「Heliotropism」
テリ・ワイフェンバック /
ケイト・マクドネル
@ブリッツ・ギャラリー

ブリッツ・ギャラリーの6月1日スタートの次回展は、米国人写真家テリ・ワイフェンバックとケイト・マクドネルの二人展「Heliotropism」となる。

二人はともにワシントンD.C.に在住する女性アーティスト。お互いに尊敬しあう友人同士だ。今回の写真展のアイデアは、主に地元で活動しているマクドネルが作品を世界に幅広く発信したいとワイフェンバックに相談したことから動き出した。二人はともに身の回りの出来事や風景をテーマに、自然世界を愛し崇拝する感覚を持って、カラーで作品制作を行っている。マクドネルが全米各地への旅で撮影している一方で、ワイフェンバックは一つの場所にこだわって撮影している。創作スタイルは違うものの、二人の作品には親和性がある。

ワイフェンバックは、自作が幅広く受け入れられている日本で、マクドネル作品の人気も出るのではないかと考えてブリッツに相談してきた。マクドネルは、作品集が出版されていないので、日本での知名度は全くない。個展を開催しても観客動員や作品販売は難しいと思われた。したがってワイフェンバックの知名度を生かして、二人展「Heliotropism」を開催する運びとなった。ワイフェンバックが展示作品のキュレーションを行っている。
ブリッツでは、ワイフェンバックとウィリアム・ワイリーとの二人展“As the Crow Flies”も2016年に開催している。日本で知名度のない外国人写真家の作品を紹介する手段として、有名写真家との二人展は効果的だと考えている。

さて作品タイトルの「Heliotropism」は、花・植物や動物が太陽に向かう性質、向日性を意味する。二人のヴィジュアルはかなり違うが、ともに宇宙や自然に畏敬の念をもって創作に取り組んでいる。その内面にある作品モチーフへの同じ方向性に注目して、二人で写真展タイトルを「Heliotropism」と決めたのだ。今回は英文タイトルをそのまま使用している。

マクドネルの“Lifted and Struck”は、ネイチャーライティング系で、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォールデン森の生活」(1854年)の流れを踏襲しているというアニー・ディラード著の「ティンカー・クリークのほとりで」に多大な影響を受けて制作。タイトルも同書の文章から取られている。上記の「ウォールデン森の生活」は、写真家のエリオット・ポーターが写真集”In Wildness Is the Preservation of the World”(1967年)でその世界観をカラー写真で表現している。マクドネルは”Lifted and Struck”で、ディラードによる「ティンカー・クリークのほとりで」の世界観をヴィジュアルで表現しようとしたのだろう。
“私の写真は日常生活の中にある、宇宙の神秘を探し求めています。宇宙に思いをはせると、私たちは無知で欠点だらけな小さい存在であることを実感します”と語っている。これは写真作品を通して世界の仕組みを理解したいという意味で、まさに本展の趣旨そのものといえるだろう。

本展では、ワィフェンバックは伊豆で撮影され、昨年IZU PHOTO MUSEUMでも展示された“The May Sun”からカラー作品17点、鳥のシルエットを捉えた新作“Centers of Gravity”からモノクロ作品9点、マクダネルは“Lifted and Struck”からカラー作品17点を展示する。
“The May Sun”が、デジタル・C・プリント、その他はデジタル・アーカイヴァル・プリントとなる。

本展では限定300部の展覧会カタログを制作した。写真集はワィフェンバックの“Centers of Gravity”(サイン入り)、“The Politics of Flower”(サイン入り)を限定数だけ店頭販売。またブリッツが過去に刊行した残り少ない関連展覧会カタログも販売する。

初夏らしい、とても爽やかなカラーによる風景写真の展示となる。アート写真ファンはもちろん、風景写真で自己表現に挑戦している人にとっても必見の写真展だろう。

「Heliotropism」
テリ・ワイフェンバック / ケイト・マクドネル
2018年 6月1日(金)~ 8月5日(日)
1:00PM~6:00PM  休廊 月・火曜日(本展は日曜も営業)
入場無料

ブリッツ・ギャラリー
〒153-0064
東京都目黒区下目黒6-20-29

JR目黒駅からバス、目黒消防署下車徒歩3分 / 東急東横線学芸大学下車徒歩15分

写真展レビュー
内藤正敏 異界出現
@東京都写真美術館

TOP MUSEUM 展覧会カタログ

東京都写真美術館は、写真史であまり注目されていないが、独自の視点持ち長年にわたり真摯に作家活動をしている人を取り上げ再評価している。”内藤正敏 異界出現”もそのような展覧会だといえよう。

私は日本写真が専門でないので、内藤正敏の仕事はほとんど知らなかった。海外で評価されているフォトブックから日本人写真家の仕事に触れる機会が多いのだが、彼の写真集は海外ではほとんど紹介されていない。
“日本写真家辞典”(2000年、淡交社刊)には入っているが、2014年に行われた”フジフイルム・フォトコレクション展”でも、日本の写真史を飾った101人には選出されていない。写真家よりも民俗学の研究者としてより知られているようだ。

内藤の作品シリーズの展開は極めてユニークだ。展覧会資料によると、彼は60年代の初期作品において、化学反応で生まれる現象を接写して生命の起源や宇宙生成を意識したシュールでサイケデリックな”SF写真”と呼ばれるヴィジュアルを制作。また、早川書房”ハヤカワ・SFシリーズ”のカヴァーのヴィジュアルを手掛けている。(会場で現物が展示されている)
しかし、山形県の湯殿山麓で即身仏との出会い、写真撮影したことをきっかけに民族学研究に取り組むようになる。即身仏とは厳しい修行を行い、自らの肉体をミイラにして残した行者のこと。その後は、民族学的な興味から、主に東北地方の民間信仰をテーマにした、”婆 バクハツ!”、”遠野物語”など発表している。
境界線を都市や日本の伝統文化の中に探し求め、”東京-都市の闇を幻視する”では、正常と狂気、平穏な生活の中で断片的に裂け目として出現するダークサイドの視覚化を行っている。彼は今は忘れ去られている日本文化の奥底に潜む思想を発見してきたのだ。
90年代には、それらを発展させて修験道の霊山における空間思想を解読する”神々の異界”を手掛けている。本展カタログでキュレーターの石田哲朗氏は”このシリーズで内藤は山々の隠された「空間思想」を民俗学で解読して、その成果に基づいて場所とカメラの方向を定め、撮影している。この方法を彼は「人間が一方的に自然を写すにネイチャーフォトとは逆の視線」と呼ぶ”と解説している。
富士山八合目の烏帽子岩付近から東京方面を撮影している”富士山、1992″(プレート166)がある。ここは食行身禄(じきぎょうみろく)という行者が、徳川幕府の政治に抗議して断食死した場所という。これがきっかけで、江戸で富士山を信仰する富士講ブームが起きた。同作はその身禄が視たであろう風景を写真で撮影して再現したものなのだ。同シリーズでは、空海、修験者、時の権力者が創出した異界を読み解きながら、石鎚山、室戸岬、月山、羽黒山、岩木山など日本各地で撮影が行われている。

それでは、内藤の意味する異界とは何を意味するのだろうか。”日本「異界」発見”(1998年、JTB出版刊)のあとがきには”私の旅の目的は、「異界」から現実を逆噴射すること。異界というと、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するおどろおどろしい世界を思いうかべがちだが、私の求める異界とは、そんな神秘主義来なものではない。人間が想像力で生み出した非日常的な世界を言う、異界を通して眺めると、忘れられた深層の歴史や人間の心の奥底が視えてくる”と書いている。

世の中には客観的な現実などは存在しない。それぞれの人が自分のフレームワークを通してみた見た現実が存在するだけだ。現実だと思える世界は社会の共同幻想に支えられて存在している。内藤は上記のあとがきに”日本人は、「この世の」のほかに、もう一つの幻の国、”異界”があると信じて生きてきたのではなかろうか”と書いている。社会を生きていると様々な辛いことがある。目の前の世界を盲信して埋没していると押しつぶられそうになる。生き残るためには、時に自らを客観視し枯渇した精神エネルギーを再注入しないといけない。一般民衆は悟りを開いた高僧ではない。古来から彼らを精神的に支えていたのが、内藤のいう”異界”だったのではないだろうか。念仏を唱えることで自分を無にするという庶民の知恵と同じく、異界を意識することで思い込みにとらわれる自分に気づくきっかけになったのだ。本展は、かつて日本の歴史上に様々な形で存在していた異界を写真作品として蘇らせている展示ともいえよう。

私が特に興味を持ったのは、内藤と民俗学とのかかわりだ。カタログ157ページで引用されている本人のエッセーに以下のような記述がある。
“写真家がカメラを肉体化し、身体感覚で科学を超えるとき、もう一つの写真の世界が出現する。優れた写真は人間の「感性」を刺激し、写真に呼び覚まされた感性は、人間の奥底に眠る「知」をたたく。私の場合、それがたまたま民俗学だったというわけだ”
世界的にアート写真市場で評価されている日本の写真家は、最初に作品の内包する問題点を意識していることは少なく、写真撮影の長い期間の継続があって、テーマ性が第3者に見立てられる場合が多い。上記の記述はその過程を見事に文章で表現されている。内藤がその他と決定的に違うのは、自らが写真撮影を通して作品のテーマ性に気づいたことだろう。そして、今度はテーマ性を意識して写真撮影を継続している。
もう気付いた人も多くいるだろうが、今まで述べてきたことは現代アート系写真作品の制作アプロ―チそのものなのだ。しかし、それは現代では忘れ去られている、きわめてディープな日本的な内容だけに、表層的な多文化主義の視点から評価する西洋の写真史家は気付かなかったと思われる。

大判シートによる最後のパートの作品展示は圧巻だ。彼が東北芸術工科大学にいた2004年にキャリアを振り返る”内藤正敏の軌跡”に出品された作品群が新たな視点で再構成された展示になる。大型インクジェットプリンターで制作された長編約1.5メートルもの巨大作品群だ。解説によると”内藤の世界観を表す一つのインスタレーション表現であるとみなし、今回新たな構成によって、この体感的な展示を再現、<コアセルベーション>を含む初期作と<出羽三山>を組み合わせた”(カタログ・163ページ)という。彼のキャリア全貌を明らかにする大規模な展示だ。内藤がどのように宇宙や世界を認識していたかが直感的に感じられる。それをコンセプトと呼ぶのなら、内藤は現代アート的な視点を持っていた20世紀写真家として再評価されるべきだろう。

キュレーターの石田哲朗氏によると、内藤は心眼で作品に触れてほしいとのことで、会場内の撮影を不許可にしたという。写真撮影はデジタル化で物事の表層だけを瞬間的にとらえ、メモをとるような安易な行為になってしまった。メモは多くの場合見返されることはない。現代生活で写真撮影が民主化したことで、人間はますます本来持っている思考システムを使わなくなった。撮影不許可は、意識的に世界と対峙しなくなった現代人への写真家からの警告なのだ。それは内藤の作品コンセプトの一部なのだと受け取りたい。

“内藤正敏 異界出現”は、一貫したテーマ性を持つ、現代アート系アーティストによる展覧会になっている。アート史で過小評価されているアーティストに注目するのが公共美術館の重要な役割といえるだろう。私はこれこそは、美術館による写真作品の”テーマ性の見立て”だと理解している。本展の開催は東京都写真美術館の大きな業績だと評価したい。
内藤作品は、実際に写真を見て、さらに文脈を読み解こうと努力するとその良さがわかってくる。”異界”などとついたタイトルに、アート系に興味ある人はやや引いてしまうかもしれない。しかし、本展はアート好きな人にこそ、先入観を持たずに見てもらいたい展覧会だ。

(展覧会情報)

内藤正敏 異界出現
Naito Masatoshi: Another World Unveiled

会期:2018年5月12日-7月16日
会場:東京都写真美術館
開館時間:10:00~18:00(木金 20:00)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月(7月16日は開館)
料金:一般 700円 / 学生 600円 / 中高生・65歳以上 500円
小学生以下無料

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3052.html

 

 

写真展レビュー
鋤田正義写真展「ただいま。」
@直方谷尾美術館

写真家の鋤田正義は、福岡県直方市古町で生まれ、幼少時代を同地で過ごしている。今年80歳を迎えるにあたり、本人の強い希望に地元の有志が賛同して直方谷尾美術館美術館での「ただいま。」展が実現した。

直方谷尾美術館

写真展実行委員会のウェブサイトには”この写真展は営利が目的の商業的なものではなく、「生まれ故郷で写真展をしたい」という氏の個人的な思いと、氏の成功体験をモデルケースに夢の実現を青少年に身近に感じ取ってもらいたいという地域の強い意思によって企画されたものです”。また”鋤田氏の存在を地元の人にもっと知ってもらいたい!”、”鋤田氏の生き方を通して、特に若い人には「夢を諦めない」「諦めない行動が夢を現実にしてくれる」ことを感じ取ってもらいたい!”と開催趣旨が記述されている。

本展は単に写真家の過去の一連の作品を見せるのではない、明確な開催意図がある回顧展なのだ。
鋤田がまだ学生だった1956年ごろに直方市周辺で撮影された、静物、ポートレート、風景、スナップ、自画像から、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、イギーポップ、YMOなどの代表的なミュージシャンのポートレート、広告・ファッション写真、ライフワークの風景のパーソナル・ワークなどの作品群がカテゴリーごとに分けられて展示されている。

直方谷尾美術館

なお展示のディレクションは、これも直方市出身の画家上川伸氏が担当したとのことだ。美術館の別スペースでは同氏の絵画も展示されていた。

大小さまざまサイズの作品とともに、200㎝を超えるような超巨大な作品も散見される。総展示数は膨大で、すべてが新たに制作されたものではないと思われるが、かなりの作品制作費、輸送費、会場費などの開催コストがかかったと思われる。
本展は、鋤田をリスペクトする地元の人々の多大な人的協力と、プロジェクトに共感した人々からの寄付型のクラウドファンディングで実現したという。作品の設営も実行委員会の人たちが協力して行ったという手作り感が溢れる写真展になっている。
額装とパネル貼りによる作品展示は、すべてが美術館レベルのオリジナル・プリントのクオリティーとは呼べないかもしれない。しかし高い壁面を有効に利用した様々なサイズの作品の取り合わせによるカテゴリー別の作品配置は一瞬雑然としていると感じないではないが、微妙にバランスが保たれていて違和感はない。
また会場全体で見ると、それぞれの壁面が見事にコーディネートされている。画家の上川氏は、写真による大きな会場の空間構成を行う高い能力を持っているのだろう。東京などでみられる、アート・ディレクターがデザインしてレイアウトされた会場とは一線を画している。それらは時に写真家よりも、デザイナーの意図が優先され、隙のない展示自体が目的化している。広告やファッション系の写真家の写真展でよく見られる展示だ。

また本展は鋤田正義本人の地元への思いが感じられる会場空間になっている。まず作品展示は直方で撮影された高校時代の写真から始まる。この導入部分で地元の人たちは鋤田の写真に親近感やリアリティーを感じるだろう。そして広告・ファッションの最前線で活躍したときの作品、世界的なミュージシャンのポートレート、パーソナルワークが並ぶ。

直方市は大相撲で活躍した魁皇の出身地。駅前には銅像が建っている。同展をきっかけに、地元の人たちはアート・文化界でも高い功績をあげた写真家の存在を知り誇りに思うだろう。また開催趣旨である、地元の青少年に将来の夢を与える構成になっているのだ。
主催者と写真家の、来場者へのメッセージと思いが会場全体に見事に反映されている。鋤田・上川両氏と実行員会は事前に相当話し合ったのではないか。

東京にいる鋤田ファンはぜひ東京に巡回してほしいと願うだろう。しかし本展は大都市に巡回することを意識して企画されたわけではない。写真家の地元の直方市で開催され、地元の人たちに見てもらうことを意図しているのだ。鋤田本人が九州各地の巡回を希望しているのは、その開催趣旨によるところだろう。

同展は直方谷尾美術館の観客動員数の記録を更新する勢いだという。私が訪れたのは雨が降る肌寒い平日だった。地元のアーケードは閑散としていたのだが、美術館内は地元の人で一杯だった。鋤田、主催者、観客とのコミュニケーションが間違いなく成立していると感じた。

会期は5月20日まで。直方市は博多、小倉から電車で約1時間くらい。お土産は名物の成金饅頭がおススメだ。

(開催情報)

鋤田正義写真展「ただいま。」
直方谷尾美術館
4月3日(火)~5月20日(日)※毎週月曜日休館
一般400円(240円)、高大生200円(120円)、中学生以下無料

http://www.sukita.photo/

ソール・ライター
見立ての積み重ねで評価された写真家(2)

・未発表ヌード/ポートレート作品が写真集化
前回、ソウル・ライターが50年代後半~80年代初めまでの期間に生活の糧としていたファッション写真との関わりについて触れた。
一方で彼のパーソナル・ワークは、ニューヨーク市の自宅周辺のストリートで撮影されたカラーのスナップが有名だ。自由に表現できない仕事の写真による精神的ストレスを解消する意味合いが強かったのだろう。当時は写真、特にカラー写真は広告写真用で、ファイン・アートではないと考えられていた。彼は、21世紀になってそれらのカラー写真のアート性が絶賛されるとは全く考えていなかっただろう。
しかしライターのパーソナル・ワークはほかにもあったのだ。ファッション写真家として活躍する以前の1940年代後半から、彼は親しい女性たちのヌードとポートレートも撮影していた。彼の死後、数千点にも及ぶ女性のヌードとポートレート写真がアパートから発見された。また90年代に制作されたアクリル絵の具で着色されたヌード作品も約数百点見つかったという。

今回刊行された”WOMEN ソール・ライター写真集”は、1960年代後半までの20年間に撮影された女性ヌード作品約90点と、着色写真の”Painted Nude”作品6点が収録されている。

“Woman Saul Leiter”(SPACE SHOWER BOOKS, 2018年刊)

被写体は、2002年まで約50年近く人生を共にしたパートナーでファッション写真でモデルも務めたのソームズ・パントリーや妹のデボラ、また親しい友人たち。ほとんどの写真は自らのニューヨーク・イーストヴィレッジの自宅アトリエで撮影されている。70年代に編集者ヘンリー・ウルフによる写真集化の企画があったが実現しなかったそうだ。
本書収録作品の一部は”ソール・ライターのすべて”(2017年、青幻舎刊)にも収録されている。こちらの本には、珍しいカラーのヌード作品”Lanesville, 1958″(Page 200)も収録。また作品タイトルに、バーバラ、イネス、キム、ドッティ、ジェイ、リン、フェイ、マリアンヌ、ジーン・ピアソンなどの女性の名前が記されている。

カルチェ=ブレッソンは、写真はスケッチ・ブックのようで、絵画は瞑想のようなもの、と語っていたという。ライターにとって、今回のヌード・ポートレートも絵画のための下絵のスケッチ的な意味合いが強かったのだろう。一部の写真は文字通り下絵となり、経済的に苦しかった90年代に着色されて新たな作品として蘇っている。彼にとってヌード・ポートレート作品は、カラーとモノクロのファッションやストリートなどの写真、絵画作品、スケッチなどと全く同等の表現だったのではないだろうか。彼の作品はカテゴリー分けするのではなく、すべてを織り交ぜて提示するのが一番適切だと思う。そのようなライターの世界観を提示する見せ方は”Saul Leiter:Retrospektive”(KEHRER、2012年刊)が最も的確に行っていると考える。

“Saul Leiter:Retrospektive”(KEHRER、2012年刊)

今回のヌード・ポートレートの写真集には新たな発見があった。それらには女性フォルムの探求を目指すような強い創作意図が感じられず、非常にカジュアルな雰囲気で撮影されている。結果的に、女性のファッション、ヘアスタイル、メイク、インテリアの背景などから、撮影された1940から1960年代の時代の気分と雰囲気がとても色濃く伝わってくるのだ。広義のアートとしてのファッション写真に当てはまるといえるだろう。それらは、光の使い方、構図、被写体との関係性など、ルネ・グローブリの”The Eye of Love”(1954年)を思い起こす人が多いだろう。またテーマ性が異なるが、撮影アプローチはトミオ・セイケの”ポートレート・オブ・ゾイ”(1994年)に近い作品もある。
今後、ライターの時代性を切り取った広義のファッション系作品にフォーカスした展覧会や写真集を企画するときは、ストリート作品はもちろんだが、ヌード・ポートレート作品もその一部として提示されるべきだろう。

次回は”日本のアート写真の新価値基準”とのかかわりを見てみたい。

(3)に続く