東京都写真美術館は、写真史であまり注目されていないが、独自の視点持ち長年にわたり真摯に作家活動をしている人を取り上げ再評価している。”内藤正敏 異界出現”もそのような展覧会だといえよう。
私は日本写真が専門でないので、内藤正敏の仕事はほとんど知らなかった。海外で評価されているフォトブックから日本人写真家の仕事に触れる機会が多いのだが、彼の写真集は海外ではほとんど紹介されていない。
“日本写真家辞典”(2000年、淡交社刊)には入っているが、2014年に行われた”フジフイルム・フォトコレクション展”でも、日本の写真史を飾った101人には選出されていない。写真家よりも民俗学の研究者としてより知られているようだ。
内藤の作品シリーズの展開は極めてユニークだ。展覧会資料によると、彼は60年代の初期作品において、化学反応で生まれる現象を接写して生命の起源や宇宙生成を意識したシュールでサイケデリックな”SF写真”と呼ばれるヴィジュアルを制作。また、早川書房”ハヤカワ・SFシリーズ”のカヴァーのヴィジュアルを手掛けている。(会場で現物が展示されている)
しかし、山形県の湯殿山麓で即身仏との出会い、写真撮影したことをきっかけに民族学研究に取り組むようになる。即身仏とは厳しい修行を行い、自らの肉体をミイラにして残した行者のこと。その後は、民族学的な興味から、主に東北地方の民間信仰をテーマにした、”婆 バクハツ!”、”遠野物語”など発表している。
境界線を都市や日本の伝統文化の中に探し求め、”東京-都市の闇を幻視する”では、正常と狂気、平穏な生活の中で断片的に裂け目として出現するダークサイドの視覚化を行っている。彼は今は忘れ去られている日本文化の奥底に潜む思想を発見してきたのだ。
90年代には、それらを発展させて修験道の霊山における空間思想を解読する”神々の異界”を手掛けている。本展カタログでキュレーターの石田哲朗氏は”このシリーズで内藤は山々の隠された「空間思想」を民俗学で解読して、その成果に基づいて場所とカメラの方向を定め、撮影している。この方法を彼は「人間が一方的に自然を写すにネイチャーフォトとは逆の視線」と呼ぶ”と解説している。
富士山八合目の烏帽子岩付近から東京方面を撮影している”富士山、1992″(プレート166)がある。ここは食行身禄(じきぎょうみろく)という行者が、徳川幕府の政治に抗議して断食死した場所という。これがきっかけで、江戸で富士山を信仰する富士講ブームが起きた。同作はその身禄が視たであろう風景を写真で撮影して再現したものなのだ。同シリーズでは、空海、修験者、時の権力者が創出した異界を読み解きながら、石鎚山、室戸岬、月山、羽黒山、岩木山など日本各地で撮影が行われている。
それでは、内藤の意味する異界とは何を意味するのだろうか。”日本「異界」発見”(1998年、JTB出版刊)のあとがきには”私の旅の目的は、「異界」から現実を逆噴射すること。異界というと、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するおどろおどろしい世界を思いうかべがちだが、私の求める異界とは、そんな神秘主義来なものではない。人間が想像力で生み出した非日常的な世界を言う、異界を通して眺めると、忘れられた深層の歴史や人間の心の奥底が視えてくる”と書いている。
世の中には客観的な現実などは存在しない。それぞれの人が自分のフレームワークを通してみた見た現実が存在するだけだ。現実だと思える世界は社会の共同幻想に支えられて存在している。内藤は上記のあとがきに”日本人は、「この世の」のほかに、もう一つの幻の国、”異界”があると信じて生きてきたのではなかろうか”と書いている。社会を生きていると様々な辛いことがある。目の前の世界を盲信して埋没していると押しつぶられそうになる。生き残るためには、時に自らを客観視し枯渇した精神エネルギーを再注入しないといけない。一般民衆は悟りを開いた高僧ではない。古来から彼らを精神的に支えていたのが、内藤のいう”異界”だったのではないだろうか。念仏を唱えることで自分を無にするという庶民の知恵と同じく、異界を意識することで思い込みにとらわれる自分に気づくきっかけになったのだ。本展は、かつて日本の歴史上に様々な形で存在していた異界を写真作品として蘇らせている展示ともいえよう。
私が特に興味を持ったのは、内藤と民俗学とのかかわりだ。カタログ157ページで引用されている本人のエッセーに以下のような記述がある。
“写真家がカメラを肉体化し、身体感覚で科学を超えるとき、もう一つの写真の世界が出現する。優れた写真は人間の「感性」を刺激し、写真に呼び覚まされた感性は、人間の奥底に眠る「知」をたたく。私の場合、それがたまたま民俗学だったというわけだ”
世界的にアート写真市場で評価されている日本の写真家は、最初に作品の内包する問題点を意識していることは少なく、写真撮影の長い期間の継続があって、テーマ性が第3者に見立てられる場合が多い。上記の記述はその過程を見事に文章で表現されている。内藤がその他と決定的に違うのは、自らが写真撮影を通して作品のテーマ性に気づいたことだろう。そして、今度はテーマ性を意識して写真撮影を継続している。
もう気付いた人も多くいるだろうが、今まで述べてきたことは現代アート系写真作品の制作アプロ―チそのものなのだ。しかし、それは現代では忘れ去られている、きわめてディープな日本的な内容だけに、表層的な多文化主義の視点から評価する西洋の写真史家は気付かなかったと思われる。
大判シートによる最後のパートの作品展示は圧巻だ。彼が東北芸術工科大学にいた2004年にキャリアを振り返る”内藤正敏の軌跡”に出品された作品群が新たな視点で再構成された展示になる。大型インクジェットプリンターで制作された長編約1.5メートルもの巨大作品群だ。解説によると”内藤の世界観を表す一つのインスタレーション表現であるとみなし、今回新たな構成によって、この体感的な展示を再現、<コアセルベーション>を含む初期作と<出羽三山>を組み合わせた”(カタログ・163ページ)という。彼のキャリア全貌を明らかにする大規模な展示だ。内藤がどのように宇宙や世界を認識していたかが直感的に感じられる。それをコンセプトと呼ぶのなら、内藤は現代アート的な視点を持っていた20世紀写真家として再評価されるべきだろう。
キュレーターの石田哲朗氏によると、内藤は心眼で作品に触れてほしいとのことで、会場内の撮影を不許可にしたという。写真撮影はデジタル化で物事の表層だけを瞬間的にとらえ、メモをとるような安易な行為になってしまった。メモは多くの場合見返されることはない。現代生活で写真撮影が民主化したことで、人間はますます本来持っている思考システムを使わなくなった。撮影不許可は、意識的に世界と対峙しなくなった現代人への写真家からの警告なのだ。それは内藤の作品コンセプトの一部なのだと受け取りたい。
“内藤正敏 異界出現”は、一貫したテーマ性を持つ、現代アート系アーティストによる展覧会になっている。アート史で過小評価されているアーティストに注目するのが公共美術館の重要な役割といえるだろう。私はこれこそは、美術館による写真作品の”テーマ性の見立て”だと理解している。本展の開催は東京都写真美術館の大きな業績だと評価したい。
内藤作品は、実際に写真を見て、さらに文脈を読み解こうと努力するとその良さがわかってくる。”異界”などとついたタイトルに、アート系に興味ある人はやや引いてしまうかもしれない。しかし、本展はアート好きな人にこそ、先入観を持たずに見てもらいたい展覧会だ。
(展覧会情報)
内藤正敏 異界出現
Naito Masatoshi: Another World Unveiled
会期:2018年5月12日-7月16日
会場:東京都写真美術館
開館時間:10:00~18:00(木金 20:00)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月(7月16日は開館)
料金:一般 700円 / 学生 600円 / 中高生・65歳以上 500円
小学生以下無料
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3052.html