日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(8)
うつわ作家とクール・ポップ写真

今回は、クール・ポップ写真を撮影者がどのように把握したらよいかを説明していきたい。
念のために最初に確認しておくが、ここで述べるのは欧米で売買されているテーマ性を重視した現代アート系写真ではない。またインテリア・デコレーション用に制作された写真でもない。日本独自の新しい視点のアート写真の価値観に関わる説明になる。今までに語ってきた前提をもとに考え方を展開していく。もし興味ある人は過去に紹介した内容を読んでほしい。
 
私はこの分野の写真撮影者が参考にするべきは現代陶芸のうつわ作家だと考えている。陶芸作家が制作するうつわは手作り感や素材感が残るものの、あくまでも用の美を追求している。そこに作家性を最優先するようなエゴは存在しない。無心で土の中から形を呼び起こすような感覚だと想像している。
世の中には陶磁器は氾濫している。マーケティングを重視して巧妙にデザイン・制作されたものが大量かつ低価格で販売されている。手作業で作られるうつわは、大量生産品よりは高価だ。しかしそれらはアート作品ではないので一般の人に手が届かないほどの値段ではない。その上で購入者は生活の中で使えるし、うつわどうしをコーディネートしたり、料理と合わせることで一種の自己表現を可能にする効用もある。人気カフェは、料理とうつわとの相性、それを提供するインテリアという設えと取り合わせに心を砕いている。作家もののうつわで、同じようなことが家庭でも可能になる。ありきたりの表現だが、少しばかりのうつわの贅沢で生活者の心に潤いを与えてくれるのだ。このあたりが作家ものの陶芸コレクションが人気の理由ではないかと考えている。
 
写真で参考にしたいのはうつわの販売価格だろう。アートには作品の相場がある。アート写真市場の中心地である米国では、だいたい11×14インチ程度のサイズの写真作品は新人でも200~350ドルくらいから販売されている。日本でもディーラーがそれに合わせる形で新人の写真でも2.5万円くらいの値段をつけるケースが多い。アート作品は専門教育を受けた人により制作され、将来的に作家のキャリアによっては資産価値が上昇する可能性がある。このような真摯にアーティストを目指す若手の作品なら2~3万はかなり割安といえるだろう。
しかし日本ではほとんどの場合、写真はアート作品ではない。価格設定の前提が全く違うのに、混同されている。それらの写真は商品としての価値しかない。売れた後は中古品だ。使用価値がインテリア装飾に限定される1枚のシートの商品としては、2~3万円は高価だといえるだろう。インテリア系の写真を取り扱う専門業者は、飾り易い絵柄のマット付シートで8900円から販売している。額装込みでも1.5万円くらいだ。デパートなどのインテリア小物売り場では、額装されたインテリア用の版画が売られていることがある。それらは、A4サイズ、インクジェット作品が額込みで1~3万くらいだ。
ちなみに陶芸作家の器は、茶碗で3000円くらい、大皿でも1万円以下で買えるものが多いのだ。また1枚売れたから値段が上がることはない。もちろん生活食器として日常生活で使える。
市場で価値が受け入れられない商品はあまり売れないのが経済原則だ。クール・ポップ写真ではまず市場の適正価格を探ることが必要だろう。そして、それは制作に関わるコストや投入時間とはなんら関係がない。たぶん写真家が考えているよりも低価格になる。この点も作品制作の見極めと関わってくる。低価格の販売をためらう人は、お金儲けのために写真を売りたい人なのだ。

写真にとって、うつわの用の美に該当するのは、インテリアで生かされる設えと取り合わせの可能性だろう。しかし、ここは多くの誤解を生むので注意が必要だ。それらは、写真家や業者がマーケティングを行いアート・リテラシーが低い層向けに綿密にデザインされて制作されたハッピー系版画やインテリア系の写真ではない。これはプロ写真家や業者の仕事として特に欧米では一つのカテゴリーを形成している。日本では、感情の連なりと色彩・デザインを追求した同様のスタイルを持つ写真が非常に多い。そこには良い写真を撮りたい、評価されたいという撮影者の意図が見え隠れする。また本人がそれを無意識だと思いこんでいる場合も多い。作品完成後、写真に現代アート的なストーリーを後付けする人もいる。どうしても何か撮りたいという強い衝動がない場合、撮影自体が目的化してしまう。どうしても何かを頼りにしがちになるのだ。

仕事としてインテリア用の作品制作をするのでなければ、中途半端にグラフィックやデザイン性を意識した写真作品を制作しない方が良いだろう。また本当に無心で作品を生みだしたのならば、撮影者はそれについて語らない方が良い。無理して語ろうとすると、それは作り話になってしまう。それらの特徴は、経験を積んだ専門家が見れば一目瞭然だ。
それ故にクール・ポップ写真では第3者による作品制作の見極めとテーマ性の見立てが必要だと考えているのだ。
 
話は陶芸に戻る。では新人や無名の作家のうつわはどのように買われていくのだろう。それは鑑賞する側がうつわの質感や、手作業の痕跡から感じられる作り手の精神性のような感覚を共有できるときではないだろうか。また作家ものであるにもかかわらず、いわゆるお値打ち価格である点も重要だろう。一方でイケア、無印良品、100円ショップでは、デザイン性や値段がうつわ購入の決め手になる。
これを写真に当てはめると、前者がクール・ポップ写真で後者がインテリア系写真となる。写真の被写体は様々だ。したがってこの範疇の写真は、ポートレート、シティースケープ、ランドスケープ、抽象など広範囲に存在する。
サイズ的には、作品テーマに見る側を引き込むことを意図した現代アートのような大判サイズではなく、複数作品のコーディネートが可能な小ぶりな作品が中心になると考えている。
手軽に買える作家もののクルー・ポップ写真。毎回の繰り返しになるが、まずは作品制作の見極めが行われ、写真家が作品制作を継続する過程でテーマ性の見立てが行われるようになる。その先に、写真家のブランドが構築されていくかもしれない。それはうつわ作家のブランド構築に近い過程になると考えている。また流通にも新たな可能性が生まれるだろう。特にギャラリーに販売を頼ることなく、オンラインショップなどを通して自らが顧客に直接販売する流れが生まれると予想している。

夏休み期間には、「写真の見立て教室」(仮称)を、実例を紹介しながら行いたいと考えている。

写真展レビュー
ソール・ライター展
Bunkamura ザ・ミュージアム

本展は、ペンシルヴァニア州ピッツバーク出身のアメリカ人写真家、画家、ソール・ライター(1923-2013)の日本における初回顧展。ニューヨークのソール・ライター財団から提供された、写真(カラー・モノクロ)、絵画、その他資料を含む約200点を展示している。最近の写真関係の展覧会は大判サイズのデジタル写真を見せる現代アート系が多い。本展は小さいサイズの銀塩オリジナルプリントをマットに入れて展示する20世紀写真の中規模の展覧会。写真の題材は、ファッション、ストリートのスナップ、ポートレート、ヌードが含まれる。
ライターは、従来はモノクロ中心だった写真の抽象美をカラーで追求した写真家。元々抽象画家で色彩感覚が優れていた。また日本の北斎などの浮世絵の構図にも多大な影響を受けている点も注目されている。そのようなカラー作品は写真を叙情的に捉えがちな日本の観客には受け入れられやすいだろう。
展示作は、シュタイデルから刊行された”Early Color”(2006年刊)、”Early Blck and White”(2014年刊)、”In My Room”(2017年刊予定)からの作品が数多く含まれている。青幻舎からも同展に際して日本向けにヴィジュアルを重視したカタログも刊行されている。
ソール・ライターの波乱万丈のキャリアやプロフィールについては、Bunkamuraザ・ミュージアムのウェブサイトに詳しく掲載されているのでそちらを参考にしてほしい。
ここではライターのファッション写真のアート性に注目してみよう。彼は50年代後半から70年代までに主にファッション写真家として、ハーパース・バザーやエスクアィアなどの雑誌で活躍している。しかし、当時は写真はともかくファッション写真のアート性は全く認識されていなかった。実は20世紀後半に商業写真分野で活躍し、写真によるアート表現に限界を感じて作家性追及を諦めた多くの人がいる、リリアン・バスマンの夫のポール・ヒメール、ルイス・ファー、英国ではギイ・ブルダン、デヴィッド・ボウイのアラジンセインのジャケットで知られるブライアン・ダフィーなどが直ぐに思い浮かぶ。ライターもそのような写真の可能性に絶望した一人だった。しかし、彼のファッション写真は単に服の情報を撮影したもののではなかった。彼はファッション写真について”私が行った仕事を否定する気はないが、ファッション写真家としてだけ記憶されるのは本意ではない”と語っている。また”仕事で撮影した写真が結果的にファッション写真というよりも、それ以上の何かを表現する写真に見えることを望んでいる”とも語っている。
彼は野外のストリートでのファッション撮影を好んだことで知られている。当時はまだスタジオでの仕事が一般的で彼は”アウトサイダー”と呼ばれていたそうだ。結果的に彼のファッション写真には、ストリートで展開されていた時代背景が写り込まれていた。当時の米国ニューヨークの軽やかな時代の気分や雰囲気を表現されていたのだ。
写真史家マーティン・ハリスンは、ライターが1963年にハーパース・バザーの仕事の合間にダブリンで撮影したアイルランド人少年のポートレート写真”Irish Boy,1963″をハーパース・バザーに掲載されたカラー作品5点とともに”Appearances: Fashion Photography Since 1945″で紹介している。

彼は、この写真は正確には雑誌に掲載されるような洋服の情報を伝えるようなファッション写真ではないが、着ている服装とともに伝わってくる少年の自信に満ちた姿はとってもスタイリッシュだと指摘している。彼は、これこそが広義のアート表現になり得るファッション(時代性)の反映された写真だと分析しているだと思う。

ライター作品の相場をみてみよう。ちなみに、彼の作品はニューヨークの有力ギャラリーのハワード・グリンバーグが取り扱っている。しかし、オークションでの取引実績はあまりない。だが相場は最初に紹介された90年代よりも明らかに上昇気味だ。2000年代は、ちょうど現代アートの価値観が従来のアート写真の価値観を飲み込んだ時期。同時に多くの20世紀に活躍した写真家のアーティストとしての再評価が行われた。ライターの時代性が反映された写真・絵画はその流れの中でアート性が注目されるようになったのだろう。展覧会のフライヤーにも利用されている代表作”Snow(雪)、1960″は2016年5月のフィリップス・ロンドンのオークションに出品されている。
こちらはエディション10、サイズ34.2 x 22.8 cm、ハワード・グリーンバーグで売られたモダン・プリント作品。落札予想価格は4000~6000ポンド(@150で約60~90万円)のところ9,375ポンド(@150で約140万円)で落札されている。写真作品としては高額だが、同じくカラーの巨匠であるウィリアム・エグルストンや、同じニューヨーク・スクール系のロバート・フランクと比べると評価が低いようだ。彼らとの違いは何かといえば、撮影時の米国社会の価値観との関わりが感じられない点、つまりテーマ性の弱さなのだろう。

私どもは日本独自のアート写真の価値基準として限界芸術の写真版のクール・ポップ写真を提唱している。最近は海外の20世紀写真家のなかにクール・ポップ的な人がいたことに気付かされている。実はソール・ライターもそのような写真家に含まれるのではないかと考えている。これについては別の機会に分析してみたい。

Bunkamuraザ・ミュージアムでの東京展は6月25日まで。
2018年春には大阪の伊丹市立美術館に巡回予定。

2017年春NY現代アートオークション
マン・レイのヴィンテージ作品が高額落札!

ロンドンのアート写真オークションに先立つ5月17~19日にニューヨークで戦後美術・現代アートの定例オークションが行われた。ササビーズ”Contemporary Art Evening Auction”では、スタートトゥデイ社長の前沢友作氏が、ジャンミシェル・バスキアが1982年に制作した”UNTITLED”を約1.1億ドル(約121.5億円)で落札。高額落札がマスコミで大きな話題になったのは記憶に新しいだろう。
いまや写真は現代アート系アーティストの表現方法としても完全に定着している。一方で歴史的経緯から、アート写真と現代アート/戦後美術のオークションは個別のカテゴリーとしていまでも開催されている。しかし、二つの分野にまたがる写真は確実に融合が進行中だ。最近は、だいたい作品の価値評価によってカテゴリーの振り分けが行われている。現代アート系でも知名度が低い若手・中堅や、有名アーティストでもエディション数が多いものはアート写真カテゴリ―。これらは、写真コレクターには高額だが、現代アートコレクタ―にとっては低額の作品となる。20世紀写真も、極めて貴重で価値評価が高いヴィンテージ作品は現代アートカテゴリーのオークションに出品されるケースが多い。
今回の現代アート・オークションにも、マン・レイやダイアン・アーバスのヴィンテージ作品が含まれていた。現代アートのオークションは、だいたい価値評価の低い順に、午前(Morning)、午後(Afternoon)、夜(Evening)に別れて出品される。マスコミに取り上げられるような有名作品のオークションは夜のイーブニング・セールにかけられる。
これから先は、5万ドルくらいまでのエディション数が多い中間価格帯の写真作品のカテゴリーの整理整頓が行われると考えている。最終的には、19~20世紀写真というカテゴリーが残り、21世紀の現代写真や現代アート系の評価が低い作品は、午前や午後の現代アート、および写真と親和性が高いデザイン・インテリア系のオークションでの取り扱いになっていくだろう。
今回の現代アート系オークションの写真系作品の最高額は、クリスティーズの”Post-War and Contemporary Art Evening Sale”に出品されたマン・レイの”Portrait of a Tearful Woman,1938″だった。なんと216.75万ドル(約2.38億円)で落札されている。
Man Ray”Portrait of a Tearful  Woman,1938″ Christie’s NY “Post-War and Contemporary Art”Auction

これはゼラチン・シルバー・プリントに着色が施された貴重なヴィンテージ作品。同じく20世紀写真を代表するダイアン・アーバスのヴィンテージ作品”A Jewish giant at home with his parents in the Bronx, N.Y., 1970″は、58.35万ドル(約6418万円)で落札された。

その他、今シーズンは、リチャード・プリンス、アンドレアス・グルスキー、シンディー・シャーマン、ウォルフガング・ティルマンズらの常連アーティスト作品が好調に落札されていた。この中でもリチャード・プリンスは別格。ササビーズ”Contemporary Art”に出品された”Untitled(Cowboy), 2001″は、100万ドル超えの約181.25万ドル(約1.99億円)での落札だった。

ティルマンズも予想落札価格を超える高額での落札が相次いだ。英国のテート・モダンで開催中の回顧展の影響だと思われる。出品8点すべてが落札され、ササビーズ”Contemporary Art”に出品された全4点は落札予想価格上限を大きく超えて落札。181X240cmの大作”Freischwimmer 123, 2004″は、予想上限の約2倍の66.05万ドル(約7265万円)だった。
フィリップスでも、186.7 X 233.4cm.、エディション1/1でAP1点の”quiet mind,2005″が落札予想価格上限の約3倍の32.2万ドル(約3542万円)で落札。クリスティーズでも227.3 x 170.8 cmの”Freischwimmer
102″が40.35万ドル(約4438万円)で落札されている。
彼の作品は大判サイズで、エディション1/1でAP1点が多い。写真でも1点ものに近い点数が限られた大判作品は需給関係により絵画同様に高額になる。ティルマンズの抽象作品は、プリンスのカウボーイ作品のようにブランドが確立されつつあるようだ。
次回のオークション・レビューでは、5月下旬~6月上旬に欧州各都市で開催された中堅業者のアート写真オークションを取り上げたい。
(1ドル/110円で換算)

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(7)
見立ての勘違いについて

いままで日本写真の新しい価値基準として、クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(クール・ポップ写真)を提案してきた。それは鶴見俊輔による限界芸術、柳宗悦による民藝の写真版だと解釈可能で、また夏目漱石がエッセー「素人と黒人」で述べている、素人にも近いと紹介している。写真家が無心で撮影した作品と、買う側、評価する側の"見立て"がセットになって成立する。過去6回ほど書き続けながら考え方を展開してきた。興味ある人はぜひ読んでみてほしい。その考えは日々進歩・展開している。いままでの主張が一貫性を欠き、多少の矛盾点があるかもしれない。どうかご容赦いただきたい。今後も変わるかもしれないが、最新の考え方が最善だと理解して欲しい。今回はいままでに気付いた"見立ての勘違い"に触れたい。
 
写真の見立ての最初のステップは写真家の撮影スタンスを見極めることだ。経験の浅い人は、デザインやテクニック重視で制作された写真に惑わされしまう。表層に好印象を感じることが、本質の評価だと勘違いしてしまうのだ。第一印象が良い写真ほど直ぐに飽きてしまう、自分の印象による判断を疑ってみてほしい。写真に能動的に接してみよう。写真家が何を感じているのか、また何を伝えたいから撮影しているかに思いを馳せてみよう。撮影者の問いかけが読みとり可能かが判断基準になる。特にデジタル化進行で急増化している抽象写真には注意が必要だろう。

私はアマチュアリズムの徹底的な追及からこの分野の写真が生まれてくると考えている。ここにも勘違いが多いようだ。いまのアマチュアの中には、あわよくば写真家と認められたい、写真で生活の糧を一部でも得たいと考えている人が散見される。また写真での所属欲求、承認欲求を持つ人もいる。そうなると、どうしても自分のエゴが写真に反映されてしまう。アマチュア精神がプロ化して失われているともいえるだろう。アマチュアとは自由な精神性のことだ。純真に好きでやりたいことを追求し続け、プロ写真家のように写真界の評価を気にすることがなければ、真に主観的な撮影スタイルが実践できる。そのような写真が結果的に第3者から見立てられるのだ。ただし、自分のアイデアやコンセプトを自らが考えだして作品として提示する現代アート系写真はこの範疇に含まれない。ここの部分も混同や勘違いしないでほしい。

撮影や作品編集以外の写真の楽しみ方も紹介してきた。作品制作意図の見極めを行った写真を材料に、"設え"、"空間取り合わせ"を"見立てる"行為だ。ギャラリー空間のように、写真はシンプルな額にいれて、白い壁面に展示するのが一般的だ。しかし、どの写真を選んで、額装するかなど、展示方法を考える"設えの見立て"、それがどのようなスペースに合うのかを考える、"空間取り合わせの見立て"も可能ということだ。最初に展示したい場所があって、写真セレクションと設えを考えても良い。このような過程は古美術や骨董の世界では一般的。写真を素材としてもこのような一種の自己表現も可能ということだ。日本で真に写真が売れるには、欧米とは違うこのような買う側と写真との独自の関係性も必要かもしれないと感じている。
これには注意点がある。それは上記の行為はインテリア向けの写真のプロデュースと類似していることだ。多くのギャラリーやインテリア・ショップが販売手段として写真とフレームとの相性などを顧客に提案するのはよく知られている。インテリア向けの写真は、写真自体もインテリア・コーディネーションの素材でそのデザイン性を重視する。しかし、クール・ポップ写真は技術やデザインで制作された写真は評価しない。そこには"作品制作意図"の見極めが抜け落ちているのだ。インテリア・コーディネートと見立てとの混同や勘違いがよくあるので注意してほしい。

"作品制作意図"の見極めが、どのように"テーマ性の見立て"につながるかにも勘違いが多い。少し複雑なので整理整頓しておきたい。写真家にテーマ設定の意図があり、そのテーマ性を第3者が社会の価値観のなかで見立てるのが現代アート系の"テーマ性の見立て"。一方で、ここで展開しているように写真家が無心で作品を制作していて、そのなかにテーマ性を第3者が社会の価値観のなかで見立てるのがクール・ポップ写真の"テーマ性の見立て"となる。 テーマ性の見立てには見る側が能動的に写真に接するとともに、アート写真リテラシーの高さが求められる。日本では見る側にも写真のメッセージ性を読み解こうとする態度が強くないという状況もあるだろう。邪念がない写真家の内在的なテーマ性は、自分が語らないがゆえに現代アート系のように作品単体では顕在化しないのが特徴だ。長年にわたる作品制作の継続、また同様なパターンの繰り返しの中で育まれていく。

時間経過の末に、しだいに第3者から写真家本人や作品の社会との関わりのあるテーマ性が発見され、語られるようになるのだ。一人や少数の人の印象のようなものから始まり、それに共感する人がでてくれば、評価はより広く広がる。現代アートのように写真家自身の言葉でメッセージを発信するのではなく、作品の社会とのテーマ性が自然発生的に語られるようになるのだ。複数に見立てられた制作者の無意識のテーマ性が、外国人のキュレーター、評論家、コレクターに理解されようになれば写真家のブランド構築につながる。実際に過去の日本人写真家の多くはこのような過程を経て世界的に評価されたと考えている。
 
繰り返しになるが、ここに至るまでには写真家の作品制作の継続が不可欠になる。何10年もかかることもあるだろう。ここにも勘違いが多いので確認しておこう。それは商業写真家やアマチュア写真家が単に写真撮影を継続することではない。世界からの評価も認知もない中で、写真を通して何らかのメッセージの発信が継続できるかだ。それは何で写真を撮影するかを自分自身の問う行為でもある。それができるのは、写真家の継続の動機が何らかの社会との接点を持つからだろう。時間の経過の中でそれを誰かが発見して語ることになる。ただ写真を撮影しているだけでは、見立てられることはないのだ。
 
私どもができるのは、写真家の"作品制作意図"の見極めを行い、ライフワークとして写真に取り組むことを奨めるしかないと考える。クールでポップなマージナル・フォトグラフィーの価値基準を知ることが作品制作継続のモーチベーションになると期待したい。多くの人は、評価されることなく作品制作は継続できないだろう。それに気付いた人は、ぜひ写真を見立てる側での自己表現を試みてほしい。
 
いままで、ずっと予告していて実現できてないのが講座やワークショップでこの新分野の写真を解説すること。また実際に写真家の"作品制作意図"を見極め、それらをフォトフェアなどで展示したいとも考えている。決して忘れたり諦めたわけではなく、準備は着々と進行している。どうか今しばらく時間をください。