トミオ・セイケの「Julie – Street Performer」展は、いよいよ今週末の12月2日まで。どうぞお見逃しがないように!今回は、写真展をより楽しめるように個別作品の見どころを紹介しておこう。
地下鉄の入口付近に座ってジュリーが大判の新聞を見ている作品がある。紙面サイズからして、大衆が読むタブロイド判の夕刊紙ではなく一般紙だと思われる。
紙面から、「Dancer」、「Perfection」などの文字が読み取れ、縦位置のダンサーの写真が確認できる。ジュリーが読んでいるのはアート・文化欄だと思う。ストリート・パフォーマーが一般紙を読むのはやや意外な感じがするが、インテリ層が読む英国の一般紙は、バレー、演奏会、舞台などの公演の論評に大きく紙面スペースをさいている。
紙面から、「Dancer」、「Perfection」などの文字が読み取れ、縦位置のダンサーの写真が確認できる。ジュリーが読んでいるのはアート・文化欄だと思う。ストリート・パフォーマーが一般紙を読むのはやや意外な感じがするが、インテリ層が読む英国の一般紙は、バレー、演奏会、舞台などの公演の論評に大きく紙面スペースをさいている。
私がロンドンに住んでいた時に驚いたのは、公演記事の迅速性だった。前の晩に見た公演の評論と評価が、早ければ翌日の朝刊、もしくは数日のうちに紙面に掲載されていた。それを見て、自分が実際に鑑賞した演奏などの印象と専門家の評価との違いを確認し勉強していた。ジュリーは、当時はストリート・パフォーマーだったが、バレーを幼少時から学んでいて、将来は舞台などでの表現者になるのを夢見ていたという。それゆえ、毎夜ロンドンで開催される各種の公演(たぶんダンスやバレー系)の専門家の意見に関心が高かったのではないか。
偶然、ギャラリーでこの作品を見ていた人が新聞社に勤めていて、日本と西洋との一般紙のアート欄の違いへと話題が展開した。一般的に、海外の記事は過去のその分野の実績の積み重ねとの比較で優劣の判断を下す傾向がある。日本のアート記事は、プレスリリースの内容そのままの紹介である場合が多い。今年話題になったキュレーションサイトのアート版に近いともいえるだろう。小説家や評論家が文章を寄せる場合もあるが、それらは本人が好き嫌いの理由を探して書いている場合が多い。好き嫌いは本来言葉で簡単に表せない。それを無理に語ろうとすると感想文的になってしまう。どうしてこのような違いが出てくるかというと、西洋では長年にわたり業界の動きをフォローする専任の記者が存在するものの、日本では文化欄の担当者が頻繁に内部移動するからだと思われる。またアートについてコメントする作家は文章執筆には慣れているが、決して一分野の専門家ではない。アートや文化分野はあまり専門知識や経験の蓄積が重要視されないのも背景にあるだろう。海外の読者は、公演などを判断する上での専門的な視点の提供を求めるが、日本の読者は小難しい文章よりも、よい情報を選んで整理整頓して伝えてほしいという要望が強いのだと思う。結局、新聞自体ではなく一般大衆の求める情報の違いが日本と西洋の文化関連の記事に反映されているのではないだろうか。新聞社の人との止めどない会話はこのような結論となった。
進行方向が違う2台の車が画面上ですれ違い、車道の向こう側の左側にジュリーと友人の姿が小さく写っている作品がある。彼らの後ろの壁面には「Second Hand Bookshop」という古書店の看板が見られる。画面右側後方にはロンドン・バスの停留所があり、ロンドンで撮影された作品であることがわかる。本作は3種類あるミニ・プリントにセイケがセレクションした本人お気に入りの1枚だ。写真の中の車は、欧州フォード社製のカプリ・クーペと、GM資本のボクスホール社製のカヴァリエⅡハッチバックだ。ダンサーのジュリーが北米のカナダ人であることは前にも触れたが、本作で撮影された2台もアメリカ資本による欧州製の乗用車なのだ。
今回の展示作品は、昨年リヴァプールの若者グループを撮影した「Liverpool 1981(リヴァプール 1981)と対になっている。英国では、伝統的にその人が育ってきた家系や地域が重要視されてきた。「自分の未来を簡単には変えられない」という認識がある。リヴァプールの若者グループの明るさや笑顔は、現状は変わらないのだから、今を楽しく生きようという諦観が根底にあるのだ。それに対して、アメリカンドリームを信じる北米の人は「未来は変えることができる」と考える。英国のロンドンで、米国資本の会社の自動車と明るい未来を信じるカナダ人のストリート・パフォーマーを撮影した本作は、セイケの本展の作品テーマを象徴的に表しているのだ。たぶん、当時のセイケは、階層社会が残っていて閉塞感が漂う英国よりも、北米のポジティブな考えに魅力を感じていたのだと思う。
次回作の「Portraits of Zoe」のモデルになったのはゾイという米国人女性だ。作家活動には高いテンションの維持が必要だ。ポジティブな姿勢を持つ人と組むほうが、相乗効果で新たな創作が生まれやすい。英国に在住しているセイケが米国人を被写体に選んだのは、この辺の心理が影響しているのではないか。
本作は、写真撮影と発表時期の関係性が作品テーマに大きく関わる事実を示してくれる。ちょうど撮影された80年代の前半はポスト工業社会、いわゆるニューエコノミーが北米と英国で始まった時期にあたる。リヴァプールの若者グループに象徴される英国の労働者階級は、その後にニューエコノミーの結果による経済グローバル化の影響を受けることになる。工場移転、移民増加、緊縮財政などに直面して、厳しい生活環境を強いられるのだ。作品中の看板があった古書店も、ニューエコノミーと同時進行したIT社会化によるオンライン・ブック・ショップの乱立に直面する。資本の原理が働き、結果的にコストのかかる多くの業種が廃業に追いやられるのだ。
それが2016年になり、ついにグローバル化の欧州版であるEUからの英国離脱決定(ブレグジット)へとつながっていく。グローバル化によって置き去りにされた、リヴァプールの若者たちに重なる先進国の労働者階級が、ついにエリート層に対して反旗を翻したのだ。
本作が2017年に公開されたのは非常に重要な意味がある。セイケの1982年撮影の写真作品には、世界でその後に起きた35年のストーリーの原点がある。35年前の作品には、21世紀社会の時代性が反映されているのだ。また日本で公開されたことで、日本人(特に若い層への)、今後の生き方を考えるきっかけにしてほしい、という問いかけも含まれている。
優れた写真作品に能動的に接すると、このように様々なストーリーが読み取れる。つまり、作品のテーマ性の見立てが可能なのだ。
トミオ・セイケの「Julie – Street Performer(ジュリー –
ストリート・パフォーマー)」展は、12月2日(土)まで開催。うまい写真を撮りたい人はもちろん、写真で自己表現したい人にとっても必見の写真展といえるだろう。
ストリート・パフォーマー)」展は、12月2日(土)まで開催。うまい写真を撮りたい人はもちろん、写真で自己表現したい人にとっても必見の写真展といえるだろう。
(作家来廊予定)
セイケ氏は最終日の午後1時30分くらいに来廊予定。