2023-1-21

  

マーティン・ムンカッチ

MUNKACSI, Martin (1898-1991)

マーティン・ムンカッチは当時のハンガリー、コーロズヴァル(現在ルーマニア領)生まれ。16歳のときに家を出てブタペストで暮らすようになります。ぺンキ職人の弟子を経て地元の新聞社に就職した青年ムンカッチは詩人を夢見ていたとのこと。1921年頃からスポーツ誌「アズ・エシュト」のためにスポーツ写真を撮り始めます。その後ベルリンに移り、有力グラフ誌「ベルリナー・イルストリヒテ・ツアィトゥンク」 などの仕事を行い、ドラマチックかつ大胆なアングル、構図の写真で名声をかちえます。この時期に、欧州、アフリカ、南米を旅行し、1930年頃にはリベリアで、有名な海に駆け込む地元少年たちを撮影しています。アンリ・カルチェ=ブレッソンはこの作品に感銘を受け、「この写真を見たときに、写真は瞬間を通して永遠に到達できるかもしれないと直感した」と、ムンカッチの娘ジョーンに寄せた手紙で述べています。

1933年ムンカッチはウルシュタイン社の仕事でアメリカに渡ります。ちょうどヴォーグからハーパース・バザーに移籍し雑誌改革に取り組んでいた 編集長カーメル・スノウに起用され、はじめてファッション写真を撮影します。1933年12月号に発表された、アメリカ娘(モデルはルシール・ブロコウ)が服をなびかせながら浜を走るイメージは新時代のファッション写真の第1号となります。 彼はそれまでスタジオで制作されていたファッション写真に、動きのある自然なイメージや野外撮影を取り入れ変革をもたらしたのです。
1934年にはナチス・ドイツの抑圧から逃れてアメリカに移民。 ハーパース・バザー誌と専属契約を結び、同時期に雇われたアート・ディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチとともに斬新なファッション写真を次々と発表していきます。 その後、「レディース・ホーム・ジャーナル」誌などの仕事も行い、30年代、40年代のアメリカで最も高額のギャラを得る写真家といわれるようになります。1943年に心臓発作を起こし、療養期間には著作に専念する生活を送ります。戦後はファッションの移り変わりが速くなり、彼の写真は次第に時代遅れになっていきます。時代はカラー写真が全盛となりますが彼はその変化にも対応できませんでした。その後はフリーで主にコマーシャル関係の仕事を続けますが、1963年に心臓発作で亡くなりました。

彼の写真は上記のアンリ・カルチェ=ブレッソンとともに、幼少時代のリチャード・アベドンにも多大な影響を与えたことで知られています。
写真集は1951年にブロドヴィッチがデザインした写真集"Nude"が、また死後の1979年に"STYLE IN MOTION, Munkacsi Photographs of 20s,30s, And 40s"などが刊行されています。