2種類ある写真展
感動はお金では買えない

切れがある俳句のような写真集」で目的が全く違う写真集のことに触れた。実は写真展も同じ理由で目的別に大きく二つに分けられる。それは写真の展示自体を重視するイベント系と、写真を写真家の自己表現として展示するアート系だ。

日本で写真展という場合、イベント系をさすことが多い。これでは展示方法に様々な創意工夫がされている。商業施設、イベント会場、レンタルギャリーで開催される写真展はこの範疇にはいることが多い。意外かもしれないが美術館でもイベント系写真展は散見される。広告分野で活躍する写真家の個展はこの傾向が強い。
大規模の展示の場合、アート・ディレクターやデザイナーが設営を仕切ることになる。 写真は、年代別、撮影場所、モチーフごとに分類されることが多く、点数をできるだけ増やし、大きな作品を制作し、フレーム制作に凝るのも特徴。個別の写真作品と同じくらいに会場全体のデザイン・ワークが重要なのだ。つまりこれは、見栄えを重視する広告写真の延長上のようなもの。写真展示によるイベントになっている。

もう一つはアート系の写真展だ。ここでは深く述べないが、アート表現自体も、写真としてのアートを追求したものと、写真でアート表現を試みているものに分けられる。こちらの目的は写真自体を見てもらい、写真家のメッセージを展示空間を通して伝えること。特に年代別、撮影場所、モチーフなどで分類されることはない。フレームはシンプルなものを選ぶし、1点づつ広い余白スペースをおいて展示される。 だいたいイベント系よりも小さいギャラリー・スペースで開催される。写真の場合、作品の個別テーマは15~30点くらいで展示することが多い。広いスペースは適さないのだ。その空間で写真家は自分が世の中をどのように理解しているかを作品コンセプトを通して伝えないといけない。

展示目的が違うというのは、想定している観客が違うということ。アート系の場合、見る側にもある程度の作家や作品に対する知識と情報が必要。そしてそれらを読み解こうという姿勢も求められる。世の中に質の低い娯楽が蔓延するなかで、知的好奇心を満たすアートを求める層も徐々に増えているのだ。
もし見る側が能動的に作品に向き合わないとアート系展示は地味で難解に感じるだろう。
イベント系では、「良い展示だと」というほめ言葉をよく聞く、写真ではなく展示を見ているのだ。それは観客が作品の鑑賞とヴィジュアル面での刺激を求めているから。一方、アート系では知的面、精神面での刺激が求められるということなのだ。このように写真展でも全く違う種類が存在する。

日本では写真を取り扱うアートギャラリーは非常に少数。アート系の写真展は存在すらあまり知られていないのが現状だ。実際はギャラリーでもイベント系の写真展を開催するところがあるくらいだ。一方、欧米では全く逆になる。写真展とは規模に関係なく一般的にアート系のことを指す。
イベント系写真展は費用がかかる。お金かけたことをアピールすることもある。入場料を取る場合はなおさらその傾向が強い。写真家のキャリアを回顧するもの、複数写真家が参加するのグループ展には向いていると思う。アート系は規模が小さめでシンプルな展示なので比較的展示にはお金はかからない。しかし、見る側の心動かせるのはアート系の展示なのだ。イベント系はお金をかけたという点に対して見る側が感嘆することはあるが感動はない。資金力が全てかのような高度資本主義の中で、お金をかけないでも評価されるという痛快な現象が起こりうるのだ。人の心はお金では買えない、動かせない。ここがアートの面白みで、私たちを魅了するところなのだ。

アート系の写真展開催に興味のある人は、まず自分の作品のセルフチェックをしてみて欲しい。重要なのは本人が何を見る人に伝えたいか。それが時代との接点を持っているかだ。それは自分自身を正しく知る行為でもある。この場合、写真展は見栄を張る場ではなく、自分のメッセージがきちんと伝わるかの検証の場なのだ。作家活動とは、自分のメッセージの届く範囲を広げていく行為のこと。写真展開催は写真家キャリアの到達点ではなく通過点なのだ。

癒しよりもサバイバルの時代 不況下で期待される本物の登場?

リーマンショック、東日本大震災、欧州財務危機などが続きアートを取り巻く状況がどんどん厳しくなっている。株価指数のトピックスは、一時バブル後最安値を更新し、昭和58年12月以来の低水準をつけている。それだけではない。全体の売上が縮小している上に、ごく一部の人たちに人気が集中し、その他大多数の人たちの売り上げは下落しているのだ。
パレートの法則とよばれるものがある。結果の大部分は、構成要素の一部が生み出しているという説。80対20の法則などと呼ばれ、ビジネス書には関係した引用が数多くあるので聞いたことのある人も多いと思う。この比率は相対的なもので、マネーやビジネスの世界になるとこれが90対10になるともいわれている。10%が儲け、90%が損をする感じだろう。
不況になるとこの傾向が強まる印象がある。アート写真の市場も例外でない。同じような厳しい変化が起きている。

このような状況下でアート写真作品制作に取り組んできた人たちの態度が微妙に変化している。すぐにお金を生まないアート作品作りの機運が急激に萎んでいる印象だ。ギャラリーに来て、意見交換や情報収集を行う余裕すらなくなっている人も増えている。
特に日本の伝統美を意識したと説明される、癒し系、禅的な写真の勢いがなくなっている。また感覚重視で撮影された写真は、はかなさとセットで語られることが多く、同じように禅や癒し的なコンセプトがあると説明されてきた。これはとても便利な言葉で、そう説明されれば否定しようがなかった。しかし、一時期流行したこれら癒し系は、経済成長のアンチテーゼとして存在してきたのだ。特に制作者が禅などの精神性を追求していたから出てきたものではなかった。どちらかというと、海外のシンプルを追求したZENインテリアなどの影響が強かったのだろう。広告写真に取り組んでいた人はその延長上に作りやすかったこともあると思う。自然、風景、抽象などをモチーフに、プラチナ、デジタル、銀塩で制作された写真類は、ギャラリーだけでなく、インテリア・ショップ、デパートでも販売されていた。実際、一時期売り上げもかなりあったと聞いている。しかし、それらはシンプル、ミニマム、禅などの表層を取り入れた一種のファッションだった。つまり、経済成長とセットで存在し、一生懸命仕事してその疲れを癒しまた仕事に立ち向かうためのものだった。
いまその前提が崩れてしまった。誰も安定的な経済成長の未来図が描けなくなった。いま多くの人にとって癒しどころでなく、生き残りが求められるようになってきたのだ。作品制作者も、コレクターにも経済的、精神的余裕がなくなり、広い意味での癒し系写真は勢いを失っていった。
だいたい、この手の写真が写真賞を獲得し、美術館で展示がされるようになるとブームが終焉するものだ。90年代のガールズ・フォトブームもそのように終わった。

皮肉なことに厳しい経済状況が制作者の真の作家志向を見分ける踏み絵になっている。この環境で、普段はなかなか読むことができない彼らの本心が見えてくる。嬉しいことに、一部に日本の伝統的美意識の本質をとらえた作品作りを行っている写真家たちの存在も見えてきた気がする。彼らは、最終的な作品ではなく制作する行為自体を重要視するのが特徴。それはまさに瞑想と同様な行為であるとともに、過去未来に囚われることなくいまこの瞬間に生きる禅の実践なのだ。例えば、はかなく思うという意味の「侘び」は、未完の美を愛でる考え。その本質はネガティブをポジティブにとらえる意識、つまり人間は死ぬから逆に現在を一生懸命に生きるような姿勢を意味する。彼らのアーティスト活動にはこの精神性が強く感じられる。それゆえこの厳しい経済状況の中、膨大な労力と資金をつぎ込んで作品制作が続けられるのだろう。

文明開化以来ずっと一環していきた経済成長優先の考え方がいま壁に当たっている。その背景にあるキリスト教的な理念の限界も意識され始めている。いま自然とともに生きるという日本の伝統文化や美意識を見直そうという動きが世界的に起きている。一部日本人アーティストの中にはその精神性が受け継がれているのではないかと期待している。実は、現在このような写真家を集めて、「侘び」をテーマにしたグループ展の今秋開催を考えている。個人的には、写真展開催で彼らの作品制作の本質を見極めたいという意図もある。実際に仕事をしてみないとなかなか本音はわからないのだ。ぜひ年末にかけての写真展をご期待ください!

切れがある俳句のような写真集 意識的な空白がリズムを作る

Blogテリー・ワイフェンバックの新作写真集「Maple and Chestnut」(Nazraeli、2012年刊)にはテキストが一切ない。また写真と余白スペースがうまい具合に共存し、心地よいヴィジュアルのリズムを作っている。その空間は俳句の”切れ”のような役割を果たしているのではないか。写真集なのだが何かヴィジュアルによる俳句集のようにも感じられる。

長谷川櫂の「俳句的生活」(中公新書、2004年刊)によると、「俳句は言葉を費やすのではなく言葉を切って間という沈黙を生み出すことによって心のうちを相手に伝えようとする」という。芭蕉の有名な、「古池や蛙飛び込む水の音」も、切れ字「や」により、現実の世界ではなく心のなかの古池を表現していると解説している。

俳句というと禅と不可欠な関係にある。禅は今ここに生きることを重要視する。ジャズの即興演奏、つまりインプロヴィゼーションはこれを意識したものだ。以前に紹介したがそれを写真集で試みたのがロバート・フランクの歴史的名著「The Americans」。フランクは、導入部分があり、メインテーマがあり、終わりがあるようなストーリ仕立ての写真集は嫌いだった。何か違うものを作ろうとしていたと発言している。「The Americans」では、写っているモチーフで”間”を作っていた。それは、アメリカンイコンを象徴する星条旗や自動車など。なぜ余白空間を使用しなかったのか?たぶんイメージが見開きの右側、左は余白でキャプションがあるという写真集フォーマット故の判断だったのだろう。

写真集には様々な種類がある。その中で、パーソナルな視点でとらえられたコンセプト、テーマを本のフォーマットで表現したアート系の写真集はフォト・ブックと呼ばれている。上記のワイフェンバックやフランクの写真集はこのカテゴリーになるのだ。
この判断は初心者には非常に難しいだろう。もちろん、マーティン・パーなどが著したフォトブックのガイドブックを参考にする手もある。私はレアブック市場の相場を参考にすることをすすめている。つまり、優れたフォトブックはコレクションの対象でプレミアムが付いて高価なことが多いのだ。その他の写真集は絵画の画集と同じように資料的価値しかない。いくら古くてもあまり高い値段は付いていない。

フォトブックでは作家のメッセージ性が重要視される。それを伝える為に”間”は有効なのだ。写真には大きく分けて説明的なもの、感覚的なものがある。社会と接点を持つ何らかのコンセプト、アイデアは、これらの写真を織り交ぜて伝えることになる。その視的、心情的バランスをコントロールするのが余白スペースなのだ。
また流れの中に時間的、空間的な”間”をおくことによって、作家自身の過去の記憶、思い出などとつながっていく効果もある。それはワイフェンバックが撮影時に意識した、かつて中間層が暮らしていた「Maple and Chestnut」の町並みだろう。つまり本作「Maple and Chestnut」も前作「Another Summer」同様に、現実のドキュメントではなくワイフェンバックの心の中の世界だということ。スペースは見る側が色々な解釈を行う仕掛けにもなっているのだ。

世の中にでている多くの写真集では、余白は作家の意図ではなくデザインの見地から挿入される。ドキュメント系の写真集の場合はその傾向が強い。それは同じ系統の被写体や対象物が続いていた時に、その終了を意図する締めの意味合いになる。しかしフォト・ブックを制作する時、デザイナーはヴィジュアルだけでなく作家のメッセージも意識して配列を考える必要があるのだ。デザイナーはギャラリストと同様の能力が求められる。それは写真家と真剣に話をしてそのコンセプトを理解すること。この場合、写真はデザインする素材ではないのだ。高いクオリティーのフォト・ブックを作るには、そこの部分の共通認識が重要なのだと思う。

話がややそれるが、写真展の場合のアプローチも紹介しておこう。通常は壁面の移動によりリズムを作ろうとする。しかし、どうしても会場ごとの物理的な制約があるのでヴィジュアル展開は写真集よりも複雑で難しい。しかし、展示も写真集もあくまで作家のメッセージをオーディエンスに伝えるための方法論。手段が目的化しては本末転倒だ。私は、会場内でのアーティスト・ステーツマントや解説の掲示により作家の視点を明確にし、作品展示はできる限りシンプルを心がけている。

テリー・ワイフェンバックの俳句のような新作写真集「Maple and Chestnut」(Nazraeli、2012年刊、限定1000部)の初回入荷分は完売しました。現在、サイン・プレート付き次回入荷分の予約をギャラリーの店頭で受付中です。

ヴィヴィアン・マイヤーを探して アマチュア写真家にとってのアートとは?

全く無名の写真家が死後や晩年に作家として再評価されることがたまにある。
フランス人アマチュア写真家ジャック=アンリ・ラルティーグは68歳の時にニューヨーク近代美術館のジョン・シャーカフスキーに見出された。またE. J. ベロックの1910年代の作品群は死後にリー・フリードランダーにより再発見されている。
このようなことが起こるのは、かつて写真は自己表現ではなく記録目的とされていたからだ。アート表現は、写真というカテゴリー独自の中でのモノクロの抽象美とファインプリントのクオリティーを追求するものだった。いまのように写真としてのアート表現の可能性が理解されるようになったのは80年代以降なのだ。しかしそれ以前にも、本人が自覚していたかどうかは別にして写真でアート作品を制作していた人は存在していた。それらの作品が現在のアートの視点で再評価されるわけだ。
私が専門とするファッション写真でも同様の発見がある。戦前の欧州のアマチュア写真家のアルバムを見ると、だいたい1冊に数枚くらいは当時の時代性を偶然に写しとったアート作品と呼べるファッション写真が発見できるものだ。

さて今回紹介する米国人写真家ヴィヴィアン・マイヤー(1926-1989)の発見ストーリーもまるで嘘のような本当の話だ。発見の経緯はこんな感じ。2007年歴史史家ジョン・マーロフ氏は資料用としてシカゴの地元オークションで膨大な無名写真家のネガ、プリント類を落札する。それらがヴィヴィアン・マイヤー撮影のものだった。彼は調査を続けるうちにマイヤーの写真に魅了され、それらを紹介するウェブサイトを立ち上げる。そしてFlickr上で、入手した写真資料で何をすべきかを一般に問いかける。それがきっかけに写真界で怒涛のようなヴィヴィアン・マイヤーのブームが巻き起こるのだ。画像や発見の経緯は以下に詳しく紹介されている。
http://www.vivianmaier.com/

ヴィヴィアン・マイヤーのキャリア全貌はいまでも謎に包まれている。上記ウェブサイトによると、彼女は1926年ニューヨーク生まれ。母親の出身地フランスと米国とを何度も行き来するものの、1951年にニューヨークに戻る。その後、約40年間に渡り主にシカゴで育児教育の専門知識を持つナニーの仕事を行う。一生独身で、親しい友人もなく、撮った写真を誰にも見せなかった。 “keep your distance from me”タイプの人物だったというので、「私にあまりかかわらないで」タイプということだろう。また歯に衣きせない言い方をする人だったらしい。経緯は不明だが、キャリア後期の彼女は一時的にホームレス状態だったようだ。写真類がオークションに出たのも、倉庫代の未払いが原因だったとのこと。しかし、その後、2009年に83歳で亡くなるまでは、かつて彼女が面倒を見た子供たちがお金を出し合ってアパートの家賃を負担していたそうだ。

写真家としてのキャリアは、1949年ころにコダックのブローニー・ボックスカメラで開始。1952年に2眼レフのローライフレックスを入手している。彼女はアマチュア写真家として、50年代~90年代にかけて約10万にもおよぶ写真を、フランス、ニューヨーク、シカゴなどで撮影。その写真には、戦後アメリカの都市生活のリアルなイメージが、高いレベルの、美しさ、感動、ユーモラスさで表現されている。
2011年刊行の写真集”Vivian Maier/ Street Photographer”(powerHouse刊)の紹介文でGeoff Dyerは、”ストリート写真家は、細部を見つめる目線、光と構図、完璧なタイミング、ヒューマニストの視点、シャッターチャンスを逃さないタフさ、など数多くの素養が求められます。特別な写真教育を受けていないマイヤーがそれらをすべて持っていたのは驚くべきことです。”と記している。実際、ネガを調べてみるとほとんどの撮影はワンカットのみだったとのことだ。専門家からは、リゼット・モデル、ヘレン・レビット、ダイアン・アーバス、アンドレ・ケルテス、ウォーカー・エバンスからの影響が指摘されている。
私は、ショーウィンドーのリフレクションを利用したシティースケープやカップルの写真はルイス・ファー、セルフ・ポートレートはリー・フリードランダーを思い起こす。また、同じ女性写真家であるライカ使いのイルゼ・ビングとも共通の雰囲気があると感じる。当時の繁栄するアメリカの華やかな部分以外に、子供、黒人、低所得者、浮浪者などのダークサイドにカメラを向けていた点も評価されている。これは、スイス人のロバート・フランクの名著”The Americans”と同じ視点だろう。
資料によると、彼女は社会主義的考えに親しみを持ち、フェミニストだったという。60年代はフェミニズム運動や黒人による公民権運動が盛んだったことが影響しているのだろう。その理念が正しいかどうかは別にして、彼女の民主主義と平等を推し進めようという考えが社会のマイノリティーへのまなざしの背景にあると思われる。

彼女は自分らしく生きることを追求していた人だと思う。自分なりに社会の仕組みを解き明かそうとし、写真撮影で現状を正しく把握しようとしていたのだろう。彼女は誰にも写真を見せなかった。写真が他者とコミュニケーションするものではなく自分の立ち位置を確認する行為だったと思う。そのキャリアを振り返るに、アーティストとは生きる姿勢のことなのだとよくわかる。それは結果を求めることなく、写真を通じて世の中と能動的に接する人のことなのだ。自らアーティストと名乗る人ほどエゴが肥大しており、本来の意味とは対極の存在なのである。ヴィヴィアン・マイヤーの魅力は、類まれなヴィジュアル能力とともに、この潔いほどエゴがない写真家人生に尽きるだろう。

2010年以降、彼女の写真展は欧米各地で開催。2011年に写真集が刊行されたことでブームはさらに拡大する兆しだ。オリジナル・プリントはいまではニューヨークの有名商業ギャラリーのハワード・グリーンバーグで取り扱われているというから驚きだ。生前の彼女が想像もできなかった高い評価だろう。 彼女の膨大な資料の調査はジョン・マーロフ氏のもとで現在も進行中とのこと。彼の情熱と信念には頭が下がる。まだカラー作品、フイルム、オーディオ録音も多数残されているとのことだ。今後の調査の展開とともに彼女のキャリアの全貌が明らかになり、写真史での評価が定まるのが楽しみだ。

写真集”Vivian Maier/ Street Photographer”(powerHouse刊)は以下で紹介しています。
http://www.artphoto-site.com/b_718.html