(連載)アート系ファッション写真のフォトブック・ガイド(10)
アレクセイ・ブロドヴィッチ関連本の紹介(Part-2/伝説はどのように生まれたのか )

ブロドヴィッチのキャリア末期は不運続きだった。2度にわたる自宅の焼失、また夫人との死別によるショックで抑うつとアルコール中毒に苦しみ、入退院を繰り返す。ワークショップの「デザイン・ラボラトリー」を再開することもあったが、心臓発作を起こしたことから中断。1966年、最終的に親戚のいるフランスに戻る決断を下す。
アーヴィング・ペンはブロドヴィッチがフランスへ向かう直前にグリニッジ・ヴィレッジでランチを共にしたという。その時のエピソードが「Alexey Brodovitch and His Influence」に書かれている。
「私たちは、ともにもう二度と会うことがないことを知っていたと思う。彼は私が取り組んでいる作品プロジェクトについて尋ねた。彼は注意深く私の話を聞いていた。しかし、彼の理解力はすでに衰えていた。そして、私はあなたの言っている意味が理解できない。しかし、ペン、私はあなたのやってることを信じるよ」と語ったという。
ブロドヴィッチは、1971年4月15日、アビニオン近くのル・トールにおいて73歳で亡くなっている。

「Alexey Brodovitch and His Influence」より

実は生前に、フィラデルフィア・カレッジ・オブ・アートでブロドヴィッチの回顧展が企画されていた。死の約1年後の1972年に「Alexey Brodovitch And His Influence」展が開催されている。その後、1982年10月~11月にかけてパリのGrand Palaisで回顧展「Hommage a Alexey Brodovitch」が開催。二つの展覧会では、ともにペーパー版のカタログが製作されている。

ブロドヴィッチの存在は、彼の死後かなり長いあいだ忘れ去られていた。本格的な再評価は、80年代後半以降になってからとなる。彼が追求していた「時代の気分や雰囲気を写したファッション写真」のアート性が新たに見いだされるのを待たないといけない。
彼は生前「写真はアートではないが、良い写真家はアーティストだ」と語っている。彼が活躍していた時代は、写真自体はともかく、作り物のファッション写真はアートではないと考えられていた。それゆえに、生前は彼の才能と実績は、アートの視点からは全く評価されなかった。
1989年に、彼の仕事を本格的に回顧する写真集「Master of American Design / BRODOVITCH」(Andy Grunberg/Harry N.Abrams刊)が刊行される。しかし、80年代後半におけるブロドヴィッチの評価はタイトル一部の「Master of American Design」が示すようにデザイン分野の視点からだった。

「Appearances」、「The New York School」

ブロドヴィッチがアート写真界にとって偉大な存在であった事実を本格的に再評価し紹介したのは、この連載で以前に紹介した1991年にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された、戦後のファッション写真のアート性を提示した「Appearances: Fashion Photography Since 1945」だった。同展キュレーターの写真史家マーティン・ハリソンは、1991年刊の同展のカタログで、「戦後に欧州から米国に移住して建築や絵画を教えたジョゼフ・アルバース、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウス、ラースロー・モホリ=ナジと比べて、つい最近までブロドヴィッチの存在はほとんど知られていなかった」と書いている。90年前半、まだブロドヴィッチは知る人ぞ知る存在だったのだ。その理由は、前回に書いたように、ブロドヴィッチが当時の人たちが認識していなかった「ファッション写真におけるアート性」を教えようとしていたからだ。多くの人がその価値を理解する知識と経験を持たなかった。90年代以降にやっと時代がブロドヴィッチに追いついてきたのだ。同展サブタイトルは、「1945年以来のファッション写真」だが、1945年はブロドヴィッチの写真集「Ballet」が刊行された年。ハリソンは同カタログで「Ballet」にも触れており、ブレを利用してバレーの動きの本質の表現、動きや偶然性を駆使し、感情的な部分を優先させた作品は、ファッション写真に多大な影響を与えた。その長期的影響を予想するのは難しいが、その遺産は現在にも受け継がれている、と書いている。彼の認識しているアート系ファッション写真の歴史は1945年の「Ballet」から始まっているということだろう。

90年代に訪れたブロドヴィッチ再評価には、フランス出身のアート・ディレクター、編集者のファビアン・バロン(1959-)も貢献している。彼はスティーブン・マイゼルが撮影して話題になった、マドンナの写真集「Madonna’s Sex」(1992年刊)のデザインを手掛けたことでも知られている。1992年、ハ―パース・バザー誌のアート・ディレクターに就任。マリオ・ソレンティ、デビット・シムなどの若手写真家を積極的に起用する。かつてのブロドヴィッチを彷彿させる、余白を生かした、シンプル、クラシック、エレガントな要素を持つ大胆なデザインで雑誌リニューアルを成功させるのだ。同じく欧州出身であることなどから、ブロドヴィッチの再来などとも言われていた。
当時の日本にも、ブロドヴィッチを崇拝する編集者の林文浩(1964-2011)がいた。彼が創刊した、独立系のハイ・ファッション誌「リッツ」、「デューン」では、白バックを利用したファッション、ポートレート写真を積極的に取り入れていた。

「Harper’s Bazaar, February 1997」,「dune 1993 No.2 AUTUMN」

90年代を通しブロドヴィッチの再評価の流れは続いていく。キュレーター・ジェーン・リビングストンが編集企画した「The New York School : Photographs, 1936-1963」(Stewart Tabori & Chang, 1992年刊)では、1930年代から1960年代にかけてニューヨーク市に住み、活動していた写真家16人「ニューヨーク・スクール・フォトグラファー」と大まかに定義。ブロドヴィッチもその一人に選ばれ、「Ballet」の写真が紹介されている。ほとんどのネガが消失しているので、写真集から作品を複写している。その他に、リゼット・モデル、ロバート・フランク、ルイス・ファー、ウィリアム・クライン、ウィージー、ブルース・デビットソン、ダイアン・アーバス、リチャード・アヴェドン、ソール・ライターなどが含まれる。ブロドヴィッチが主宰していた伝説のワークショップに参加していた写真家が多く含まれている。ニューヨーク・スクール・フォトグラファーは、雑誌の仕事を行う一方で、ストリートで撮影したパーソナル・ワークでこの分野の表現の境界線を広げてきた。なかには、ソール・ライターやルイス・ファーのように、ストリート写真の伝統を取り入れているものの、さらにその背景にある社会の思いやフィーリングまでを探求していると評価されている写真家も含まれる。彼らの評価は、上記のマーティン・ハリソンの著作が語るアート系ファッション写真の評価と重なってくる。

以下は次回「Part-3/ブロドヴィッチ関連本の紹介」に続く

(連載)アート系ファッション写真のフォトブック・ガイド
(9)アレクセイ・ブロドヴィッチ関連本の紹介
(Part-1/デザイン・ラボラトリー)

連載の9回目からは、ロシア出身のアート・ディレクター、グラフィック・デザイナー、写真家、教育者で、20世紀グラフィック・デザインの元祖として伝説化されているアレキセイ・ブロドビッチ(1898-1971)のキャリアと関連本を数回に分けて紹介する。

彼を取り上げる理由は、アート系ファッション写真の歴史の原点は、1945年刊行のブロドビッチのフォトブック「Ballet」にあると考えるととともに、彼の主宰したワークショップ「デザイン・ラボラトリー」が、同分野で活躍する写真家たちに多大な影響を与えたからだ。

「Ballet」(Augustin Publisher、1945年刊)

ブロドビッチは1934年から1958年まで米国ハーパース・バザー誌のアート・ディレクターとして活躍。フォトブックでは、アンドレ・ケルテスの「Day of Paris」(1945年)、リチャード・アベドンの「Observations」(1959年)のデザインを手掛けている。

写真家としては、写真集「Ballet」が1945年に刊行されている。
当時は写真撮影のタブーだった、明暗、ブレ、ダブり、ボケなどを多用することで、バレーの動きと盛り上がる雰囲気を表現。写真表現の可能性を大きく広げ、その後のデザイン、写真界に大きな影響を与えている。彼の写真はデジタル化が進行した現在では目新しさはないかもしれない。しかし、ブロドビッチの時代のアート系写真は、ストレート写真の「f/64」グループと、FSA (米国農業安定局)プロジェクト関連のドキュメンタリー写真だった。
アーヴィング・ペンは、彼の戦後ファッション写真への長きにわたる影響について「すべての写真家は、その人が知っていようがいまいが、すべてがブロドビッチの生徒だ」と指摘、リチャード・アヴェドンは「彼は天才だった、そして、彼は気難しかった。いまや、彼は自らが人生を通して蔑んでいた栄誉ある存在として扱われるだろう。彼は、私の生涯でただ一人の先生だった。私は、彼の苛立ち、彼の傲慢、彼の不満から多くを学んだ」と語っている。

Richard Avedon “Observations”(1959年刊)

ブロドビッチの重大な功績には、「デザイン・ラボラトリー」と呼ばれるワークショップで、若手写真家やデザイナーを育てたことだ。1936年にフィラデルフィアで、その後は1941年から約20年間に渡りニューヨークで、写真、グラフィック・ジャーナリズム、広告、デザイン、ファッションなどの指導を行っている。ブロドビッチは、その場をクリエーターが表現方法の実験を行う場所と位置付けていた。彼はかなり厳しい指導者だった事実は多くの資料に書かれている。その教育理念の背景には20世紀初頭の欧州の規律を重んじる考え方があったからだと言われている。カジュアルな米国文化の中では多くの反発があったであろうことは容易に想像できる。彼の評判には、多くの才能を発掘した一方で、多くの才能を潰したという厳しいものもある。

「Ballet」の掲載写真

彼の指導法は欧州バウハウスの教育学に影響を受けていた。特徴は、教えない、判断しない、育てない、提案しない、教義もないというスタイル。彼はアートの教育には懐疑的で、生徒は先生に教わることでそれを真似するようになり、先入観を持つようになると考えていた。ここの部分はかなり分かり難いので、私の解釈を追加しておこう。

彼が生徒に何を学んでほしかったかを正しく把握しないといけない。ここの部分の認識と理解によって彼の評価は大きく変わる。多くの人は、生徒はいわゆる「良い写真、上手な写真」を撮影する方法を学ぼうと考える。しかし、ブロドビッチの考えは違う。彼は生徒には自らが生きている時代をどのように認識、解釈して写真で提示するかを学んでほしいのだ。言い方を変えると、生徒に写真の撮影スタイルを教えるのではなく、時代に能動的に接して、自分の才覚でそこに横たわる言葉にできない時代性を探し、写真で表現する方法を教えようとしていた。「過去の創作に囚われることなく、イマジネーションを最大限に生かして新しい独立したものを見つけなければならない」という主張もこれを意味するのだ。生徒に対して「私が今までに見たことのある写真を見せるな」と言ったという。また「surprise quality」という言葉を引用。見る側に「驚き」、「ショック」を与えろと言った。しかしそれらは生徒に誤解されることが多かったようだ。このように言われると写真家は奇をてらった写真を撮影したり、暗室作業で新しい方法論を追求しがちになる。そして、それが目的化してしまうのだ。
アヴェドンの解釈によると「“少しばかりに驚きの快感を与える写真”は、非常にシンプルで手が加えられていない写真」とのこと。それはより洗練された作品を意味し、まさに方法論が目的化した写真と真逆なのだ。さらに「“驚き”と“ショック”は、探求をさらに進めろ、見えないものを可視化しろという意味だ」と語っている。
これこそは、過去の思い込みにとらわれない姿勢を心がけて、イノベーションを呼び起こせという、現代のアートのテーマ探しにつながるだろう。現代アートでは時代に横たわるテーマを言語化してコンセプトとして提示すること。ブロドビッチは、時代に感じられる気分や雰囲気を心で感じてヴィジュアルで表現しろということなのだ。両者は、頭で思考するのと、心で感じるのとの違いだけなのだ。いま、この考え方は私が写真を評価するときの一つの規準になっている。
しかし実際にその意味がなんとなく分かるようになるには10年以上もかかった。たぶんこの部分に初めて触れた人は、禅問答を聞いているよう印象を持つのではないだろうか。

デザイン・ラボラトリーの様子。”Alexey Brodovitch”(Phaidon, 2002年刊)より

ワークショップ参加者が互いを知るようになると課題がだされるようになる。それは、「人間とその感情」、「ハロウィーン」、「ブロードウェイ」、「新聞スタンド」、「青春」、「カフェテリア」、「デキシーカップ」などだったそうだ。課題研究では写真表現について生徒間の激しい作品批評が行われた。
参加者は、リチャード・アベドン、アービング・ペン、ロバート・フランク、リリアン・バスマン、 アーノルド・ニューマン、ブルース・ダビッソン、ダイアン・アーバス、ヒロ、バート・スターン、ルイス・ファー などの錚々たる写真家のほか、デザイナー、アート・ディレクター、モデルらが参加している。
もう1点重要な点は、このワークショップはあくまでも「アート系ファッション写真」の方向性を持っていたことだ。当時ファッション写真はアートではないというのが一般的な認識。そのようなカテゴリーの存在は生徒には認識されてなったと想像できる。したがって、作品制作の方向性が違う、アーバスやフランクなどはやがてこの場を離れていくことになる。また上記のような、当時としては極めて難解だったと思われる彼の指導目的を理解した参加者は少なかったと思われる。実際のところ、写真クラスの初回には60名以上が参加したが、厳しいブロドビッチの指導で参加はどんどん減少していき、最後のセッションのころに残ったのは多くて8名くらいだったそうだ。
「デザイン・ラボラトリー」は、厳しい海兵隊の訓練のようだったという意見もあるぐらいだ。

次回「Part-2/伝説はどのように生まれたか」に続く

ニューヨーク春のアート写真情報(1)
ササビーズがオンライン・オークションを実施!

この時期は定例の春のニューヨーク・アート写真オークションが開催される。通常ならば結果を分析して提供しているはず。しかし、今期はコロナウイルスの影響で状況が様変わり。大手3社や、スワン・ギャラリー・オークションも公開オークションを延期。その中でササビーズ・ニューヨークのみがオンライン・オークションを開催した。

入札は3月24日から4月3日までの期間で開催。当初は227点の出品が予定されていたものの、市場環境の急変から全体の約12%にあたる28点が出品取り下げ、総出品点数は199点のオークションとなった。結果は122点が入札されて落札率は約61.3%、総売り上げは約299万ドル(約3.29億円)だった。
ちなみに昨年同期のササビーズの結果は、189点が出品され131点が落札、落札率は約69.31%、総売り上げは約403万ドル(約4.44億円)だった。

今回の中身を分析するに、手数料込での落札予想価格下限以下の落札が34件も見られた。それらが果たしてバーゲンの買い物だったかどうかは今後の相場動向次第だろう。
総出品点数の約48%が不落札か落札予想価格下限以下の落札となる。平時ならば厳しい内容だが、このような環境下であることを考慮すると、比較的順調だったと評価できるのではないか。なんとしても市場を支えようとする、アート写真コレクターたち関係者の強い意志を感じた。たぶん他の市場関係者にもその心意気は伝わったのではないだろうか。

Lazlo Moholy-Nagy, Photogram cover for the magazine Broom, Sotheby’s NY

最高額は、ラズロ・モホリ=ナギの「Photogram cover for the magazine Broom, 1922」。落札予想価格40~50万ドルのところ52.4万ドル(約5764万円)で落札された。

Christian Marclay, MEMENTO (UB40),2008, Sotheby’s NY

続いたのは、クリスチャン・マークレー(Christian Marclay、1955- )の、青いサイアノタイプの1点もの、約139X260cmの巨大作品「MEMENTO (UB40),2008」。落札予想価格5~7万ドルのところ16.25万ドル(約1787万円)で落札。

アルフレッド・スティーグリッツの「The hand on the man,1902」は、落札予想価格8~12万ドルのところ11.25万ドル(約1237万円)で落札された。
本作は2013年4月にフィリップス・ニューヨークで10.45万ドルで落札された作品。手数料などのコストを考慮すると約7年のリターンはマイナス。売却時期が悪かったといえるだろう。

私が注目しているアーヴィング・ペンは9点が出品。人気は相変わらずで7点が落札されている。しかし落札予想価格下限近辺のものが多かった。今後は相場が下方修正されると思われる。

コロナウイルスの影響はどれだけ続くかだれも予想できない。当分の間は、プライマリー市場はオンライン・ヴューイング・ルーム、セカンダリー市場はオンライン・オークションという流れが続くと思われる。

(為替レート/1ドル/110円で換算)