日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(10) なんで日本で写真が売れないのか Part-2

前回のパート1では、なんで日本で写真が売れないのかその理由を分析してみた。

繰り返すと、欧米のファインアートの世界では、写真展開催や写真集製作は、自分が社会に対するメッセージを伝える手段である。しかし、日本では制作側、見る側ともに写真を撮影して発表する行為自体が目的で、それがアート表現だと考えている。両者の価値基準が全く異なるということだ。
海外をベースに活動する日本人写真家が評価されたケースはあるが、世界で認められる写真家が日本から出てこないのは当たり前だといえる。評価されるべきメッセージ自体が発信されていないからだ。日本では、プロの写真家、先生の写真家、アマチュア写真家は、表現者としてみんな同じフィールドの中にいる。様々な価値基準を持つ集団が存在しており、その勢力拡大を目指すとともに、狭い範囲内で切磋琢磨しているのだ。
このような現状認識の上での、日本の新しい写真の価値基準の提案なのだ。

第3者による「見立て」は海外でも行われている。ただし、それに対する受け止め方が日本とは違う。西洋では新たな創作を行うためには、アーティストは自らがとらわれている思考のフレームワークの存在を意識して、それを破らなければならないと考えられている。
そのためには、多種多様な作品テーマに挑戦してマンネリに陥らない努力を行う。
優れた写真家はキャリアを通して変化しており、多種多様な作品の中に代表作があるのだ。またそのために、様々な意見を外部から取り入れ、自らをできる限り客観視して新たな視点を獲得するように努力する。
第3者の「見立て」は、作品アドバイスと同様の意味で、作品が無意識的に持つテーマ性に気付くきっかけになる。それが意識化されてアイデアやコンセプトに展開していくことが多い。

日本では、人間の本来持っている、思い込みや考えのフレームワークから抜け出すという意味が理解されない。第3者の「見立て」は作品のテーマ性発見にあまり役立たないのだ。同じテーマを長きにわたり追及する人が多いと感じている。

現代社会のシステムでは、一般論として、私たちは年齢を重ねるに従い能力や家庭環境などにより選別されていく。社会に出る段階ではすでに皆が違うスタート地点に立っている。どうしても自分の能力に近い人間関係の中で社会生活を送り、その世界にどっぷりとつかることになる。しだいに自分の知らない世界が存在するという意識が消えてなくなる。そして比較対象が少ないことから、狭い枠の中で自分はそこそこイケていると考えるようになり、人間の成長は止まってしまうのだ。西洋でアーティストがなんで尊敬されるかというと、その枠にとらわれないように悪戦苦闘している人だからだ。彼らの存在が人間社会の未来の多様性を担保すると考えられている。

日本は全く逆で、パート1でも触れたように、自分の持つフレームの中で表現を追及するのが作家活動だと思う人が圧倒的に多い。第3者からの「見立て」が自分の枠から外れている場合は重要視しないのだ。「見立て」を通しての写真家への働きかけは短期的には有効には働かない。
戦後日本には平等幻想があるとともに、いまでも共同体社会のセンチメントを無意識に持つので、周りも自分とたいして変わらないと考える傾向が強いからではないかと私は疑っている。

それゆえに日本では「見立て」は写真家を離れて第3者が独自に行う行為となる。多くの写真家は天才ではないので、ここの意識の違いはキャリア展開に非常に大きな影響を与える。
海外では、「見立て」やアドバイスがきっかけに若い写真家が優れたテーマ性の提示に成功することがある。しかし、日本では通常キャリアの後期になって複数の人からの「見立て」が積み重なることで、写真家の作品のテーマ性が徐々に認識されるようになる。時に数十年以上の長年にわたる作品制作の継続が必要となる。それが可能なのは、自らの写真表現が社会と何らかの関りがあり、継続するモーチベーションになっているからだと思われる。これはアマチュア写真家のように長期にわたってただ写真を撮影しているという意味ではない。ここでの作品継続の意味とは、何かに突き動かされて、被写体と一体になって一切の邪念を持たずに写真を撮影し、定期的に作品発表する行為のことだ。作品制作には、膨大な時間と資金が必要になる。社会的また金銭的な評価を求める人だと、短期的に結果が伴わないと継続するのは難しい。多くの人には、個展開催や写真集出版はキャリア上の思い出作りなのだ。

このように、日本の写真家の中には、自らがモーチベーションを持って作品制作を続けられる人と、写真を仕事や趣味で撮っている人が混在している。社会との関りから写真撮影を継続する人はいるのだが、彼らの多くは自らがメッセージを発信しない。誰かが隠れたテーマ性の「見立て」を行わないと、優れた才能は埋もれて忘れ去られてしまうだろう。
特に、広告写真家やアマチュアの中には、優れた作家性が発見されずに消えていった人が多数いるのではないかと疑っている。日本独自の新しいがアート写真が認知されないと、彼らを評価する価値基準が存在しないのだ。

最近は、「見立て」の行為に興味を持つ人への啓蒙活動がより重要だと感じている。日本には写真家はあまたいるが、「見立て」ができる人は圧倒的に少ないのだ。「見立て」には、その人の経験と知識の蓄積が重要になる。それなくして、作家性や作品のテーマ性に気づくことはないからだ。これは写真分野における、知的好奇心を刺激する高度な趣味的な行為だと思う。撮影はしないが、写真を通しての自己表現でもある。
おかげさまで、「写真の見立て教室」開催への問い合わせを数多くもらっている。どうも興味を持つ人がある程度の数はいるようだ。今後は、「見立て」ができる人を養成するような全く新しい写真のワークショップを春以降に開催したいと考えている。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(9)
なぜ日本で写真が売れないのか Part-1

いまや写真界では日本で写真は売れないというのが一般論になっている。私どものギャラリーの経験でも、特に日本人写真家による自然や都市の風景がモチーフの写真が売れ難いのは明確な事実だ。
私がよく引き合いの出す例は、アート写真のオークション規模の違いだ。ちなみに欧米では2017年に現代アートを除くアート写真だけのオークションが45回程度開催され、総売り上げは約79億円になる。日本にはアート写真だけのオークションはなく、SBIアートオークションのモダン&コンテンポラリー・アート・オークションのごく一部に写真が出品されるにとどまる。ちなみにギャラリーの店頭市場の規模は、オークションと同等から2倍程度といわれている。

その理由は、日本と欧米の住宅事情に帰せられる場合が多いが、状況を分析すると売れないのは当たり前なのがわかってくる。私はその状況を踏まえて、日本では全く新しい価値基準のアート写真カテゴリーが必要だと意識した。なんで写真の評価に第3者の「見立て」が必要なのか。本連載の読者により理解を深めてもらうために、今回は写真が売れない理由の説明を行いたい。

まず作家活動の意味や定義が海外のファインアートの世界と日本は全く違う事実を指摘しておきたい。念のために最初に述べておくが、これは日本と西洋とを比べてどちらが良いとか上だとかいうことではない。ただ価値基準が違うということ。この点を誤解しないでほしい。そして日本ではこの二つの全く違った価値観が混同されているという事実を伝えておきたい。

いま海外のファインアート分野で活躍する写真家は、社会の中で何らかの問題点を見つけ出して、それを写真を通して表現したり解決策を提示するアーティストなのだ。作品が売れるとは、そのメッセージの意味をコレクターが受け止めて、両者にコミュニケーションが生じることなのだ。日本でも、写真家は表現するという意味でアーティストといわれるが、それは海外とはやや意味合いが違う。アート系の学校の出身者や、海外べースで活動している人を除くと、最初に社会に何か伝えたいメッセージがあって写真を撮影する場合は圧倒的に少ない。また世間一般は、写真家は写真家であり、ファインアートのアーティストとは考えていない。多くの写真家にとって、自分の興味ある対象の写真撮影し、展覧会を開催したり、写真集を出版するのが作家活動なのだ。
また最近は、海外の現代アートの影響で、アイデアやコンセプトを撮影後に探してきて後付けする人も若い人中心に増えている。これは本質が伴わない、外見だけを現代アート風に仕立てた作品となる。
見る側の認識も同じで、展覧会に見に行って芳名帳に記載し、余裕があれば写真集を購入することが作家支援なのだ。

写真家は何もメッセージを発信していないし、見る側も何らかのメッセージを読み解こうという意識がない。だから写真が売れる、つまりアートコレクションの対象になるはずがない。日本では写真はアート作品ではなく商品なのだ。売れるのは、インテリア向けの飾りやすい絵柄の低価格帯の写真、商業写真家のクライエントや関係者が仕事上の人間関係で買う場合。親族・友人が社交辞令で買う場合などだ。しかし、コレクターとして作品のアート性を愛でて買うわけではないので、ほとんどが1回限りとなる。
そこには欧米的なアート史と対比してオリジナリティーを評価するような客観的な価値基準は存在しない。すべてが見る側のあいまいな感覚もしくはフィーリングでの判断となる。写真がアートになる以前の20世紀写真の基準がいまだに反映されがちだ。きれいな写真、うまく撮影された写真、クオリティーの高い写真、銀塩写真なのだ。また作品の客観的な基準がないことから写真家の知名度や経歴によって大まかな差別化が行われる。
それ以外にも撮影方法の目的化や学閥など、複数の価値基準が存在している。それぞれの人が自分の価値基準が普遍的だと考える傾向が強く、どうしてもそれぞれの基準に準じたコミュニティーが生まれやすい。

まとめてみると、欧米のファインアートの世界では、写真展開催や写真集製作は、自分が社会に対するメッセージを伝える手段である。しかし、日本では制作側、見る側ともに手段自体が目的で、それがアート表現になっている。両者の価値基準が全く異なるということだ。海外の基準やデザイン性で評価された日本人写真家は何人かはいるが、日本から世界に認められる写真家が出てこないのは当たり前なのだ。認められるためのメッセージ自体が発信されていないからだ。
これはアマチュア写真の世界と全く同じ構図となる。日本ではアマチュアの個展開催や出版もアート活動だと考えられている。プロの写真家、学校の先生の写真家、アマチュア写真家は、表現者としてみんな同じフィールドの中に存在している。このような現状認識ができて、初めて日本では欧米と違う新しいアート写真の基準が必要なのだと理解できるのだ。

次回は、日本と欧米の創作における決定的な考え方の違いなどに触れたい。

(Part-2 に続く)

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(8)
うつわ作家とクール・ポップ写真

今回は、クール・ポップ写真を撮影者がどのように把握したらよいかを説明していきたい。
念のために最初に確認しておくが、ここで述べるのは欧米で売買されているテーマ性を重視した現代アート系写真ではない。またインテリア・デコレーション用に制作された写真でもない。日本独自の新しい視点のアート写真の価値観に関わる説明になる。今までに語ってきた前提をもとに考え方を展開していく。もし興味ある人は過去に紹介した内容を読んでほしい。
 
私はこの分野の写真撮影者が参考にするべきは現代陶芸のうつわ作家だと考えている。陶芸作家が制作するうつわは手作り感や素材感が残るものの、あくまでも用の美を追求している。そこに作家性を最優先するようなエゴは存在しない。無心で土の中から形を呼び起こすような感覚だと想像している。
世の中には陶磁器は氾濫している。マーケティングを重視して巧妙にデザイン・制作されたものが大量かつ低価格で販売されている。手作業で作られるうつわは、大量生産品よりは高価だ。しかしそれらはアート作品ではないので一般の人に手が届かないほどの値段ではない。その上で購入者は生活の中で使えるし、うつわどうしをコーディネートしたり、料理と合わせることで一種の自己表現を可能にする効用もある。人気カフェは、料理とうつわとの相性、それを提供するインテリアという設えと取り合わせに心を砕いている。作家もののうつわで、同じようなことが家庭でも可能になる。ありきたりの表現だが、少しばかりのうつわの贅沢で生活者の心に潤いを与えてくれるのだ。このあたりが作家ものの陶芸コレクションが人気の理由ではないかと考えている。
 
写真で参考にしたいのはうつわの販売価格だろう。アートには作品の相場がある。アート写真市場の中心地である米国では、だいたい11×14インチ程度のサイズの写真作品は新人でも200~350ドルくらいから販売されている。日本でもディーラーがそれに合わせる形で新人の写真でも2.5万円くらいの値段をつけるケースが多い。アート作品は専門教育を受けた人により制作され、将来的に作家のキャリアによっては資産価値が上昇する可能性がある。このような真摯にアーティストを目指す若手の作品なら2~3万はかなり割安といえるだろう。
しかし日本ではほとんどの場合、写真はアート作品ではない。価格設定の前提が全く違うのに、混同されている。それらの写真は商品としての価値しかない。売れた後は中古品だ。使用価値がインテリア装飾に限定される1枚のシートの商品としては、2~3万円は高価だといえるだろう。インテリア系の写真を取り扱う専門業者は、飾り易い絵柄のマット付シートで8900円から販売している。額装込みでも1.5万円くらいだ。デパートなどのインテリア小物売り場では、額装されたインテリア用の版画が売られていることがある。それらは、A4サイズ、インクジェット作品が額込みで1~3万くらいだ。
ちなみに陶芸作家の器は、茶碗で3000円くらい、大皿でも1万円以下で買えるものが多いのだ。また1枚売れたから値段が上がることはない。もちろん生活食器として日常生活で使える。
市場で価値が受け入れられない商品はあまり売れないのが経済原則だ。クール・ポップ写真ではまず市場の適正価格を探ることが必要だろう。そして、それは制作に関わるコストや投入時間とはなんら関係がない。たぶん写真家が考えているよりも低価格になる。この点も作品制作の見極めと関わってくる。低価格の販売をためらう人は、お金儲けのために写真を売りたい人なのだ。

写真にとって、うつわの用の美に該当するのは、インテリアで生かされる設えと取り合わせの可能性だろう。しかし、ここは多くの誤解を生むので注意が必要だ。それらは、写真家や業者がマーケティングを行いアート・リテラシーが低い層向けに綿密にデザインされて制作されたハッピー系版画やインテリア系の写真ではない。これはプロ写真家や業者の仕事として特に欧米では一つのカテゴリーを形成している。日本では、感情の連なりと色彩・デザインを追求した同様のスタイルを持つ写真が非常に多い。そこには良い写真を撮りたい、評価されたいという撮影者の意図が見え隠れする。また本人がそれを無意識だと思いこんでいる場合も多い。作品完成後、写真に現代アート的なストーリーを後付けする人もいる。どうしても何か撮りたいという強い衝動がない場合、撮影自体が目的化してしまう。どうしても何かを頼りにしがちになるのだ。

仕事としてインテリア用の作品制作をするのでなければ、中途半端にグラフィックやデザイン性を意識した写真作品を制作しない方が良いだろう。また本当に無心で作品を生みだしたのならば、撮影者はそれについて語らない方が良い。無理して語ろうとすると、それは作り話になってしまう。それらの特徴は、経験を積んだ専門家が見れば一目瞭然だ。
それ故にクール・ポップ写真では第3者による作品制作の見極めとテーマ性の見立てが必要だと考えているのだ。
 
話は陶芸に戻る。では新人や無名の作家のうつわはどのように買われていくのだろう。それは鑑賞する側がうつわの質感や、手作業の痕跡から感じられる作り手の精神性のような感覚を共有できるときではないだろうか。また作家ものであるにもかかわらず、いわゆるお値打ち価格である点も重要だろう。一方でイケア、無印良品、100円ショップでは、デザイン性や値段がうつわ購入の決め手になる。
これを写真に当てはめると、前者がクール・ポップ写真で後者がインテリア系写真となる。写真の被写体は様々だ。したがってこの範疇の写真は、ポートレート、シティースケープ、ランドスケープ、抽象など広範囲に存在する。
サイズ的には、作品テーマに見る側を引き込むことを意図した現代アートのような大判サイズではなく、複数作品のコーディネートが可能な小ぶりな作品が中心になると考えている。
手軽に買える作家もののクルー・ポップ写真。毎回の繰り返しになるが、まずは作品制作の見極めが行われ、写真家が作品制作を継続する過程でテーマ性の見立てが行われるようになる。その先に、写真家のブランドが構築されていくかもしれない。それはうつわ作家のブランド構築に近い過程になると考えている。また流通にも新たな可能性が生まれるだろう。特にギャラリーに販売を頼ることなく、オンラインショップなどを通して自らが顧客に直接販売する流れが生まれると予想している。

夏休み期間には、「写真の見立て教室」(仮称)を、実例を紹介しながら行いたいと考えている。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(7)
見立ての勘違いについて

いままで日本写真の新しい価値基準として、クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(クール・ポップ写真)を提案してきた。それは鶴見俊輔による限界芸術、柳宗悦による民藝の写真版だと解釈可能で、また夏目漱石がエッセー「素人と黒人」で述べている、素人にも近いと紹介している。写真家が無心で撮影した作品と、買う側、評価する側の"見立て"がセットになって成立する。過去6回ほど書き続けながら考え方を展開してきた。興味ある人はぜひ読んでみてほしい。その考えは日々進歩・展開している。いままでの主張が一貫性を欠き、多少の矛盾点があるかもしれない。どうかご容赦いただきたい。今後も変わるかもしれないが、最新の考え方が最善だと理解して欲しい。今回はいままでに気付いた"見立ての勘違い"に触れたい。
 
写真の見立ての最初のステップは写真家の撮影スタンスを見極めることだ。経験の浅い人は、デザインやテクニック重視で制作された写真に惑わされしまう。表層に好印象を感じることが、本質の評価だと勘違いしてしまうのだ。第一印象が良い写真ほど直ぐに飽きてしまう、自分の印象による判断を疑ってみてほしい。写真に能動的に接してみよう。写真家が何を感じているのか、また何を伝えたいから撮影しているかに思いを馳せてみよう。撮影者の問いかけが読みとり可能かが判断基準になる。特にデジタル化進行で急増化している抽象写真には注意が必要だろう。

私はアマチュアリズムの徹底的な追及からこの分野の写真が生まれてくると考えている。ここにも勘違いが多いようだ。いまのアマチュアの中には、あわよくば写真家と認められたい、写真で生活の糧を一部でも得たいと考えている人が散見される。また写真での所属欲求、承認欲求を持つ人もいる。そうなると、どうしても自分のエゴが写真に反映されてしまう。アマチュア精神がプロ化して失われているともいえるだろう。アマチュアとは自由な精神性のことだ。純真に好きでやりたいことを追求し続け、プロ写真家のように写真界の評価を気にすることがなければ、真に主観的な撮影スタイルが実践できる。そのような写真が結果的に第3者から見立てられるのだ。ただし、自分のアイデアやコンセプトを自らが考えだして作品として提示する現代アート系写真はこの範疇に含まれない。ここの部分も混同や勘違いしないでほしい。

撮影や作品編集以外の写真の楽しみ方も紹介してきた。作品制作意図の見極めを行った写真を材料に、"設え"、"空間取り合わせ"を"見立てる"行為だ。ギャラリー空間のように、写真はシンプルな額にいれて、白い壁面に展示するのが一般的だ。しかし、どの写真を選んで、額装するかなど、展示方法を考える"設えの見立て"、それがどのようなスペースに合うのかを考える、"空間取り合わせの見立て"も可能ということだ。最初に展示したい場所があって、写真セレクションと設えを考えても良い。このような過程は古美術や骨董の世界では一般的。写真を素材としてもこのような一種の自己表現も可能ということだ。日本で真に写真が売れるには、欧米とは違うこのような買う側と写真との独自の関係性も必要かもしれないと感じている。
これには注意点がある。それは上記の行為はインテリア向けの写真のプロデュースと類似していることだ。多くのギャラリーやインテリア・ショップが販売手段として写真とフレームとの相性などを顧客に提案するのはよく知られている。インテリア向けの写真は、写真自体もインテリア・コーディネーションの素材でそのデザイン性を重視する。しかし、クール・ポップ写真は技術やデザインで制作された写真は評価しない。そこには"作品制作意図"の見極めが抜け落ちているのだ。インテリア・コーディネートと見立てとの混同や勘違いがよくあるので注意してほしい。

"作品制作意図"の見極めが、どのように"テーマ性の見立て"につながるかにも勘違いが多い。少し複雑なので整理整頓しておきたい。写真家にテーマ設定の意図があり、そのテーマ性を第3者が社会の価値観のなかで見立てるのが現代アート系の"テーマ性の見立て"。一方で、ここで展開しているように写真家が無心で作品を制作していて、そのなかにテーマ性を第3者が社会の価値観のなかで見立てるのがクール・ポップ写真の"テーマ性の見立て"となる。 テーマ性の見立てには見る側が能動的に写真に接するとともに、アート写真リテラシーの高さが求められる。日本では見る側にも写真のメッセージ性を読み解こうとする態度が強くないという状況もあるだろう。邪念がない写真家の内在的なテーマ性は、自分が語らないがゆえに現代アート系のように作品単体では顕在化しないのが特徴だ。長年にわたる作品制作の継続、また同様なパターンの繰り返しの中で育まれていく。

時間経過の末に、しだいに第3者から写真家本人や作品の社会との関わりのあるテーマ性が発見され、語られるようになるのだ。一人や少数の人の印象のようなものから始まり、それに共感する人がでてくれば、評価はより広く広がる。現代アートのように写真家自身の言葉でメッセージを発信するのではなく、作品の社会とのテーマ性が自然発生的に語られるようになるのだ。複数に見立てられた制作者の無意識のテーマ性が、外国人のキュレーター、評論家、コレクターに理解されようになれば写真家のブランド構築につながる。実際に過去の日本人写真家の多くはこのような過程を経て世界的に評価されたと考えている。
 
繰り返しになるが、ここに至るまでには写真家の作品制作の継続が不可欠になる。何10年もかかることもあるだろう。ここにも勘違いが多いので確認しておこう。それは商業写真家やアマチュア写真家が単に写真撮影を継続することではない。世界からの評価も認知もない中で、写真を通して何らかのメッセージの発信が継続できるかだ。それは何で写真を撮影するかを自分自身の問う行為でもある。それができるのは、写真家の継続の動機が何らかの社会との接点を持つからだろう。時間の経過の中でそれを誰かが発見して語ることになる。ただ写真を撮影しているだけでは、見立てられることはないのだ。
 
私どもができるのは、写真家の"作品制作意図"の見極めを行い、ライフワークとして写真に取り組むことを奨めるしかないと考える。クールでポップなマージナル・フォトグラフィーの価値基準を知ることが作品制作継続のモーチベーションになると期待したい。多くの人は、評価されることなく作品制作は継続できないだろう。それに気付いた人は、ぜひ写真を見立てる側での自己表現を試みてほしい。
 
いままで、ずっと予告していて実現できてないのが講座やワークショップでこの新分野の写真を解説すること。また実際に写真家の"作品制作意図"を見極め、それらをフォトフェアなどで展示したいとも考えている。決して忘れたり諦めたわけではなく、準備は着々と進行している。どうか今しばらく時間をください。

日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップな マージナル・フォトグラフィー(6) 写真の見立て方を考える

いままで写真の新しい楽しみ方として、限界芸術と民藝の写真版であるクール・ポップ写真を紹介してきた。過去5回ほど書き続けながら考え方を展開してきた。興味ある人はぜひ読んでみてほしい。これは、写真家が雑念を捨てて撮影した作品と、買う側、評価する側の”見立て”がセットとになって成立する。今回は写真の”見立て”サイドを掘り下げていきたい。
欧米のギャラリー店頭では、作品テーマ、ヴィジュアル面の優劣、写真家の将来性、海外での評判などがセールストークとして語られる。そこには写真は資産価値を持ち、将来的に価値が上昇する可能性を持つものだ、という大きな前提がある。実際に優れた写真作品の市場価値は歴史的に上昇してきた。日本のギャラリーでも、欧米同様のセールストークが行われてきた。しかし日本では写真家のアート市場での成功例が非常に少ないので、前提となる写真の資産価値を誰も信じていない。私はこれが日本で写真が売れない理由の一つだと考えている。
日本でも、海外の延長上に資産価値を持つ作品の市場は存在する。しかし、残念ながら多くの日本人写真家はその範囲外にいる。ぜひその分野に果敢に挑戦して欲しい。
一方で、まったく別に日本独自の価値基準を構築しようというのが私が行っている主張。一般の人が写真を評価して買うときに、表層的な業者情報に頼ることなく自らが能動的に写真に接して見立てればどうかというものだ。写真の新しい楽しみ方、買い方の提案なのだ。
実は見立てには、様々な項目に対するものが重層的に存在する。今まで色々な人たちに、この新分野の啓蒙活動を行ってきたが、私の印象では作品に潜むテーマ性の見立ての理解が一番難しいようだった。ここの部分は、見立てる側のアート写真リテラシーの高さが求められる。これができる人は制作する側にも、見立てる側にも少ないのが現実だ。それゆえに日本では写真がアートとして認知されないともいえるだろう。広く浸透していくには継続的な啓蒙活動が必要でかなり時間がかることが想定される。これでは、写真界に潜在的に存在しているクール・ポップ写真はなかなか発見されないだろう。
最近は見立てには様々な難易度を持つ段階があり、まずはもっと敷居の低いところからスタートしていいのではないかと考えている。 一般の人は、テーマ性の見立ての前に、まず作品が無意識の上で制作されているかを見極めればよい。これは作家の”作品制作意図の見立て”と呼ぼう。作品が写真家のエゴで作られたのか、それとも自分を無にして作られたのかということだ。複雑に絡み合った社会で生きる人間がそのような精神状態で作品を作り上げるのは簡単ではない。テーマ性はいったん置いておいて、まずはその点を評価するのだ。邪念を持たないアマチュアの中に、このような優れた作品を制作する写真家が見つかることが多い。
もう少し具体的に説明しよう。
デザインやテクニック重視で制作された写真に惑わされないことが重要だ。写真家が何かを感じて撮影しているかを重視するのだ。また見立ては、ここで終わりではないとも考えている。どの写真を選んで、額装するのかフォトフレームに入れるのかなど、展示方法を考える”設えの見立て”、それがどのようなスペースに合うのかまでを考える、”空間取り合わせの見立て”がある。最初に展示場所があって、写真セレクションと設えを考えても良い。このような過程は写真を素材とした見立てる側による総合的な自己表現でもあるのだ。日本で真に写真が売れるには、欧米とは全く違う上記のような買う側と写真との関係性が構築され、定着しなければならないと考える。ここまでが見立ての第1段階だ。自分のライフスタイルを意識して、その一環としてカジュアルに行えばよいと考えている。

ほとんどの写真は一人や少数の人の見立てでで終始するだろう。しかし、もし複数の人が認めるようになれば、第2段階の”テーマ性の見立て”へと展開していく。優れた作品ならば結果的に複数の人が見立てることになるはず。またエゴが消えて作品制作に取り組めるまでの過程には、社会との何らかの関係性があるはずだ。この段階では作品の社会との関わりのあるテーマ性が発見される可能性が出てくる。結果的に写真家のブランドが構築され、値段も上昇すると想定している。日本の写真界を見渡すと現在の人気写真家はこのような過程を経て評価されてきたと感じている。

世の中には、写真撮影しない写真の楽しみ方があるのだ。他人が撮影した写真を、上記のような”作品制作意図の見立て”、”設えの見立て”、”空間取り合わせの見立て”を行うことでも可能なのだ。作家の作品でなくても、フォウンド・フォト(作者不詳の古写真)でも見立ては可能だろう。これらの行為はある種の写真での自己表現にもつながる。

写真を撮らない写真趣味が浸透することで、日本でも真に写真が売れるようになるのではないか。そして、見立ての勉強と経験を積むことで、間違いなく写真が上手くなる。その場の考えや思いつきだけではない、より能動的な写真撮影ができるようになるからだ。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(5)

新しい日本の新ジャンルのアート写真の可能性について、いままで4回にわたって説明してきた。興味ある人はぜひ過去のブログを一読してほしい。
自ら読み返してもかなり複雑なので、ここで簡単にまとめておこう。今回は新たに気付いた点も加えている。考えが日々進歩しているので、いままでの主張と多少の矛盾点があってもご容赦いただきたい。今後も変わるかもしれないが、最新のものが最善の考え方だと理解して欲しい。

いまのプロ写真のカテゴリーは、大きく分けると、制作者のオリジナルな創造性を愛でるファイン・アート系と、実用的なデザインやインテリアを重視した応用芸術系とがある。
ファイン・アートは元々は欧米から輸入された概念であり、日本では感覚やデザイン性の追求が広くアート行為と考えられている。写真もファイン・アートというよりも応用芸術系が中心になっている。しかし、それらのなかに単なる感覚やデザインではとらえきれない優れた作家性を持つ写真家も数多く存在している。私どもはそれらの写真は、前記2種類の中間カテゴリーに位置するクール・ポップ写真として区別しようと主張している。

これは単なる思いつきではなく、日本の美術・文化史とつながりも見出すことが可能だ。鶴見俊輔が「限界芸術論」で主張した限界芸術の写真版(マージナル・フォトグラフィー)であり、柳宗悦が提唱した民藝の写真版とも拡大解釈可能だろう。民藝は観光地で売られている大量生産の工業生産の土産品の意味ではないので注意してほしい。
また夏目漱石がエッセー「素人と黒人」で述べている、素人にも近いと理解している(「黒人」は今日の表記では「玄人」)。ここでは詳しく触れないが、同文で彼は世間一般のアーティスト像を批判。専門家だと考えられている「黒人」は、表層的で局所的な技巧を追求する職人だとし。「素人」こそが自己に真面目に表現の欲求があり、全く新しいことを創り出す真のアーティストだと主張している。

この新しい分野で重要なのは「表現の欲求」、つまりどうしても世の中に写真を通して伝えたい真摯かつ強い要求を持つ人であること。世の中の評価、名声、お金儲けなどへの一切の執着がなく、写真に関わる、撮影、展示、写真集化などが社会とのコミュニケーションのツールになっている人だ。
彼らをアーティストと呼ぶとすると、その意味も既存のものとは違ってくる。それは、ライフワークとして写真表現で社会に能動的に対峙している人になる。ファイン・アート系のように、社会と関わるテーマやアイデア、コンセプトを紡ぎだして提示する必要はない。また、アート作品を発表して販売して生計を立てるような職業ではなく、生き方そのものになる。実際的には、何らか別の手段で生活費を稼ぎながら写真を撮影し続けている人で、それには商業写真家やアマチュア写真家も含まれる。また20世紀のファインアート写真が追求した、モノクロームやカラーによる抽象的な美しさや、ファインプリントの高い品質を追求する職人的な人も含まれる。写真のデジタル化で失われた手作業的な部分を取り戻そうとしている人だ。

彼らはどのように評価され、見出されるのか?それらは第三者による見立てによる。第三者の評価を嫌い、自らがテーマやコンセプトを語る場合、彼らはファインアート系を目指す写真家となる。また自らの感覚、デザイン・グラフィック性、テクニックを追求する場合は、販売目的のインテリア系となる。
実際のところ、世の中で撮影される多くの写真は、アート性やインテリアとの相性を意識しているわけではない。クール・ポップ写真では、上記のいずれにも属さない写真作品の中から、前記の「限界芸術」、「民藝」、漱石の指摘する「素人」の流れを踏まえながら、写真作品に内在する社会と関わるテーマ性と、背景にある「表現の欲求」が見出されるわけだ。

つまり、見立てる側の持つ、世界観、哲学、視点などから勝手に写真を評価する。繰り返しになるが、感覚、デザイン・グラフィック性、テクニックも評価基準の一部にすぎない。それ自体が目的となると別のカテゴリーの写真になる。

クール・ポップ写真はどのような経緯を経て展開していくのだろうか?
まず、この新カテゴリー写真の考え方と、見立ての行為を世の中に広めなくてはならない。これが普及の第1ステージだ。見立てる行為は、ギャラリスト、ディーラー、評論家以外でも、社会と能動的に生きている人ならだれでもできる。見立てる人はアーティスト同様に、自分の行為を写真家や世の中に評価されることを目指してはだめだ。周りの反応を気にせず、一方的に見立てることになる。フィーリングやデザイン的などの表層部分だけではわかりにくい作家の独自の視点を発見して、言葉にして提示する。それを通して、知的好奇心を満たし、社会とのコミュニケーションが持つ可能性が出てくるのだ。これは写真を撮影しない、コレクションしない、写真の読み解き方を楽しむという新しい写真の楽しみ方になる。
具体的な普及方法はいま色々と思案中だ。

もし広くこの考えが認識されてくると最初の目的から離れて日本独自の新しいカテゴリーの写真売買の市場に展開していく可能性があると考える。これが普及の第2ステージだ。第三者による作品の見立てやその行為自体は目的ではない。しかし、優れた人の作品が継続的に見立てられれば、それに共感する人が出現するかもしれない。また作品を複数の人が評価する状況が生まれる可能性がある。結果的にそこに価値が生まれるかもしれないのだ。見立てる側の持つ視点が情報として評価され、一般の人がそれを参考にして、作品評価、販売、コレクションにつながる可能性がでてくる。その積み重ねにより、本人の意図とは別に写真家や作品のブランド化が図られるようになる。もともと日本の有名写真家のブランドはそのように構築された場合が多い。

当初の販売価格はどのようなレベルになるのか。新人や若手は現代陶芸作家の器の価格に近くなるとイメージしている。しかし写真には陶芸と違い用の美はないので陶芸作家制作の器よりも安くなるべきだろう。最初はオープンエディションのインテリア系写真と同じレベルからスタートではないか。安すぎると考える写真家は、いままでのようにファイン・アート系やインテリア系のキャリアを目指せばよい。インテリア用も高額な値段がついた写真は数多く存在している。クール・ポップの写真家は販売目的で制作してないので原価計算は関係ない。実際上は手取り額が制作コスト以下にはならないレベルからだろう。しかし、もし写真家がブランド化していけば、需給関係から価格も上昇していくことになるわけだ。しかし、ある程度のキャリアや知名度を持つ写真家が見立てられる場合は、新人や若手より高めの販売価格になると考えている。

作品を販売するのは、それらを見立てる人、評価できる人となる。まだ具体的なヴィジョンは描けてないが、ギャラリーやディーラーになるだろうか?しかし、ギャラリーはビジネスなので、セカンダリー作品のディーリングなどの他分野の仕事で利益を上げている必要がある。 日本には、企業がスポンサーのギャラリーが多いが、それらには向いているだろう。

現在進行形で幅広く情報収集を行い、アート史との関連などを研究している。考え方の基本的な部分はある程度固まってきた。そろそろできるだけ多くの人と意見交換して、基本的考えの問題点や矛盾点などを明らかにしたい。近日中にセミナーなどを開催したいと考えている。
 

日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(4)
はてしなく自由な新山清の作品制作

新山清(1911-1969)は、サブジェクティブ・フォトグラフィ(主観主義写真)の写真家として、ドイツのオット・シュタイナート(1915-1978)に認められた写真家だ。私どもは、彼こそはマージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真に分類されるべきだと考え、先月のAXISフォトマルシェ2で展示している。

サブジェクティブ・フォトグラフィとは、20世紀中盤に世界的に起きた写真表現の動きで、自立した個人が世界の事象に対する解釈や視点を写真技術を駆使して積極的に表現すること。しかし、日本では独立した個人という感覚が希薄なことから、写真撮影の方法論、テクニックだと理解されて定着せずに忘れ去られてしまった。しかし、ドイツではベルリンのキッケン・ギャラリーが2013年と2014年にサブジェクティブ・フォトグラフィを再評価するグループ展を2回開催している。いまアート写真の世界では、デジタル技術を駆使した、現代アート的作品が市場を席巻している。このグループ展は、サブジェクティブ・フォトグラフィをその原点と解釈しようという意図があるのだろう。

さて民藝が職人の手作業に注目したように、マージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真では、写真家がどれだけ心を開いて世界と対峙しているか、また見る行為の強度を重要視する。
しかし、それは撮影時だけに止まらないことを新山清の写真は教えてくれる。つまり、撮影した写真をどのように自分の最も納得のいく最終形の作品に仕上げるかということだ。それには、暗室でのプリント作業。イメージの最適なトリミングなども含まれるだろう。

新山清の代表作にフカヒレを撮影した”Untitled(Fins),1950s-60s”がある。オリジナルはソルントンフレックスで撮影された6X6cm判のスクエアのフォーマットの写真だ。

干されているヒレの下部分には、遠方の草原の風景が広がっている。なんと彼は大胆なトリミングを行い、下部の遠景部分を切り落として横長の作品にしているのだ。実はこの横長の作品、いままでに2種類の方法で提示されている。ドイツのキッケン・ギャラリーが2013年に開催したグループ展の際に刊行している「subjektive fotografie」には、前記のスクエアを横長にトリミングした作品が収録されている。一方で、2010年に刊行された写真集「新山清の世界vol.2」では、なんと天地を逆にした作品が掲載されているのだ。
アーカブスを管理する新山洋一氏は、オリジナルとトリミング後の両作品を公開しているが、意識的に作品を制作するサブジェクティブ・フォトグラフィの写真家と評価するならば、トリミングされた方が写真家の意図が的確に反映されていると解釈できるだろう。
では天地の逆転についてはどうだろうか。2010年刊の写真集に天地逆の写真が採用されたのには何か理由があるはずだと考え、新山洋一氏にヴィンテージ・プリントを再確認してもらった。写真裏面には新山清の直筆と思われる数字が鉛筆で書かれており、その方向で表面を確認すると天地が逆転した方だった。これから本人が意図的に行っていた創作行為の一環だったことが推測できる。写真集刊行時には、プリント裏面の書き込みに忠実に天地が逆の写真を掲載、一方でキッケンのカタログはオリジナルに忠実にトリミングだけ施された写真を掲載したのだろう。

3種類の写真を見比べると様々なことがわかってくる。
スクエア・フォーマットの写真はグラフィカル的に非常にきれいにまとまっている。しかし、全体的に漁村で撮影したドキュメント的な印象が強い。一方で、下部分がトリミングされた写真は、そのままでは余白スペースの残り具合に違和感があり、天地を逆転した方が全体のバランスが格段に良くなるのだ。
最終的なセレクションからは、彼がこの写真をドキュメントとは認識していなかったのがよくわかる。このへんは、より最適なデザインの追及ではないかとツッコミが入りそうなところだ。しかし、写真が一般的にはアートと認識されていなかった約50年以上前に、ドキュメント写真では絶対にあり得ない大胆なトリミングと、天地逆転の実践は、写真を見る行為に対する強い集中力を感じざる得ないだろう。明らかに単なるデザイン追及を超えている。オット・シュタイナートは、このような自由な新山清の表現は意識的であると考えてサブジェクティブ・フォトグラフィーと見立てた。しかし当時の新山清は、まだそのような自覚はなかったのではないか。いや正確にはシュタイナートの視点に気付く前に、不幸にも若くして亡くなってしまったのだ。そうであれば、彼の創作が無意識のうちに行われたと解釈して、マージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真と評価したほうがわかりやすいのではないか。これが新山清作品に対する私の見立てだ。

私の単なる思いつきで日本の新カテゴリー写真として提唱を始めたマージナル・フォトグラフィーのクール・ポップ写真。予想外に多くの人が興味を持ってくれる。またこれは予想通りなのだが、写真家以外の人がよく反応する。将来的に、何らかの形でグループ展の開催を考えているので写真の見立てに興味のある人はぜひ協力してほしい。

日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(3)

いままで多くの写真家やギャラリーが写真を売ろうと悪戦苦闘してきた。限界写真(マージナル・フォトグラフィー)のクール・ポップ写真の価値観が広く認知されてくると、写真販売へのこだわりがなくなるだろう。この新ジャンルの定義については(1)、(2)を参照してほしい。
いままでなんで彼らが写真を売ろうとしていたかといえば「海外で売れているようだから日本でも売れるようになるはず」という期待からだろう。実際、戦後の様々な消費トレンドは海外発で日本に普及した例は数多ある。私が写真ギャラリーを始めたきっかけも、海外で写真が売れているのも目の当たりにして、日本でもブームが来ると考えたからだった。

まず実際の数字を見てみよう。写真市場はギャラリー店頭のプライマリー市場と、それらのうちで年月が経過して資産価値が認められた作品が販売されるオークションなどのセカンダリー市場がある。

日本の市場規模を客観的に知るうえで公に取引されるオークション市場を比較することが適当だと考える。手元の資料によると、2015年1月~6月下旬までの半年で、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ケルンなどで16回の写真関連のオークションが開催されている。合計3120点の写真作品が出品されて2064点が落札されている。平均落札率は約66.15%。総売り上げは、各国の為替レートで円換算してみると、約35億7000万円になる。
ただし、これには現代アート・カテゴリーに出品された写真作品は含まれていないので、実際の数字はもっと大きいと思われる。一方、日本では写真専門のオークションは存在しない。かつては大手のシンワ・アートオークションは写真も取り扱っていたが売り上げ低迷から撤退している。いまではSBIアートオークションが”Modern
and Contemporary Art”オークションの一部として取り扱っている。その他のオークションでもたまに単発的に出品されることがある程度だ。SBIアートオークションの、今年行われた2回のオークションでは、写真作品35点が出品され、24点が落札されている。売上高は約1639万円。そのなかで日本人作品は18点で16点が落札されている。主な写真家は杉本博司、荒木経惟、森山大道などだ。彼らの市場は世界的に確立されているので、海外のオークションにも出品されている。

あまり意味がないかもしれないが、単純に欧米市場と比較してみると、日本の売上高は0.459%。出品数、落札数では1.1%の規模にとどまっている。公式な統計は存在しないので、ギャラリー店頭での正確な売上高はわからない。しかし、取り扱い規模がある欧米市場では、セカンダリー市場の1~3倍程度だといわれている。
ギャラリーでかつて売られた作品がオークションで再び売られることを考えると、日本においての、いままでの写真作品のギャラリー店頭販売数はかなり少ないと予想できる。この数字が示すように、いままで感覚的にいわれてきた、海外で写真が売れて日本で売れていないのは明らかな事実のようだ。
もちろんこれはいままでの話なので、これから日本でも写真が売れるようになると予想することは可能だろう。しかし過去20年間、状況が全く変わらないことを考えると、海外市場で写真が売れているから日本でも売れるはずだという発想はなにか根本的なところで間違っているように感じる。

写真が売れない理由として、日本の家屋が欧米と違い壁面が少ないからという説明がずっとされてきた。物理的に壁面が少ないのが理由なら、現在のマンションや西洋的な現代住宅には壁面があるので、写真がもっと売れてもいいはずだろう。実際の意味は、日本では伝統的に壁に平面作品を額装して展示する生活文化習慣がないと理解すべきだろう。
絵画は壁画から発展したものという。日本の伝統的な木造住宅は漆喰仕上げの土壁などが主流で西洋的な壁面は存在しなかったのだ。写真作品の代替物であるポスターの展示方法にもその違いが反映されている。海外ではポスターを額装するが、日本ではシートで飾ることが多いのだ。
床の間に掛け軸などの美術品を飾る習慣があったが、西洋化の浸透で現代住宅ではいまやほとんど見られなくなった。いまやアート作品を展示する伝統的な習慣も廃れてきたのではないか。
以上から、日本ではインテリア向けのデコラティブ写真の需要も欧米と比べてはるかに小さいのではないかと疑っている。ここの市場も、海外との市場規模の比較で成長性が語られることが多いのだ。この分野のビジネスを考えている人は、できるだけ慎重に事業を進めるべきだろう。

ファイン・アートの写真家の場合は、その最終的な評価は作品が売れるかどうかだ。限界写真(マージナル・フォトグラフィー)のクール・ポップ写真では、写真家が作品販売のしがらみから解放される。写真家にとって、写真は売るものではなく撮るもので、社会とのコミュニケーションを交換する手段となる。アーティストとは写真を販売して生活する人ではなく、ライフワークとして能動的に社会と接する人の一種の生き方になる。どれだけ心を開いて世界を真剣に見たうえで撮影されたかが重要視される。逆説的だが、作品を売ろうという気持ちが消えた時にクール・ポップ写真は生まれるのだ。テーマやアイデア・コンセプトは写真家自身から語られないが、第3者による見立てで作品評価が行われる。
それが、観る側の心に訴えるメッセージ性をもっていれば、邪念がない写真と相まって魅力的な存在になるのでないか。
私は案外そのような要素を持った写真やフォトブックは売れるのではないかと予想している。それは民藝作品が愛でられて、多少高くても購入されるのと同じような構図になると考えている。

最近、その原点はどこにあるかの調査も独断と偏見で行っている。全く個人的な見解なのだが、6月上旬に
表参道画廊で写真史家の金子隆一が企画した「モダニズムへの道程-写真雑誌『白陽』に見る構成派の表現」展で展示されていた淵上白陽などの写真家、先般行われた
AXISフォトマルシェ2で私どもが展示した新山清、FUJIFILN SQUAREで写真展開催中の塩谷定好などがそれに近いと感じている。現在情報収集中だ。
新ジャンルの写真の可能性に対する反応は様々だ。いままでの私の提案は、新たなジャンルを作り上げる議論の叩き台だと考えている。ぜひ様々な意見を聞かせてほしい。今後は、講座やワークショップでもこの新分野の写真について語っていきたいと考えている。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(2)

前回の新しい写真カテゴリーの提案内容を整理整頓してみたい。

欧米的な基準では、日本の現代写真はファインアート系とインテリア系の二つに分けられるというのが現状認識だ。これからは、その中間に新たなカテゴリーを追加してみてはどうかという提案になる。 これにより、日本のアート写真の範囲が大きく広がると考える。
まず一番大きなシェアーを持つインテリア系写真を二つの分野に再分類できるだろう。また無名な人、凡人であってもこの分野のアート作品を作れる可能性が出てくる。ハイ・アマチュアといわれる写真趣味の人たちが数多くいる。彼らはあくまでアマチュアだったのだが、その中にも新しいカテゴリーに再分類できる人がいると思う。
アーティストの意味を拡大解釈することにもつながると考える。従来のファインアート系とインテリア系の写真家は、作品制作と販売を仕事として行っている。この新しい分野ではアーティストとは、社会と能動的に接している人の生き方だと拡大解釈する。作品販売を主としない写真家や、別の職業を持つ人もアーティストになり得ることになる。ファインアート系、インテリア系の写真家は販売が仕事だからキャリア継続のために真剣な営業活動が必要不可欠だ。しかしこの新しい分野の人は特に必要ない。販売ではなく制作過程が目的なのだ。
もちろんこのカテゴリーと評価された人に何らかの気づきがあり、それがきっかけになってテーマ性を意識できるようになり、何らかの視点が提示できれば、ファインアート系に分類されるようになるだろう。もしこの新しいカテゴリーが欧米で認識されれば、それは多文化主義の流れのなかでアート系写真の一種類と認められる可能性もあると考える。

・ファインアート写真

 欧米の現代アートの要件を満たす写真
・クール・ポップ写真
 時代の価値観を内包するマージナ・フォトグラフィー
・インテリア写真
 デザインとフィーリング重視の装飾系写真

海外にもアイデアやコンセプトが内在されたような写真は存在するのではないか、という指摘もあるだろう。
アーティストを目指す多くの若手や新人は、いまという時代に生きる中で何かを感じて、自分の考えを作品で伝えようと悪戦苦闘している。それをどのように言葉にしたり定義づけして、作品として提示したらよいかわからない場合もある。この状態の写真作品を専門家が見立てればクール・ポップ写真と何ら変わらないだろう、とツッコミがはいるかもしれない。
実は欧米のポートフォリオ・レビューはそのそうな人に創作ヒントを与えるために行われる。写真家は様々なコメントやアドバイスに対して非常にオープンだ。レビュアーとの対話の中で何らかの気づきがあれば、それらを作品に積極的にフィードバックさせてアート作品へと展開させていくのだ。だから、海外のこの種の写真はファインアート系の一部と判断すべきで、クール・ポップ写真ではない。

ちなみに日本のポートフォリオ・レビューは、同じ名称だが内容が全く異なる。まず専門家のアドバイスに対する写真家の対応が決定的に違うの。すでに固まっている自分の感覚や考えの枠組みがあり、それを外れるものには関心を示さない。レビュアーもそれを心得ているので、写真の感想を述べる場になっている。感想はだれでもいえるので、とても広い分野の人がレビュアーを勤めるという状況だ。 写真家のやりたいこと、好きなことの追及が優先され、自分の写真に共感してくれる、寄り添ってくれる人探しの場なのだ。専門家のアドバイスを、世の中への情報発信のきっかけにしようと考える人はあまりいない。感覚はパーソナルなものなので、他人は好き嫌いは言えてもそれに対して評価を下すことはできない。
これらの写真は、インテリア系写真、アマチュア写真となる。しかし中にはそれらに単純にカテゴリー分け出来ない作品も存在する。日本ではクール・ポップ写真が以上のような感覚重視の写真作品と混在している。それゆえ、第三者が見立てを行い、カテゴリー別けが必要だと考えたのだ。

新しいカテゴリー分けを行うことで、曖昧気味だった日本写真の分類がわかりやすくなるのではないか。デジタル技術が進化し現代アートが写真を飲み込んでしまったことで、従来のファインプリントの美しさとモノクロの抽象美を追求していた20世紀写真の流れを踏襲する写真家は、写真分野のアルティチザン(職人)のような存在になりかねない状況だ。しかし、そのような技術的な面を追求している人がいる一方で、無意識のうちに時代性を持つメッセージが含まれた作品も少なからず存在している。それらは、現代アート分野の写真ではないが、デザイン重視のインテリア写真でもない。 その中間に位置する一種のマージナル・フォトグラフィーのクール・ポップ写真といえるだろう。海外で評価されている日本人写真家にはこのタイプが多いと考える。
また、第三者の見立てはによるアートの提示は、ファウンドフォトの展示方法、美術館のキュレーターの企画力、編集者によるフォトブックの編集力とも重なってくる。いま現代アートの概念が拡大され、それらの行為がアート表現の一部だと解釈されるようになっている。写真は撮影しない人が、写真作品の視点を読み解いて提示することでアーティスト的な役割を果たすことになるのだ。千利休、柳宗悦、赤瀬川源平などはまさにそれを行っていたのではないか。

評価の基準は、評価者の直感による。民藝が職人の手作業に注目したように、クール・ポップ写真では写真家が心で世界を見る行為に注目する。しかしそれは主観的な好き嫌いや思いつきではない。また瞑想のような見る行為自体に安易に価値を見出すのには注意が必要だろう。それは感覚の評価と表裏一体だからだ。
またインテリア写真のようにデザイン的視点からだけの評価でもない。「直感」は見る人の頭の中の美術・写真史や、情報の集積、様々な感覚に対する理解の結果もたされる。写真家が無意識のうちに提示しようとしている、新たな組み合わせ、融合された視点に気付くことでもある。そしてそれが時代の中でどのような意味を持つかの判断だ。直感は単に何もないところからわいてくるのではない。この点は創造性と同じなのだ。
内在されているアート性のヒントは、写真家が無意識のうちに写真が撮れるようになったきっかけや背景に隠されているだろう。そこに至るまでの過程には現代社会における何らかの価値観との関係性があるはずだ。以上のように、写真家以上に見立てる人の実力が問われると考える。

どのような人が見立てることになるのだろう。直ぐに思いつくのは、評論家、キュレーター、ギャラリスト、編集者、書店主、クリエーター、コレクターなど。写真家により見立てもあると思う。リチャード・アヴェドンがラルティーグを、リー・フリードランダーのアーネスト・ジェームス・べロックを、ベレニス・アボットがウージェーヌ・アジェを見出した例などが思い浮かぶ。これらの例は写真が必ずしもファインアートだと広く認識される以前の時代の出来事だ。 いずれも無意識に作品に反映されていたアート性を写真家が見立てて紹介した例だろう。

当たり前のことだが、見立てを行う人は自分の判断に責任感を持たなければならないと考える。場合によっては、反発を受けたり、嫌われることもいとわない姿勢が必要だろう。アマチュア写真家以外の人の作品に対して、責任の伴わない感想を述べるのには注意を払うべきだ。感想は相手から反感を買うことはないだろうが、それは作品の客観的評価とその責任を回避していることでもある。写真家がアート作品を作り上げるための手助けをするような考えにこだわることはないだろう。それは相手に自分の考えの受け入れや感謝を期待し、また場合によっては失望ににつながるからだ。相手の反応を気にすることなく、自分の視点で評価してその発言に責任を持てばよい。

この新しい分類によって、アート作品を販売する現場の担当者は精神的に楽になる部分もでてくるだろう。すべての写真家にファインアート系のような厳しい職業的取り組み姿勢を期待しないことになるからだ。クール・ポップ写真の評価を通じで写真家が何らかの気付きに至ってほしいというのが本音なのだが、それらの情報が作品にフィードバックされることを期待することなしに評価を行うこととする。
写真作品の形式もファインアート系とインテリア系の折衷になるだろう。作品ポートフォリオを通じてメッセージを伝えるもの、絵画のように単体のシリーズ、もしくは1枚で評価する場合もでてくるだろう。もちろんフォトブック形式にも多大な可能性があると考える。

マージナル・フォトグラフィーであるクール・ポップ写真は一つの提案である。いままで会う人ごとに大枠を話して反応を見てきた。どれだけの人が共感してくれたかは不明だったのでとりあえず理論編の叩き台として自分の考えを2回に分けて本当に大雑把にまとめてみた。今後は、関心のある人の意見を参考にしてさらに考えを展開していきたい。ぜひ多くの人から様々な意見を聞きたい。ヴィジュアル表現の写真を語っているので、何らかの具体的な作品提示が必要なことは十分理解している。近い将来、何らかの機会で実際の提示を通して個人的な見立てを紹介してみたい。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(1)

欧米ではアートの表現方法のひとつのとして写真は存在している。いまや写真は単独に存在するカテゴリーではなく、ファインアートの現代アート分野のなかの表現方法の一つになっている。もう一方で、インテリア・デコレーション用の写真も明快に区別されて存在している。主に商業写真家やデザイナーが販売目的の仕事として商品開発を行っている。両者の、アーティスト、ギャラリー、アートフェアは明確に区分されている。価格帯でいうと、インテリア系が低価格から始まり、サイズやエディションにより70ドル~2500ドルくらいまである。
ファインアート系では若手新人の作品が700ドルくらいからあるので、全く違うカテゴリーの写真が価格帯では重なって存在していることになる。ファインアート系はアートの理解力を持つコレクターが主要顧客となる。それらはアーティストのキャリア展開によっては資産価値を持つ可能性がある。
インテリア系は、アートの専門知識を持たない人が購入者で、販売者は価値上昇の可能性を示唆するものの実際は消費されるだけの商品だ。

では日本の写真界の現状をみてみよう。
日本人にも杉本博司のように欧米と同様に作品テーマを明確に決めてコンセプトを提示する現代アート的表現を行っている人もいる。しかし彼らの活躍するのは日本国内ではなく、環境が整っている海外市場が中心となる。アート性や作品相場も海外基準で決まっている。市場が小さいことから、国内ベースに作家活動を継続している人は非常に少ない。
また欧米のアート界には、彼らと異なる文化の価値観を愛でるカテゴリーが存在する。 欧米と比べての文化の独自性、特殊性が表現されたものが好まれる。アフリカ、中国、中東、インド、南米などがあるが、日本もそれに含まれる。欧米に比べて、宗教的、性的、肉体的、精神的に異なった価値観を持つ社会から生まれた作品が好まれる。なかにはエロティシズムとグロテスクが強調された作品も含まれる。この分野のコレクターは海外に存在しており、ここで活躍する写真家は少なからずいる。

日本現代写真と呼べばよいような独自市場も存在する。
外見は、上記のような現代アート系の写真作品なのだが中身は全く違うので説明してみよう。世界標準から離れた独自の進化を遂げた携帯電話のことをガラパゴス化というが、アート写真市場もかなり似た構造になっているのだ。
現代アート系の作品の前提は自立した個人があり、論理的思考で構築された自らの世界観を世の中に提示する。日本にもこのような欧米的なテーマとコンセプトを提示している写真家がいる。しかし実態はといえば、個としての自分自身が考えて絞り出したのではなく、世の中にあるアイデアとコンセプトをコピーして持ってきて、作品の体裁を整えるだけのものがほとんどだ。自分自身が意味を理解していない専門用語を並べたと思われる、理解しにくいアーティスト・ステーツメントが非常に多いと感じる。自分の考えでないので、テーマについての議論が行われることはあまりない。この種類の作品は自分のパーソナルな感情の連なりやその場のフィーリングを表現していることが多い。また色彩的、グラフィカル面が重視された写真である傾向もある。
日本では「アート」という言葉が非常に広い意味を持ち、またオランダのようにデザイン性を評価する土壌があるからだろう。優れたデザインがファインアートだと考えている人もいて、これらの要素を持つ抽象的な写真がアート作品として提示されることも散見される。
海外市場の基準に照らし合わせると、それらはヴィジュアル重視のインテリア向けアートにかなり近い存在となる。前記のように海外では2500ドルくらいまではインテリア・アートの価格帯になる。

日本社会では個人は独立してなく、共同体の一部として存在する傾向がいまだにだ強い。個人が社会との緊張関係を持てないのでが利己的になりやすい傾向もある。歴史文化がまったく違うので、日本で欧米基準の現代アート分野に分類される作品が生まれ難いことは否めないだろう。しかし日本でも非常に多くの写真家が作品を制作している。ほんとうに海外で活躍する一部のファインアート系写真と、一般大衆向けのインテリア系写真しか存在しないのか。その他のすべてにアート性がないのだろうか?
実際には写真を通じ世の中と能動的に対峙しており、単に一瞬の感覚だけで写真撮影していない人もいると考える。しかしそれらの写真を市場の中心である海外の基準でアートと評価するのは難しいようだ。
そのように悩んでいるときに出合ったのが評論家の鶴見俊輔による限界芸術という考えだった。欧米の価値観では分類できない多くの日本の写真家の作品群は、彼の提示する限界芸術ににかなり近いのではないだろうか直感した。彼は著書の「限界芸術論」(1967年、勁草書房刊)で以下のように定義している。「今日の用語法で『芸術』と呼ばれている作品を、「純粋芸術」(Pure
Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を『大衆芸術』(Popular
Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を『限界芸術(Marginal  Art)』と呼ぶことにしよう。」としている。また「芸術とはヴィジョンによって明るくされた行動である」「芸術とは、主体となる個人あるいは集団にとって、それをとりまく日常的状況をより深く美しいものに変革する行為である。したがって、状況の内部のあらゆる事物が、 新しい仕方でとらえられ価値づけられることをとおして、芸術の素材となる」とも記している。これは現代のアートの理解とかなり近い認識といえるだろう。
限界芸術の一部だと鶴見が指摘している分野に、柳宗悦が提唱する「民藝」がある。柳は優れた美であれば、鶴見のいう純粋芸術にあたる「作家性のあるもの」とともに、 無名な職人の作品を積極的に評価してきた。彼は「自然は常に完全で、一切のものは自然に含まれている」というロダンの自然観に学び、「美は自然を征服した時にあるのではなく、自然に忠実な時にある」とする。これは、日本の伝統的な美意識を積極的に評価するとともに、人間が自然を支配するという西洋の思想へのアンチテーゼともいえるだろう。
民藝と同じように、写真分野でも、有名になりたい、評価された、お金を稼ぎたいというエゴからかけ離れたところで作品制作に取り組んでいる人が少なからずいる。彼らは意識的にテーマを選びコンセプトを提示してはいないものの、何らかの社会的視点が語れる写真作品を提示している。邪念を捨てて無意識のうちに写真が撮れるようになったきっかけや背景には今の社会の何らかの価値観とのつながりがあるはずではないだろうか?欧米ではそれらの写真はファイン・アート系の一部に分類される。しかし日本では感覚が優先されるので、写真家自身が意識的に作品コンセプトへと展開させることは少ない。日本ではそれらがアート写真なのだと理解されている状況もある。
しかしいくら作品にテーマ性やコンセプトが内在していても、写真家個人が意識的にならなければそれらは欧米的な基準ではインテリア系の写真作品に分類されてしまう。そうであれば、写真家が無意識のうちに撮影して優れた視点を内在する写真作品を、限界芸術の考えを導入して、ファインアート系写真と、インテリア系写真の中間のカテゴリーだと規定して、民藝運動で柳などが無名の職人の仕事を評価したように、第三者が積極的に評価してはどうかと考えた。
第三者が見立てて評価するアプローチは千利休の茶道具の見立てにかなり近い感覚ではないか。見慣れたものに新しい価値を見出す赤瀬川源平の超芸術トマソンなどの美意識とも通底している。日本の写真史を振り返ってみれば、50~60年代の写真も、写真家自身から語られたというよりも海外の専門家が写真家の日本の伝統文化と戦後流入したアメリカ文化との葛藤を見出して評価した面が強いといえるだろう。第三者による見立てが、写真表現を通しての文化の動向を顕在化させる可能性もあるのだ。

そのような限界芸術の写真は「マージナル写真(フォトグラフィー)」というような呼び名になるだろう。ただし、響があまり良くないので、柳宗悦が限界芸術を「民藝」と命名したように、とりあえず「クール・ポップ」写真と命名してみたい。クールはカッコいいという意味で時代との接点があることを意味する。ポップは大衆文化のことで、その両方を兼ね備える写真という意味だ。これは写真家の社会に対する視点が無意識のうちに反映された写真作品といえるだろう。
とりあえず今回は新しい分野の提案だけにしておき、次回ではこの写真をさらに深く考察してみたい。