか、また見る行為の強度を重要視する。
しかし、それは撮影時だけに止まらないことを新山清の写真は教えてくれる。つまり、撮影した写真をどのように自分の最も納得のいく最終形の作品に仕上げるかということだ。それには、暗室でのプリント作業。イメージの最適なトリミングなども含まれるだろう。

新山清の代表作にフカヒレを撮影した”Untitled(Fins),1950s-60s”がある。オリジナルはソルントンフレックスで撮影された6X6cm判のスクエアのフォーマットの写真だ。

干されているヒレの下部分には、遠方の草原の風景が広がっている。なんと彼は大胆なトリミングを行い、下部の遠景部分を切り落として横長の作品にしているのだ。実はこの横長の作品、いままでに2種類の方法で提示されている。ドイツのキッケン・ギャラリーが2013年に開催したグループ展の際に刊行している「subjektive fotografie」には、前記のスクエアを横長にトリミングした作品が収録されている。一方で、2010年に刊行された写真集「新山清の世界vol.2」では、なんと天地を逆にした作品が掲載されているのだ。
アーカブスを管理する新山洋一氏は、オリジナルとトリミング後の両作品を公開しているが、意識的に作品を制作するサブジェクティブ・フォトグラフィの写真家と評価するならば、トリミングされた方が写真家の意図が的確に反映されていると解釈できるだろう。
では天地の逆転についてはどうだろうか。2010年刊の写真集に天地逆の写真が採用されたのには何か理由があるはずだと考え、新山洋一氏にヴィンテージ・プリントを再確認してもらった。写真裏面には新山清の直筆と思われる数字が鉛筆で書かれており、その方向で表面を確認すると天地が逆転した方だった。これから本人が意図的に行っていた創作行為の一環だったことが推測できる。写真集刊行時には、プリント裏面の書き込みに忠実に天地が逆の写真を掲載、一方でキッケンのカタログはオリジナルに忠実にトリミングだけ施された写真を掲載したのだろう。

3種類の写真を見比べると様々なことがわかってくる。
スクエア・フォーマットの写真はグラフィカル的に非常にきれいにまとまっている。しかし、全体的に漁村で撮影したドキュメント的な印象が強い。一方で、下部分がトリミングされた写真は、そのままでは余白スペースの残り具合に違和感があり、天地を逆転した方が全体のバランスが格段に良くなるのだ。
最終的なセレクションからは、彼がこの写真をドキュメントとは認識していなかったのがよくわかる。このへんは、より最適なデザインの追及ではないかとツッコミが入りそうなところだ。しかし、写真が一般的にはアートと認識されていなかった約50年以上前に、ドキュメント写真では絶対にあり得ない大胆なトリミングと、天地逆転の実践は、写真を見る行為に対する強い集中力を感じざる得ないだろう。明らかに単なるデザイン追及を超えている。オット・シュタイナートは、このような自由な新山清の表現は意識的であると考えてサブジェクティブ・フォトグラフィーと見立てた。しかし当時の新山清は、まだそのような自覚はなかったのではないか。いや正確にはシュタイナートの視点に気付く前に、不幸にも若くして亡くなってしまったのだ。そうであれば、彼の創作が無意識のうちに行われたと解釈して、マージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真と評価したほうがわかりやすいのではないか。これが新山清作品に対する私の見立てだ。

私の単なる思いつきで日本の新カテゴリー写真として提唱を始めたマージナル・フォトグラフィーのクール・ポップ写真。予想外に多くの人が興味を持ってくれる。またこれは予想通りなのだが、写真家以外の人がよく反応する。将来的に、何らかの形でグループ展の開催を考えているので写真の見立てに興味のある人はぜひ協力してほしい。