2016年秋のアート写真シーズン到来! ニューヨークのオークション・プレビュー

2016年になってアート市場は全体的に弱含みの展開が続いている。高額落札の可能性やオークション会社の高額保証が見込めなくなりつつある中、委託者が貴重な逸品の出品を見送っている状況だ。また2年前まで活況で、投機対象だった若手アーティストの抽象作品の相場が崩れたことも市場の雰囲気を悪くしている。9月20日にフィリップスのニューヨークで開催された“New Now”でもその傾向に変化はなかった。このセクターの厳しい相場下落は現地マスコミで話題になるほどだ。
アート写真市場だが、以前も述べたように昨年秋以降に本格的な調整局面を迎えている。高額価格帯はもたつき気味の現代アート市場の影響を受け元気がない。中間、低価格帯の低迷は、かつては市場の担い手だった中間層コレクターの購買力が落ちていることが影響している。また彼らは年齢的にもコレクションを整理する側に回ることが多い。それに続くと期待される若い世代のコレクターが育っていないのも気になるところだ。活気のある市場では、様々な種類や価格帯の作品が売買されている。いまそのような市場の多様性がかなり失われつつある印象だ。現状は、資産価値がある有名アーティストの代表作に人気が集中する傾向が一層強まっているといえるだろう。私はいまの状況は一時的な景気の循環により起きているのではなく、もしかしたら構造的な変化によるのではないかと疑っている。

経済状況をみてみよう。為替は、米国の金利引き上げが年内1回程度との予想となり、また日銀の長期金利0パーセント誘導という一種の金融引き締めの影響により動きが出てきた。ここにきて、ドル円為替は1ドル/100円台近くの円高水準になってきた。専門家の中長期的な為替の予想を見るに、ここ数年は円高になるが中期的には円安を見ている人が多い。日銀による国債買い入れの継続や厳しい財政状況のなかでの政府の大規模な財政出動を考慮してのことだ。
また、日本は自然災害が多い国だ。大地震や火山噴火などがいつどこで発生してもおかしくない。少なくとも、外貨建て資産をある程度持つ意味はあるだろう。

私は、相場の地合いと為替動向から、日本のコレクターは長期的な視野に立った作品購入の検討を始めて良い時期にきていると考えている。10月上旬には定例の大手オークションハウスによるニューヨークのアート写真オークションが開催される。相場はもう少し下押しする可能性があるかもしれないが、興味ある写真家作品の市場動向には目配りしておいた方が良いだろう。為替と相場のベストの時期を追いすぎると、なかなか決断できない。あくまでもトレンドの中で買い場を探すスタンスを心がけてほしい。
クリスティーズは”Photographs”オークションを、10月4日のイーブニング・セールと5日のデイ・セールの2日間にかけて行う。初日は27点の入札が予定されている。
最高額での落札予想はエドワード・ウェストンの”Shells, 6S,
1927″、40~60万ドル(約4~6千万円)となっている。続くのはマン・レイの”Rayograph, 1922″で、25~35万ドル(約2.5~3.5千万円)の落札予想となっている。イーブニング・セールのうち、5万ドル以上の高額落札予想作品は8点、残りは1万ドル以上の中間価格帯作品となる。
現代アート系では、トーマス・シュトゥルート、ギルバート&ジョージの作品が含まれている。デイ・セールでは158点が出品される。こちらでは、花、メール・ヌードからリサ・ライオンまでのロバート・メイプルソープ作品21点がまとめて出品される。全体的に20世紀写真が中心で、ファッション系と現代アート系はかなり少ないセレクションになっている印象。中間価格帯までの現代アート系に関しては、ニューヨーク、ロンドンで今週に開催される”First Open Post-War and Contemporary Art” での取り扱いにシフトしていると思われる。
 フイリップスも”Photographs”オークションを、10月5日のイーブニング・セールと6日のデイ・セールの2日間にかけて行う。初日には29点の入札が予定されている。
最高額の予想は、ギルバート&ジョージの”Day,1978″。16点の写真作品からなるサイズ 202.3 x 162 cmの大作で、60~80万ドル(約6~8千万円)の落札予想となっている。続くのは、カタログのカヴァー作品のリチャード・アヴェドンによるバルドーのポートレート”Brigitte Bardot, hair by Alexandre, Paris, January 27,
1959″。こちらは22~28万ドル(約2.2~2.8千万円)の落札予想。フイリップスは、クリスティーズのイーブニング・セールとは方針がかなり違う。5万ドル以上の高額作品中心の出品で、ほとんどの作品の落札予想価格上限は5万ドル以上になっている。
デイ・セールでは約228点が出品される。ダイアン・アーバス14点、リチャード・アヴェドン10点、、アーヴィング・ペン8点、ピーター・ベアード8点、ビル・ブランド7点、などが予定されている。
こちらも先週に開催された”New Now”オークションで、中間価格帯までの現代アート作品を取り扱っている。しかし他社と比べて現代アート系の出品は多めの印象。またファッション系、ポートレート系には3社中で一番力を入れている。
ササビーズは”Photographs”オークションを10月7日に開催する。20~21世紀の178点が出品。落札予想価格は3千ドル~50万ドル(約30万円~5千万円)。クリスティーズと同様に、ササビーズも中間価格帯までの現代アート作品を今週ニューヨークで開催される”Contemporary Curated”での取り扱いに仕訳しているようだ。したがって”Photographs”の取り扱いは、ほとんどが20世紀の写真作品。アンセル・アダムスが19点、ロバート・フランクが9点、アルフレッド・スティーグリッツが8点、エドワード・ウエストンが7点、ハリー・キャラハンが7点などとなる。最高額予想は、アルフレッド・スティーグリッツによるオキーフのポートレート”Georgia ‘Keeffee”で30~50万ドル(約3~5千万円)の落札予想となっている。本作は1920年代にオキーフの姉妹に購入されて以来、市場に一度も出ていない極めて貴重な作品となる。
アルフレッド・スティーグリッツが編集に携わったカメラ・ワーク誌の50号の完全セットも注目のロット。こちらは15~25万ドル(約1.5~2.5千万円)の落札予想だ。
2014年のMoMAでの回顧展以来、再評価が続いているロバート・ハイネッケン。”Lessons in Posing Subject”はポラロイドSX-70、316点からなる41作品の完全版。こちらは10~20万ドル(約1~2千万円)の落札予想となっている。

全体のオークション出品作品数は昨年同期比で約10%減、今春とはほぼ同数となる。出品作を見てみるに、各社とも重点を置く、出品カテゴリー、作家のセレクション、価格帯に独自の工夫を凝らしてきた印象だ。弱含んでいる市場にどのように活力を注入するかの考え方の違いが反映されていると思われる。
いよいよ来週に迫ってきた秋のニューヨーク・アート写真オークション。今後の市場動向を占う上で非常に重要なイベントになるだろう。

(為替レート 1ドル・100円で換算)

杉本博司 ロスト・ヒューマン
東京都写真美術館

世界的に活躍するアーティスト杉本博司(1948-)。彼の「ロスト・ヒューマン」は、9月にリニューアル・オープンした東京都写真美術館の総合開館20周年記念展となる。本展は、2年前の春にパリの現代美術館パレ・ド・トーキョーで開催された<今日 世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>をベースとして、世界初公開となる<廃墟劇場>、インスタレーションで提示される<仏の海>の3シリーズで構成されている。展覧会カタログによると、本展は、人類と文明の終焉という壮大なテーマを、アーティストがアートを通して、近未来の世界を夢想する、形式で提示するものという。
本展の杉本のメッセージを読み解くヒントをカタログ内で探してみた。それは学芸員の丹羽晴美氏のエッセーの最後の一文から見つけることができた。以下に引用してみる。
“<今日 世界は死んだ>の多様な展示物の中から自らの身に刻んだ歴史や現実を拾い上げ、<廃墟劇場>のスクリーンの前で普遍的な道理と呼応させ、<仏の海>の前で無になる。そして日常へ帰っていく。杉本博司がつくりあげた21世紀の黙示録は、まるで十牛図そのもののようだ”と書いている。
この一文こそが本展の要旨を見事についていると直感した。
私が反応したのは「十牛図」(じゅうぎゅうず)という言葉だ。これは禅にでてくる一種の啓蒙書で、10枚続く絵画テキストから成る。牛(悟り)を求める子供が様々な経験を通して悟りにいたる様子が描かれている。禅修行を行い、悟りに至るステップををわかりやすく説くために牛の絵を利用した解説である。禅の解説書やネット上には必ず紹介されているので興味ある人は参考にしてほしい。ここでは本展を十牛図と照らし合わせて読み解いてみよう。
会場3階で展示されている<今日 世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>の33の物語は、戦争、政治、経済、環境、人口、少子高齢化などの、現在すでに私たちが直面している事実をもとに、杉本がその行く末を想像して展開させている。最終的に文明が終わるストーリーを自身のコレクションや作品によるインスタレーションで表現したもの。会場は経年経過したトタン板で囲まれている。会場規模は決して大きくはないものの、その空間は細部まで綿密に計算され作り込まれている。そこに身を置くだけで場の圧力で圧倒される。見る側はアーティストの強い表現への思いを否応なく感じてしまう。それぞれの物語自体は現代アート的なテーマとして語られてもよいだろう。ここで現代社会の様々な問題点を見つけ出して提示しているとも解釈できる。この段階は、まだ「十牛図」の、最初の尋牛(じんぎゅう)という、 悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた状況ではないか。
会場2階の”廃墟劇場”は、しだいに「十牛図」の5番目の牧牛(ぼくぎゅう)に続く過程だろう。ここで悟りに近づいていくわけだ。写真の中心に映画一本分の白いスクリーンが描写されている。これこそは私たち人間の一般的な社会の認識を意味する。つまり時間は過去から現在、そして未来に渡って連なっているという感覚。実は白いスクリーンは約17万枚の写真が投影された結果に現れている。過去、現在、未来が連なっているのではなく、写真1枚のように、ただこの瞬間のみが個別に存在する事実を暗に示している。禅の精神を知るための公案に近い作品群ともいえるだろう。
ここまでに、杉本は現代社会に横たわる様々な深刻で気の滅入るような問題点をあぶりだして展示している。それだけだとあまりにも救いがないので、2階の残り半分のスペースでは<仏の海>で解決策を提示している。京都の三十三間堂の千手観音を撮影した九点の作品と五輪塔一基からなるインスタレーション作品だ。杉本によるカタログ収録エッセーによると、平安時代当時の、末法の世に西方浄土を出現させたいという思いがこの建築には秘められている、という。ここでは、欧米の現代アート作家のようにアイデアやコンセプトを提供するのではない。杉本は、人の心の本当の姿は「無」なのだと展開する。末法再来を考える「私」自体は存在しないということ。まるで禅問答だ。
前回、トーマス・ルフの展覧会評で、”釈迦は、人間の行為そのものも結果も存在する。しかしそれを行った人間は存在しない”と語ったというエピソードを紹介した。<仏の海>もこれと同じ意味を持つ。杉本との違いはなにかというと、西洋人のルフは自己がある種の幻想や物語である点を意識しているものの、私という自己の存在と決断を肯定的にとらえる立場に立っていることだ。
「十牛図」の最後の絵では、悟りを開いた人が町に出て人と接している場面が描かれている。悟りを開いた禅者は人々と接して、人々が救われることが仏教の究極の目標であることを表している。これこそは杉本が考えている現代社会でのアーティストの使命、役割。その実践が本展ということを示唆しているのだろう。

作品テーマのスケールは、杉本のいままでの創作をひとまとめにするような大きなものだ。一見難解な作品展のようだが、彼は一般の人でもわかり易いヴィジュアル、オブジェを用い、インスタレーションなど駆使して表現している。

<今日 世界は死んだ>などは、非常にポップな面を持った展示になっている。<23 漁師の物語>では、アメリカ製のロブスターのおもちゃが突然立ち上がり歌い踊る。<20 ラブドール・アンジェ>では、ラブドール・アンジェが裸体のままカウチベットに横たわっている。
一般客を作品世界に誘うような様々な感情フックが散りばめられている。
前回も触れたが、これがトーマス・ルフ展との大きな違いだ。壮大で難解なテーマを、わかりやすく提示するのには非常に高度な創作能力が求められる。
世の中には様々なレベルのアート理解力を持つ人がいる。本展はそれぞれが、それなりに楽しめるように計算された上で制作されている。
私の周りの様々な人に感想を聞いてみたが、本展の評価はかなり高いようだ。杉本の作戦は見事に成功を収めていると思われる。アートや写真が好きな人は必見の展覧会だ。
「杉本博司 ロスト・ヒューマン」
2016年9月3日(土)~11月13日(日)
会場:東京都写真美術館 2・3階
時間:10:00~18:00(木・金曜は20:00まで、入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜(ただし月曜が祝日の場合は開館、翌火曜休館)
料金:一般1000円 学生800円 中高生・65歳以上700円

トーマス・ルフ展 東京国立近代美術館
現代アート最前線の作品を体感しよう!

本展は、写真を使用した現代アート作品で知られるドイツ人アーティストのトーマス・ルフ(1958 – )の展覧会。キャリアを代表する18のシリーズをセレクションして、彼のキャリアの概観しようとするもの。初期作の約2メートルの巨大ポートレートから、過去の報道写真から制作された最新作まで約125点が展示されている。今秋に日本で開催されている写真関連美術展の中で最も注目されている展覧会となる。
 
展覧会のレビューを書くにあたり、ルフ作品の実像を知るために、展覧会のカタログ、IMAマガジン17号の特集記事など関連の資料に目を通した。
カタログには、「世界の探求と写真家の変容」(増田 玲)、「トーマス・ルフ「写真」の臨界へ」(中田耕市)。IMAには、ルフのインタビュー、「「画像化する写真」をめぐるアート」(若林 啓)、「写真そのものへの問い」(鈴木 崇)、「世界が無意味である真実」(山形浩生)のエッセーが収められていた。インタビュー記事の最後に「時代とともに移り変わる写真とメディアに向き合い、世界に対する新たなヴィジョンを打ち出してきたルフの全体像が、いまここに立ち現れる」とまとめている。これが多くの識者の大まかなエッセーの要約に近いのではないか。私はルフの一環したテーマは、世の中の様々な仕組みをヴィジュアル化して提示することなのだと理解した。

彼はデュッセルドルフ芸術アカデミーでベッヒャー夫妻に写真を学んでいる。アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトゥルートらとともに、「タイポロジー(類型学)」の方法論を取り組んで写真で作品制作する"ベッヒャー派"の代表的アーティストとして理解されている。

私はそれとともに、おなじドイツのオットー・シュタイナートが50年代に提唱したサブジェクティブ・フォトグラフィーとの関係性を感じる。サブジェクティブ・フォトグラフィーは、カメラの持つ特徴や撮影テクニックを駆使して、現実世界に存在する多様なフォルムやシーンを発見して自由に表現することを目指した。これは、写真家は主観的に自らの考えや人生観を表現に生かすという意味でもある。
写真表現の幅は非常に広く、造形美を追求した抽象的作品から、リアリズム的作品までを含む。これは、1920~30年代に登場した、ラズロ・モホリ=ナジ、マン・レイ、アルベルト・レンガー=パッチェらによる、新しい写真のリアリズムとフォトグラムやフォトモンタージュのような造形美を追求した、いわゆる「新興写真」を発展継承した運動だった。
シュタイナートは、「サブジェクティブ・フォトグラフィは、非対称的(ノン・オブジェクティブ)な、画面の抽象的な構成を中心とする実験写真なフォトグラムから、深みのある、美学的に満足できるルポルタージュまで、個人的な写真創造のあらゆる局面を含んだ枠組みを意味する」と語っている。
 
ルフの一連の作品を見るに自分の周りの世界を綿密に観察・探究し、情報収集しているのがわかる。以前も指摘したが、観察を行う前提として、目の前に広がる世界は見る人によって違って存在しており、客観的な見え方などないという理解がある。綿密な観察を行った結果、世界で見たり、感じるものに一連の法則を見つけ出し、一貫してそこから創作テーマへと展開していく。ルフの内面にはその法則に従った宇宙観が形作られて、それに従って世の中を解釈してきたのではないだろうか。その視点で、ストリートシーン、シティースケープ、ランドスケープ、自然植物、静物、ヌード、星空などをモチーフに作品制作してきたということだ。
巨大な作品スケールも、観客が彼の宇宙観と一体化するための仕掛けなのだ。小さいと作品を客観視してしまい一体感は生まれない。
画家が筆と絵具を通して絵画でその法則を描くように、彼は写真撮影、既存イメージと画像ソフトを駆使して写真作品を作り上げる。その写真を使用した方法論の探求自体に意味があるのではない。ここの理解ができないと、"頭でっかちな"アーティストというような評価が下されるだろう。私たちが写真などのビジュアルを見ていだく認識には、なんら客観的な根拠があるわけではないことを作品で問題提起しているのだ。
 
彼の持つ宇宙観とは、無限の宇宙の中では一人の人間の悩みなど意味をなさない、というような当たり前のことなのだと思う。彼の作品には、天文写真を用いた"Stern(星)"、土星とその衛星を素材にした"Cassini(カッシーニ)"などがある。彼は子供の頃から宇宙に関心があったという。これら宇宙と関わる作品群があるのは偶然ではないと考える。「宇宙からの帰還」(立花 隆 著)に書かれていたと記憶があるが、宇宙飛行士は、宇宙空間で漆黒の闇と明るい地球を見ると、何らかの人間を超えたパターンの存在を直感するという。ルフ少年は宇宙の観測とサンプリングを続けながら、自分なりの世界を理解する法則を探し求めたのではないか。
忙しい現代人は宇宙の中の自分の存在などをすっかり忘却して、日々の些細なことがらに心悩ませながら暮らしている。ルフは写真やヴィジュアル素材を通して、私たちにそんな当たり前の事実に気付かせようとしているのだ。
 
彼の優れている点は、そんな自分の作品さえも根源的には意味を持たないと分かったうえで確信犯で創作を行っていることだ。上記の山形浩生氏による「世界が無意味である真実」の分析に近いだろう。釈迦は、人間の行為そのものも結果も存在する。しかしそれを行った人間は存在しない、と語ったという。私たちの多くは、いくら社会に意味がないと思っても山里の草庵で一人の人生を送ることはできない。社会の中で一定の役割を担って生きていくしか選択肢はないのだ。しかし、自分なりの宇宙観を持ったうえで生きるのと、ただ社会に流されて生きるのでは、私たちに見える世界の光景はかなり違ったものになるだろう。
アートの使命は、私たちに新しい視点を提供して、自らの思い込みに気付かせることだ。ルフは、様々な写真の方法論を駆使して、アートの王道を行くテーマを私たちに問い続ける。強いて欠点をあげるとすれば、テーマのスケールがあまりにも大きすぎて伝わりにくい点だろう。多くの人は、将来にわたって"自己の感覚"に囚われ続けながら生きていくのだ。
そのような人はルフのメッセージに気付くことすらなく、写真の表層をただ通り過ぎていくだろう。
例えば、同様のメッセージを持つ杉本博司の"海景"などは、一般の人でも海と空と空気による抽象的なヴィジュアルから彼の世界観へ入って生きやすい。アンドレアス・グルスキーも、一般人がリアリティーを感じやすい高度消費社会の最前線のヴィジュアルを提示している。大きなテーマには、わかり易いヴィジュアルがセットされる場合が多いのだ。たぶんその方が作品を売りやすいという事情もあると思う。
しかし、ルフはインタビューで"人がまだ見たことのなりような新しイメージを生みだしたいのです"と語っている。もしかしたら、彼は確信犯で一般の人が既視感を持たないヴィジュアルを制作しているのかもしれない。
 
最後に彼の作品相場にも触れておこう。
2016年春にニューヨークのDavid Zwirnerで開催された"Thomas Ruff, press++"展では、2メートル近くある巨大作品が8.5万ユーロ(@118/約1003万円)で販売されていた。ルフはオークションでも頻繁に取引される人気アーティストだ。相場はシリーズごとにかなり異なるが、Stern (Stars) の人気が高いようだ。2015年5月のササビーズ・ニューヨークでは、"STERN 16H 30M/-50°,1989"が18.75万ドル(@110/約2062万円)で、2012年11月のフリップス・ニューヨークでは、"21h 32m/-60˚,1992"が19.45万ドル(@110/約2139万円)で落札されている。
 
トーマス・ルフ展は、写真やアートに興味を持つ人には必見の展覧会だ。いろいろ考える前に、まずは作品のスケールや存在を会場内で体感してほしい。現代アート系の作品は、写真集やウェブ上の画像だけを見ても決して理解できない。自分自身で体験し、感じて、そして考えなければならないのだ。
 
トーマス・ルフ展
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー 
2016年8月30日(火)~2016年11月13日(日) 
開館時間:10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで 
休館日:月曜日(9月19日、10月10日は開館)、9月20日(火)、10月11日(火) 
 
観覧料: 当日(前売/団体)
一般  1,600(1,400/1,300)円
大学生 1,200(1,000/900)円
高校生  800(600/500)円
 
 

トミオ・セイケ「Liverpool 1981」
写真展の見どころを解説!

ブリッツでは、9月7日からトミオ・セイケ”Liverpool 1981″がスタートする。

1981年、当時まだ30歳代後半だったセイケは、経済的に最悪期のリヴァプールを訪れる。彼は市内のストリートで、当時流行のパンクの髪型とファッション姿の「スキンズ」という若者グループと知り合う。彼らは毎日市内を徘徊してまわり、遊技場や行政が用意した更生施設で時間をつぶしていた。セイケが驚いたのは、このような厳しい経済状況に陥っているのにもかかわらず、彼らが底抜けに明るかったこと。彼はその中の二人の男女に興味を持ち、数日間行動を共にして撮影を敢行。リヴァプールの若者たちの青春の光と影を表現した本作が生まれたのだ。
このわずか数日の撮影を当時のリヴァプ―ルのドキュメント作品だと解釈すべきではない。これはいま写真家として活躍しているセイケによる、パーソナルな原点の確認行為なのだろう。1981年はセイケにとってもキャリア上とても重要な時期にあたる。ちょうどギャラリー・デビュー作”ポートレート・オブ・ゾイ”に取り組む直前で、自らの作品スタイル構築を模索している時期なのだ。本作には、その後のモノクロームの抽象美を追求する作品スタイルへの展開を予感させる作品も数多くみられる。実はセイケは、本作の翌年からロンドンの大道芸人のスナップを撮影している。最終的に、この二作でポートレートの撮影スタイルをある程度確立させたのだろう。
作品テーマ的には、セイケはスイス人写真家ルネ・グル―ブリ(Rene Groebli)の”Das Auge Der Liebe”に多大な影響を受けたと語っている。新婚旅行での新婦をパーソナルにスナップした同書と、”Liverpool
1981″、”ロンドンの大道芸人”が原点となり名作”ポートレート・オブ・ゾイ”へと展開していったと想像できる。本作の発表により、スナップやポートレート中心のトミオ・セイケのキャリア前期の作品展開が、はじめてオーバービューできるようになったといえるだろう。
展示作品はすべて、インクジェットプリンターで制作されたデジタル・アーカイヴァル・プリントとなる。古いモノクロ・フィルムのネガからデジタル・データを作り、インクジェット・プリンターで銀塩写真に近い作品を制作するのは非常に難しい。モニターの画像と、実際のプリントが全く違ったという経験はカメラ趣味の人なら誰もがあるだろう。銀塩写真時代、セイケはファイン・プリント美しさで定評があった。どうしてもアナログかデジタルかという二元論的な視点から作品が解釈されがちになる。しかし今回の展示作品は、作家により過去のアナログ作品が新たに解釈されて制作されたと理解しなければならないだろう。つまりそれは自分がファインダー越しに見たヴィジュアルを、デジタル技術を駆使して、アナログの限界を超えてより自分の当時の感覚に近く再現するということ。これはまさに現代アート的なアプローチに近く、デジタルでアナログに近いプリントを目指して制作しているのではない。これらはキャリア最初期の彼の思い出深い作品群になる。その当時を懐かしむ心的感覚が作品のトーンに反映されているように感じられる。銀塩写真でのプリント制作もできたのに、あえてデジタルで制作した理由はこのあたりの思いの表現を意識したからではないか。
本展では、トミオ・セイケのデビュー作20点が世界初公開される。ぜひご高覧ください!