写真家の細江英公さんが、2024年9月16日(月)、91歳で永眠されました。私は生前の細江さんに何回か会って話をしたことがあります。
最初は、たしかファインアート写真市場についての業界団体の講演会にともに参加した時でした。君の話は講義だな、と言われた記憶があります。たぶんまだ若かった私の話の内容が小難しかったのだと思います。その時の、自身の体験がもとに話された写真プリントに関するトークは経験の浅いギャラリストには非常に参考になりました。
細江さんが海外で展覧会を開催した時に、先方が写真を買い上げてくれたことになったそうです。帰国後に、プリントして万年筆でサインをして現地に送ったところ、インクは色が抜けたり変色するので鉛筆でサインするようにと返却されてきたというエピソードはいまでもよく覚えています。私の記憶は定かではないのですが、たぶんそれは1969年に米国スミソニアン博物館で開催された海外初個展の「Man and Woman」の時のことではないかと思います。
そして写真撮影から数年以内にプリントされたヴィンテージ・プリントの価値とそれらの保存の必要性についても語られたと記憶しています。
20世紀写真の場合、写真撮影時の感覚が一番的確に写真に反映されているのが撮影時に近いときにプリントされたものという考え方です。時間経過に従い、当初の感動してシャッターを押した感覚が薄れてしまうという解釈です。いまでは、撮影時のプリント制作データはきちんと記録されています。これは写真がファインアートとしての認識が薄かった時代の価値観でした。特に日本ではネガがあればいつでもプリントできるという考えが主流で、ネガは大事に収蔵するが、プリント自体は重要視にされていなかったのです。引っ越しの際には紙の印画紙は大きな荷物になるので処分することも多かったそうです。細江さんは海外との交流から、その価値に気付き、ガレージを写真プリントの収蔵庫に改装して保存したと語っていました。実際のところ日本の写真界の重鎮といわれる木村伊兵衛などの写真家でもヴィンテージ・プリントはほとんど残っていないと聞いています。
たぶん細江さんこそが海外での経験から日本の写真家で初めて写真プリントがアート作品になりうると気付き、公共機関でのコレクションの必要性を意識した人だと思います。それがのちの 東京工芸大学のコレクション、清里フォトアートミュージアムの設立、またワークショップの開催につながったのでしょう。
細江さんの功績のひとつは1995年に清里フォトアートミュージアム(K・MoPA)設立に尽力されたことです。ブリッツ・ギャラリーは、2013年の韓国ソウルで開催されたフォトフェアのソウル・フォトに出品しましたが、細江さんもKMoPAのフェアでの展示に合わせて参加されていました。細江さんは美術館の「ヤング・ポートフォリオ」プログラムを通して、世界の多くの若い才能を発掘し育成することに力を置いてきました。韓国からの参加者募集のためにソウルに来たとのことでした。私どものブースにも気さくに来てくれ声をかけてくれましたので、その時の写真を紹介しておきます(最初の写真)。その際、細江仕様にカスタマイズされたリコーGRカメラにみんなの目が釘付けでした。ネーム・タグには、Hosoe Toshihiro(ほそえ としひろ)と本名が書かれていました。
細江さんとお会いできて、お話をきくことができ本当に光栄でした。彼こそは日本に写真がファインアートとしてコレクションになりうることを紹介し、写真市場の発展に尽力した最初の写真家でした。細江さんの写真家の多方面にわたる業績はこれからも語り継がれることになるでしょう。ご冥福を心からお祈り致します。
清里フォトアートミュージアム(K・MoPA)
略歴などが紹介されています。