「フォト上海(Photo Shanghai)」レビュー(1) アジアのアート写真中心地となるか?

9月5日から7日にかけて第1回「フォト上海」が上海展覧センターで開催された。
上海は中国中部の東海岸、長江の河口に位置する人口約2300万人の中国最大都市。経済成長を続ける中国を目の当たりにできる場所なので、フェア開催地としては最適だと思う。マネージメントは世界的にアートフェアーを手掛けるモンゴメリー(MONTGOMERY)が出資するWorld Photography Organisation (WPO)が担当。約40のアート写真を取り扱うギャラリーが世界中から参加している。約半分が上海をはじめ中国から。その他は、香港、東京、ロンドン、ベルリン、フロリダ、プラハ、ロサンゼルス、チューリヒ、サンタ・モニカ、コペンハーゲン、パリなどからだ。

Fahey/Klein、Peter Fetterman、Camera Workなどの業界大手ギャラリーも参加。日本からはアマナ・サルトが来ていた。初回でこれだけのギャラリーが世界中から集まったのは、実績のあるマネージメント会社への信頼と中国市場への大きな期待があるからだろう。

会場の上海展覧センターは、ソビエト連邦の経済技術支援を受けて「中ソ友好記念会館」として1955年に竣工したもの。先細りの塔が中央ホールの中心軸上にそそり立ったスケールの大きな歴史的な建造物。 

会場内部はアーチ型の高い天井と照明などの設えによりレトロな雰囲気を強く感じられる。ニューヨークのフォトグラフィー・ショーやパリ・フォトに近い趣がある。
ブースは2フロアーに分けて施工されており、1階のメイン展示場を囲むように2階展示場が設置されていた。会場の細部の作り込みには、一部雑な仕上げの箇所も散見された。メイン・スポンサーはソニーとイタリアの高級車マセラーティ。4K技術の実演や会場外の実車の展示などがあった。
特別展示は現代中国写真を展示する「Contemporary Photography in China, 2009-2014」と、Peter Fettermanコレクションからの見ごたえのあるヘンリ・カルチェ=ブレッソン展覧会だった。
私は土曜日の午後に訪れたのだが、会場の混雑ぶりには本当に驚かされた。一般入場料は50元(約850円)と地元感覚では決して安くはないとのことだったが、人気ブースの周りは本当に立錐の余地がない感じ。じっくりと作品を見る余裕はなかった。また来場者が人気作品をカメラで撮りまくっているのも特徴。記念撮影も当たり前だ。イコン的作品、ユニークなヴィジュアルの作品の人気が高いようだ。
職業柄どうしても作品売上をチェックするのだが、私の見た限り作品自体はそんなに売れている感じはなかった。東京、ソウル、タイペイなどのフォトフェアと同様に、鑑賞目的の観客か、カメラ好きのアマチュア写真家が数多く来場している印象が強かった。
しかし今回は中国での初フォトフェアであることから主催者も地元の観客の啓蒙を開催目的に掲げている。複数の参加者もそのように発言していた。会期中にわたり、写真コレクションに関するトークイベントなどが数多く企画されていた。
やはりギャラリーにとって、経済発展が続いている中国市場はとても魅力的であり、この地でギャラリーの知名度を富裕層たちにいち早くアピールしておきたいという心理が強いのだと思われる。街の持つエネルギッシュな雰囲気に実際に触れると、誰しも将来的にマーケットが育っていくような印象を抱いてしまう。 とにかく人口が多いので何が起きてもおかしくない。今回のフォトフェアがきっかけでもし実際にコレクターが生まれてくると、アジアにおけるアート写真の中心地は上海になる可能性も十分にあると感じた。
(以下はパート2につづく)

ヴィヴィアン・マイヤーとデジタル革命第2ステージ

ヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)は、死後に大きく再評価された欧米で話題の米国人アマチュア写真家。2007年にシカゴの歴史家ジョン・マーロフが発見するまでその存在は全く知られていなかった。一生独身で、親しい友人もいなかったとのこと。50年代から約40年間、主にシカゴで育児教育の専門知識を持つナニーの仕事に従事していた。
彼女は優れたヴィジュアル・センスと画面構成能力を持っていた。女性のロバート・フランクといわれたり、ダイアン・アーバスと対比されて語られることさえある。都市のなかの一瞬の詩的な瞬間をまるでアンドレ・ケルテスのように切りとり、また被写体に思い切り迫ってポートレートを撮影している。
まさにアマチュア写真家のリアルな夢物語で、いままでに25余りの写真展が開催されるとともに、2014年の秋にはハッセルブラッド・センターでの写真展も予定されている。フォトブックも既に3冊が刊行され、今秋には新刊が予定されている。
オリジナル・プリントは、ニューヨークの老舗写真ギャラリー、ハワード・グリンバーグでエステート・プリントとしてエディション15で販売されている。

彼女は50~90年代にかけて約10万点以上にもおよぶ写真をフランス、ニューヨーク、シカゴで撮影。モノクロ写真のカメラは主に2眼レフのローライフレックスを愛用していた。分類上、それらは20世紀クラシック写真に分類されるだろう。
しかし彼女の再評価はアート写真界における「デジタル革命第2ステージ」の訪れと深くかかわりがあると私は解釈している。「デジタル革命第2ステージ」とは、市場面では拡大する現代アート市場が従来のアート写真市場を飲み込み、また技術面では写真家・アーティストがデジタル技術を使い、自分の思い通りに表現することが可能になった新時代のこと。興味ある人は「写真に何ができるか」(窓社、2014年刊刊)に詳しく書いてあるのでそちらを読んでほしい。

デジタル革命を象徴するネットの普及で、いま優れたアマチュア写真家の作品がアート写真界で注目されやすい状況になっているといえるだろう。ヴィヴィアン・マイヤーの場合は、専門でない人が発見した写真がネット投稿を通して欧米に広まって再評価のきっかけとなった。アートとしての写真は、最終的にキュレーター、評論家、ギャラリストなどの専門家に作家性が認められ市場に紹介される。従来はそこに行きつくまでにかなりの高いハードルがあったのだ。またアート写真市場が欧米では大きな市場になっており、多くの関係者が優れた才能を常に探している点も見逃してはならないだろう。

彼女は撮った写真を誰にも見せなかったとのことで知られている。現像する際もお店で偽名を使っていたとのこと。多くの写真はプリントされず、未現像フィルムも数多く残されていたそうだ。彼女が周りの評価を求めなかったのは当時の写真界の環境も影響していただろう。まず彼女がモノクロで撮影していた50~70年代の写真の主流はドキュメンタリーだった。 また一部にアート写真といわれていたのは、モノクロの抽象美とファインプリントのクオリティーを愛でる高尚なものだった。今のデジタル時代と違い、プロとアマには撮影時とプリント時に決定的な技術的な違いがあった。かつては写真は暗室で写真家本人がプリントするのが当たり前だった。もしかしたら、マイヤーは撮影は好きだがプリント作業は苦手だったのかもしれない。 実際に80年代以降は、モノクロをやめてカラーポジによる撮影にシフトしている。たぶん自分の写真が認められる分野はプロの世界に存在しないと考えていたのだろう。

彼女の発見と再評価は「デジタル革命第2ステージ」の訪れで、写真が大きなくくりの現代アートのひとつの分野と理解されるようになったのが影響していると思う。それは評価の上でアーティストの作品制作の動機が最も重要視されるということだ。プロ写真家、アマチュア写真家でも自分の名誉欲や金銭欲などのために作品を作る人は、その技術が評価されることはあっても、決してアーティストとし認められることはないだろう。そのような人は意識的に世の中に対峙していないので、作品には観る側を感動させるメッセージ性がない。専門家が評価しようとしてもその中身自体が存在しないのだ。
一方でマイヤーには社会で認められたいとか、評価されたいというエゴが微塵もないのだ。自分が感動する被写体を単純に追い求めて撮影し続けてきた。50~70年代のシカゴ、ニューヨークなどで撮影された写真は繁栄を謳歌するアメリカのダークサイドにも目を向けていた。黒人、浮浪者、貧困者、子供など社会の周辺に生きる人も撮影。そして100%パーソナルな視点で被写体と対峙している。彼女に乳母として面倒を見てもらった人が、彼女は社会主義者だった、と表現していたという。もしかしたら社会主義的な視点でアメリカ社会をカメラで見つめていたのかもしれない。

私は彼女の写真の本当の魅力はこの作家性にあると思う。米国人写真家スティーブン・ショアは「私は、写真、世の中、自分自身を知りたいがために作品を作る。優れた作品は何らかの個人的な探求の結果としてに生まれている」と、「Image Makers Image Takers」(Thames& Hudson,2007年刊)のインタビューに答えている。彼女は間違いなくその実践を行っていた。
また、いまやアーティスト自身がプリントしなくても全く問題ないし、カメラを使用しないでアート写真作品を制作する人さえ珍しくなくなった。アート写真界で長きにわたり重要視されていた価値観が大きな変化に直面しているのだ。従来は写真家がプリント制作していない、本人のサインなしのエステート・プリントの価値はあまり高くないと考えられていた。しかし、現在は厳密な管理下で限定制作されるものは資産価値が認められるようになってきたのだ。
彼女は「デジタル革命第2ステージ」というアート写真にとって全く新しい環境が整いつつあった絶妙なタイミングで奇跡的に発見され、その流れに乗ったのだ。たぶん20年前なら、いまほどアート写真界で熱狂的に受け入られることはなかったと思う。
いまアート写真界では、新たな視点からアマチュアを含む過去の写真家の仕事の再評価が始まっている。ギャラリストのハワード・グリーンバーグはインタビューで「自分が彼女の写真アーカイブスを発見したかった」と語っているのが象徴しているだろう。いま密かに第2のヴィヴィアン・マイヤー探しが行われているのだ。

アート写真の新しいトレンドになるか?注目されるイコン&スタイル系作品

先日、2014年春のロンドン・オークションのレビューを紹介したが、今年は常連のクリスティーズがオークションを行わなかった。どうもロンドンの市場があまり良い状態ではないようで、彼らは7月1日にパリでアート写真オークションを行うとのことだ。なんでロンドンでなくパリかというと、まず世界的なフォトフェアのパリフォトが秋に開催される点が重要視されているようだ。ロンドンでもフォトフェアは開催されているが、ローカル色が強く規模も小さい。ちなみに2010年11月には、クリスティーズ・パリはリチャード・アヴェドンの単独オークションを開催して大成功を収めている。ここには名作”Dovima
with elephant,1955″の、1978年のメトロポリタン美術館の展覧会時に展示された約216X166cmの1点ものの巨大作品が出品された。なんと、841,000ユーロ(当時の為替レート換算・約9671万円)という作家オークション最高金額で落札されている。今回のオークション・タイトルは、”Photographs Icons & Style”。私はこの動向を非常に興味深く見守っている。今回の特徴は、通常の複数コレクター出品によるオークションではなく、有名写真家による、ファッション、ポートレート、花などのイコン的な作品だけがセレクションされている点だ。出品数が多いのは、アーヴィング・ペン、ロバート・メイプルソープ、リチャード・アヴェドン、ヘルムート・ニュートン、デビット・ラシャペル、ホルスト、荒木経惟など。開催時期もちょうどファッション・ピープルがパリに集うコレクションと重なっているそうだ。

このオークションは、落札率を気にする大手が、いま市場で何が実際に売れているか(売れそうか)を意識したものといえるだろう。私は最近「写真に何ができるか」(窓社刊)という本の中で「デジタル革命第2ステージを迎えて」というエッセーを書いた。そこで現代アートが市場を席巻したことで、従来の写真市場の眺めがかなり変化していることを指摘している。イコン的な作品は単に知名度が高い写真家の代表作というだけではない。 つまり、現代アートでは時代の持つアイデア、コンセプトを重視するが、ファッション系(スタイルも同様の意味)は、それよりも時代の持つ気分や雰囲気が作品に反映されている点が評価されているのだ。この分野の作品に関心が集まる背景には、やはり現代アート的な視点を持つコレクターの増加があるのだろう。そしてこの分野のコレクターには不況にあまり影響を受けない富裕層が多いのが特徴なのだ。

一方で、従来のモノクロームの抽象的な美しさやファイン・プリントの美しさだけを追求したものは、アート的というよりも歴史的な工芸品的な価値しか認められないとも指摘した。実は、ロンドンの大手のオークションの後で、欧州の中小ハウスによる写真オークションが開催された。こちらの出品作は特に意識的にイコンやスタイルを意識したものではない。
中小ハウスは出品作品をエディティング(選択)してセールの方向性を明確化する余裕はない。どちらかというと、大手が取り扱わない作品を拾ってオークションを開催する傾向がある。大手では絶対に取り扱わない、無名写真家、プレス・プリント、状態の劣る作品などが出品されることもある。ここでよく取り扱われるフォトブックは、一部を除いて典型的な反イコン、反スタイルのアート写真作品になるだろう。作品の絞り込みをあまり行わないので、結果的に出品数も約240~300点とかなり多めになっている。

結果は、Grisebach(ベルリン)”Photographs”の落札率は約64%、Lrmpertz Cologne (ケルン)”Photography”の落札率は約48%、Dreweatts & Bloomsbury (ロンドン)”Photographs &
Photobook”は落札率約57%だった。トータルすると落札率は約53%、つまりほぼ半分の作品には買い手がついていない。
最近の欧州地域では、中央銀行がマイナス金利を導入したり、景気テコ入れ策が次々と実施されている。企業の経済活動はようやく回復傾向にあるようだが、一般の人が本格的な景気回復を実感するにはまだ時間がかりそうだ。つまりイコンやスタイル以外の写真作品を買っていた一般の写真コレクターは、いまだ景気回復を実感していないのだと思う。趣味的なコレクションにはまだお金が回らないのだろう。

しかし、これはアート写真コレクターの初心者には決して悪くない状況だと思う。イコンやスタイルを意識したものではなくても素晴らしい作品は数多く存在する。もしそれらが、富裕層があまり興味を示さないという理由でリーズナブルな値付けがされているのなら、絶好の買い場ではないかと思う。もし景気が本当に良くなると、そのような周辺銘柄の作品価格が上昇してくるのだ。

アート写真の市場が存在するという意味 国内市場のいま

アートとして販売されている写真の市場は突然うまれるのではない。欧米市場は長い歴史の積み重ねにより現在の姿に成長してきた。最初の写真ギャラリーが生まれた20世紀の初めまでさかのぼる。
まず写真家が継続して作品を制作することからはじまる。それらの中の優れた写真をコレクターや美術館がコレクションするようになる。その後、売買規模の拡大からアート写真のマーケットが成立し、商売として写真を扱う商業ギャラリーが増加する。ギャラリーで売られた作品の中から資産価値が高まったものが生まれ、それらを定常的に扱うオークションハウスが参加し、 さらにギャラリーやディーラーが販売機会を拡大する目的でフォト・フェアを行うようになった。

資産価値を本源的に持つ作品群が生まれると若手や新人市場が活性化する。それらの中から同じような成功例が生まれると市場参加者が考えるようになるからだ。 株式市場で将来上場するかもしれない未公開株を物色するのに近い感覚といえるだろう。
個性が強い市場参加者だが、自らの利益拡大という目的のために妥協を重ねて共通の基準をつくりだす。現在はその結果として、美術館、オークションハウス、ギャラリー・ディーラー、コレクター、メディア、出版者などによる業界が成立しているのだ。アート写真の世界は参加者の利益拡大という資本主義の原理で成り立っているのだ。

残念ながら日本では上記のような歴史的な市場の発展が起きていない。外国人写真家の場合は、海外の延長上の市場が存在するが、日本人写真家の市場がほとんど存在しないのだ。
いままで、写真を販売する数々の試みが行われてきた。しかし、それらが中途半端に終わった理由は、写真をいかにもインテリア用の商品のように取り扱ったからだと思う。商品開発と同様のアプローチで作品が作られ、 マーケティング的な販売の仕掛けが用いられてきた。一般商品のように、単純に投資をすればすぐに結果に現れるような単純な仕組みではないのだ。
写真をアートとして販売することは、作品に資産価値を持たせるという意味。長期にわたる作家のブランディングを行っていく必要があるのだ。しかし現状は、作品を制作する人は数多くいるが、短期的に、金銭的、社会的な結果がでないのでほとんどが継続できない。
作家の継続的な作品制作なくして作品の価値は維持されないし、まして上昇することなどはない。

現状をみるに、突然アート写真ブームが到来するなどとは思わない方が良いだろう。関係者が日本で市場を作り上げていく地道な努力を行うとともに、優れた若手新人が海外市場に挑戦できる仕組みを整えていくのが重要だと考えている。 彼らの海外での評価は国内市場の活性化につながるだろう。
デジタル化した日本のアート写真市場の詳しい解説については、近いうちに紹介する機会があるだろう。

フランシス・ベーコン作品が約142億円で落札 アート作品のオークション史上最高値!

今月のニューヨークの大手オークションハウスで開催された現代アートセールでは、アート作品のオークション史上最高額と第4位の落札があった。史上最高額を記録したのは、2013年11月12日にクリスティーズで開催された”Post-War & Contemporary Art”のイーブニング・セールに出品されたフランシス・ベーコン(1909- 1992年)の“Three Studies of Lucian Freud” (1969年)。友人の画家ルシアン・フロイドが木製の椅子に座ってポーズを取っている三連作(トリプティック)だ。ベーコンは今年春に東京国立近代美術館で開催された展覧会もまだ記憶に新しい20世紀を代表するアイルランド出身のアーティスト。落札予想価格上限を大きく超える142,405,000ドル(約142億4050万円)で落札され、2012年の春にササビーズ・ニューヨークでつけたエドヴァルド・ムンクの“叫び”の119,922,496ドルを上回った。

続いて開催されたササビーズの”Contemporary Art”イーブニング・セールでは、アンディー・ウォーホールの“Silver Car Crash (Double Disaster)” (1963)が、これも落札予想価格上限を大きく超える $105,445,000ドル(約105億4450万円)で落札。ウォーホールは、ベーコン、ムンク、ピカソに続きオークション史上第4位の高額落札となった。

現代アート分野の一部として取り扱われる写真作品では、特にクリスティーズで高額落札が散見された。シンディー・シャーマン(1954-)の71.1 x 121.9 cmの巨大作品”Untitled #92,1981″が落札予想価格上限を大きく超える2,045,000ドル(約2億450万円)で落札。
二人組アーティストのギルバート&ジョージの”Red Morning (Hate), 1977″が落札予想価格内の1,805,000ドル(約1億8050万円)で落札されている。

これらはいかにも景気の良い話なのだが、アート業界の全分野が活況なわけではない。
経済実態はというと、雇用や消費の先行きに不安が残る中で中央銀行の金融緩和策継続が株高や貴重な現代アート作品などの高騰を招いているわけだ。しかしここ数年続いている市場の2極化傾向にいまも変化はない。高額な希少作品への需要が強い半面、オークションに頻繁に出品される低価格帯作品の動きが鈍い。
またブランド化している大手高級オークションハウスでの落札は比較的好調だが、その他の知名度が低い業者での落札率は低迷傾向にある。特に低価帯アートが圧倒的に多い写真作品の動きは相変わらず低調だ。

ちょうど10月~11月にかけて、中堅以下のブランド力にやや欠けるオークションハウスでの写真オークションが相次いで開催された。Bonhams(ニューヨーク)の総売上高54.9万ドル(約5490万円)、不落札率は約45%。Yann Le Mouel(パリ)の総売上高31.7万ユーロ(約4280万円)、不落札率は約60%。Heritage Auctions(ダラス)の総売上高46.1万ドル(約4610万円)、不落札率は約18%。 売り上げは総じて低調で、特にBonhamsとYann Le Mouelの不落札率は際立って高いといえよう。

アート写真市場でのオークションは、ディーラーの在庫を仕入れる場でもある。最低落札価格の下限近くでは必ずその作家を取り扱う業者のビットがある。店頭での顧客の買いが強い場合は、多少多くの金額を支払っても在庫を補充しようとする。現在のオークションの低迷は、彼らが運よくバーゲン価格でなら買おう、という弱気姿勢の表れだと思う。店頭での低価格帯作品の売り上げがそんなに強くないことを反映しているのだろう。
主要コレクターはアート分野によって異なる。それは現代アートでは富裕層だが、アート写真では中間層だと言われている。いまの状況は所得や雇用が伸びない中間層の状況が反映されているのだろう。

11月大手オークション・ハウスはパリで写真オークションを行う。ササビーズ、クリスティーズは、ともにパリフォトの期間に合わせて開催。クリスティーズは3つのセールを実施している。こちらの結果分析は別の機会に行いたい。

(1ドル@100円、1ユーロ@135円換算)

「TOKYO PHOTO 2013」レビュー
鑑賞から購入への過渡期が続く

2013年で第5回を迎えた東京フォト。今年から会場を芝の増上寺に移し、9月27日~30日まで行われた。26日夜の内覧会から非常に多くの来場者があり、実際に作品をじっくり見るのが難しいほどの混雑だった。内覧会は一般公開前にVIPコレクターにいち早く作品を見せるために設けられる。しかし日本では写真コレクターはほとんどいないので、良い作品を競って購入することなどない。実質は内覧会がグランド・オープニングのパーティーになった感じだ。

今年の会場となった増上寺は施設自体がかなり古かった。空調設備が悪く、スポットライトなし、床には絨毯ではなくタイル貼り。会場内の清掃、来場者の振動で壁が揺れるなどの問題点も散見された。しかし、日本の写真市場はいまだ未発達。コストのかかる豪華な設備の場所よりも身の程にあった場所で継続して開催するのが現実的な対応だと思う。

今回は外国からの参加が約半数を占め、海外15、国内17の出展者(ともに出版社を含む)だった。昨年同様に国際的な雰囲気の強いフェアで、外国人来場者数も非常に多かった。
来場者数に興味があったので、今回はブースに来た人をカウントしてみた。複数回訪れる人や、接客中のカウント漏れも多数あるので正確ではないが、大体の目安になると思う。カウント数は、金曜が約1600名、土曜日が約1600名、日曜が約2000名、月曜が約1100名。週末はブース内の有名作品前では人の渋滞が起きるほどの盛況だった。
しかし来場者は多いもののほとんどが観賞目的なのだ。フェアへの参加スタンスは海外ギャラリーと国内ギャラリーは全く違う。海外組は、専業ギャラリーで単純にお金儲けのビジネス目的で参加する。写真市場がほとんど存在しないことを知る国内組は広告宣伝を主目的で参加している。実際ギャラリー以外の本業を持つところが多いので、フェアで売れなくても困らないのだ。
したがって海外ギャラリーは売り上げが悪いと二度と帰ってこない。昨年は海外15、国内23の出展者(ともに出版社を含む)だった。そのうち今年も参加したのが海外5出展者、国内10出展者だった。昨年売り上げが良かった海外ギャラリーが今年も参加している。非常にわかりやすい構図なのだ。
日本は世界でも有数の経済大国。アート写真の市場があるはずだという幻想を海外出展者はいだくのだろう。フェアでの海外ギャラリーの定着率の悪さは韓国、台湾でも同じだと聞いている。それにしても、これだけのギャラリーを世界中から誘致した主催者の営業努力は見事だと思う。しかし、売れない状態が続くと海外参加者がジリ貧になっていくだろう。 そうなると国内組も参加に消極的になる。フェアが継続的に行われうかどうかは国内市場が拡大するかにかかっているのだ。

私どもは中長期的視野に立って参加している。ギャラリーへの来場者はアマチュア写真家やカメラ愛好家が非常に多い。しかし、フェアへの来場者は美術館の展覧会に鑑賞に出かけるようなタイプが多い。普段はギャラリーに来ないような人たちが、少しばかりオシャレしてフォト・フェアというイベントを楽しんでいるのだ。展覧会との大きな違いは、作品に値段がついていることだろう。日本では一般的に写真はアートとして認められていないが、このような場では写真もアート作品として流通していることが実感できるだろう。実際、誰でも知っている有名写真がお金さえ出せば買えることに驚いている人も多数いた。そのような経験の積み重ねの先に写真をアートとして認め、買ってみようという意識が芽生えるのだと思う。また数はまだ少ないものの、なにか作品を買おうというスタンスで会場を回っている人も存在する。ギャラリーとしてそのような新規の顧客との出会いは非常に重要だ。

大体のギャラリーが資産価値の既にあるセカンダリー市場で流通している作品(だいたい高価格)と、ギャラリーの店頭で取り扱うプライマリー作品(低価格)との半々の展示をおこなっている。セカンダリーの作品の展示がないのは歴史の浅いギャラリーとなる。以下に参加ギャラリーの中から気になった作品をピックアップしてみよう。

・TOMIO KOYAMA GALLERY
ライアン・マッキンレイの抽象的なヌードのモノクロ小作品は多数売れていた。写真集からのエディション100作品は20万円以下で知名度の高い作家にしてはリーズナブルだ。

・CAMERA WORK
ハーブ・リッツ、エドワード・ウェストン、リチャード・アヴェドン、マーテン・ショラーなど。

・GALERIE CAMERA OBSCURA
サラ・ムーン、ソウル・ライター、マイケル・ケンナ、ペンティ・サマラッティ、ベルナール・プロッソなど。

・GALLRIE ESTHER WOERDEHOFF
ルネ・ブリ、エドワール・ブーバなど。

・TAKA ISHII GALLERY PHOTOGRAPHY / FILM
アマナ・サルトのディラーである同ギャラリーはプラチナプリントのイモージェン・カニンカム、エリオット・アーウィットを展示。その他、ロバート・メープルソープと荒木経惟の花作品を展示。

・AKIO NAGASAWA/POLKA GALLERY
ウィリアム・クラインのファッション、ニューヨークからの代表作を多数展示。ホールCでは写真集「東京」の作品が27点が展示してあった。同書の新版企画を進めているとのことだ。

・M+B GALLERY
ジャン・バプティスト・モンディーノのポートレート作品を展示。価格はエディション9で、約43~72万円。

・PICTURE PHOTO SPACE
リチャード・アヴェドン、リー・フリードランダー、ベッヒャー夫妻、植田正治、石元泰博、奈良原一行など。

・PHOTO GALLERY INTERNATIONAL
ハリー・キャラハン、アーロン・シスキン、三好耕三、川田喜久治、今道子など。日本を代表する写真ギャラリーらしい堂々とした展示だった。

・HERDON CONTEMPORARY
日本市場を意識してか、杉本博司の建築、荒木経惟のヌードなど。

・PHOTO VIVIENE
ビル・ブランドのヴィンテージのヌード作品、エドワード・スタイケンなど。

今年は知名度の高い作家の高価な写真というよりも、地名度が低い作家のリーズナブルな価格の現代美術系、インテリア・アート系が売れていた印象が強かった。景気は昨年よりも好転しているのに高額作品が売れない理由は何だろう。為替レートが1年前と比べて大きく円安に振れている。円貨での価格上昇が影響している可能性は高いだろう。昨年、かなりの金額を売り上げていた海外ギャラリーも同じような作家の品揃えで今年は苦戦していた。しかし、展示作品の内容は同じ作家でも昨年の方がクオリティーが高かった。日本のコレクターは単に作家のブランドだけでなく、本当に良い作品を選んでいるのだと思う。

東京フォトは混雑していて、本当に作品を見たい人に十分に在庫を見せられなかったと思う。ブリッツの取り扱い作家のエッセンスはフェアの展示で見せられたと思う。もし好きなタイプの作家が見つかって、もっと多くの作品を見たい人はぜひ下目黒のギャラリーに来て欲しい。事前に連絡をもらえば、興味がある作品を用意しておきます!

森山大道、荒木経惟、杉本博司 過去5年間のオークション結果を分析する

最近、アート写真のオークション結果の分析を行う機会があった。
せっかくのなので日本人写真家で世界的に知名度が高い、森山大道(1938-)、荒木経惟(1940-)、杉本博司(1948-)の2008年~2012年までの過去5年の動きを調べてみた。データは、”GORDON’S Blouin Art Sales Indes”を参照している。

アート写真市場での売上高、落札価格の直近のピークは2008年。その後リーマンショックで2009年に市場規模と相場は大きく落ち込み、ここ数年はやっと2000年代前半のレベルまで戻ってきた。
また2008年は「Paris Photo」で日本が招待国となった年だ。ここで、日本ではエディションや販売価格の管理方法、ヴィンテージ・プリントの理解が欧米とは違うことが明らかになっている。その後の日本人写真家の、特に古い時代に制作された写真の相場に多少影響を与えていると思う。

3人の日本人写真家の共通点は、経済は回復しているものの出品数の減少傾向が続いていることだ。2008年までの市場拡大時には欧米コレクターが多文化主義の視点から非西洋作家の物色を積極的に行っていた。日本人写真家もそのブームの恩恵を与った。金額的にも、森山と杉本の2008年の最高値はそのブームで発生したバブルの影響だった可能性が高い。
出品数減少は、その後の景気悪化により起きた原点回帰の流れがまだ続いているからだろう。またオークションハウスが不落札作の次回オークションへの出品に消極的なことも影響していると思う。

個別作家をみてみると、荒木は出品数は減少しているものの、最高落札価格は上昇、不落札率も決して低いとは言えないが安定している。2013年5月8日にロンドンのフィリップスで開催された”PHOTOGRAPHS”オークションでは、彼の77点の作品が一括で110,500ポンド(@150、約1675万円)で落札されている。複数作品とはいえ、荒木作品のオークション・レコードとなった。彼の市場でのポジションは確立されていることは明らかだろう。しかし2012年の落札作品のうち約95%が1万ドル以下。また多作な作家であることからイメージの絵柄によっては市場性がないものもあるようだ。

杉本はリーマンショック後の相場下落による落札予想価格の調整がうまくいった模様。2012年は出品数は低下しているが、これはブームの陰りではなく中心市場が”Photographs”から出品数が絞り込まれる”Contemporary Art”分野へよりシフトしてきたからではないだろうか。実際に不落札率、最高落札額ともにずっと安定している。
2012年には高額セクターとなる5万ドルを超える落札が14件もある。代表作の”Seascapes”、”Theater”は美術館クラスの作品として資産価値が市場で十分に認識されていると判断してよいだろう。

森山は、出品数、最高落札価格ともにあまり勢いがない。2012年の68%という高い不落札はやや気になるところだ。ロンドンのテート・モダンで2013年まで開催された“William Klein + Daido Moriyama”展の市場への影響を見極めたいと思う。

オークションで販売されることの意味を確認しておこう。
出品作はかつてギャラリーの店頭で販売されたものだ。同時期に同じように複数作家の膨大な数の作品が売られていたはず。その後、継続して作品を作り続け、熾烈な生き残り戦争に勝ち残った作家の作品がオークションに出品されるのだ。それは作家にとって一種のステイタスでもある。作品の資産価値が認められたことなので、最初にギャラリー店頭で売られた時よりも価格は高額になる。 しかし、どんな高額で落札されてもいったん過去に売買されているので、作家への分け前はない。しかしオークションでの高額落札がギャラリー店頭価格の上昇を招くので、間接的なメリットはある。

作家の評価には様々な基準がある。市場で付いた値段だけで決まるわけではない。しかし、世界的に評価されるためには作品の資産価値が客観的に認められることも必要なのだ。

祝!世界文化遺産登録
岡田紅陽の富士山

富士山がユネスコの世界遺産のなかの「文化遺産」に登録された。

マスコミ報道によると、富士山は、山頂の信仰遺跡群や登山道、富士山本宮浅間大社、富士五湖、忍野八海などで構成。古くから、日本人の重要な信仰対象であったことに加え、江戸時代後期の葛飾北斎らの浮世絵作品の題材になって海外にも影響を与えた芸術の源泉であったことが文化遺産として評価されたとのことだ。

写真分野で富士山と言えば岡田紅陽(1895-1972)だろう。
彼はライフワークとして富士山を撮影し続けてきた写真家。早稲田大学在学時に、当時の大隈総長から「目的に向かったら命を捨ててかかれ」と言われたことを心にカメラで富士山に立ち向かった。実際、何度も撮影時に死にかけた経験があるという。

私は紅陽の写真は、いわゆるアンセル・アダムスのように雄大な富士山を精緻に撮影しているものという先入観を持っていた。しかし、展覧会で実物を鑑賞してやや意外な感じがした。決してプリント・クオリティーだけを追求した写真ではなかったのだ。写真集をみたり、本人のエッセーを読んでみて感じたのは、彼にとって富士山撮影自体が一種の修行に近かったのではないかということだ。最終的に、彼は富士山撮影を通して一種の悟りの境地に達したのだと思う。

最初のうちは多くのアマチュア写真家のように富士の秀麗な姿、フォルムの美しさを狙っていたそうだ。しかし、撮影は天候などの自然条件によって左右される、決して自分の思い通りにはならないのだ。そのような経験を積んで、50歳を超えたくらいから撮影スタンスが変化する。
彼は、自身が64歳だった1959年刊の写真集「富士」のあとがき「富士山と私」で、「14年前ごろ(50歳前後)までは、主として彼女(富士山)の外貌の美しさ、秀麗の姿に打ち込んできたが、近ごろになって彼女の内面、心の良さに見せられた・・・」、続けて「近ごろは(富士山の)会心の傑作を彼女に求めようとする野心など少しも持っていない」と語っている。
さらに写真作品は「私の心が彼女の鏡に映った姿にすぎないと解釈している」と書いている。そして(富士山から)健康に生きていることを意識させられて「感謝の思いが心の奥底からしみじみと浮かんでくるのである」と続けている。

撮影を続ける中で、彼は次第に自分の精神状態や心が反映した富士山を撮影するようになったのだ。それがモノクロの濃淡に反映されている。ときに暗部や明部が強調されシュールで抽象的な印象でもあるのだ。秀麗な富士山よりも、そのようなイメージの方が魅力的だと思う。
紅陽は絶対的な富士山の傑作などは存在しないことの理解した。見る人の心さえ穏やかな状態でそれが反映されていればそれぞれの人にとっての富士山の傑作写真なのだ。

さらに富士山を通して紅陽の意識は宇宙とつながっていたのではないか。彼は関東大震災と太平洋戦争という厳しい禍を経験している。そのような極端に日本が荒廃した時でも、富士山は美しい姿を変えることはなかったと語っている。凛としてそびえる富士山は自然の中で生かされている無力な自分の存在を直感的に意識するきっかけになったのだ。

しかし、世間一般では紅陽は秀麗な富士山を多数撮影している写真家のイメージが強い。彼の写真が切手や紙幣に採用されていることも影響しているだろう。決してアート系の作家の印象はない。
写真集を見ていると、彼は確信犯でオーディエンスが喜ぶ秀麗な富士山を仕事として撮影していたのではないかと感じる。とくにカラーで撮影したものはその印象が強い。
高価な写真集をだす以上、商業的に成功させることがプロの務めだ。ちなみに1970年に刊行された「富士」(求龍堂)の定価は15,000円だ。2012年と消費者物価指数を単純比較すると約2.99倍になる。つまり刊行当時のこの本の価格はいまの約44,000円位もする豪華本だったのだ。自分の心情が反映されたアート作品としての富士は、一般大衆が期待する秀麗な姿、美しい色合いの富士山とは違う場合が多々ある。
実は21世紀のいまでも、写真集を購入する人のうちで写真家の作家性やアート性を愛でて購入する人は僅かだという。ほとんどの人が撮影している土地や場所のブランド性、ヴィジュアルが美しいかで購入する。紅陽は富士山で商業的な仕事と作家の仕事の両方を行っていたのだろう。写真集は両方のバランスを考えた編集になっていたのだと思う。

富士山の文化遺産登録をきっかけに岡田紅陽の作家性が再評価されることに期待したい。

大手オークションハウスが演出?ブランド化するアート写真

アート写真オークションでの作品評価はどのように決まるのだろうか?もちろん過去のオークションでの取引実績などが参考になる。実は作品の人気度が非常に重要な要素となる。同じ作家でも絵柄によって人気度が極端に異なることもある。ロバート・メイプルソープの場合、花は高額で取引されることが多いが、メールヌードは概して低評価なのだ。
ギャラリーの店頭では絵柄による値段の違いはないが、セカンダリー市場のオークションでは人気度により非常に大きな違いがでてくる。高人気は値段が高いとほぼ同じ意味。低人気の低価格作品の場合、大手オークションハウスは取り扱いに積極的でない。

オークションに出品される作家の顔ぶれをフォローしていると、特に最近は何十人かの特定の人気写真家の出品が半ばレギュラー化しているような気がする。ここ10年くらいは判断基準が写真史だけでなく、話題が多く知名度が高い人がレギュラー化している。自殺したダイアン・アーバス、エイズで亡くなったロバート・メイプルソープ、ハーブ・リッツ。それに最近再評価されている、これも自殺したフランチェスカ・ウッドマンを加えようとしている気配も感じる。
その他には、社交界のセレブでもあるピーター・ベアード、美術館で本格的回顧展が開催され過去の写真集が次々と復刻されているロバート・フランク、ウィリアム・エグルストン、アンリ・カルチェ=ブレッソンなどだ。リチャード・アベドン、アーヴィング・ペン、ヘルムート・ニュートンなどのファッション系の重鎮も完全にレギュラー化している。
もちろん上記のように、これらの人気作家の人気絵柄が高額で取引されているのだ。

最近はオークションで高額をつけるような珠玉のヴィンテージ・プリントの流通量が減っている。つまり美術館や有名コレクションに入った貴重な作品は2度と市場には出てこない。それでは500万円を超える高額セクターのセカンダリー市場はどんどん縮小してしまう。関係者が指摘しているのは、大手オークションハウスは、イメージがわかりやすく、流通量がある程度ある戦後作家からスターを作りあげ、新しいコレクターにアピールすることを画策しているのではないかということ。それが最近の市場における一部作家の人気に反映されているという見立て。売れ筋とその周辺をどんどん押していき実績を作り、相場を上昇させていく作戦だ。
実際、歴史的的価値が高いと思われる19世紀から20世前半の写真よりも、戦後のファッション写真のほうが遥かに高価であることはいまや珍しくない。
現代美術市場がアート写真市場に影響を与えていることから、アイデア、コンセプト面で上記の写真家を再評価して市場価値を正当化しようという流れも同時に起きている。どちらの意図が強いかは明確ではないが、たぶん市場サイド、学術サイドからともに起きている現象なのだと思う。私はこの重層的な戦略こそが欧米のアート写真市場がダイナミックに発展してきた理由だと思っている。

以上の動きのなかで、いまオークションハウスのなかで、クリスティーズ、ササビーズ、フイリップスの大手3社を頂点としての序列化が起きている。当然のことなのだが、プライマリー市場のギャラリーにも明確なブランド化の波が訪れつつある。
有力写真家が、現代アートのブランド・ギャラリーで取り扱われる傾向さえみられるようになった。かつてのアート写真市場は、その他のアート分野とくらべて誰でも参加できる民主的なところだった。90年代のオークションは価格も安く牧歌的な感じでさえあった。初期の写真ギャラリーはフレンドリーな雰囲気で敷居も非常に低かった。ビジネスよりも本当に写真好きがギャラリーを経営している感じだった。
その後、相場が一貫して上昇してきたことでその他のアート市場と同様になってきたのだ。最近の有力フォト・フェアなどはお金の匂いがムンムンする。私の概算だと、オークション規模から2012年の米国アート写真市場規模はだいたい百十億円くらいになっていると思われる(現代アート分野の写真は含まない)。
相場が上昇し市場規模が拡大したことは喜ばしいことなのだが、個人的にはやや複雑な心境だ。その間の日本は正に失われた20年と重なる。完全に欧米から取り残されてしまった。日本市場の低迷は決して経済的な理由だけではない。写真がアート作品として認知されず、作家、コレクターが育ってこなかったことにつきると思う。

大手オークションハウスは、高人気、優良来歴、優良状態のいわゆる高級品中心の取り扱いに特化する傾向だ。それら条件が揃わない低額評価作品の売買は、中堅オークションハウスを利用するしかない。ちなみに、GORDON’S Blouin Art Sales Indexによると2011年にアート写真が出品されたオークションは世界中で約416回も開催されている。
以下にそれらのなかで比較的アート写真に力を入れている中堅業者と最近の実績をわかる範囲で抜粋してみた。ほとんどが500万円以下の中間価格帯から100万円以下の低価格帯の作品の取り扱いになっている。これらのオークションの落札率は大手と比べてかなり低くなっている。欧州でのオークションは長引く経済低迷が影響しているのだろう。
また、彼らは大手とは違い特に厳密な作家と作品のエディティングを行わない。委託希望作品は、重複作や悪い状態の作品以外をほとんど受け入れているからでもあると思われる。個人的にはアート写真市場の実態がより正確に反映されているとみている。

  •  Swan Auction galleries,  New York, U.S.A. 2013年4月18日
    Fine photographs & Photobooks Auction
    総売り上げ1,191,594ドル  落札率 66.11%
  • Bonhams,  New York, U.S.A.  2013年5月7日
    Photographs Auction
    総売り上げ674,750ドル 落札率 63.7%
  • Bloomsbury Auction, London, UK  2013年5月17日
    Photographs and photo books
    落札率 57.1%
  • Kunsthaus Lempertz,  Cologne, GERMANY   2013年5月24日
    Photography and Contemporary Art
    総売り上げ471,590ユーロ 落札率 63%
  • Villa Grisebach Berlin, GERMANY  2013年5月29日
    Photographie Auction
    総売り上げ553,636ユーロ 落札率 68.9%
  • WestLicht Photographica Auctions  Vienna, AUSTRIA
    2013年5月24日  8th WestLicht Photo Auction
    落札率 76%

現代のお伊勢参り?「アートな旅」のブーム到来

いま「アートな旅」がちょっとしたブームになっているようだ。今年5月の日本経済新聞には「アート町に咲く」という、町を活性化させる手段としてのアートの有効性を考察する連載記事が掲載されていた。数年前には、「観光アート」(山口裕美著、光文社新書2010年刊)という日本全国のアート観光ガイドも刊行されている。

日本人は美術鑑賞も旅行がともに大好きな国民だ。「アートな旅」はその二つがうまく合致しているからブームになったと考えられるだろう。
これには歴史的な背景がないとは言えない。「アートな旅」は一生のうちに一度は訪れたい、といわれたお伊勢参りの現代版と言えないこともないだろう。伊勢神宮以外でも、日本では古来から神社仏閣は神聖な場所と考えられている。そのことを現代ではパワースポットというような呼び方をする。実はファイン・アートも神聖なものであると考えられている。
現代社会では全ての人間は単なる労働者で代替可能な存在だ。しかしアーティストは自らの創造性と努力の結果、世界でオンリーワンの作品を作り出す唯一無二の存在なのだ。アートは実用性から離れ、アーティストの創造性や論理性のみを愛でるもの。その面から現代社会ではアートは特別な存在で宗教的な要素を持つとも言われているのだ。多くの人々が(特に欧米では)アートやアーティストに対して高い尊敬の念を持っている。神を祀った神社仏閣や教会と、アート作品を展示するホワイトキューブの美術館とは共通する空気感があるのはこの神聖さによる。

美術館・博物館は日本全国に約1200施設あるそうだ。しかし全てが「アートな旅」の対象になっているわけではない。日本人は美術鑑賞好きだが、実は美術館を頻繁に訪れているのではない。多くの人が行くのはメディア主催で広告宣伝が盛んにおこなわれる大規模展覧会なのだ。
それらのイベントが開催されない美術館の集客は、展示作品のコンテンツの質と企画力が非常に重要になる。いくら外見が良くても優れた作品がなければ単なる箱でしかない。
最近話題の、金沢21世紀美術館、直島の地中美術館。これらはともに優れた常設展示の作品が有名建築家の設計した建物に展示されている。 それゆえ「アートな旅」の聖地になっているのだろう。
優れた企画展の開催も「アートな旅」を演出できる。例えば6月下旬まで開催されている、横須賀美術館の「街の記憶」展。一流作品が展示されている会場から私は神聖な空気を感じた。優れたアート展示なら、それを鑑賞するために旅する価値があると思う。

最近は全国で様々なアートプロジェクトが開催されている。これらも「アートな旅」の対象地になっている。2010年に開催された「瀬戸内国際芸術祭」は105日の会期中に93万人の来場者を集めたと上記の日本経済新聞の記事に紹介されていた。実際的には、多くの人はこれらのアート鑑賞は大規模展覧会や名所旧跡周りと同じようにとらえているのではないだろうか。
地方の芸術祭は何かに似ていると感じた。現在人気が高まっているNHK朝の連続ドラマ「あまちゃん」だ。これでは海女による東北の過疎地の活性化がテーマになっている。モデルの漁村は非常に行き難い場所という設定。芸術祭の会場は行き難い場所に分散してある場合が多い。ドラマの登場人物による、苦労してわざわざ行くからありがたみや感動が生まれる、という分析は芸術祭にも当てはまると思う。ローカル線、ウニ、海女さんを、芸術祭、アーティスト、アート作品に置き換えると似たような構図になる。アートは食べられないのでかわりに地元のグルメをアピールすればよい。旅、アート、グルメという3つの娯楽が揃うことになる。
そしてマーケティング的にもアートがブレンドされることにより、他の町興しイベントよりも多少は神聖な感じがして差別化が可能になるという仕組みだ。

最近は写真でも多くのイベントが地方都市中心に開催されている。日本では写真は撮影するものでアートとは考えられていない。欧米と比べてアート写真のオーディエンスも少ない。どうしてもアマチュア中心の町興しイベントになってしまう。日本には膨大な数のアマチュア写真家がいる。彼らを集めての街を活性化プロジェクトはメーカーや地方都市にとってメリットがあるだろう。
しかし、アマチュア写真は自分の為に撮られたものなので、アート性や神聖さが決定的にないのだ。 写真愛好家同志が親交を深めるために集うのにはよいだろうが、優れたアート写真を求める人には行く意味が見つからない。その点では今年春に開催された「京都グラフィー」は優れたコンテンツが魅力的な会場で展示されていた。写真での「アートな旅」を成功させた類まれなイベントだったと思う。アート志向を持った企業やアーティストが中心に行われるイベントは日本の写真界では非常に珍しい。

いま流行りの「アートな旅」現象。どうも世間一般でアートへの理解が進んだから起きているのではないようだ。メディア主催の大規模美術展に旬のイベントとして訪れるアートファンの一部が流れているのだろう。アートが地方への集客と町興しのためのマーケティングの道具になっている感が否めない。
しかしアーティストにとっては、どのようなかたちでも作品が展示されるのは自身のブランディングにとってメリットはあると思う。写真も同じで、コレクター不在の日本ではアマチュア写真家に認知、支持されることは重要だ。もし機会があるのならば、アーティストは状況判断を正しくした上で確信犯でこれらのイベントを利用すればよいだろう。