2023-1-20

  

アレクセイ・ブロドビッチ

BRODOVITCH, Alexey (1898-1971)

1898年ロシアとフィンランドの国境付近のOgolitchiで、 父親は医師、母親はアマチュア画家という裕福な家庭に生まれます。 その後モスクワとレニングラードで成長しますが、 両親の意図に反してアート教育は受けていません。
1914年に帝国軍に入隊し、騎兵隊の士官として第1次世界大戦に 参加します。1918年にロシアからイスタンブールに逃げ、1920年には 亡命してパリで暮らすようになります。すぐにディアギレフによるバレエ・リュス雇われ、ピカソ、マチスの手掛けた舞台装飾に参加しています。 しだいにアート界の先駆者達のサークルに加わるようになり、 レジェ、マン・レイ、ル・コルビジュ、ニジンスキーらと交友を持つようになります。 特にアートに革新的アプローチを行っていたディアギレフから強い影響を受けています。 1924年にBal Banalポスター・デザイン競技会で1等を受賞し グラフィック・アーティストとして注目を集めます。その後、雑誌レイアウトや 企業ポスター、テキスタイル、服装品などのデザインも次々と手掛け、成功を手にします。
1930年に当時のペンシルベニア美術館工業デザイン学校での広告デザイン学部設立のために米国に招待されます。 1934年に新編集長カーメル・スノウの下でハーパース・バザー誌の アート・ディレクターに就任し、今までの雑誌レイアウトの概念を革命的に変えていきます。彼は写真、テキスト、余白部分を統合し、 複数ページで写真作品大胆にデザインして見せることを行います。雑誌レイアウトに 初めて白スペースを導入したことでも知られています。 写真も大胆にレイアウトに取り込み、トリミングを嫌がることで有名なアンリ・カルチェ=ブレッソンでさえ、 トリミングのないレイアウトと、あるものを両方見せられて、 作品のトリミングを認めたという逸話が残されています。 1958年までの在任中、アンリ・カルチェ=ブレッソン、ブラッサイ、マン・レイ、ビル・ブラント、 ユージン・スミスなどの人材を起用するとともに、無名だったリチャード・アベドンやロバート・フランク を見出しています。
ハーパース・バザーの仕事のほかに1939年から2年間、ニューヨークの有名デパート、 サックス・フィフス・アベニューのアート・ディレクターに就任しています。 その他、エリザベス・アーデン、ヘレン・ルインシュタイン、 セインズベリー、シアーズ・ローバックなどの広告キャンペーンや財務省や赤十字のポスターも 手掛けています。家具やランプのデザインも行っています。 1949年から1951年にかけてグラフィックデザイン雑誌 “ポートフォリオ”を創刊しています。これは経済上の問題で3号までしか刊行されませんでしたが、 彼のグラフィック・デザイナーとしての頂点の仕事として高く評価されています。

勢力的に仕事をこなす一方で“デザイン・ラボラトリー”と呼ばれた 毎週夕方に開催されたコースで若いクリエイター育成にも 力を入れています。1936年ペンシルバニア美術館学校の 上級コースから始まり、次第にカジュアルなワークショップに変化していきます。1941年にニューヨークに移りニュースクールや写真家の スタジオなどで1959年まで開催されます。ブロドビッチは、“デザイン・ラボラトリー”をクリエーターが表現方法の実験を行う場所と位置付けていました。 講義を聴くのではなく、レイアウトや写真表現の課題研究で参加者間の激しい作品批評が行われました。 リチャード・アベドン、アービング・ペン、ロバート・フランク、リリアン・バスマン、 アーノルド・ニューマン、ブルース・ダビッソン、ダイアン・アーバス、ヒロ、バート・スターン、ルイス・ファー などの写真家のほか、デザイナー、アート・ディレクター、モデルらが参加しています。

グラフィック・デザイナーとして知られていたブロドビッチは 1945年に写真集“Ballet”J.J.Augustin Publisherを発表し 写真家としての驚くべき才能も知られるようになります。 1935~1937年にかけてセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスの米国公演 を舞台裏から撮影したこの本は 500部限定となっていますが実際は2~300部程度しか印刷されなかったそうです。 ほとんどが業界内びクリエーターにプレゼントとして渡され、 アーティスト達に多大な影響を与えています。 バレーのエッセンスや雰囲気を、微妙なトーン、動き、ブレ、ダブりを駆使して表現したイメージは 21世紀のいま見ても革新的な作品集です。ブロドビッチこそがカメラで 動きと、スピード感を表現する真の表現手法を創造したと言われています。 自身の写真集のほか、アンドレ・ケレテスの“Day of Paris”(1945年) 、リチャード・アベドンの“Observations”(1959年)などのデザインを手掛けています。

彼のキャリア末期は不運続きでした。2度にわたる自宅の焼失で“Ballet”の ネガを含む貴重なオリジナル資料をなくしています。 また夫人との死別によるショックで 抑うつとアルコール中毒に苦しみ、入退院を繰り返します。入院中に ミノックス・カメラで患者を撮影したことが伝えられていますが、 作品はいまだ正式に発表されていません。 一時期、“デザイン・ラボラトリー”を再開しますが、 何回もの心臓発作を起こしたことから最終的に1966年にフランスに戻ります。 1971年4月15日に、アビニオン近くで世間から忘れ去られた存在で亡くなっています。 死後の1982年に彼の業績が再評価され、パリのGrand Palaisで回顧展が開催されています。