ピエール セルネ & 春画
@シャネル・ネクサス・ホール

本展は、フランス人アーティスト、ピエール セルネの現代アート的作品と、浦上蒼穹堂・浦上満コレクションが収蔵する浮世絵の春画を同時展示する試み。

Pierre Sernet 作品の展示風景

浮世絵の大胆な構図、線描、色彩は、印象派などの西洋画家に大きな影響を与えたことで知られている。浦上満コレクションの春画は、鈴木春信、鳥居清長、北多川歌麿、葛飾北斎などによる作品。浦上氏によると、春画は特定の絵師が専門にしていたのではなく、すべての制作者が表現の一つのカテゴリーとして手掛けていたとのことだ。
また春画は日本ではポルノグラフィー的に認識される場合が多いが、最近の西洋ではその作品性が再評価されているとのこと。そのきっかけは、2013年にロンドンの大英博物館で開催された大規模な展覧会。浦上氏は、日本での巡回展を試みたものの、公共美術館での開催は実現しなかったという。最終的には、元首相細川護熙氏の細川家が運営する永青文庫で2015年に開催されている。記録破りの観客動員数がマスコミの話題になったのは覚えている人は多いのではないか。同展プレスリリースの紹介文をシャネルのリチャール コラス氏が担当したのがきっかけで、今回のピエール セルネとの同時展示企画が生まれたとのこと。英国で成功したように、日本でも春画の歴史的な芸術性を再評価しようという試みなのだ。
しかし、春画が海外でファインアートとして評価されたと単純に理解してはいけないだろう。西洋では、日本は彼らとは違う価値観を持つ国だという理解が前提にある。日本の伝統的な大衆文化の一つの形態として、浮世絵の春画も注目するというスタンスなのだ。

ピエール セルネの“Synonyms”は、様々なカップルを被写体として、スクリーンを通してモノクロームのシルエットでそのフォルムを表現した作品。ニューヨークのメトロポリタン美術館収蔵の19世紀日本の掛け軸の影のような肖像画に触発されて制作したという。セルネの単体の作品は、どちらかというとグラフィックデザイン的要素が強い大判サイズの抽象作品といえる。
作家のカタログ掲載の本人によるエッセーによると、本作はインクの染みを見せて何を想像するかを述べてもらう性格検査心理テストのロールシャッハ検査の無彩色の図版や、ウサギとアヒルのヴィトゲンシュタインの有名な「だまし絵」のように、どのように感じられるかは“見る人の心のあり様に左右される”とのことだ。つまり見る人が作品にどのような文脈を与えるかによって、それぞれの見え方が存在するということ。抽象作品だが、作品タイトルにはモデルとなった二人のファーストネームが書かれている。見る側は、それを通して彼らの、性別、文化的背景、国籍が推測可能となる。つまり、人類には様々な文化的な違いが存在するものの、男女のフォルムに還元してしまうと違いはない、というのが作家のコンセプト。私は文脈と見え方/感じ方との関係性を提示した方法論自体が、より興味深い作品テーマだと解釈している。

本展は、キュレーションを行ったシャネルのコラス氏の見立てが重要な役割を果たしている。浮世絵の春画のアート性については様々な意見があるのは当然承知の上での展示だろう。エロチシズムを黒白のフォルムを強調して表現する現代アート的写真作品と共に展示することで、ポルノグラフィー的に解釈する人たちの意見に確信犯で一石を投じようということだろう。ロンドンの大英博物館やフランスの老舗ブランドのシャネルなど、日本人が海外からの評価に弱い点を巧みについているとの意見もあるだろう。しかし、コラス氏はもっと大きな視点から展覧会を開催したのだと思う。それはアートは世の中の多様性を担保する存在だということ。日本では忖度や空気を読むことが成熟した大人だという風潮がいまだに強く残っている。またアートはお上から与えられて、鑑賞するものだと考える人が多いのが現実だ。アートか猥褻かは、最も論議を呼ぶであろう、そして意見の分かれるテーマだろう。あえてそれを提示したのは、日本人にアートの多様性を気付かせる仕掛けではないかと思う。
私は90年代に日本で巻き起こった空前のヘアヌード現象を思い出した。当時は、週刊誌をはじめ多くのメディアは、アートだと言い切ることによって、ヘアヌードが猥褻だと当局からお咎めを受けないと考えたのだ。今回、コラス氏が意図したのは、そのような次元のことではなく、アートとして提示された作品に対して、誰でも自由に自分の意見を述べることができるということ。それに対しての発言は誰の心も傷つけることはないのだ。主催者は、老若男女、多くの人が会場に来てくれて様々な意見を交わしてほしいのだ。そして、アートは決して美術館やギャラリーで展示される物理的なモノではなく、それは一種の考え方もしくは思想、さらに進んで生き方なのだと示したいのだろう。また日本に長く在住しているコラス氏による日本のアート界へのメッセージでもあると受け止めたい。

なお本展は“KYOTOGGRAPHIE 京都国際写真祭”にも巡回するという。古の都でも様々な議論が交わされることになるだろう。

ピエール セルネ & 春画
シャネル・ネクサス・ホール(銀座)
3月13日(水)~4月7日(日)
12:00~19:30、入場無料
3/28は展示替えのため休館

曖昧となるアートとデザインの境界線
Masterpieces of Design & Photography @クリスティーズ・ロンドン

いま新しい価値基準を持つ、いわゆる20~30歳代のミレニアル世代が消費の中心になりつつある。市場でのプレーヤーの変化に伴い、アート市場でも作品販売方法の見直しが求められている。

オークションハウスも、新たなコレクターの興味をひくため、様々な実験を行っている。販売方法ではデジタル・ネイティブ層を意識して、オンライン・オンリーのオークション数を増やしている。また従来のアート・ジャンルの組み替え、統合を行い、新たなカテゴリー創出にも挑戦している。これは新世代のコレクターは、様々な興味の中に多様なジャンルのアート作品があるからだ。以前のように特定分野のアートやアーティストのみを集中的に見ているのではない。そして、従来の世代は、アートはパッションで買うのが一般的だったが、最近は将来的に売却することを考慮に入れて作品選択を行う傾向が強い。つまり、好きだけではなくある程度の資産価値があるものを、多少高価でも選ぶということだ。最近の若手、新人による作品の不振は、まだ彼らにブランド価値がないからだという分析もある。
マルチジャンルの実験的なオークションは、オフシーズンに行われることが多く、クリスティーズが「Icons & Styles」、「Masterpieces of Design & Photography」、ササビーズは「Contemporary Living」、「Now!」、「Made in Britain」、ブルームズベリも「Mixed Media: 20th Century Art」などを行っている。写真、版画、家具、オブジェ、デザインなどが、業者ごとの担当者の思惑で編集されて実験的に実施されてきた。

さて2017年10月にクリスティーズ・ロンドン開催されて好調だった新たなカテゴリーMasterpieces of Design & Photographyの2回目が、再び3月6日に行われた。これはデザイン、インテリア、写真の高額評価の傑作のみを少数だけ厳選して行う、かなりターゲットを絞ったセールとなる。
新しい世代のコレクターは、デザイン、インテリア、写真などに対して同様の興味を持つ人が多いことが企画が生まれた背景にあるだろう。

前回の総売り上げは745.25万ポンド(@1ポンド/149円、約11.1億円)。特にデザイン・インテリア関連で、マーク・ニューソン(Marc Newson)のFRPを薄いアルミ板で包んだ構造の、歴史上最も高価な椅子として知られる超人気作“A Lockheed Lounge” が156.875万ポンド(@1ポンド/149円、約2.33億円)で落札され大きな話題になった。
写真は15点が出品されて11点が落札、落札率は約73.3%、£359.875万ポンド(約5.36億円)の売り上げを達成している。
ギルバート&ジョージの“Red Morning (Hell)”が84.875万ポンド(約1.26億円)、アンドレアス・グルスキーの“May Day IV”が75.875万ポンド(約1.13億円)、ロバート・メイプルソープの“Self-Portrait”が54.875万ポンド(約8176万円)、ヘルムート・ニュートンの“Charlotte Rampling”が33.275万ポンド(約4975万円)、アーヴィング・ペンの“Cottage Tulip: Sorbet, New York”が26.075万ポンド(約3885万円)で落札されている。

今回の総売り上げは、642.15万ポンド(@1ポンド/148円、約9.5億円) で、前回比約13.8%減、出品数は30点で落札率は83%だった。前回は、ちょうど景気が拡大局面にさしかかっていた時期だった。それに比べ現在の経済状況には陰りが出始めており、景気後退も意識され始めている時期だった。このような外部要因の違いを考慮するに、好調な結果だったといえるだろう。

デザインでは、ヨーリス・ラーマン(JORIS LAARMAN) によるアルミニウム製の椅子“An Important ‘Bone Chair””が落札予想価格上限を超える70.725万ポンド(約1.046億円)で落札。

JORIS LAARMAN Important bone chair

写真は14点が出品されて12点が落札、落札率は約85.7%、349.825万ポンド(約5.17億円)の売り上げを達成している。
全作品の最高額はロシア出身のエル・リシツキーの写真作品“Self-Portrait (‘The Constructor’)”で、94.725万ポンド(約1.4億円)だった。これはオークションでの同作家の最高落札額。

EL LISSITZKY, Self-Portrait (‘The Constructor’)

エドワード・ウェストンの“Shell (Nautilus)”は1927年に撮影されて1928年にプリントされた貴重なヴィンテージ・プリント。落札予想価格のほぼ下限の51.525万ポンド(約7625万円)で落札。トーマス・シュトゥルートの、“Mailander Dom (innen), Mailand”は、172.7 x 218.9cmサイズ、エディション10点の大作。落札予想価格上限の25万ポンドをはるかに超える41.925万ポンド(6204万円)で落札された。
杉本博司の人気海景シリーズからの“Yellow Sea,1992”は、エディション5点、 119 x 148.6cmサイズの大作。23.75万ポンド(約3515万円)で落札された。

Hiroshi Sugimoto, Yellow Sea,1992

ちなみに本作はギャラリー小柳で売られて、2008年の11月13日クリスティーズNYで45.3125万ドル(@1ドル/96.894円、約4390万円)で落札された作品。ちょうどリーマンショック直後の相場がピークアウトし始めた時期だったので、全所有者は当時としては底値で買えたものの、結局は約10年所有したものの利益はでなかったようだ。
ちなみに今回の落札予想価格は20~30万ポンド(@1ポンド/148円、約2960~4440万円)、前回が60~80万ドル(@1ドル/96.894円、約5813~7751万円)。当時の評価は明らかに過熱気味で、現在の相場はより現実的なレベルなのだといえるだろう。ちなみに相場ピーク時の、2008年6月30日のクリスティーズ・ロンドンでは、杉本の“Black Sea, Ozuluce, 1991”、エディション5点、152x182cmサイズの大作が、64.605万ポンド((@1ポンド/205円、約1.32億円)で落札されている。過去のデータを調べると、為替レートが大きく変動している事実に改めて驚かされる。
ちなみに2018年のニューヨークの大手オークションハウスの売上高は約3183万ドル(@1ドル・110円、約35億円)、ピークだった2008年の26%にとどまっている。

2月22日には、スワン・ギャラリーズ・オークション・ニューヨークで、高額・少数の真逆となる低額・多数の“Photographs: Art & Visual Culture”が行われている。こちらの総売り上げは約135万ドル(約1.48億円)、低中価格帯中心の出品323点、落札率は70.5%だった。大物を狙うか、小物を多数さばいていくかの考え方の違いが興味深い。

これからは大手と中小のオークションハウスの棲み分けが進んでいるということだろう。大手は、低価格帯についてはオンライン・オンリーのオークションにシフトしていくことが予想される。従来とは違うテイストや行動をとる新しい世代の人が市場の中心になっていくに従い、オークションハウス、プライマリーのディーラーは、生き 残りのために数々の試行錯誤を繰り返すことになるだろう。

ヒューマン・スプリング
志賀理江子
@東京都写真美術館

志賀理江子(1980-)は、愛知県出身の宮城県在住の写真家。ロンドン芸術大学チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・カレッジ・デザインを卒業。2008年に第33回木村伊兵衛写真賞を受賞している。
主催者によると、本展“ヒューマン・スプリング”の趣旨は、“現代を生きる私たちの心の奥に潜む衝動や本能に焦点を当て、日本各地のさまざまな年代、職業の人々とともに協働し制作した新作を、等身大を超えるスケールの写真インスタレーションで構成します”と紹介されている。
カタログ掲載の“人間の春”という作家本人のエッセーには、“毎年春、さくらが芽吹く数日前に、全く別人になる人がいた。頬は赤く紅葉し、夜もねむらずあたりを歩み続け、目が合う誰しもに話しかけ、よく笑い、高鳴る旨の音がこちらにもきこえてくるようだった”そして、“春になると全くの別人になる人は、まさに、その(「死」を通じた時空)裂け目からやってきた精霊のようだった。(中略)そして、その症状には「躁」という病名がついた”と記されている。志賀は、心のバランスを崩すと、生を疑うようになり、死を呼び寄せる、という発言もしていた。また精神科医の木村敏が、著書の“臨床哲学講義”(創元社、2012年)で、内因性の躁の時制について“永遠の現在”という言葉を使っているとし、それがまるで写真のようだとも語っている。また“躁はすべて鬱だし鬱はすべて躁である、と言える”という同氏の見解も紹介している。

会場内で奥から入口方面を見ると、直方体の巨大な180 X 270 cmの面に、この「春になると別人になると思われる人の」ポートレートが“人間の春・永遠の現在”と題されて繰り返し並んで展示されている。カタログにも、ほとんどすべての見開きページの左側に、この人の同じポートレートを収録。文字ページの背景にも使用されていて、裏表紙も含めて約80点が掲載されている。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

志賀はカタログのエッセーで、人間が社会生活の中で多大な精神的なストレスをかかえ、“心因性かつ単極の鬱病を大量に発生させている”と記している。この辺りに本作の基本構想が生まれた背景があるようだ。しかし、これは社会生活を送っていくうちに誰しもが認識することであり、特に作品テーマとして声高に提示するような新しい視点でもないというツッコミがはいるかもしれない。
しかし、いままでに多くの世代の人が意識してきた問題意識を、今の30代後半の人も共有している点に注目したい。もはや、限られた世代や時代の問題ではなく、現代日本社会における根深い状況になっていると解釈したい。

本作で、志賀は精神的に病んでいく根本的な原因は人間と自然とのバランスが崩れたことにあると認識している。都会で人工的な社会生活を送っていると自然など意識しないだろう。しかし、長い冬からの春が訪れという自然の大きな変化を体で受け取り、全くの別人のなる人との出会いを通して、彼女はその事実に否応なしに気付かされた。また本作の作品制作の背中を押したのは、東日本大震災の体験だろう。それは普段私たちが忘れている自然の中の小さな存在を意識するきっかけになった。考え抜いた末ではなく、天変地異との遭遇から直感的に生まれてきた作品制作の衝動だったと思う。

本展は、日本古来の価値基準をもう一度見直してはどうかという提案でもある。それは、自然美に一種の神を見出し、恐れを抱きながら共に生きるというもの。いま世界の多くの人は、環境破壊や気候変動に直面し、西洋の自然を利用して経済成長するという、長らく続いた近代主義の考え方に疑問符を持つようになっている。明治以降の日本も例外ではない。
様々な考え方が議論されているが、自然に神を見出しだすような、かつての日本の美意識や地球共同体的な考えが注目されるようになっている。実際のところ、このような考えを安易にテーマとした作品は数多く存在している。21世紀の日本の山河に、古の日本の優美の美意識を見つけ出した、というような退屈な風景写真だ。残念ながら、それらの多くは、表層だけをとらえたテーマ性が後付けされた、リアリティーに欠けた写真だ。
一方で、志賀は同じ深遠なテーマを、人間の中に眠る身体性を蘇らせて、一種の祭りのような身体性を持つ写真撮影のパフォーマンスをチームで行って表現している。その延長線上に、今回の巨大写真を張り合わせた直方体のオブジェを会場全体に並べるインスタレーションが生まれたのだろう。しかし、彼女は特に古き良き時代の日本の考え方に戻れと言っているのではないと思う。そんなことは望むのはナイーブで非現実的だと当然理解しているはずだ。しかし、いま確実に進行している危うい社会状況を、ヴィジュアルで可視化させて、来場者に意識するきっかけを提示したいのだろう。

いくつかの展示作品は、米国人写真家ライアン・マッキンレーのヴィジュアル・スタイルと似ていると感じた。志賀は自然と人間との関係性の再構築の可能性に取りつかれている。アメリカ人も病的に自由であることに取りつかれているともいえるだろう。マッキンレーは不自由を強いられる現代生活の中で、かつての自由でルールがないような世界を追い求めて創作している。二人ともに今はない、かつてあったファンタジーの世界を、時間軸は違うものの作品で構築しているのだ。またチームで創作する点や演出する点も類似性を感じさせられる。
志賀は1980年生まれ、マッギンレーは1977年生まれの同年代。国は違えども、今を考えるヒントを、過去に求める共通のメンタリティーを持っているのだろう。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

多くの来場者は、会場に足を踏み入れると、まず展示風景に困惑するだろう。それは全く知らない土地で、突然その地の伝統的な祭りに出くわしたときのような戸惑いと同じだ。会場内で彼らが感じる違和感、もしくはノイズも作家が意図したもう一つのテーマなのだろう。
現代社会では、私たちは自分の興味ある情報にしか触れなくなっている。社会システムから、個人が好む価値だけを与えられて、何も考えないで生かされる世界が現実化している。そこで生きる人は、違和感を無意識的に避けるようになっている。自分の狭い価値基準が全体の世界だと信じて、ぐるぐる回っているような状況だ。違和感は、自らの思い込みに気付かせてくれ、意識的に考えはじめるきっかけを提供してくれる。私は創作には違和感を避けるのではなく、意識的な対峙が必要だと考えている。本展では、上記のような、いまの社会状況をインスタレーションで表現しようとしているとも解釈可能だろう。
会場内に並べられた20個の巨大な直方体のオブジェは、私たちの表面的な社会のように整然ときちんとしているように見える。しかし、個別のヴィジュアルに目を移すと、そこには普通ではない「春になると別人になると思われる人」のようなシーンが繰り返し登場する。そして、よく表面を見ると、タイプCプリントにはたるみが出て、決してフラットではないことに気付く。一見平穏に見える世界に潜んでいるノイズがそこに表現されている。
会場内には、オブジェのスケルトンの、写真が貼られていない木材の枠組みが1点だけ置かれている。(上の画像の左奥) 製作途中で放棄されたかのような枠組みは、全体の展示物の中でのノイズであり、会場内に潜む違和感に気付く割れ目のような役割を担っている。そして、その違和感は、私たちが自然とのバランスを崩していることへの気付きにつながってくるのだ。

来場者は、違和感を拒否するのではなく、ぜひそれに対峙して味わってみてほしい。世界を理解する新しい視点が自分の中から呼び起こされるきっかけになるかもしれない。

志賀理江子 ヒューマン・スプリング
東京都写真美術館(恵比寿)

有名アーティストのフォトブックを真似る
共感する人の世界観での自己表現

今春にオープンする予定のブリッツ・アネックス。いま膨大な冊数の写真集の整理整頓に悪戦苦闘している。ほとんどが絶版本で、棚に並べるかどうかの選択規準は、あえて単純に古書市場での評価にした。ただし、専門分野であるアート系のファッション、ポートレート写真では、独自の規準で主観的にセレクションしている。
作業を進めていくと、膨大な数の自費出版本の存在を意識せざる得なくなった。その中には、様々な種類の写真を掲載した本が混在しているのだ。膨大な冊数に直面し途方に暮れながら、気付いた点をまとめてみた。写真集の制作を考えている人、コレクションしている人は参考にしてほしい。

まずデジタル時代になって、とてつもなく印刷クオリティーが悪い写真集があることにも気づいた。アナログ時代のフィルムを、的確をスキャニングして高レベルの印刷を行うのは極めて難しいことは知られている。しかし、デジタル・カメラで撮影されたと思われる写真でも同様の状況が見られるのだ。そこには、プリンティング・ディレクターが関わっているはずなのだが、どうも的確に色味がコントロールされていないと思われないものが散見される。アナログのフィルム製版の時代にはそのような酷いものはあまり見た記憶がない。
デジタル時代は、アナログ時代よりはるかに低価格で写真集が制作できる。以前は存在しなかった劣悪なものまでが制作されたのかもしれない。印刷はオリジナル作品と比べてその良し悪しが判断されるはずだ。しかし、デジタル時代のオリジナル・プリント制作には、写真家が明確な基準を持つことが必要だ。それを持たない人が多いのではないかとも思う。それでは、印刷で目指すべき規準も存在しない。個々人の感覚的な判断によっているのではないだろうか。
逆に、どう見てもオリジナル作品よりもクオリティーが高いと感じる印刷もある。本だけでなく写真展の案内状にもみられる。これはプリンティング・ディレクターが撮影した写真家より優秀ということなのだろうか? デジタル時代の作品クオリティーはどのように担保していくのか。大きな問題だと改めて気づかされた。

またデザインを重視した写真集も数多くみられる。これらの中心はデザイナー、もしくはデザイナー的な意識を強く持つ写真家の場合もある。抽象的な写真を、グラフィック・デザインや装丁を重視して編集制作された本のことだ。綺麗なパッケージのように、デザインのサンプルのような存在。外観やデザインがすべてで、中身の写真がそのための素材になっている。これは写真を見せるフォトブックではなく、別の目的を持った出版物になってしまう。

何度も解説しているように、写真集の中には撮影者が読者に伝えたい何らかの時代性を持つメッセージを伝えるために制作されたものがある。いわゆる、フォトブックと呼ばれるもので、海外では写真が収録されただけのフォト・イラストレイテッド・ブックと区別されている。またアート写真の一つの表現方法として認知されている。フォトブックでは、伝えたい内容を明確化し、それを写真で伝えるために、編集者、デザイナーが写真家と共に様々な試行錯誤を行う。彼らも単に編集やデザインを行うのではなく、フォトブック専門の知識、経験、ノウハウを持っていることが必要となる。編集者は、内容を的確に伝えるテキストも用意しなければならない。日本では、このようなフォトブックへの理解度が非常に低い。ベテラン写真家の中にも、写真が良いか悪いかがすべてで、編集者やデザイナーは必要ないと発言する人も少なくない。写真は伝統工芸の職人技のカテゴリーで理解されており、アート表現だと考えられていないのだ。
残念ながら、このようなフォトブックのプローチで制作された写真集は私どもの手元にはなかった。もしかしたら、的確に写真家のメッセージが伝わってこなかったのかもしれない。

否定的なことばかり書いてきたが、最後に希望が持てる事象を発見したことも記しておこう。私が可能性を感じたのは、誰か好きなアーティストがいて、その人の世界観に共感してそれを自分の視点で表現する人だ。本来は自分で社会に横たわる問題点を見つけ出し提示しなければならない。しかし、彼らは既にそれを行っているアーティストの世界観を自分なりに解釈して、自らの写真集として提示しているのだ。ただし、これは有名写真家のヴィジュアルの表層を感覚的に真似することではない。この点は重要なので勘違いしないでほしい。それでは前記の職人技を持った写真家の技術の模倣に陥ってしまう。またこれは商業写真で時に問題となるパクリではない。敬意を表するアーティストからの影響を認め、それに対するオマージュ的作品を確信犯で制作する人である。
初期のロバ―ト・フランク、ロバート・アダムス、テリ・ワイフェンバック、現代アートのベッヒャー夫妻などの世界観を意識していると感じる作品などがある。私は、このようなアプローチの創作の先に、自分独自の視点を持ったフォトブックが生まれる可能性があると期待している。特に若手や新人は、自分の尊敬できるアーティストを探し当て、詳細に研究を行い、それを真似るところから表現を開始するばよいと考える。いきなり、誰も見たことがないような独創的な表現などできるはずない。

このように様々な種類の写真を収録した、多様な形式の写真集が存在する。しかし素材はすべて写真と紙。一般の人はそれらの違いが非常にわかり難いだろう。違いを見分けるには、繰り返し述べている“見立て”の技術が必要だと考えている。別の言い方をすると、アーティストの視点を、技術や知識を持つ人が分かりやすく提示すること。最近、私は“アート・コンセプト・エンジニアリング”と呼んでいる。フォトブックに興味ある人は、ぜひ”見立て”を学んでほしい。
今後に開催する、“ファインアートフォトグラファー講座”などでもこの点は重点的に解説していく予定だ。