リーバーマンもファッション雑誌作りの制限の中で、できる限りの自由な表現の可能性を探求した。その姿勢はライバル誌ハ―パース・バザーのブロドビッチと全く同じだ。両者には、第2次世界大戦が終わり、社会における女性の存在が大きく変化したという確固たる認識があり、それを誌面で提示しようと考えた。大判カメラとスタジオで撮影されたセシル・ビートンやホルストのイメージは時代遅れと考え、新しい時代の女性に合致したファッション写真を世に送りたいという意思がともにあったのだ。
リーバーマンは自分が理想と考えるファッション写真を作り出すために、画家志望だった若きアーヴィング・ペンを写真家に転向させ、ジュニア世代のファッションが理解できる若い女性写真家のフランシス・マクラフリンを起用している。ちなみに、ペンの最初のヴォーグ誌のカヴァー写真は1943年October 1号となる。巧みにファッション小物を配置して構成されたスティル・ライフ写真は画家の視点が生かされている。また将来の可能性を感じさせる作品だ。リーバーマンは、ファッション写真の経験のないフォトジャーナリズム系写真家もファッション雑誌の撮影に起用している。なんと畑違いに感じるエルンスト・ハースやウィージ―にも撮影を依頼しているのだ。
その中には、後にアフリカ系アメリカ人の最初のライフ誌のスタッフ・フォトグラファーになったことで知られるゴードン・パークス(1912-2006)も含まれる。1940年代後半、パークスはハーレムに移り住み、リーバーマンの下でヴォーグ誌の最初のアフリカ系アメリカ人フリーランスのファッション写真家となる。当時の社会には、いまとは比べ物にならない程の人種差別的な考えが蔓延していた。それにもかかわらず、リーバーマンは彼にハイ・ファッションのイブニングドレスのコレクション撮影を依頼している。パークスのファッション写真は主にストリートで撮影された。構図が非常に革新的で、モデルに動きが感じられ、またカラー作品は映画的な美しい色彩で表現されている。それらは、写真集「I AM YOU : Selected Works, 1942-1978」(Steidl、2016年刊)の「Fashion 1956-1978」セクションで紹介されている。
彼のファッション写真は財団管理下でエステート・プリントとしてエディション付きで販売されている。2020年の6月18日~25日にかけてフィリップスがオンラインで開催した「Tailor-Made: Fashion Photographs from the Collection of Peter Fetterman」オークションではパークスのエステート・プリント2点が出品、落札予想価格は5000~7000ドル(約55~77万円)。「James Galanos Fashion, Hollywood, California、1961」が7500ドル(約82.5万円)、「Untitled, New York, N.Y., 1956」が6250ドル(約68,7万ドル)で落札されている。ノーマン・パーキンソンなどと同様に、写真家死後の作品でも財団管理下で制作されたのリミテッド・エディションの相場は極めて安定している。
いまアート界ではアフリカ系アメリカ人や女性アーティストに注目が集まっている。パークスのファッションやポートレート作品も間違いなく市場で再評価されるだろう。
戦後ファッション写真史の資料を調べていると、写真家、デザイナーたちが雑誌ページ内での写真の取り扱いに不満を持っていた事実がよく記されている。洋服を中心に目立って見せて欲しいデザイナー/服飾メーカーや編集者と、それらをヴィジュアルの一部と考え、より自由な表現を目指すクリエーターとの軋轢には長い歴史がある。その後、ファッションが巨大ビジネスとなるに従い、表現の自主規制もさらに厳しくなる。お膳立てがすべて整っているファッションの撮影では、自分の感性を生かしてリスクを冒すことなどできないのだ。多くの写真家はファッション写真の先に自由なアート表現の可能性はないと失望して業界を去る。そして仕事での自己表現の限界を理解すると、自らの欲求を満たす行為を他のアート表現に求めるのだ。
リーバーマンも、ヴォーグ誌を初めとし、グラマー、バニティ・フェア、マドモアゼル、アリュールなどのコンデナスト出版の雑誌全般を率いるとともに、写真家、彫刻家、画家としてのキャリアも追求している。彼の多様なアーティストのキャリアと、特に長年にわたるコンデナスト出版での活躍を見るに、彼は仕事と自己表現のバランスがとれた類まれの人だった事実がわかる。彼は表現者にありがちな、エゴが追求するロマンチストではなく、極めてリアリスト的な生き方を追求したのだと理解したい。前回パート1で触れたように、彼は自分のフレームワークに囚われずに、変幻自在に時代の流れに聞き耳を立て、多くの才能を起用して雑誌作りを行っていた。回りくどい言い方だが、確固たるスタイルにあえて固執しないのも、一つのスタイルだといえるだろう。
ジャンルは違うが、ミュージシャンのデヴィッド・ボウイはキャリアを通して多彩な自身のヴィジュアル作りを行っている。各時代の最先端をゆく写真家を積極的に起用して、カメレオンのように自らのイメージを変化させている。
リーバーマンの創作スタンスはかなりボウイに近いと直感した。彼のファッション雑誌作り自体は一種の自己表現であり、彼はそれにある程度満足していたのではないだろうか。もちろん、彼の立場により、ほかの人と比べて格段に仕事上の自由裁量を持っていたのは明らかだろう。当時、コマーシャルと深く関わるファッション写真や雑誌作りはアート表現だとは考えられていなかった。彼は時代に横たわる気分や雰囲気を感じ取って、写真を通して社会に提示した。ファッション写真の持つアート性をいち早く見出した最初の一人だったのだ。時代が彼に追いつくのは90年代になってからだ。
以上から、リーバーマンのアーティトとしての創作は、自分のやりたいこと追及を求め、それがかなわないと去っていく他の多くの表現者とはかなり違っていたと考える。彼の巨大な彫刻作品は世界中の約40都市の公共スペースに展示されている。しかし実際のところ、彼はアーティストとしては美術評論家から高い評価は受けられなかった。アート・オークションへの出品も限定的だ。
彼が手掛けるヴォーグ誌は、ジャコメッティ、ユトリロ、マティス、ブラックなどのアート特集を掲載するとともに、デュシャンなどの重要な美術評論家によるエッセイをほぼ毎号掲載していた。執筆の仕事の依頼者がアーティストだったという極めてまれな状況だった。アートの専門家は、アートメディアを牛耳るリーバーマンによるアート作品は、利益相反から客観的評価は難しいと考えていたのだ。
わたしは、リーバーマンはその点は十分理解していて、アーティスト活動の評価については気にしていなかったと想像している。たぶん彼は雑誌作りである程度の自己実現ができて満足しており、アーティスト活動は自らの精神をバランスさせるための行為だったのだと思う。方法論の追求は趣味だと言われるが、たぶん彼にとってアートの創作はそのような位置づけだったのではないだろうか。
次回のパート3では、リーバーマン関連のフォトブックを紹介する。