アート・コレクションという趣味 現代日本写真は宝の山か?

最近、マスコミでアート・コレクションや市民コレクターを話題にした記事をよく見る。
米国のコレクター夫婦をテーマにしたドキュメンタリー映画”ハーブ&ドロシー(アートの森の小さな巨人)”は大きな話題になっている。日本経済新聞の”アートを支える人々”という特集記事では、未評価の現代作家をコレクションして公開したり、美術館に寄贈する個人コレクターの例が紹介されている。

前回も触れたが、最近はギャラリー店頭でもアート・コレクションに興味を持つ人が増えている印象だ。写真を買ってみたいと来廊者の方から声をかけてくれることも珍しくなくなった。古美術は買ったことがある、時計は集めているなど写真趣味以外の人も興味を示している。映画のハーブ&ドロシーを試写会で見て、壁をアートで埋め尽くす生活に魅了された、というようなコレクターもいる。
長い間写真コレクションの楽しみをギャラリー側から話しかけ続けていたので、最近の変化はとても感慨深い。

比較的低予算でもアートが買えることが知られてきて、コレクションにリアリティーを持つ人が増加したのだと思う。映画”ハーブ&ドロシー(アートの森の小さな巨人)”の宣伝コピー、”お金がなくても、情熱があれば夢はかなう!”はその象徴。サラリーマン・コレクターというような呼び名も同様の印象を与えている。

しかしこれは単純に低価格作品を買い集めることではない。厳密にいうと、アートの分野を絞り込むことで、低予算でも優れたコレクション構築が可能という意味だ。
私たちはコレクターと言うと富裕層を思い浮かべるが、彼らは既に成熟した市場で作品を買っている人たち。歴史がある成熟分野の市場では、ブランドが確立したセカンダリー市場の作家はもちろん、プライマリー市場の作品でさえ価格が比較的高いのだ。この分野でのコレクション継続にはある程度の資金が必要となる。
しかし実際のアート市場は非常に広いカテゴリーのマーケットの集合体であり、それぞれが別個な要因で動いている。発展途上や過小評価された分野も数多く存在するのだ。それらの一部は全体の相場が低いので一般の人でも十分に低予算でコレクションの醍醐味を満喫できるのだ。
ハーブ&ドロシーのコレクションもはまだ市場性がなかった60年代の米国現代アート市場だから可能だった。サラリーマン・コレクターとして注目される人たちもブーム到来以前の日本の現代アート市場でコレクションを始めている。実はアート写真市場もかつては過小評価されていた分野だった。市場黎明期の80年代からヴィンテージ作品を買っていた人たちのコレクションはいまや高い資産価値を持つようになっている。
それでは、アート市場のフロンティアはすでに消滅したかというとそうではない。市場が成熟した米国、西欧以外の国々の市場はまだ成長の可能性が高いと思う。景気の良い時は欧米のディーラー、コレクターがそれらの市場を物色した。不況の今、やはりそれぞれの国のディーラー、コレクターがその役割を果たしていくべきだろう。またある程度の経済力を持った国であることも市場拡大の必要条件だろう。その意味で、多少セールス・トークになってしまうが、日本の現代写真、ファッション系写真は市場自体が未発達で狙い目だと思う。
上記のような新しいコレクター予備軍が出てきたことで、市場が本格的に立ち上がっていく可能性は十分にあると思う。もしかしたら現在の市場の中には将来の有望作家や過小評価の作家が数多くいるかもしれないのだ。
10年後に、彼らが宝になり輝くか石ころで終わるかは、作家、コレクター、ギャラリー、ディーラー、評論家、美術館キュレーターらの関係者の情熱にかかっている。一般の人たちのアート写真・コレクションへの関心をミニブームで終わらせることなく、 大きな動きにつなげていきたい。

アート写真コレクションのすすめ 最初の1枚を買ってもらうには

 

現在の日本では、アートは買うものではなく見て楽しむものだ。高度消費社会が到来して以来、アート鑑賞は一種のシーン消費となり、美術館やギャラリーに行く行為自体に意味を見出されるようになる。最近では、さらに進化して旅による移動と鑑賞が一体化してきた。日本人は元来旅行を好むメンタリティーを持っている。瀬戸内海の直島や金沢21世紀美術館が成功している背景には、旅行とアート鑑賞という目的がセットになっているからに他ならない。最近は”観光アート”というような新書も出ているくらいだ。これが日本でアートを販売する商業ギャラリーが少ない理由のひとつだろう。私どもの写真分野では、カメラで撮影して楽しむことが一般的だ。デジタル化でその流れがさらに強まっている。ギャラリーは厳しい状況をどうにかして変えたいと常に悪戦苦闘しているのだ。

アート写真コレクションの喜びを知ってもらうには何でもよいまず1枚を買ってもらうことだ。そのためには価格が安いことが非常に重要となる。
はじめての人は相場観が全くない。たとえばいきなり5万円を超える作品を買うことは 心理的な敷居がかなり高いのだ。私の経験則ではフレーム込みで3万円以内が初めての人には理想だと思う。
低価格帯作品は、作家の儲けが少ないのでなかなか商品化が難しい。しかし、リーマンショック、ギリシャ危機を経て、景気回復の遅れが強く意識されるいま、低価格作品が次第に登場するようになってきた。それらの多くは写真展期間中の限定販売でオープンエディションだ。興味深いのは、ギャラリーが作家に頼み込むのではなく、両者のあいだで自然と手軽な商品の必要性が意識されてきたことだ。それも新人写真家ではなく、トミオ・セイケ、ハービー・山口、ナオキなど知名度のある作家が積極的に手掛けてくれるようになった。かれらは長年日本市場においてのマーケティングを行っており、ギャラリー同様にアート写真市場の底辺拡大の必要性を感じているからだろう。

面白いことに、アート作品の販売経験が浅い写真家や、新興ギャラリーほど、安い作品を作るのに批判的だ。しかし、最近になり高価格志向が強い商業写真家のなかにも意識の変化が見られてきた。作品を低価格帯から中長期的に売っていきたいと考える人たちが登場してきたのだ。彼らは、自らの開催するワークショップなどを通して一般の人の真のニーズに気付いた人たちだ。最初は、真のファインアートとしてではなく、写真撮影を趣味とする人を念頭に置いて作品を紹介していきたいと考えているようだ。日本市場の特徴は、ハイアートとポップ・カルチャーが混在していること。確信犯でこの分野を攻めるのは決して的違いではないと思う。
そのような考えを持った、商業写真分野で活躍する人たちが来年3月にグループ展を行う予定だ。私どももできるだけ協力していきたいと思う。詳細が決まったらお知らせします。

さて低価格帯作品の売り上げは順調に推移している。知名度があり、作家のブランドが確立している人が高品質で低価格の作品を提供すれば不況でも売れるのだ。ハービー・山口の8X10″フレーム委り銀塩写真の限定ミニ・プリントは非常によく売れた。多くが初めて写真を買った人だった。 彼のプリントの最低価格は11×14″で6万3000円。多くの人が6万の写真は無理だがフレーム込みで3万以下のミニプリントなら買える、と話してくれた。
また低価格の作品から積極的にコレクションを始める人も見られるようになってきた。 インスタイル・フォトグラフィー・センターで行った”Imperfect Vision”展では、知名度がない新人作家の作品が予想以上に売れた。 低価格なら、たとえ経験がなくても自分の感覚を重視して思い切って作品を選ぶことが可能なのだ。またコレクションを意識している熱心な来場者も多かった。複数作家のグループ展なら自分好みの作品と出会える可能性が高いと考えてくれたからだと思う。低価格帯作品は写真家もギャラリーにも儲けはほとんどない。
しかし、それが新しいコレクター層を増やすのなら大いに挑戦する価値があると思う。

実は12月にもう一つ新規コレクターを呼び込むイベントを考えている。今度は約5~7つの写真ギャラリーがインスタイル・フォトグラフィー・センターに集まって10万円以下の作品のみを販売するイベント、”広尾・アート・フォト・マーケット”を開催する予定だ。専門ギャラリーが集まって新たな市場作りを共同で行う。写真コレクションを考えている人、初心者にも複数ギャラリーの低価格作品を一堂にみれる絶好のチャンスだ。こちらも詳細が決まりましたら案内します。

2010年秋アート写真オークション速報 不況でも根強い希少作品への需要

 

春と比べて景気の先行きにはやや雲がかかってきたという状況だろうか?
2008年のリーマン・ショックで大きな痛手を被った世界経済は各国政府による財政出動で徐々に回復し始めてきた。しかし、景気刺激策が終了するに従いその勢いが止まってしまった。内需が回復しないので日米欧は異例の金融緩和を続け、通貨安戦争へと発展した。輸出により自国経済を立ち直らせようということだ。もしかしたら先進国の景気低迷はまだしばらく続くかもしれないと多くの人が考え始めてきた。

今秋のニューヨークのアート写真オークション。主要3社の総売り上げは1,739万ドルだった。春は約1,777万ドルだったのでほぼ横ばいという結果。
しかし今年は6月に、ササビーズでポラロイド・コレクション485点のオークションが開催されている。総売り上げは約1,246万ドル、落札率約89%と好調だった。これを無事に消化した上での今秋のオークションだったので、結果は上出来だったと評価できると思う。質の高い作品を集めて、編集したオークションハウスの専門家たちの努力の結果だろう。

市場状況は、ササビーズのクリストファー・マホニィー氏のコメントに集約されている。彼は、”市場に初めて出てくる、真に貴重な作品に対して、市場は非常に強い関心を持っていることが証明された”と語っている。逆にいうと、凡庸なモダンプリントに対する需要はまだ回復途上ということだ。

高額落札は、クリスティーズに出品されたアンセル・アダムスの裏打ちされた雄大な”Grand Tetons and the Snake River, Grand Teton National Park, Wyoming,  1942″。
60年代にプリントされた約77X115cmの巨大作品。現存するのはわずか6点とのことで、338,500ドル(@85.約2877万円)で落札されている。
ちなみに、上記ポラロイド・コレクションのオークションでは、アダムスの同様の巨大作品”Clearing Winter Storm,Yosemite national Park, 1938″が作家のオークション最高価格の$722,500.(@85.約6141万円)落札されている。
ササビーズのトップは、ロバート・フランクの”U.S.90, En Route Del Rio, Texas,1955″。266,500ドル(@85.約2265万円)で落札されている。
全体の印象としては、クラシックなモノクロ作品が増えて、ファッション系と現代アート系の出品が目立って減少していること。現代アート系の作品がカタログ表紙を飾ることが多いフィリップス(Phillips de Pury & Company)だが、今回はアンドレ・ケルテスだった。ササビース、クリスティーズのカタログは90年代を思い起こさせてくれるような内容だった。ファッション系のニュートンやペンは慎重にセレクトされていたものの、絵柄によっては不落札なものが散見された。

個人的に嬉しかったのは、丸山晋一の作品Kusho#1がフィリップス(Phillips de Pury & Company)に出品され、$18,750.で落札されたこと。同イメージは10枚のエディションが既に完売している。現代アート系でも人気のある作品には需要があるようだ。ちなみに、Kusho#1の大判銀塩写真版は現在東京広尾のインスタイル・フォトグラフィー・センターで開催中の”Imperfect Vision”で展示中です。

私が気になるのは、以前も触れたが米国で起きている株価の上昇予想の変化だ。いままでの写真オークションでの落札額の推移はほぼニューヨーク・ダウ株価と連動していた。株価上昇の背景には中長期的に価格が上昇するという一種の共同幻想があったと言われている。写真も同様に、有名作家の優れた作品を買っておけば値段はあがると信じられていた。実際に過去20年くらいの相場はその通りに動いていたのだ。
ここにきて専門家が指摘しているのは、長引く不況の影響で投資家の運用姿勢が慎重になり、株価の上昇神話が揺らいできたという事実だ。中長期的な株価上昇期待の減少はアート写真市場にも影響してくると思う。投資的見地で買っていた人は慎重になり、本当にアート写真を愛するコレクターが適正相場で買う市場になるだろうということだ。大幅な価格上昇見通しがないので、貴重な作品以外は高値での競り合いもなくなるだろう。
相場の上昇期待で買われるのは決して好ましいことではない。しかし、それが市場規模を拡大させ、新人や若手までもが注目されたのも事実だ。ブランド未確立の作家は苦戦する時代になる気がする。
今後のコレクターの志向は、多文化主義から自国主義、新人から中堅作家へ、サイズは大から中小へ、数から質へ、アバンギャルドからクラシックへと、いままでの揺り戻しがしばらく進む感じだ。

詳しいオークション結果については後日、アート写真の総合情報サイトのアート・フォト・サイトの海外オークション情報欄で紹介します。

初めて写真を買う人へのアドバイス 作品を見て、感じて、考える!

 

経験豊富なベテラン・コレクターは自分のテイストと客観評価をバランスさせた絶妙な作品選択を行う。しかし、経験が全くない人はいったい何を基準に決定を下せばよいのだろうか。今回はいつも店頭で行っている、初心者向けアドバイスをいくつか紹介しよう。

値段によって判断基準を分けてみるのもひとつのアプローチ。まずフレーム込みで5万円以内くらいまで。これくらいなら、単純に自分の作品の好き嫌いの感じで買ってみてもよいだろう。この価格帯の作品は、作家性よりもイメージ優先の場合が多い。インテリアに飾って違和感を感じることはまずないだろう。

この段階で満足する人が多いのだが、中にはよりよいものが欲しいと考える人もいる。彼らは、感覚重視で買った作品は時間がたつと何か物足りなくなることに気付くのだ。そのような人はアート作品を一種の知的遊戯としてとらえてみてほしい。それらは5万円以上の作品になる場合が多く、必ずしも第一印象が良いイメージではない。重要なのは目で見るだけではなく、心と頭でも作品と向かい合うことのだ。アート作品は単なるビジュアルではなく、作家が伝えたい何らかのメッセージの入り口なのだ。もし、作品を見て何かを心で感じたならば関連する情報を集めてみよう。見る側の持つ情報量によって作家のメッセージの意味が左右されるからだ。疑問点があればギャラリーのスタッフや、アーティストに投げかけてみよう。もし得られた情報で作品がより良く感じられたなら、それは1枚の写真を通して作家とコミュニケーションができたこと。作品が自分にとって価値を持つという意味でもある。そのような作品は購入を検討してみるとよい。

作品の将来性から判断するのもひとつの基準だろう。自分が良いと判断した作品の価値が上昇するのはうれしいものだ。作品価格は作家の仕事の継続性により左右される。通常、新作の個展開催を期に価格は上昇していくのだ。しかし初心者の場合、作品を1回見たぐらいではなかなか判断できないだろう。ここでも作家本人やギャラリーと話してみることがヒントになる。
ただし、これは本人がこだわりを持って作品制作するのとはやや意味が違う。注意が必要だ。例えば商業写真に携わる人は、撮影方法や機材、プリント用紙などへこだわりを持つ人が多い。これは作品判断上の重要な要素の一つだが逆にその部分のこだわりが作家性と勘違いしている人もいる。そんな自分のこだわりを熱心に話す人も多いがこれに惑わされてはいけない。それはどちらかというと職人気質のようなもの。
注目してほしいのは外見ではなくソフト面。つまりその作家はどのようなメッセージを見る側に伝えたいかということだ。それらは本人やギャラリストがいなくても、ウェブサイトやブログなどで語られているはずだ。もし色々と調べても、作家の視点がわからない場合は購入は控えた方がよいだろう。もちろん見る側の経験不足の場合もあるので情報収集をさらに進めて自らを高める努力の継続は必要だろう。写真で何を私たちに伝えたいかが作家の原点になる。ここの部分の強い動議づけがない人は困難に直面した場合の忍耐力が弱い。視点を見極めることが継続できる人かどうかの重要な判断基準になるのだ。

アートは自分の好きなもの、感性を刺激するものを買えばよいという考えがある。それは全くまっとうな考えだと思う。しかしそれでは一般の消費物を買うのとなんら変わらない。アートの魅力は作品を通して、自分が気付かなかった文化的、思想的な視点を獲得できることでもある。そのような作品判断が出来るようになるには、自らが能動的な学習や情報収集を行いし、アート経験を積み重ねていくしかない。単純な感動が一般化しているいま、やや複雑だが知的好奇心を刺激しているアートを求める人は確実に増加している。

10月8日(金)から東京広尾のインスタイル・フォトグラフィー・センターで開催される「Imperfect Vision(侘び・ポジティブな視点)」は初めて写真を買いたい人にぜひ来てほしい写真展だ。

日本の伝統的な美意識を作品に取り込んでいる日本人写真家7人によるグループ展だ。
撮影されている対象は、ファッション、ランドスケープ、シティースケープ、抽象などバリエーションに富んでいる。最初は全く異なるヴィジュアルが並列されているので驚くかもしれない。しかし、その制作背景を読み解こうとすると一貫性があることに気付く仕掛けになっている。
サイズは8X10″から、1メートルを超えるものまで。値段も1.5万円~から数10万円のものまでが幅広く揃っている。作家やキュレーターは出来る限り会場にいるようにしている。作品制作の背景や疑問点などの質問は大歓迎だ。買う買わないはともかく、アートを見て、感じて、考える機会にしたいと考えている。

バランス感覚を取り戻せ
トミオ・セイケ写真展が語るもの

現在開催中のトミオ・セイケ写真展「Untitled」では、デジタル・カメラによるアート作品制作の可能性を示唆している。それが作品コンセプトとどのようにつながるかを考えてみたい。

セイケが今回撮影したのは、プラハ、アムステルダム、ブライトンなどのシティー・スケープ。彼は単純に欧州に残る古い街の外観を愛でているのではない。欧州人は古いものを大事にする一方で、優れた新技術を受け入れる柔軟性も持っている。古い外見の建物の中に暮らす人々は、薄型テレビ、インターネット、携帯電話、携帯型デジタル音楽プレイヤーも利用しているのだ。西洋文化には古いものと新しいもの意識的に組み合わせる知恵がある。その精神性こそが欧州都市の魅力の源泉なのだ。

なんで、セイケの撮影した欧州のシティースケープに私たちは惹かれるのだろう。それは、日本の現在の都市環境に本能的に違和感を感じるようになったからに他ならない。いままでは、こんな状況を成長、進歩の最前線として、まるで映画ブレード・ランナーの世界だなどと肯定的に解釈してきた。しかし、その前提が崩れた現在、革新的だったはずの未来都市がただエゴに満ちたなカオスの集積に見えてくる。実は、日英を往復しているセイケによる日本都市の認識はずっと一貫していた。欧州でしか作品制作を行わないのはそのためだったのだ。
戦後日本人の進歩と成長のみを妄信する一元的な価値観がいま大きく揺らいでいる。今回、セイケが長い歴史を持つ欧州都市を日本製最新デジタル・カメラで撮影したのは、西欧のようなバランス感覚を意識したらという、迷える私たちへのメッセージではないだろうか。

彼は欧米市場を中心に活躍している作家だ。当然、今回の試みは彼らへのメッセージも含んでいる。欧米市場はいまだに銀塩写真が中心。デジタルプリントはかなり普及しているが、カメラはまだフィルム式だ。しかし技術進歩により、伝統的な写真に見えても、実はデジタル写真だったという状況も、もはやおかしくないのではないか。ただし、作品クオリティーは絶対条件。銀塩写真の歴史が長い欧米写真界でも、最新デジタル写真のクオリティーを見れば考えが変わるかもしれない、という期待が感じられる。実際にセイケの話を聞いたロンドンの老舗写真ギャラリー、ハミルトンズのディレクターは、初めてのデジタル写真により写真展開催を意識したとのこと。
来年には、何とデジタル・カラー作品によりセイケの個展が開催されるかもしれないのだ。
セイケのデジタル作品は本家本元のアート写真の歴史を変えるきっかけになるかもしれない。

コンデジでアート作品が出来るのか?衝撃のトミオ・セイケ写真展が始まる

 

あるお客様がギャラリーでの展示作品を一通り見終わると、どの作品がデジタル・カメラの撮影ですかと聞いてきた。全ての作品です、と伝えると眼を丸くして驚いていた。
ライカ・マスター、銀塩写真の魔術師と呼ばれるトミオ・セイケ。彼の新作は、なんとデジタル・カメラ、インクジェット・プリンターによるものだ。アナログでしか作品制作していなかった作家がにわかにDP-2に興味を持ったり、その衝撃はいまでも続いている。

一般の人が普通によい写真を撮影するのに、もはやライカなどの機材にこだわる必要はなくなったのではないか。これが本展のセイケのメッセージの一つだろう。
ライカやノクチルクス・レンズは簡単には買えないが、シグマのDP2Sを買える人は多いだろう。それゆえ、本展ではカメラ、レンズの先入観なしに純粋にセイケの作家性を愛でている人が多いという感じだ。そして見れば見るほど、同じカメラでも自分はセイケの”Untitled”シリーズのような作品を作り出せないことを思い知るのだ。これこそが作家のオリジナリティーを知ることだ。それに気付いた人たちはセイケの写真の価値が真にわかり、作品が欲しくなるのだと思う。

9月18日にトミオ・セイケと、本作で使用したDP-2,SD-14を制作したシグマ社広報の桑山輝明氏とのトークイベントが開催された。純粋のセイケ・ファンはもちろん、DP2に興味ある参加者も多かった印象だった。狭いギャラリーでのトーク・イベント。キャパシティーの問題で先着順の受付となった。希望者全員参加とはならずにたいへん申し訳ありませんでした。お二人のトークをここに簡単に再現します。参考になさってください。
(敬称略)

パート1:SIGMA広報の桑山氏とセイケ氏とのトーク

桑山
(まずは、カメラDP2について)
写りとしては、良い。コンパクトカメラで中のセンサーは一眼レフと同じものが入っている。センサーが大きいと、小さいところまで写るが、デジタルカメラとしての細かい機能は備えていない。ゆっくり動くので使いにくい。じっくりと作品を撮りたい方向け。

セイケさんは何故このカメラを選んだのか。

セイケ
DP1も使ったが、あまりに使いにくく返品の代わりにオリンパスのデジカメに交換してもらったくらいだった。その後、アート・ディレクターの福井さんが手掛けられたキャンペーンに強い印象を受けて、日本からDP2を買ってきてもらった。イギリスでの使用中は夢中になることはなかったが、東京に戻ってA3でモノクロのプリントアウトをしたときに、その出来をライカのスキャンのプリントアウト、R—D1などと比べてみたが、DP2のプリントが一番良かった。それであれば一度作品を展示してみようと思った。

桑山
DPのカメラは撮影に7秒かかり最初はとまどう。使用後1週間の壁があり、これを超えないとヤフーオークションに出してしまう。1週間我慢して使って、1ヶ月くらいたつとカメラのことがわかってくる。そのうち使う人の方がカメラに慣れて合わせるようになる。
このカメラは、現場ではドキドキするが、その後パソコン(モニター)で開いたときに別物に変わることでワクワクする。プリントするとまた違う。是非そこまで使って欲しい。
ところで、何故今回はカラーでも制作されたのか。

セイケ
デジタルカメラはカラーが本筋だと思っている。フィルムだけを使っているときは、カラーには全く興味がなかった。カラーで自分が欲しいと思う作品に出会ったことがなく、モノとしての魅力がないと思っていた。カラーは印刷でよいと思っていた。
だが、デジタルならカラーのプリントが可能となる時代になったのではないかと思った。そのきっかけを与えてくれたのがDP-2だった。いずれデジタルで欲しいと思うカラーの作品が出てくるのではないかと思いSD14を買ってみた。それがすぐに欲しいと思うカラー作品に直結するかどうかはわからないが。

桑山     楽しみにしています。

パート2 : 参加者との質疑応答

Q1         デジタル写真のアートとしての価値、フィルムとの違いは何か

セイケ
それは誰にもわからない。確かに一部ギャラリー等には拒否反応があるし、同等ではない。撮る方とギャラリーではギャップがある。様々な解釈基準があるのだ。だが、いまの革命的なデジタル時代において、2-3年後はだれも予測できない。デジタルとフィルムは全くの別物と考えたほうが良い。

Q2         カラーでとってモノクロに変換するときの注意は?

セイケ
感覚的に言えば、シグマさんのセンサーのカメラは、撮った後に撮りっぱなしでモノクロに変換すればよい。どこのメーカーでもすべての調子を出さなければならないということにこだわりすぎ。全てが表現されるのは写真的でないこともある。デジタルからそのまま出したプリントでも階調は出る。

Q3         フィルムでも、デジタルでも、写真を撮ってからプリントが出来上がるまでの調子はどの時点でどのように決めるのか。

セイケ
例えば、写真を撮るときは、当然色のついた被写体を見ているわけだが、既に私の頭の中ではモノクロの仕上がりを考えている。その頭の中の感覚を実際にプリントするときに実現化する。

桑山       逆に、撮影時とモニターに向かうときと変わることはあるのか

セイケ    それはない。

桑山       データには手を入れるのか。

セイケ
手順を言えば、撮る→現像する=SPP(Sigma Photo Prp)で操作する(=画面を見ながらレバーをスライドして操作する)→パソコンにおとしてフォトショップで若干さわるだけ。モノクロのときはさわならい。今回20X24インチのフレームで展示している3点は何もしないでそのまま出力している。(ギャラリー右奥に展示)その表現力は驚きだ。

Q4         ブライトンの魅力について、何故ブライトンで撮るのか

セイケ
80年代の終わりから住んでいるが、当時はブライトンではあまり撮らなかった。最近は、若いころと比べて行動範囲が狭くなり、身近なものを撮るようになってきたので、ブライトンで撮るようになっている。もともとブライトンはBright が語源らしい。光が美しく画家も多く住んでいる。だが、イギリスの中でとりたてて魅力がある街ではない。自分としては木が少ないのが残念でさみしく思っている。

Q5         フィルムの暗室作業と、インクジェットのプリンターを扱うのと違いがあるか

セイケ
全く別の感じだ。銀塩は自分の心と直接つながっている。プリントする前日からは、余計な電話に出ないなどして、集中して気持ちを高めている。インクジェットは電源を入れればできる。制作するときの気持ちは全く違う。

Q7         撮るときの気持ちはどうか。

セイケ
これは、同じだ。カメラによって気持ちが分かれるというのは良くない。写真を撮るときは、撮りたいものに、全身でぶつかってシャッターを押している。
そういう意味では、DP2は時間がかかるので「よーく見る」ことになる。これは大事だ。作品制作の時は、必ずしも機能的なカメラが良いわけではない。

Q8         使用しているプリンタと紙は

セイケ
プリンタはエプソンPX5002
本展では紙は三種類使っている。紙については、これが決定的というものはない。かつての印画紙のように安定的に供給される紙がでてくるのかどうかも不安に思っている。

以上。

アートとしてファッション写真 日本はどうなっているの?

 

9月8日まで渋谷パルコ地下1階のロゴスギャラリーで開催している「レア・ブックコレクション2010」。今年は「ファッション」をテーマに、ファッション写真家による写真集とオリジナル・プリントを展示販売している。

実は欧米でもファッション写真はアートとしては新しい分野なのだ。80年代くらいまでは、ファッションは作りものの、虚構の世界であることからアートとしては一般的には認められていなかった。戦前のマン・レイなどは生活の為にファッション写真を撮影していたと言われている。いまでこそ、有名なアート・ディレクターのアレクセイ・ブロドビッチも以前は忘れ去られた存在だった。

写真が真実を記録するメディアから写真家のパーソナルな視点を表現するものと理解されるようになるに従い状況が変化する。ファッション写真には人々の夢や欲望、つまり時代の雰囲気が反映されている点が注目されたのだ。
20世紀末になると、資本主義の高度化とグローバル化、情報化が進行し、世の中の価値観が大きく多様化する。皆が共通の未来像を持っていた時代への懐かしさが強まり、当時の気分を感じさせるファッション写真のブームが到来する。

欧米のアート写真の評価軸は歴史の積み重ねで成り立っている。ファッション写真分野でも、当初は美術館による歴史の掘り起こしと再評価が行われた。 ファッション写真をテーマにした本格的展示は1975年に ホフストラ・ユニバーシティ(米国ロングアイランド)で最初に開催。美術館での展覧会は1977年にジョージ・イーストマンハウスの国際写真センターで行われている。
その後は、1986年に英国ヴィクトリア&アルバート美術館で「Shots of Style」展、1989年にセントルイスのザ・フォーラムでファッション写真のグループ展「Images of Illusion」、1990年にマン・レイのファッション写真を特集する展覧会がICPニューヨーク、1994年には戦後ファッション写真を回顧する展覧会「Appearences」が英国ヴィクトリア&アルバート美術館で行われている。
1990年代以降はパーソナルな視点でファッション写真に取り組んでいた過去の人たちの再評価が進み、数多くの写真集が刊行された。ギイ・ブルダン、リリアン・バスマンなどはその流れからでてきたのだ。いまでは、写真家に自由裁量を与えられて撮影されたファッション写真はアート作品の一部と認められ、ギャラリーや美術館の壁面に普通に展示されるようになったのだ。
ちなみに「レア・ブックコレクション2010」では、それらの写真展開催に際して刊行された多くの写真集や、日本での知名度の低いファッション写真家の写真集を多数用意した。 嬉しいことに多くの人が興味を持ってくれて、開催期間を一日残した段階でそれらはほぼ完売してしまった。

さて本イベントで展示されているのは外国人ファッション写真家の作品が中心で日本人写真家のものは、ナオキと中村ノブオだけ。その理由は、上記の欧米で行われたファッション写真家の評価の積み重ねが日本では全く行われていないからだ。
東京都写真美術館の金子隆一氏とこのことを話す機会があった。彼の見立ては、日本ではファッション写真の評価が中抜けとのことだった。歴史評価の積み重ねがないから、現在のファッション写真家の評価軸が明確に存在しないのだ。このことが理由で、日本人広告系写真家の写真集は、高い作家性と充実した内容でも市場価値が低いのだ。

それでは、いまでこそ当たり前のように語られる日本写真における歴史と伝統はどうだろうか。私はこれは欧米の基準、つまり外人が日本的と考える視点で語られていると感じている。そこで語られるオリジナリティーに現代の日本人はリアリティーを感じるかという疑問を持っているのだ。それをファッション写真に当てはめようとしても無理があると思う。欧米と違い、日本では大衆文化と正統派アートとの明確な区別がない。実はそのような新たな基準、視点を提示することで戦後日本のファッション写真や商業写真のアートとしての再評価はできないものかと考えている。これについては機会を改めて考えを披露したい。

ファッション写真とレア・フォトブックが見て、楽しめて、買える!

 

8月27日から、渋谷パルコ地下1階のロゴスギャラリーで「レア・ブックコレクション2010」を開催する。例年はゴールデンウィーク明けに行っていたが、今年はお盆明けの時期となった。
昨年と同じく、壁面にはオリジナル・プリントを展示する「渋谷・アート・フォト・マーケット」を展開する。今年のテーマはストレートに「ファッション」だ。

今回のイベントでは、ロゴス・ギャラリーでオリジナル・プリントからレア・フォトブック、ヴィンテージ・マガジンまでを、見て、楽しめて、買える空間を作り出すことをイメージしている。価格帯も、数千円のフォトブックやヴィンテージ・マガジンから、数百万円のオリジナル・プリントまでの幅広い品揃いがある。
昨今、アート関係のイベントが数多く開催されている。しかし、その実態は参加することが目的になっている。つまり出店者はスタイタスを上げたり、広告宣伝のため。オーディエンスは展覧会のように見ることが目的となっている。主催するのは専門ディーラーではなくイベント屋さんだ。
欧米のアート・フェアーは、もともとは専門業者が販売を目的としてアート作品を持ち寄った蚤の市のようなものだった。それが専門分野ごとに集合し、アート・フェアーに進化していったのだ。誰しもフリーマーケットに行ったときのわくわく感を経験したことがあると思う。「レア・ブックコレクション2010」は、見て、楽しむだけでなく、それぞれの人の予算に合わせて何かが買えるような、アート写真関連のフリーマーケット的イベントを目指しているのだ。

今回はファッションがテーマなので、50年代~60年代のハーパース・バザー、ヴォーグを多数取り揃えた。雑誌は見て捨てるものなので写真集以上に状態の良いものは入手困難。仕入れにはほんとうに長い年月がかかっている。アヴェドン、ペンが表紙を撮影した号、アンディー・ウォーホールのイラスト、伝説のアレクセイ・ブロドビッチやカーメル・スノウが手掛けたものも含まれる。全て1点ものとなる。

写真集はファッション系レア・ブックの定番となる、リチャード・アヴェドンの「Observations(オブザベーションス)」(1959年刊)、アーヴィング・ペンの「Moments Preserved(モメント・プリザーブド)」(1960年刊)。人気写真家テリー・リチャードソンの初写真「Terry Richardson」(1998年刊)、リチャード・アヴェドンの「Made in France」(2001年刊)、デビット・ベイリーがロンドンのシティー・スケープを撮影した珍しい「Bailey NW1」(1982年刊)などを用意した。日本ではまだ知名度が低いJohn Swannell、Art Kane、Terence Donovan、Michael Doster、Paul Himmel など70~80年代のファッション写真家の写真集も数多くセレクション。

また、ファッション写真の歴史を網羅する資料的な写真集も充実させた。「ファッション写真の歴史」(ナンシー・ホール・ダンカン、1979年刊)、「Shots of Style(ショッツ・オブ・スタイル)」(デビット・ベイリー編集、1986年刊)、 「Appearances(アピアレンセス)」(マーティン・ハリソン編集、1991年刊)、「Fashion Photography of the Nineties」(Camilla Nickerson他、1996)など。これらは好きなファッション写真家を探すガイドとして最適だろう。
その他では、常にコレクター人気の高い、アンドレ・ケルテス、ロバート・フランク、ウィリアム・クライン、ウォーカー・エバンス、ヘルムート・ニュートン、ブルース・ウェーバーなどの写真集も多数展示販売される。

オリジナル・プリントもファッション写真家の作品で統一。
ホルスト P ホルスト、ヘルムート・ニュートン、ハーブ・リッツ、ピーター・リンドバーク、カート・マーカス、ブルース・ウェーバー、ウェイン・メイザー、メルヴィン・ソコルスキー、アーヴィング・ペン、フランク・ホーバット、デボラ・ターバヴィル、ジャンルー・シーフ、中村ノブオ、ナオキなどを予定している。
たぶん欧米のアート・フェアーのブースと全く見劣りしない展示だと思う。これらだけでも絶対に見に来る価値があるだろう。

何でライアン・マッギンレーはすごいのか?「Photography After Frank」から読み解く

 

ライアン・マッギンレー(1977-)が米国では絶賛されていることは知っていた。わずか24歳で、ホイットニー美術館で個展、翌年にはMoMA P.S.1で新作展示するなどまさに写真界の若きスーパースターだ。日本でも、雑誌などで海外の若き人気写真家として紹介されている。
マッギンレーを絶賛する数人の広告写真家に、どこが良いのかと聞いたことがある。旅行しながら撮影しているところがよい感じ、というような抽象的な返事しか返ってこなかった。日本人は農耕民族なので、移動への憧れがDNAに刷り込まれている。彼のそんな撮影スタイルが日本人の感覚に訴えかけているのかという印象も持った。
しかし、アメリカでは、「いい感じ」のイメージだけでなく、見る人を引き付ける写真家の視点が明確に提示されなければ評価されない。何でマッギンレーが評価されているのか?この点がずっとわからなかった。

その疑問が写真解説書「Photography After Frank」(Aperture、2009年刊)に収録されていた、彼に関するエッセー、「A Young Man With an Eye, and Friends Up a Tree」を読んで氷解した。著者のPhilip Gefter氏は米国人の写真評論家、ニューヨークタイムズで約15年間勤めて写真エディターとして活躍した人。2003年から写真関係のエッセーを同紙に書いていた。同書は彼がニューヨークタイムズやアパチャーなどに寄稿したエッセーを1冊にまとめたものだ。
米国では、写真を含むアートを見る視点がこのように一般紙で普通に紹介されているのだ。最近は写真もコンセプト重視の現代アートの一分野のようになっている。作品を読み解くナビゲーターとしての評論家が重要な役割を果たすのだ。新進作家が出てくれば、その評価軸を専門家が解説し、オーディエンスはギャラリーや美術館で作品を体験する。評論家はアート写真でのシステムの一部のようなもの。日本で一番遅れている分野でもある。

本書掲載のインタビューでマッギンレーは自分の基本的なスタンスを以下のように語っている。
「私はこの仕事に全てを捧げている。他人の期待など関係ない、すべて自分のための作品を作っている。自分が見たい写真を撮影している。私はいままでにない写真を制作している」
まず、同書に書かれている内容を基に彼のキャリアを簡単に要約しておこう。
マッギンレーはパーソンズ・スクールオブ・デザインでグラフィック・デザインを学んでいる時から写真撮影に魅了される。グリニッジ・ヴィレッジに友人と同居していた1998年から2003年には、 全ての訪問者をポラロイドで撮影。被写体の名前、日時を記載したポラロイドで部屋中を埋め尽くしたらしい。
初期のマッギンレーはマンハッタン下町に住む友人たちライフスタイルの写真で知られている。生き急ぐかのように、常に動き回っているスケートボーダー、ミュージシャン、グラフィティー・アーティスト、ゲイなどの若者が彼の被写体。昼間は、走り回り、スケートボードに興じ、夜はパーティー、ドラッグに明け暮れる彼らの日々をドキュメントしている。それらの動きのあるヴィジュアルが彼の写真の特徴なのだ。当時は、写真のためにパーティーに出かけていたそうだ。
2000年、まだ学生だったマッキンレイは、「The kids Are All Right」という手作りの写真展を建築中のビルの空きスペースで行う。そして、学んでいたグラフィック・デザインの才能を生かして自費出版の写真集を制作。 50冊を20ドルで販売するとともに、50冊を尊敬する写真家、編集者に送っている。自分のことをまだ誰も知らないから、本を送ったとのことだ。
ここからマッギンレーの嘘のようなサクセス・ストーリーが始まる。インデックス・マガジンが興味をしめし、ポートレートの写真を彼に依頼。そして「The kids Are All Right」はホイットニー美術館のウォルフ氏の目に留まることになる。2002年には、写真集「Ryan McGinley」をインデックスから出版。そして2003年にホイットニー美術館での個展となる。

ホイットニー美術館はマッギンレーの何を評価したのだろうか?同館元キュレーターのシルヴィア・ウォルフ氏は以下のように彼を語っている。「(マッギンレーの作品では)被写体が写真を撮られるという意味を知っている。彼らは、カメラの前で演じており、それを通して自らの存在を探求しようとしている。彼らはヴィジュアル文化の意味を心得ていて、それらを通してコミュニケーションが生まれるとともに、アイデンティティーが作られることを自覚している。つまり写真家と被写体がコラボしている。」
どうもキュレーターはテクノロジーに精通した若者世代を代表する作品だと見抜いたようだ。またグラフィック・デザインのバックグランドがマッギンレーと他の作家との明確な違いだったという。
彼の作品は、ユーチューブのように、多くの人が見てくれることを意識した個人的なヴィジュアル・ダイアリーの登場を予感させる。のぞき見的、告白的なイメージは彼の世代を代表する表現だとも評価。
あまたある、個人のブログや写真日記との違いは、彼の厳格な、作家としての作品と向上心という。アメリカの美術館キュレーターは常に社会の流れを意識していて、時代を代表する才能を探し求めている。21世紀のアート、特に写真表現は同時代に生きる人がリアリティーを感じることが求められる。その代表者としてマッギンレーを評価したのだ。しかし、キュレーターの目利きは必ずしもオーディエンスの持つリアリティーとは重ならない。まして、上記のウォルフ氏の見立ては一般レベルにはやや難解だ。

それではマッギンレーの何が多くの人々を魅了したのだろうか?
初期作品が美術館キュレーターの目にとまってデビューを果たしたのだが、私はマッギンレーのその後の作品展開が多くの人に受け入れられたのだと思う。実は、彼の作品はホイットニー後に大きく変化しているのだ。このあたりの状況も、「Photography After Frank」にエピソードが紹介されている。彼は、2003年に郊外のヴァーモントに家を借り、ニューヨークからクラブなどで知り合った仲間たちを招待して日々をともにしている。彼らをモデルにして、様々な状況で撮影を行っている。最初は従来と同じドキュメンタリーだったが、次第にシャッターチャンスが来るのを待てなくなり、映画のように自分で撮影をディレクトするようになるのだ。その後、彼は8人の友人たちと大陸横断のドライブ旅行に出る。これはアシスタントも2名同行する撮影旅行なのだ。事前に撮影に適したセッティングを調査し、モデルにも資料を見せて自分の望む動作をイメージさせている。一日に20~30本のフィルム分を撮影しアシスタントがその過程を記録していったそうだ。
撮影するモデルグループは頻繁に入れ替えられ、マッギンレーは、全てのモデルに、ギャラ、食費、交通費を支払ったそうだ。3か月の撮影旅行で何と約10万ドルの経費がかかったらしい。何か自由裁量を与えられた上でブルース・ウェーバーが行うファッション写真の撮影のような感じだ。

それでは、このプロジェクトで彼は何を伝えようとしているのだろうか?マッギンレーの以下の発言がPhilip Gefter氏のエッセーのまとめになっている。
「私の写真は人生を謳歌するもので、その喜びで、美しさだ。しかし実際の世界にはそれらは存在しない。私が生きていたいと思う、本当に自由で、ルールがない、つまりファンタジーの世界なのだ。」
彼が初期インタビューで語っていた、「いままでにない写真」とはこのことだったのだ。

アメリカは自由で夢と希望の国と言われていた。しかし、「ルポ 貧困大国アメリカ」(堤 未果著、岩波新書2008年刊)を読むとわかるように、最近は中流の人たちでさえ没落し社会の二極化が進行しているという。マッギンレーは、自分が非常にアメリカンな環境に育ったと語っている。彼はニュージャージー出身。その幼少時代、都市部で暮らす中間層にはまだ古き良きアメリカの伝統的なライフスタイルが存在したのだと思う。彼が大人になるにつれて郊外から都市部も巻き込んで深刻な社会問題が起きていく。マッギンレーの一連の作品はかつてのアメリカンライフへの憧れが詰め込まれているが、いまのアメリカにはそのような世界は存在しない。だからこそ、いま自信を失いがちで昔を懐かしむアメリカ人の心をつかんだのだ。アメリカの夢と希望の挫折を彼は逆説的に表現しているとも言えるだろう。同じアメリカ人作家のマイケル・デウィックがロングアイランドで取り組んだ、「The End: Montauk」と重なる部分があると思う。ムラ社会のメンタリティーが残る日本社会にとっても、自由のアメリカン・イメージはあこがれの対象だ。特に中高年が好む雰囲気を持った写真だと思う。

感覚重視で写真を撮影しているような印象が強いマッギンレーだが、実は明快な作品コンセプトを持った作家なのだ。また彼はやや意外だが写真史も明確に意識している。2005年のスタジオ・ヴォイス誌には、彼が2000冊以上のレアな写真集をコレクションしていることが紹介されている。オリジナルであることのベースは過去の写真家たちの仕事(写真集)の延長上にあることを理解しているのだ。掲載インタビューでは、写真を撮っていく上で、何を目指しているかの質問に対して、「写真の歴史に少しでも貢献できればと思っている」と答えている。若き写真界の成功者はただのラッキー・ボーイではないようだ。確固な考えを持った写真史の流れを受け継ぐ正統派ともいえる写真家なのだ。

今回ご紹介した”Photography After Frank”は、以下で詳しく紹介しています。

http://www.artphoto-site.com/b_568.html

アート写真市場の現在 2010年春オークション・レビュー

景気は世界的に回復傾向にある。しかし、その原動力は各国の大規模な財政支出、つまり借金により賄われている。いままではその恩恵を受けて、生産、消費が改善したが、最近になりその負の面の弊害が目立つようになってきた。ギリシャに端を発した、欧州の財政と金融危機が新たな火種として顕在化。欧州各国は市場からの攻撃を恐れて急激に財政再建路線に軸足を移し始めた。米国では、政府の減税が4月末に終了したことが影響して新築住宅販売が過去最大の下落幅を示すなどその反動も散見されるようになってきた。景気は最悪期は脱したものの、今後の見通しは決して楽観が許されない状況だろう。

さてアート市場はいまどのような状況だろうか。
5月にはニューヨークのクリスティーズでパブロ・ピカソの「NUDE, GREEN LEAVES, AND BUST 」が、アート作品としてオークション最高額の約1億648万ドル(約96億円)で落札された。一方で、6月のロンドンのクリスティーズではクロード・モネのレアな睡蓮の絵画が不落札になっている。やや全体の方向性がつかみにくい印象だ。
6月に世界で最も権威があるフェアーのアート・バーゼルが開催された。専門誌のレポートの見出しは、”豊富な資金、しかし市場の方向性のコンセンサスはない” というものだった。まさにアート市場の現状を言い当てた表現だと思う。
つまり、アート史で評価の定まったような名品を展示できたギャラリーの売り上げは概して好調で、それ以外の中途半端に高額な作品の売り上げは苦戦ということのようだ。
現代アートとしては安い価格帯になる10万ドル(約950万円)以下の動きは悪くないそうだ。実際、作品を出品していた日本人作家によると、新作を含めてかなりの点数が売れたという。しかし、バーゼルは世界中の富裕層相手のフェアーなので、市場の断片的な状況だけを示しているかもしれない。つまり、不況の時でも富裕層は潤沢な余裕資金を持っている。逸品が適正価格で売られていれば買う人は確実に存在する。アート・バーゼルはニューヨークの五番街と同じようなところで、常に買い物客が多く活気があるように感じられるのだ。

価格レベルにかなりの違いがあるが、この傾向はアート写真にもあてはまるだろう。
ちなみに今春のオークションでは100万ドル(約9500万円)超え作品は1点しかなかった。
ササビーズで落札されたエドワード・ウェストンのオウムガイを正面から撮影したヴィンテージ・プリントの”Nautilus,1927″。1,082,500万ドル(約1億283万円)で落札されている。
繰り返しになるが、写真も希少で価値のあるものは高額でも売れるが、それ以外の動きははまだケース・バイ・ケースなのだ。
今春は、アート写真の新たなコレクション構築とみられる、良品の積極的な買いが見られたという。このようなまとめ買いが高額作品の市場を活性化させた印象が強い。
この流れで好調だったのは、クリスティーズで開催されたアーヴィング・ペンの単独セール、”Three Decades with Irving Penn”だ。これはペンのスタジオのマネージャーを長年勤め、彼の右腕として活躍していたPatricia McCabeのコレクションからのもの。ほとんどがクリスマス・プレゼントだったのだが、ペンは普通に販売されているエディション番号付きを贈っていた。抜群の来歴と完璧に近い保存状態からセールは完売だった。

一方で、中間価格帯から以下の作品が中心の複数委託者からのセールは方向性が定まらない印象だった。オークションハウスがかなり厳しい出品作の選別を行っているのに、全般的に普通の落札結果が多かった。
モダンプリントやエディションが付いた希少性が高くない作品は、予想落札価格の範囲内での落札が多い。アーヴィング・ペンやダイアン・アーバスなど有名作家でも最低落札価格が強めと感じる作品は不落札になるケースが見られた。
一般コレクターは、欲しい作品の価格が自分の相場観の範囲内なら買う。しかし、無理して高値を追うことはしないというスタンスだ。転売目的のディーラーは、今のレベルで作品を仕入れても相場の短期的な急上昇は予想しにくいと考えているようだ。従って自分の相場観と比べて過小評価されているものにしか興味を示さない。今まで不調だったファッション系や現代アート系作品も売れるようになってきた。しかしブランド作家の作品以外は相変わらずコレクターは慎重だった。

オークションが行われた4月のニューヨークのダウ平均株価は2月の急落から回復していた。しかし、5月には欧州の財政問題への懸念から再び一時一万ドル割れとなった。株価チャート的にも、リーマンショック後の最安値からの戻りの節目となるポイントを抜くことが出来なかった。中長期トレンドはまだ弱きが続いている。株価動向は経済の先行指標でもあり、オークション参加者に心理的な影響を与える。5月に開催された、ブルームズベリー、やササビース・ロンドンのオークションはかなり厳しい結果だった。目玉が少ない、普通の作品が中心だったからと思われる。これらの価格帯のアート写真のコレクションは中間層の人たちが中心に行っている。彼らには今回の不況のダメージがまだ残っており、先行きにも決して楽観視ていない表れなのだろう。
春先までの市場は、慎重だがやや強気に傾いていた。ここにきて再び慎重スタンスにややトーンダウンした感じだ。