写真のオークションの最高額が更新!アンドレアス・グルスキー作品が430万ドル(約3.4億円)で落札

オークションでの写真作品の最高金額が、2011年11月8日にクリスティーズ・ニューヨークで開催された”Post-War and Contemporary Art”のイーブニング・セールで更新された。最高額をつけたのは、ドイツ人アーティストのアンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky 1955-)の1999年の写真作品 “Rhein  II”。ドイツのライン川を撮影しデジタル可能された抽象的な巨大カラー作品だ。彼は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で2001年に個展を開催している世界的なアーティスト。実は、この”Rhein II、1999” は2005年~2006年にかけて、東京国立近代美術館などで開催された「ドイツ写真の現在」にも出品されていた。たぶん今回の落札分とはエディション番号が違うと思うがまったく同じイメージだ。

さてオークションでは、落札予想価格が250万~350万ドルだったところ、$4,338,500.(@80.約3億4708万円)で落札され、今年5月にシンディー・シャーマンが付けた$3,890.500. (@80. 3億1124万円)の記録を抜き去った。

実はこのオークションは写真(Photographs)のカテゴリーではない。巨大なグルスキーの写真は1点物作品としてコンテンポラリー・アート分野の扱いなのだ。ちなみに、同オークションでの最高値は、ロイ・リキテンスタイン(1923-1997)による1961年の作品で、$43,202,500. (@80. 34億5620万円)の作家オークション最高金額で落札されている。1点ものの絵画の価値は写真とはけた違いだ。

グルスキー作品の詳細は以下の通り.
作家名 ANDREAS GURSKY (B. 1955) “Rhein II、1999”
Chromogenic color print(タイプ C プリント)
Plexiglasにマウント
作品サイズ 185.4 x 363.5 cm
エディション 1/6

この作品はトータルのエディション数が僅か6点。そのうち4点がすでにMoMA、テート・モダンなど4つの有名美術館に収蔵されている。世界的な有名アーティストの代表作であるとともに、市場で出ることが極めて稀な1枚であったことが高額落札の背景にあると考えられる。 いままでの写真の高額落札はほとんどが、リーマン・ショック前だった。それが、今年になって2回も更新されたということは、金融商品の価値が揺らいでいる中でブランド作家の貴重作品は優良な資産であることを改めて印象付けた。市場の2極化が更に進んでいるのだと思う。

ちなみに高額落札された写真作品の2位以下は下記の通りになります。

・シンディー・シャーマン(Cindy Serman)
“Untitled, 1981”Ed.10 24X48inch  Christie’s May,11 2011
$3,890.500.
・リチャード・プリンス(Richard Prince)
“Untitled(Cowboy), ”Sotheby’s Nov. 2007
$3,401,000.
・アンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky)
“99 Cent II diptych ,2001” Sotheby’s London Feb, 2007
$3,346,456.

歴史の重みとブランド力
アート市場の二極化の先

最近の日本経済新聞の記事、「高価で長持ちに向かう消費」を興味深く読んだ。不況が続いているなかで、最近のデパートでは高価な腕時計、宝飾品、美術品が売れているという。この記事は、高額品は従来好景気時に売れるもの、いまのような株価低迷と長期不況時代に売れるのは新しい傾向ではないか、という問題提起だ。その理由を、高価でも長持ちするものに向かう新しい消費者心理と分析していた。記事によると、3500万円の横山大観、500万円の棟方志功が売れたという。10月に開催されたあるデパートの絵画催事の売り上げはきわめて好調だったという。

横山大観、棟方志功という巨匠の作家名をきいて感じたのは、日本のアート市場でも消費の二極化が進んできたということ。二極化は、一般的に高級ブランド品と価格の安い商品しか売れない状況。実は私の専門のアート写真界では、リーマンショック以降その傾向がずっと続いている。
2011年秋のニューヨーク・アート写真オークションではその傾向がさらに強まった印象だ。
ちなみに、今シーズンの最高額は、フィリップス(Phillips de Pury & Company)で落札された、リチャード・アヴェドンによる1967年撮影のビートルズ・ポートフォリオの$722,500.(@80、約5780万円)。巨匠アヴェドンとビートルズというダブルネームの作品だ。
2位が同じくフリップスのNadarとAdrien Tournachonによる19世紀作品"Pierrot with Fruit,1854-1855"の$542,500.(@80、約4340万円)。
次が、ササビーズが取り扱った写真季刊誌カメラワークの50冊セット。これはスティーグリッツが編集に携わった写真史に残る代表雑誌。フォトグラビア、ハーフトーンによるエドワード・スタイケン、ポール・ストランドなどの写真が多数収録されているもの。 カメラワーク・セット最高価格の$398,500.(@80、約3188万円)で落札された。
マン・レイの"Untitled(Self Portrait of man Ray)1933"もフィリップスで同金額で落札されている。
上記の作家以外には、アンセル・アダムス、ピエール・デュブレイユ、アルフレッド・スティーグリッツなどが目立って高額落札されていた。作家名を見るに、まだ現代アート系やファッション系が未評価だった90年代のオークションを思い出す。作家のブランドとともに、古い時代の作品であることがより注目されている印象だ。

歴史的作品を愛でる傾向は、ブランド作家だけにとどまらない感じがする。古い時代の作品であることが一種のブランド価値になっている。実際、同業者の話では19世紀の古いダゲレオタイプ、ティンタイプ、ヴィンテージ・ポストカードなどの写真は無名作家だが良く売れているとのことだ。
また、写真制作の技法に関しても同じような傾向がみられる。多少高額になるが、古典的手法のシルバープリントやプラチナプリントを好んでコレクションする人がここ数年明らかに増えている。

不況が続くと人は安定を求めて保守的になる。どうしても新しいことよりも基本に戻るようになる。時代の価値観が多様化し評価軸が不安定になっていることもあるだろう。アートの基準を、作家のブランドと歴史の重みに求める人が増えているのだと思う。現在の市場では、中間価格帯の、特にブランドが未確立で歴史的背景がない作品が苦戦している。このような流れだと、一時期高額で取引されていた現代アート系写真、コンテンポラリー系ファッション写真には厳しい時代が続くような予感がする。
2011年秋のアート写真オークションの詳しいレビューは、11月のロンドン・オークション終了後にアート・フォト・サイトに掲載します。

ファッション写真の現在
日本人写真家の挑戦

ファッション写真は時代の憧れを提示するメディアだった。戦前は上流階級に憧れる中流階級の憧れを、戦後はしがらみから自由になり社会進出する女性の理想像を表現するものだった。それが90年代に入り、欧米から始まった高度情報化、グローバル化が進むとともに変化していく。大きな物語が消失して、ファッションもブランド一辺倒から、個人のセレクト、着こなしなどの表現が注目されるようになる。つまりファッションにおいて、服以外の世界とのつながりが重要視されるということ。人々の生き方がばらけてくる中で、ファッション写真は、時代のライフスタイルや若者文化、大衆文化を語るメディアへとなっていくのだ。

2004年にMoMAで開催された、”Fashioning ficition in photography since 1990″展(カタログは上のイメージ)では、それを表現する手段として、シネマティックとスナップ、ファミリー・アルバム的なアプローチが増えていると分析している。簡単に説明すると、映画的なテクニックは見る人の記憶とつながりやすい、スナップや家族アルバム的写真は見る側の感情と結びつき、リアリティーを感じやすい点が指摘されている。
それから7年くらいが経過し私はファッション写真の意味がより広く解釈されるようになった考えている。いまという時代が語られている限りにおいて、その拠り所は、歴史だけにとどまらず。パーソナルワーク、現代アート、他分野の表現や思想などにも求められるということだ。

先週末にinifinityに参加している3人の写真家とのトーク・イベントに参加した。写真家が感じている時代性と、それを語るアプローチが様々で非常に興味深かった。
北島明はシネマティックなアプローチで若きシンガーソングライター加藤ミリヤを起用して日本のいまのユースカルチャーのリアリティーを伝えようとする。撮影時には、詳細なストーリーとキャラ設定をモデルとの間で作り上げるという。まさに上記のシネマティックのアプローチを実践している。
舞山秀一は動物園の動物たちの撮影を通して、人間社会のありそうもなさを明らかにする。彼にとって撮影する行為自体が自分を確認する行為なのだと思う。やや難解なコンセプトなのだが、会場では多くの人が意味を読み解こうと作品と対峙している。舞山の策略はうまく機能しているようだ。12月に開催される個展が楽しみだ。
半沢健は、シュールな非現実的な世界を様々なプリント技法やセッティングで構築する。不思議なヴィジュアルで現実とは何かを意識させ、現代社会の嘘っぽさを撃つ。前回のinfinityの作品”blink”とは印象がまったく違うがメッセージは一貫している。
3人の写真家とも無意識のうちに、いまや多様化したアートとしてのファッション写真の流れとつながっている。彼らがそれを意識することでアーティストとしてのキャリア展開に踏み出してほしいと願う。

2011年秋のオークション・プレビュー
アート写真市場のニューノーマルとは?

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欧州の債務危機が騒がれている。私も特に意識していたわけではないが、ギリシャ国債の1年物利回りが100%を超え、2年物が70%超えと聞いてさすがに驚いた。ちなみに日本国債の1年物は0.12%、2年物は0.14%くらい。ギリシャ国債の異常な高利回りは明らかにデフォルトを織り込み始めている感じだ。最近の日経の記事はそれにもかかわらず金価格が下落していると報道していた。原因は、欧州の銀行が資金繰りのために手前期日で金を売却しているからだという。銀行の資金繰りが逼迫していたリーマンショック前も同様の現象が起きていたらしい。
米国経済も厳しい状況が続いている。住宅市場は改善の見通しがたたず、雇用も失業率は高止まり、長期失業者が増加。それらの影響で消費見通しも悪化している。長期金利は、景気悪化懸念と中央銀行による低金利政策長期化の見通しから、10年債が2%割れまで低下している。株価は、経済見通しは悪いものの、金利低下によりレンジ内取引の乱高下が続いている。

さてこの厳しい市場環境下で、いよいよニューヨーク秋のアート写真オークション・シーズンが到来だ。そろそろ、オークション・ハウスからカタログが送付されてきた。
第一印象としては、厳しい経済状況のわりに各社ともにニュートラルからやや守りのスタンスかなと言う感じ。実はカタログを編集するのは入札の数ヶ月前になるので、相場環境の急変を反映させるのが難しいのだ。当然、夏場に起きたギリシャ情勢の変化とユーロ危機、米国の国債格下げなどは織り込んでいない。
全般的に、モノクロのクラシカルな作品が増えている。ファッションも同様でカラーのコンテンポラリー系はほとんどない。また、現代アート系もブランドが確立した作家の作品が厳選されている。カタログ編集も、作品価値を高めるために、イメージや、テーマの関連性を意識した配置が行われている印象だ。

今春に一番の売り上げだったクリスティーズが最も元気な感じだ。カタログ数は3冊から2冊に減少したものの、複数委託者のオークション出品数は、春の約419点から、約473点に増加している。注目作品は、アンセル・アダムスの珍しい5枚組の水墨画のような銀塩作品セット。予想落札価格は、20~30万ドル(@80、1600万円~2400万円)その他、ロバート・フランクの70年代にプリントされた複数作品、ユージン・スミスのコレクション約20点などだ。
ササビーズは今秋も複数委託者によるオークションのみの開催。出品数は、春の173点から微増の195点。目玉はこちらもアンセル・アダムス。代表作"Moonrise, Hernandez, New Mexico"の約76.5X101.6cmという巨大作品。このサイズの場合、サインが入らないことが多い。しかし本作は2回のサインされている超レア・アイテム。予想落札価格は、30~50万ドル(@80、2400万円~4000万円)
フィリップス(Phillips de Pury & Company)は、前回は好調だったが、今回は慎重な見通しの様子だ。出品数が261点から200点に減少している。現代アート系やコンテンポラリーのファッションが多いのだが、今回はクラシックな写真が目立つようになっている。不況で人気が落ちている分野を意識的に少なくしているのだろう。メインになるのは、リチャード・アヴェドンのダイランスファーによるビートルズ・ポートフォリオ。1968年1月号の雑誌LOOKマガジンの表紙になった有名作だ。予想落札価格は、35~45万ドル(@80、2800万円~3600万円)

リーマン・ショックのすぐ後に、経済界で「ニューノーマル」という表現が使われた。景気循環とは違い、危機後の経済はもはや前にはもどらない。まったく別物になるというもの。米国中心の自由化と規制緩和による市場主導型経済から、多極化した政府の役割が重要視される低成長経済へ移行するとのことだ。しかし、各国政府の財政支出により景気が盛り返し、一時期は以前のオールドノーマルに戻るかのような印象があった。しかしここにきてユーロの構造問題が顕在化して、やはりいまの状況は以前とは違うことが再認識された。
リーマン・ショック後のアート写真オークションは、上記のセンチメントが如実に反映された形で上下した。ここにきて低成長がしばらく続くことは多くの識者が認めるところ。今秋のオークションは、その本当のニュー・ノーマル時代の相場水準を探る重要なイベントになるだろう。

日本の写真市場の現状
幅広い選択肢、消費される写真

過去1年間くらい、ギャラリーの仕事以外に、JPADSでフォト・フェアの企画、運営や、IPCでの各種写真展開催に携わってきた。おかげ様で多くの種類の人たちと接することができた。これら一連の活動を通して、日本でのアートの意味が欧米とはかなり違うことを改めて実感した。つまり、日本では様々な価値観のアートとしての写真が混在していているということ。 それらは混ざり合うことなく個別に存在しているのだ。ニューヨークなどは人種のるつぼではなく、共存するが混じり合わないサラダボールというたとえがあるが、それと同じ感じだ。

日本では、個人という存在が前提で、論理的な思考の上に構築されたアイデアや世界観を作品で他者に伝えていくというようなアートの考えが希薄だ。従って、特に写真はどうしても表層でとらえられる傾向が強い。感覚、イメージ、デザインによるインテリア系、作品クオリティが基準の工芸品系、などが多く見られる。それが、現代アート系、欧米ファイン・アート写真系、その派生の日本的ファイン・アート系などと混在しているのだ。同じようなたたずまいのギャラリーでも、実は価値観がみな違うのだ。
また、日本の特色として事業多角化の一環でギャラリー経営を行っているところもある。彼らは、広告宣伝を重視した事業スタンスをとる場合が多い。また空き不動産の有効利用のためのギャラリーも多い。ギャラリー以外でも、デパートの美術画廊、同インテリア小物売り場、催事場、フレーム専門店、レンタル・スペース、インテリア・ショップ、カフェなどでも写真は売られている。
欧米だと、アート系が、現代アート、伝統的写真にカテゴリー別けされ、それとは区別されて業販系があるくらいだ。日本はこれらがすべて混在して、膨張しながらカオス化している感じだ。

写真の取り扱いギャラリーでも、同じ考えを持って業務を行う業者数は思いのほか少ない。業界団体は、基本的な考え方やビジネススタイルが同じ業者の集まりのことだ。日本ではこの前提がみな違う、つまり同じ写真の扱いギャラリーでもみな分野が違うともいえる。
日本のフォト・フェアでアート写真の啓蒙活動がうまくできないのは、様々な思いの業者が、ただ写真も販売しているという理由で、イベント業者の掛け声で集まっているからだ。つまり全体で一貫した基準の情報発信が難しいということ。従ってアート・フェアは、見る人が喜ぶ企画を前面に立てた、観客動員数を目指したイベントになる。

この状況は、作品を作る写真家、購入する消費者にも当てはまる。それぞれの市場にそれぞれの考え方があり、それをサポートする、作家、ギャラリー、消費者が存在するということだ。写真家が写真を売る場合、その中のどの分野を目指すかは非常に重要になる。私どもで開催する、ワークショップでもここの解説には時間をかけている。
日本的だなと感じるのは、モラル感覚と同じようにそれぞれの考えを他人も共有するはずだと信じている人が多いこと。個別の基準を持つ様々な村が乱立しており、独自に勢力を拡大させようとしているイメージだ。

これが現在の日本の写真市場の現状認識だ。これを欧米市場と比較しても意味がないだろう。私は単純に市場が違うと理解している。写真を売り買いする様々なチャンネルが存在する環境は、写真家にとって欧米よりも写真を売ること自体が容易かもしれない。あまり高い目的を掲げずに、正しい現状認識を持って、確信犯で売っていくのも一つの考え方だ思う。
写真を取り扱う者としては、この中から将来にオークション市場で取り扱われるような人が輩出してほしいという希望を持っている。欧米市場でも、写真家が売れるきっかけは表層のイメージによる場合も多い。その後、写真家が作家として成長していくためには、ギャラリーやディーラーの役割が非常に重要になると考えている。
これは写真というインテリア関連グッズの商品開発ではなく、時間のかかる作家のブランド作りをおこなうことだ。巧みな仕掛けを考え、実践することが必要で、商売人ではなく、専門家しか担うことが出来ない仕事だろう。課題は、この部分で活躍できる人材作りと環境整備にかかっている。具体的に考えているアイデアは折に触れて紹介していきたいと思う。

「ART NAGOYA 2011」猛暑の名古屋の熱いアートフェア

8月5から7日にかけてウエスティンナゴヤキャッスルで開催された名古屋のアートフェアに参加してきた。
同ホテルは名古屋では最も伝統と格式が高い場所とのことだ。名前通りに名古屋城の正面にあり、客室から素晴らしいキャッスル・ヴューを楽しむことが出来る。スポンサーも、ジャガー・ランドローバー・ジャパンやぺルノ・リカール・ジャパンなどの高級品を扱う企業。主催者の狙いは、高級ホテルで中部圏の富裕層を相手にアートを紹介するという感じだ。
このホテルは東京のホテル・オークラのように交通の便が悪いところにあるのが特徴。自家用車かタクシーを利用するのが一般的で、地下鉄の浅間町駅から歩くと15分くらいもかかる。本当に目的意識がないと暑い夏の日に行こうとは思わないだろう。多くのフェアは観客動員数を多くして入場料収入で利益を上げるビジネスモデル。交通の便のよい場所での開催が肝になる。本フェアも商業地の栄、伏見、錦あたりのホテルで開催する選択肢もあったと思う。それをあえて不便だがステイタスの高いホテルで開催したことからは、主催者の”アートに本当に興味を持つ人に来てほしい”というポリシーが明快に感じられる。参加ギャラリーにとって、鑑賞目的の人が多いと本当に買いたいお客様との接客が出来なくなることがある。本フェアの趣旨には100%賛成だ。主催者によると期間中約1870名もの人が来場してくれたそうだ。酷暑の中でも中部圏のアートに興味のある人はちゃんと来てくれるのだ。私ども関連では、名古屋に引っ越したお客様や、ワークショップ参加者との再会があったのが収穫だった。

しかし来場者がコレクション購入までの目的意識を持っていたかは別問題だろう。色々なところで書いているように、日本のアート・フェアは作品を鑑賞するイベントという意識を持つ人が多い。今回も、多くの来場者は鑑賞目的だった印象だ。もしかしたら高級デパートの上客向けのアートの特別鑑賞会という意識の人が多かったのかもしれない。
とくに私どもが展示した写真関連作品に関しては、まだ多くの人に鑑賞やコレクションの対象であることが認識されていないようだった。実は、写真ファンは現代アートに興味のない人が多い。今回は現代アートのフェアと銘打っていたので写真ファンはかなり少なかったのだと思う。もし来年開催するのであれば、写真分野のギャラリーをまとめるなどのアイデアを考えてほしい。近くの場所で写真だけのサテライト・フェアを行ってもよいだろう。そうすれば、写真ファンの集客につながると思う。写真関連のスポンサー企業候補は数多いのではないか。

さて今回は初めてのフェアだったが、主催者の運営オペレーションや広報活動は非常によかったと思う。搬入、搬出もスムーズにできた、観客動員やマスコミの反応も良好だった。しかし、一人前のアートフェアを目指す時に重要なのは、参加ギャラリーや展示作品のクオリティー維持なのだ。ハード面だけでなく、ソフト面の運営オペレーション力が問われるようになる。
海外の有名フェアの場合、事前にギャラリーの展示作品やテーマを審査する場合が多い。 新規のフェアは、最初は珍しいからギャラリーや顧客を集めることができるだろう。しかし、フェアの目玉作品や何らかのテーマ性がなければ話題性の維持や更なる集客は期待できない。ギャラリー側としても、多額の経費をかけている以上、ある程度の売り上げがあり、新規客の開拓が期待できなければ継続して参加しないだろう。景気見通しが悪い中、もはや広告宣伝目的で参加できる余裕があるギャラリーは数少ないのだ。
長きにわたって継続できるかどうかは、主催者の高い企画能力が求められるということなのだ。高いクオリティーが担保されていればフェアはブランド化する、良質なコレクターが集まり、売り上げも伸びるのだ。これが出来ないと、継続できてもよりローカル色が強い低価格のインテリア・アートの新作披露イベントになってしまう。もちろん地元密着のこのような選択肢もあると思う。

本フェアは、上記のように富裕層相手の高級路線を意識している。器やスポンサーは立派だったが、展示作品のレベルにはかなりばらつきがあったと感じた。現代アートをあまり知らないような高齢の来場者が、展示会場の窓越しの名古屋城の眺めが一番良かったと言っていたのが印象的だった。歴史や時代とのつながりが感じられないアート作品は作者の自己満足になるリスクがある。アートの門外漢の人の素直な意見は案外ポイントをついていると感じた。

主催者や実行委員の皆様、たいへんお疲れ様でした。今回の貴重な経験を生かして、来年以降に内容をよりレベルアップしたフェアを開催してください。酷暑の中、来場してくれた多くのお客様に感謝します。

アート写真の海外市場動向
進行する2極化傾向

今春のNYアート写真オークションの解説を近日中にサイトに追加する予定だ。

オークション全体の結果は予想以上に良好だった。
ササビーズ(Sotheby’s)、クリスティーズ(Christie’s)、フィリップス(Phillips de Pury & Company)の主要3社ともに売り上げ、落札率ともに昨秋よりも改善している。以前も書いたが、この成果は主要3社の出品作品の見事な選択と編集作業による。彼らは、売りたい人が持ち寄る作品をただ自動的にオークションに出しているのではない。市場にフレッシュな(過去に出品歴がない)、来歴の良い、人気作家のヴィンテージ・プリントを中心に、写真史を意識しながらカタログを編集、制作していく。そして、どの程度のオークションの目玉作品を持ってこれるかが担当者の力量になる。
今春は、クリスティーズが特に頑張った感じで、カタログは3冊となった。通常の複数出品者のものと、二つの単独コレクターのよるオークションを企画している。 残り2社は複数出品者のものだけ。出品数は現代アート系にも積極的なフィリップスが260点と頑張り、ササビーズは量より内容を優先させ173点だった。2社の総売り上げほとんど同じで、ササビーズは落札率が低い割に約563万ドルと検討。 フィリップスは90%超えの落札率だが約580万ドルだった。ちなみに、クリスティーズの複数出品者オークションの売り上げは約536万ドル。単独コレクターの2回を合計すると約814.8万ドルとなり、クリスティーズはNY春のオークションの売り上げ1位を獲得した。

貴重な優良作品を持っているコレクターは、上記の主要3社に出品すればよい。しかし、実際のところそれはごく一部の富裕層のコレクターたちだ。写真市場の中心は中間層の人たち。彼らのコレクションは、希少性が欠けるモダンプリントが中心になる。また、自分の好みで買っているので必ずしも市場の人気作家や人気カテゴリーでない場合があるだろう。実際、一部の現代アート系作家をのぞき、現存する若手、中堅写真作家の作品はほとんどオークションでは取り上げてくれない。
何年か前に、比較的活躍している中堅作家のモダンプリントの見積もりを大手業者の求めたことがある。彼らの提示してきた最低落札価格はかなり低くて驚いたことがる。その価格で売れても、送料、保険料、カタログ掲載料、手数料を差し引くと手元にはほとんど残らない計算なのだ。もし、売れない場合は経費倒れになる。これは暗に、オークションハウスによる出品を勧めない意思表示だと感じた。ただし、それはイメージもよるらしい。中堅作家でも、エディションが売り切れたり、 残り1枚になった人気イメージなら取り扱う場合が多いという。
またある有名写真家のメールヌード作品の落札予想価格を大手業者に確認したところ、プライマリーの販売価格の半分以下というとてつもなく低い評価だったこともあった。理由を聞いたら、いくら写真家が有名でもゲイ・テイストの強い作品は市場性がないので評価が低いという回答をもらった。

それでは売却の際に欧米の一般コレクターはどうするかといえば、中小のオークション業者に持ち込む込むことになる。スワン・ギャラリーズやブルームスベリー・オークションなどだ。これらの落札結果を見ると、大手オークションハウスが支配している市場とは違う世界が見えてくる。5月23日にスワン・ギャラリーズNYで行われた、フォトブックとアート写真のオークションの落札率は、約64%と約62%だった。(出品数は、128点と261点)また、5月18日にブルームスベリー・ロンドンで開催されたアート写真の落札率は約55%だった。(出品数は226点)大手の落札率と比べてかなり低い。全体の1/3は売れないのだ。実はこれでも1年前よりはかなり改善している。
つまり、市場は明らかに2極化しており、希少作品に対する需要は強いものの、いつでも買えるモダンプリントの売り上げは低迷しているということだろう。つい最近まで大ブームだったフォトブック・セクターに元気がないのも同じ理由から。 写真のモダンプリント以上にフォトブックは桁違いに流通量が多い。
富裕層はいつでも金を持っているが、中間層は間違いなく不況の影響を受けているようだ。なお日本から海外オークションに出す場合は、不況で売れない可能性の他に円高が大きく影響してくる。5年前、1万ドルは約100万円以上だったのが、今では約80万しかないのだ。視点を変えると、もし円の余剰資金があるのなら、カテゴリーを絞り込んで海外作家の中長期的コレクションを開始する絶好のタイミングであるともいえる。
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商業写真家7人による”infinity”展が開催 アートとしてのファッション写真は誕生するか?

 

長年、アートとしてのファッション写真を専門にギャラリーを運営している。
最初は海外の有名ファッション写真家の作品を日本に紹介し、過去10年くらいはこの分野の日本人写真家の発掘をテーマに活動してきた。残念ながらいままでに目立った成果を上げることはできていない。
数多くの情報を収集し、現状分析を行い、日本でファッション系写真家が育たない理由を研究してきた。最近になり、その理由の一つは日本にはアートとしてのファッション写真の歴史が存在しないからだと分かってきた。彼らがオリジナルであるかどうかを判断する基準がこの国には存在しないのだ。自分のポジションを海外の写真史に真剣に求める人も少なく、多くは、ただ欧米の表層的なスタイルを取り入れただけだった。
日本のファイン・アート写真と商業写真との関係は欧米とは違う。単純にファッション写真だけを欧米の流れで評価するのにも無理があったのだと思う。 また90年代は、感覚重視の考え方が中心だったことも影響し、”どの写真が好き”というような個人の好みに単純化されてイメージが消費されていた。
感覚重視は、価値の序列を否定すること。アート写真市場はオリジナルであることで値段を差別化する。従って、日本ではアートとしてのファッション写真は成りたたなかったのだ。残念ながら、90年代以降に作品をアートして発表した多くの商業写真家の活動は続かなかった。

しかし、21世紀になり状況は大きく変わってきた。国によりスピードは違うものの、90年代後半ぐらいから、情報化、グローバル化が進み、大きな物語がなくなっていった。それは人々の価値観とともに、夢やあこがれが多様化したことを意味する。同時にファッション写真も多様化して、より広い意味でとらえられるようになってきた。 今や単純に洋服を見せたり、時代の気分をあらわすだけではなく、時代性が反映された写真をすべて含むようになった。
作品の基準をファッション写真の歴史だけでなく、他分野の写真、コンセプト重視の現代アート、パーソナルワークに求めることも可能になってきた。もはや独自の歴史とのつながりだけが重要ではなくなったのだ。
極論すれば、写真家が自分のつながりやポジションを認識できて、そのメッセージが時代との接点があればもはやすべてが広義の”アートとしてのファッション写真”といえるのだ。
またグローバル化により、国を超えた共通の価値観を以前より容易に発見できる時代になってきた。
商業写真家がアート作品に取り組む時、かつてファイアートの定番と思われていたドキュメント系のモノクロ写真にシフトすることが多かった。しかし、もはやその必要はない。ファッション、広告、ポートレートなどの経験を生かし、その延長上での作品制作が可能になってきたのだ。

5月31日から商業分野で活躍する写真家のグループ展”infinity”が広尾のIPCで開催される。参加するは、舞山秀一、北島明、半沢健、中村和孝、ワタナベアニ、魚住誠一、小林幹幸の7名。時代の変化を感じとって、自分独自にその可能性を追求しはじめた人たちだ。主催者の小林氏によると、これから最低5回は開催したいという。この継続する姿勢は高く評価したい。なぜなら、写真家は展示を通して自分のポジショニングの確認とともに、そのメッセージが的確に見る側に伝わっているか、それが自分のエゴの押し付けになっていないかの検証が必要となる。広告と違い、アートの世界では自らが展示を通して最終顧客の反応を見極めなければならないのだ。これは長い試行錯誤の繰り返しとなる。継続できるかどうかで自作への思いの強さも再確認できる。途中に参加者の入れ替わりもあるだろう。しかし、顧客とのコミュニケーションが意識できた写真家はアーティストとしての自らの可能性を確信できるだろう。”infinity”展は、単なる商業写真家のグループ展ではない。私たちが日本における”アートとしてのファッション写真”誕生に立ち会える、現在進行形のプロジェクトなのだ。

アート写真市場の現状 長引きそうな心理的な影響

東日本大震災が起きて2カ月以上が経過した。アート写真の世界もやっと落ち着きを取り戻したようだ。現在は、ほとんどの業者が通常業務を行っている。しかし、来廊者数はまだ大震災前には戻ってない。ギャラリーでは、鑑賞目的の人が大きく減少している。特に有名作家以外は苦戦しているという。アート写真の主要顧客は中間層だ。まだ彼らのセンチメントは本格回復には程遠いのだ。

写真作品は、写真家寄付による販売イベントではよく売れているという。作品相場がある人とない人が、すべて均一価格で販売することには様々な意見があるだろう。今後はより市場性を考慮したオークション形式でのチャリティー販売もあるそうだ。同じチャリティーでも市場価格で販売して一部を寄付する形式だと動きは鈍いという。 要はチャリティーにより新たな需要が創出されるわけではなく、作品次第ということだ。

アート系の写真集の状況も厳しいようだ。洋書専門店での店頭売り上げはかなり苦戦しているという。5月の連休明けには代官山の専門店がクローズ。目利きのコレクターが経営していた地方の専門店も廃業したという。ネットでの売り上げは特に大震災後も大きく変わっていない。昨年から緩やかな売り上げ低下傾向が続いているが、特にショック的な売り上げ急減は発生していない。ただし円高をより享受できるネット購入の傾向が強まっている可能性がある。

ファッションやインテリア感覚で写真集や写真を買っていた人は、いまのところ様子見を決め込んでいるようだ。しかし、まったく売れなくなったわけではない。来廊者の減少ほどには、作品売り上げは落ちていない。写真が好きでコレクションしていた人は適正価格の気に入った作品があれば相変わらず買っている。最近は80円に近い円高なので、海外作家の作品や洋書の動きは悪くない。
全体をまとめると、もともと不況だったのが大震災をきっかけに状況がやや悪化した感じだろうか。

その他、ワークショップ関連は特に大震災の影響は感じられない。アート写真関連講座の参加者やポートフォリオ・レビューの依頼も減っていない。復興時にはアーティストの役割が重要になる。日本ではもともと新しい生き方の提示が求められていた。今後、アーティスト志向の人の動向がより注目されるだろう。
写真家の作品発表意欲も特に大きく落ち込んでいないようだ。運営のお手伝いをしている広尾のIPCのレンタル予約も、節電のある夏場を除いて、 秋以降はかなり入ってきている。写真展開催を考えている人は出遅れないようにしてほしい。

今後のギャラリーの課題は、15%節電がいわれる夏場の営業をどうするかだ。マスコミ等ではエアコン設定温度28度といわれている。これだと多数のスポットライトを使用するギャラリーでは来廊者に快適に作品を見てもらうのは困難だと思う。今年の夏は長期休廊というギャラリーも出てくるだろう。
今はいったん平時に戻った気がするが、夏の節電、長引く原発事故などがあるかぎり心理的な影響は続きそうだ。もしかしたら、このような不透明な状況が定常化するかもしれない。長期夏休みで新しい時代をサバイブする中長期戦略を考えるのも必要かもしれない。

ソウル・フォト2011(Seoul Photo 2011)アジアのアート写真最前線 Part-2

ソウル・フォト2011のレポート第2弾です。

中国や韓国には欧米や日本のように銀塩写真の歴史がない。写真独自に発達してきた市場は存在しないのだ。複雑な政治、社会環境で自由に写真が撮影できる状況ではなかったのだろう。だから、ソウル・フォトの意味合いは欧米のフォト・フェアとは違う。欧米では現代アートや絵画などと、写真は全く別の歴史と伝統がある。その延長上にアート・フェアとフォト・フェアが個別に存在する。韓国では、その境界線はかなりあいまいだ。ソウル・フォトは、ここ10年で表現メディアとして一般化した写真を使用して制作された作品を扱うギャラリーのフェアなのだ。たぶん、彼らには写真専門ギャラリーというは認識はないと思う。

前回に紹介したように、大陸のテイストは繊細な感覚を持つ日本人の好みとはかなり違う。韓国では、少し前までモノクロ写真はドキュメントでアート表現ではないと考えられていたようだ。今回のフェアでもデジタル出力によるモノクロの大判作品の展示はあったが、小振りの銀塩写真を展示する地元ギャラリーはほとんどなかった。しかし、状況には変化の兆しも。それは、今回招待作家だったベー・ビョンウがモノクロで作品制作を行うようになり、その可能性に気付いた人が増えてきたという。いまでは、現代アート写真の新たな表現としてモノクロの写真作品が認知され始めたとのことだ。

会場ではそんなコレクターの好みを意識した現代アート風の、インパクトが強く、カラフルな大判作品が数多く展示されていた。作品のレベルは様々だ。仕上げ面では特に問題ないものの、コンセプトが弱い「壁紙」のような作品も数多く存在していた。しかし不思議なことに、それらのうちかなりの作品が売れているのだ。どうもこの状況は、当局がビル新築時に必ず文化的スペースを設置するようにと指導しているという、韓国市場の特性がかなり影響しているらしい。要は、大きなサイズの作品を求める企業ニーズが相当あるということ。あるギャラリーのディレクターに聞いたら、対企業の売り上げ比率は約20%以上あるという。金額ベースの比率はもっと高いのだろう。日本の写真ギャラリーでは考えられないことだ。購入の判断基準は、作家のアート性だけではなく、ギャラリーと企業との人間関係やコネクションも大きく関係しているらしい。だから、日本のギャラリーが単に大判作品を持ってきても決して売れないのだ。もちろんオークションで取引されるようなブランド作家の大作なら話は別だろう。色々と情報収集してみると、個人コレクターが求める作品サイズはそんなには大きくないようだ。たぶん企業にコレクションされた作家がブランドとなり個人が購入するのでないか。ここにもギャラリストとの人間関係が重視されているようだ。
欧米では、富裕層がコレクションするのが現代アートで、アート写真分野では中間層がメインプレーヤーだ。彼らはアーティストの作家性やメッセージを自ら判断、評価することが多い。しかし、韓国ではまだアート写真に特化した中間層のコレクターは少数で、企業と富裕層が人間関係とブランドで写真作品を買っているようだ。作品の評価基準は、ヴィジュアル的にきれい、面白い、カラフル、奇抜なモチーフ、目新しい制作方法なのだろう。歴史がないことから、オリジナルであることの基準がまだ明確ではないようだ。表現は自由だが、まだ洗練されていない感じだ。

さて、韓国市場は上記のような状況だが、今回のブリッツの展示は、小振りのファッション系の写真が中心だった。他のギャラリーと比べてかなり個性的な展示だろう。実は、アジア地域でも私どもの扱うファッション系写真に可能性があると考えているのだ。現在の富裕層コレクターはともかく、もし中間層コレクターが育ってくると彼らはソウル・フォトで地元ギャラリーが展示しているような作品にリアリティーを感じないのではないかと考えている。ファッションの意味だが、それはカッコいい写真のことだ。もう少し難しく説明すると、共同体社会のウェットなしがらみから解放されたいという、ドライで自由な感覚が表現されている写真作品のことなのだ。つまりイメージ自体ではなく、その背景にある思想やライフスタイルを重要なセールスポイントとしている。
儒教的精神が強かった韓国でも、核家族で育った若者の中にはドライな人間関係を求める層も増加しているという。大家族的な伝統的文化との軋轢が生まれつつある状況は容易に想像できる。これは、アメリカン・カジュアル・ファッションのブランド戦略と類似しているかもしれない。実際、ソウルの街中で見かけるファッションや関連広告はアメリカン・カジュアルが中心になっている。それらを好む層は、ドライな感覚のモダンな写真に魅力を感じるのではないだろうか。
実際、今回主要作品を展示したマイケル・デウイックの写真には現地のギャラリストたちも魅力を感じていた。あるギャラリストは、ドライでクールな雰囲気を持つマイケル・デウイックの世界に若い世代は共感はするだろう、しかし最低でも2000ドル以上する作品は高額でなかなか売れないと話していた。これは日本と同じ状況だと感じた。市場拡大のための課題はやはり値段だろう。欧米写真家の作品はまだ高価。同じようなテイストを持つアジアの若手や新人なら可能性は十分にあると思う。どちらにしても、作家と中間層のコレクターの育成のために地道な啓蒙活動の継続が必要なのだと思う。