アート写真の成功方程式とは?
直感を疑う勇気

アート・フォト・サイトで行っている講座では、よくアート写真の世界で成功する方法を教えてくれと質問される。私は、成功自体を求めないことだ、などと禅問答のようなアドバイスとを返すことが多い。

成功とは何か。たぶん多くの人は、写真作品が世の中で評価され知名度が上がり、個展開催、写真集出版、そしてオリジナルプリントが高額で売れたりするようなイメージを持っているのだろう。しかし、現実的にはそのような成功イメージが短い期間で実現する可能性は極めて低いといえるだろう。最初は自分の能力と可能性を信じて、作品制作に時間と費用をかける。しかし、評価がないどころか無視されるのが当たり前、まして販売に結び付くことなどはない。つまり、成功イメージを持っていると失望してしまい作家活動を辞めてしまう可能性が極めて高い。だから逆説的に短期的成功を求めないことが継続の基本になる。継続する限り成功する可能性がある、というのが上記の禅問答の意味なのだ。

世の中には、成功者のキャリアを分析して、同じように心構えを持って行動すれば成功するというビジネス書が溢れている。上記のような質問をしてくる人は、アート写真における同様の成功哲学を知りたいという意図なのだろう。若い時は、ある程度の能力があり、積極的に努力して頑張ればビジネスの世界で成功すると信じているもの。しかし、年齢を重ねていくと、実は社会での成功の大部分は運により決まるという認識が、長く苦い実体験を通して培われるようになる。先日に亡くなった野村克也氏の座右の銘に、江戸時代の大名松浦清の発言として知られる、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」がある。人生での成功は運によるとしても、その確率を高めるには、できる限り失敗を避ける準備を怠らないことにあるような意味だと解釈している。それはアート写真の作家活動では何に当てはまるのか?作家活動の成功確率を高めるために、絶対に踏んではいけない地雷、つまり避けなければならないことを考えてみよう。

アートの世界で一流と言われる写真家/アーティストが、私は自分の直感を信じて作品制作を心がけている、というような発言をしているのを聞いたことがあるだろう。しかし、私はあえて若手新人は直感に頼りすぎないことを心がけてほしいとアドバイスしたい。
ややわかり難いかもしれないが、既に評価されている経験豊富な一流アーティストと、経験が浅い人との「直感」の本質は全く違うという意味だ。一流写真家は、いままでに様々な作品制作を行い、膨大な過去の作品に対峙して思考している。また人生経験も豊富で、結果として幅広いスキルを持っている。彼らは、それらを通して世界を見ているともいえる。過去の先人たちの偉大な仕事の流れと、深いところで繋がっているのだ。入ってくる無数の情報は、積み重ねられたフィルターを通り、無意識の深いところで重なり合い、突然変異や新たな組み合わせがおき、結果として直感が生まれてくる。
若手新人は、当然のこととしてスキルがまったくない。かれらに自然浮かんでくる直感はどこから生まれかというと多くの場合、単に思い出しやすい、想像しやすい情報から本能的にもたらせるのだ。この二つの直感の区別は極めて難しい。また直感を信じている人は何かを学ぶ必要性を感じない。趣味のアマチュア写真家なら全く問題がない。しかしアーティストを目指す若手新人は、一流と言われるまで、様々なことを学び経験してスキルを獲得していかなければならない。

直感に頼りすぎると、次第に思い込みに囚われて柔軟な姿勢がなくなる点も指摘しておこう。非常に多くの若手新人が、自分がいったんまとめたポートフォリオに囚われてしまうのだ。そして、ひたすらそれを認めてくれる人を探しにポートフォリオ・レビューを回ったりする。またデジタル印刷普及により写真集制作の敷居が非常に低くなった。写真集というモノが出来上がると、自作への思いはさらに強化されてしまうのだ。
作品は長い時間をかけて、世の中に触れることで常にアップデートを続けなければならない。自分のメッセージが伝わらないと判断したら、作品制作を断念して、新たなテーマを世の中で再び探す勇気も必要なのだ。多くの人を感動させるようなメッセージを持った作品は簡単には制作できない。一般的な人間は、自然と湧いてきた直感とそこから持たされる思い込みに囚われやすいという心理的特徴を持つ。やや抽象的だが、突き詰めるとアーティストは、そのような一般人に新たな視点を作品で提示して、彼らが自らを客観視するきっかけを提供する人なのだ。だから創作する人は、それを意識したうえで常に自らを客観視する姿勢を持たなければならない。自分が違和感を持つことを無視せずに、あえて対峙する勇気を持つのだ。直感を信じ思い込みに囚われてしまうと、若い時点で進歩が完全に停滞してしまう。
そのような、根拠なき自信に満ちあふれた若手新人でも、中には何らかのきっかけで思い込みに気付く人がいる。誰かが、嫌われることを覚悟して、彼らがフレームの中で凝り固まった見方をしている事実を指摘しなければならないと考える。私がいつも繰り返し言っているように、「アーティストとは、社会と能動的に接する一つの生き方」だと気付いてほしい。

欧米のフォトブック解説書を読み解く
(パート2)写真集との違いを知っていますか?フォトブックの作り方(17の基本ルール)

前回に続き、ヨーグ・コルバーグ(Jorg Colberg、1968-)による、フォトブック解説書「Understanding Photobooks(The Form And Content of the Photographic Book)」(A Focal Press Book、2017年刊)のレビュー・パート2だ。

今回は、”フォトブックの作り方(17の基本ルール)”を以下に簡単に紹介してみよう。

  1. “なぜこのフォトブックが作られなければならないか”という質問に対する明確な回答を持とう
    フォトブック制作上で一番重要なのは、作品コンセプトを本の形式で展開していくことだとしている。つまり、それぞれのフォトブックは作家が発見した社会における問題点をまず提示して、それに対しての自分なりの解決法を提示している。私は問題提起のみでも十分にフォトブックとして成立すると考えている。
    写真のオリジナル・プリントがアート作品になる場合があるのと同じく、写真集の中のフォトブックは、ここの部分が担保されてアート表現になり得るのだ。フォトブックを作る理由が明確に語られない場合、それは写真を集めて本にしたフォト・イラストレイテッド・ブックとなる。同じ写真集のフォーマットなのに、写真家のアート表現と、写真がデザイン的に素材として編集・収録されたものがあるのだ。初心者には、この2種類の写真集の区別は非常に難しいだろう。特に最初に写真ありきで、”フォトブックを作る理由”が後付けされて制作されたケースは厄介だ。それらは、体裁上はフォトブックの制作理由が語られているように見える。しかし多くの場合、写真と制作理由との関わりが不自然、不明瞭で、違和感が感じられるのだ。
    これらの例は、商業写真家やアマチュア写真家の自費出版本に非常に多く見られる。アート写真の専門家が見たらすぐにわかる。しかし、それらが本として悪いという意味ではないので誤解しないでほしい。アート表現としてのフォトブックではないが、写真を掲載したフォト・イラストレイテッド・ブックとしては完成度が高い場合も散見される。両者は外見にはあまり違いがないが、異なる価値観で作られている別物なのだ。
    またパート1でも述べたが、私は最初に写真ありきで、写真家本人は何も語っていないが第3者により制作理由が語られる方法(見立て)もあると思う。ここでは詳しくのべないが、それは欧米とは違うアプローチで作られる、日本独自のフォトブックになり得ると考えている。実際に、いま高く評価されている60~70年代の日本のフォトブックは、海外の専門家に見立てられたものが多い。個人的には、現在の自費出版本の中にも見立てられる可能性を持つものが存在していると認識している。しかし、いまや世界中で出版される写真関連本が膨大な数にのぼる。その中には良質なフォトブックや見立てられる可能性のある本がある一方で、レベルの低い本も数多く存在している。専門家の目に留まらないで、本の洪水の中に埋没して忘れ去られるものもかなりあると思われる。
  2. リサーチの実践
    写真家の心が動いて、読者に伝えたいと考えたメッセージを写真で伝えるには様々な方法がある。それを実践したのが過去に出版されたフォトブックとなる。成功作、失敗作があるが、それらを分析することは自身のフォトブック作りに非常に役に立つ。海外の優れた写真家は、フォトブック・コレクターの場合が多い。それは収集趣味というよりも、自作のためのネタ集めの意味合いが強いと思われる。
  3. ショート・カットを避けよう
    優れたフォトブック作りに近道はないということ。フォトブック制作には多様な分野の膨大な仕事量がある。一人で取り組むとどうしても手抜きが起きる。専門家を雇い入れることがその解決になる。
  4. フォトブックは専門家のコラボレーションで作られる
    本書は写真家の独断主義をいさめている。”My way or the highway”(私のやり方に従うか、それとも出て行くか)が、写真家の出版社に対しての最悪の態度だとしている。大手の場合でも、アドバイスを聞かないような自己主張が強い写真家には自己での出版を進めるとのことだ。出版社は経験豊富でポリシーを持っている、写真家が思い通りにやりたくて出版社の主張が聞かない場合はプロジェクトがすすまない。また自費出版では、写真家がすべての制作過程を同時にこなそうとする場合がある。本書では、それこそは諸悪の根源としている。
    以前のブログ「独りよがりが失敗を生む すぐれたフォトブックの作り方」で、2015年秋の”The Photo Book Review”第9号を引用した。そこには、フォトブック制作プロジェクト時における写真家の心がけについて、自分以外の専門知識を持つ人を利用すること、つまりコラボが良いプロジェクトにするためには必要だ、と提案している。
    本書でも上記の内容を引用していた。つまり優れた写真家でも、フォトブック制作に求められる様々な分野の仕事の素養を持っているわけではない。写真家は、デザイナー、エディター、ライターなどからなるチームのコーディネーターになるべきということ。写真家の主張や思いを実践するためのチームではないことが注意点だ。
    ビジネスマンの人は、会社での仕事の流れを思い起こしてほしい。役職についた人は、各分野の専門家の能力を生かして仕事を遂行していくだろう。それは全体のコーディネーターであり、決して独裁者ではない。フォトブックの制作過程も全く同じなのだ。会社は利益を生むため、フォトブックは作家のメッセージを伝えるためにチームワークで仕事を進めていくのだ。
    フォトブック作りでは、上記のルール#1が明確で、各担当者に浸透していないと、チームワークが上手く働かない。関係者のエゴのぶつかりあいに陥りがちになると指摘している。
  5. どのフォトブックも写真家の出費が必要だ
    まずフォトブックを出版するには写真家のコスト負担が必要だということ。ファンがいる有名写真家で、コンテンツが素晴らしければ出版社が全てのコストを負担する場合もある。しかし、多くは写真家がフォトブックを買い取るなどでコストの一部を負担するのが一般的とのこと。
    本書では大手のDewi Lewisの例を紹介している。それによると、最近は50~60%程度のコストを写真家に負担してもらっているとのことだ。アーティストとしての評価が定まっていない、広告写真家やファッション写真家が有名出版社から豪華なフォトブックを刊行することがある。どうもそれらは、写真家が仕事での儲けをフォトブック製作に投資している事例のようだ。アーティストのブランド構築のために、フォトブックが使われているとも言えるだろう。
    歴史的にも17世紀からアートブックにはスポンサーやパトロンがついていた。出版の際は、写真家はどのような方法でもコスト負担が求められ、ほとんどの場合も儲けを得ることができない、と厳しく断言している。
  6. すべてはフォトブックのために
    これはルール#4のフォトブックは共同作業と関連する。
    編集、シークエンス、写真セレクション、デザイン、素材、サイズ、装丁など、すべての判断は、良いフォトブック制作と関わってくる。
  7. どの決断にも正しい理由がある
    ルール#6で上げた複数の項目の決断には明確な理由があるべきだ。それはそれぞれの担当者の好き嫌いのような感覚重視で行うものではない。繰り返し出てくるが、ここでも最終的にはフォトブックのコンセプトと予算とに関連しなければならない。
  8. 妥協することを恐れるな
    人生と同じで、フォトブック制作にも妥協はつきものだ。妥協は様々な理由から求められるだろう。まず共同作業には妥協はつきものだ。コンセプト重視の制作手法も写真家の個人的好みと相反するかもしれない。一番大きな実際的な妥協は、予算からくるだろう。
  9. 完璧を目指し、できる限りベストを作ろう
    フォトブック制作は、オール・オア・ナッシングの選択ではない。最終的に必要なら妥協しても本を世に送りだすべきだ。その制約の認識と妥協の判断は、一人で行うよりもチームで行った方が的確にできる。
  10. 完璧なフォトブックなどは存在しない
    一つのフォトブックのプロジェクトには様々な方法が存在する。そこには、パズルや模型キットのように絶対的な正解は存在しない。パーフェクトなフォトブックではなく、できる限りベストなものを作ればよい。またその創作過程は従事した人には重要な経験となる。
  11. フォトブックは写真家に多様な効用をもたらす
    重要なのは出版できた事実だとしている。また本は写真家のプロモーション用の手段でもある。それがきっかけで、世間からの何らかの承認を得る可能性がでてくる点を考慮すべき。
  12. あなたの読者を想定して作ろう
    これは、自分でどれだけ数多くのフォトブックを購入したかの経験がものをいう。それは、写真家ランク、内容、装丁などによるフォトブック市場における価値観が持てるようになること。それに照らし合わせて、自分の本の造りや販売価格の適正な判断が下せるようになる。フォトブックをあまり買った経験がないのに、作りたいという人が割と多いものだ。
  13. 編集とシークエンスは謎だらけの黒魔術ではない
    写真作品のコンセプトをより的確に伝えるために、編集とシークエンスが行われる。これが前提だ。写真の見方、複数の写真の関係性の理解なしでは的確にその作業ができない。ラズロ・モホリ=ナジは、”1枚の写真は独立した存在意義を失い、それは全体の構造の一部となる”と、フォトブックと写真の理想の関係を語っていると本書は引用している。その実践には、読者を納得させるシークエンスのロジックの存在が必要だという。
    またシークエンスは最初から最後までに至る”動き”とも理解できる。これは経験を積み、優れた手本を研究することで学べる。教材として提案しているのはウォーカー・エバンスの「American Photographs」と、ロバート・フランクの「The Americans」。納得である。
  14. プロセスに時間をかけろ
    これは文字通りの意味で、時間制限のある中でも必要なら制作期間を延長する余裕が必要だということ。問題があるのに、その回答が見つからないまま制作を続けても良い本はできない。
  15. フォトブックを現物として作業しろ
    本は物理的なものだ。ダミーを制作して実物のサイズ、質感、装丁などをチームで議論して確認したほうが賢明だ。
  16. 制作の要素は全てが重要だ
    ここはルール#4の”コラボ”とルール#8の”妥協”と関わってくる。フォトブック制作過程がすべてうまくいくのが理想だ。しかし、多くの場合は問題に直面する。問題は制作の最終段階よりも、最初の段階で判明する方が対処が容易だ。早い段階から関係者とのコラボを行うことで、問題点に早く気付いて、適切な対応(妥協)が可能になる。
  17. 制作費に思い悩むな
    フォトブックと予算に対する基本的な認識を持たないといけない。それは、制作には多大な費用を写真家が負担しなければならない。出版社が無料で制作してくれるとも、儲けられるとも期待してはいけない、というものだ。以下のようなフォトブック制作者のジョークが紹介されている。”豊富な予算を持って開始すれば、フォトブック制作後に少しのお金が儲かるかもしれない”。つまりフォトブックを制作したいと考える写真家は、事前にある程度の予算を確保しておかなければならないというアドバイスだ。
    そして制作に取り組むにあたり、以下の理解が必要であるとしている。それは、お金儲けを考えるなら、フォトブック以外にもっと有効的な手段がある。フォトブック制作は、無駄になるかもしれない金融的な投資で、金銭的な負担によって持たされるアーティストのステータスであると考えよう。
    本書は、フォトブック制作への取り組み方がかなり具体的に、それも生々しく書かれている。所々に、制作者への厳しいアドバイスもある。本書をまとめると、すべてのフォトブック制作を考えている人は、まずルール#1のフォトブックを作る理由を厳しく自分に問い詰めなければならない、ということだろう。

欧米のフォトブック解説書を読み解く
(パート1)
写真集との違いを知っていますか?

ヨーグ・コルバーグ(Jorg Colberg、1968-)による、フォトブック解説書「Understanding Photobooks(The Form And Content of the Photographic Book)」(A Focal Press Book)をタイトルに魅かれて読んでみた。アマゾンでは2016年刊と記載されているが、それはハード版で、ペーパー版は2017年に刊行されている。本書の著者ヨーグ・コルバーグは、写真家、ライター、フォトブックの教育者。写真関連メディアに数多くの文章を寄せている専門家だ。
序文には、フォトブックの重要性がアート写真界で高まっているのにフォトブックとはなにか、どのように機能するかのメカニズムや情報を解説したガイドが存在していない。作家と制作者のために、フォトブックのイメージ、コンセプト、シークエンス、デザイン、プロダクションの関係性をより良く理解してもらうことを目指して執筆したと書かれている。今回は本書を通して、海外の最新事情と、フォトブックがどのように認識されているかを確認しよう。

まず最初にフォトブックの意味を再確認しておこう。日本では写真が掲載されている本はすべて「写真集」と分類される。しかし、現在の欧米のアート写真界では、写真集は、フォトブック、モノグラフ、アンソロジー、カタログなどと色々な種類に分けられている。日本と同様の広い意味で使われるのが、フォトグラフィック・ブックやフォトグラフィカリー・イラストレイテッド・ブックとなる。そのなかでフォトブックは、作家のテーマやコンセプトを写真集のフォーマットで表現したものだと理解されている。いまやアート写真表現の一分野としてコレクションの対象にもなっているのだ。

本書には、海外の現実的なフォトブック事情がていねいに書かれている。2015年英国のフィナンシャルタイムズに、フォトブックがブームになっているという記事が掲載された。デジタル化進行で出版コストが劇的に下がって、フォトブック制作の敷居が低くなった。状況をあまり知らない人は、無名や新人の写真家でも優れた内容なら売れるようになったと勘違いしがちだと指摘している。
実際にそのような例はあるようで、例えばフォトジャーナリストのCristina de Middleによる”The Afonant” (2012年刊)が紹介されている。これは、1964年のザンビアの宇宙計画を事実とフィクションを混ぜて表現したもの。自費出版した1000冊が完売したという。昨今は有名写真家でも短期間に1000冊売るのは容易ではない、大変な快挙といえるだろう。
このような例は誇張され一般化されがちだが、実際は極めて稀なケースのようだ。過去15年で、アート関連本の市場は大きく変化した。90年代後半ごろまでは、一般的なフォトブックは4000冊程度を印刷するのが当たり前だったという。それが写真や印刷のデジタル化進行により、膨大な数のフォトブックが刊行され流通するようになった。市場が供給過剰となり、いまや1500冊程度しか作られなくなったというのだ。実際に新興出版社が発行部数を絞って良質な本を出して完売するケースも散見されるという。そして、売り切れたら再版するというビジネスモデルだ。同書によると全体の売り上げ冊数自体は90年代後半とほとんど変化がないという。新興フォトブック出版社を経営するマイケル・マック氏は、世界中のシリアスなコレクターは500名くらいしかいない。出版ブームはバブルの様相になってきており、それが持続するかは時間が証明してくれるとかなり慎重な見方をしている。
ニューヨークの専門店ダッシュウッド・ブックのデヴィット・ストレテル氏は、世界には数百人のコレクターがいるとしている。市場縮小が起きても、フォトブック表現における膨大な範囲の興味が存在することから、市場への関心は決してなくなりはしないとみている。
関係者により見方は様々なようだ。フォトブックの出版冊数は増加しているものの、市場規模自体には大きな変化がないようだ。つまりフォトブックの種類が増えたことで、1冊の販売数が減少傾向にあるという意味のようだ。たぶん販売が増えない理由の一つには、フォトブック情報の氾濫があるだろう。いま多くの出版社、販売店、ネットショップ、写真家からフォトブック関連情報が日々発信されている。以前にアート写真オークション分析の時に述べたように、読者は情報の洪水の中で消化不良を起こしているのではないか。

本書「Understanding Photobooks(The Form And Content of the Photographic Book)」は英文だが、非常に簡素でわかりやすい表現で書かれている。全部で7章に別れていて、本文内容を最終章で17のフォトブック制作のルールという形式で丁寧にまとめている。英語があまり得意ではない人は、このルールを読んだ後に興味あるルールに関連した章を熟読すればよいだろう。実際例として”In Focus”というセクションで、5冊のフォトブックを取り上げて解説している。私の知っている写真家では、リチャード・レナルディ―の”Touching Strangers”(Aperture、2014年刊)のカバー写真が、編集とシークエンスの実例の項目で紹介されていた。

制作上で一番重要なのは、作品コンセプトをフォトブック形式で展開していくとしている。ルール#1の「”なぜこのフォトブックが作られなければならないか”という質問に対する良い回答を持とう」で語られている。コンセプトという言葉が出てくると多くの人が苦手意識を持つだろう。これに関して本書はわかりやすく解説している。つまり、それぞれのフォトブックはシンプルな写真家が認識した問題に対しての解決法を提示している。写真を使用してどのようにストーリーを語るか、また読者に特定な経験を提供できるかということだ。本作りで重要な全ての要素はここの部分の明確化と、関係者の共通理解にかかっている。たとえば、写真の配列を考えるシークエンスと編集作業。これも基本はコンセプト、つまり中心になるメッセージを伝えるために考えていかなくてはいけない。ここの部分が欠如していると、ただ写真を感覚で選んで並べるだけになってしまう。メッセージを伝えるための手段だったはずが、制作する行為自体が目的化するケースだ。その場合、判断基準がないので、どうしてもデザイン的な要素が優先されてしまう。

実は、私は最初に写真ありきのフォトブックもあると考えている。ただしそれには第3者による見立てが必要になる。これは、限界芸術の写真版として提唱しているクール・ポップ写真とまったく同じ構図となる。その場合、写真家ではなく、見立てる人が制作チームのまとめ役になると想定している。それは本書で書かれているような欧米の考え方とは全く違ったアプローチで作られる、日本独自のアート作品としてのフォトブックになる。

 パート2では、”フォトブックの作り方 17の基本ルール”を更に詳しく解説しよう。

デジタル・プリントの最前線 ファインアート系プリントのスタンダード

ⒸWilliam Wylie

現在、”As the Crow Flies”展をテリ・ワイフェンバックとともに開催中の米国人写真家ウィリアム・ウィリー(1957-)。ヴァージニア大学アート部門の教授も務めているベテラン写真家だ。彼の展示作品”The Anatomy of Trees”(木の解剖学)”シリーズは、全作が8X10の大判カメラで撮影され、インクジェット・プリンターで制作されている。アクリル越しという理由もあるかもしれないが、銀塩写真だと思いこんでいる人もいるくらいだ。多くの人がプリントの高いクオリティーに驚いている。

作品制作は、スキャニング、プリント出力までも経験豊富な専門業者に委託しているという。(ただしデジタル・ファイルは自らが制作している)来日した本人に話を聞いてみるに、米国でのファインアート系のインクジェット作品制作の認識が日本とかなり違うことに気付かされた。
日本ではまだ写真のインクジェット出力はアマチュアのものだという認識を持つ人が多いだろう。しかし、米国では専門業者に依頼すればインクジェットでもアート用のファイン・プリントが制作できると考えられているようだ。(彼のようなモノクロ写真でも当てはまるとのこと)いまではほとんどの写真家やアーティストは専門業者に発注しており、美術館も普通にそれら作品をコレクションしているという。ちなみに彼のプリントも、ワシントンD.C.のアダムソン・エディションに依頼している。今ではインクジェット用ペーパーの方が、アナログ用よりもはるかに種類が豊富になっている状況らしい。特にこの10年でテクノロジーがハード・ソフト両面で格段に進化して、また制作ノウハウが専門家に蓄積されたという。現在では、専門業者による仕事がデジタルによるファイン・プリントのスタンダードだと認識されるようになったと断言していた。
このような状況に至ったのは、2000年代に現代アート系のアーティストがデジタル写真での表現を採用するようになったことがある。それがきっかけで、かつては個別に存在していたアート写真と現代アートの市場が急激に融合していくのだ。しかしここの部分を説明すると非常に長くなるので本稿では触れないことにする。
私は欧米でプリント技術が進歩した背景には、マーケットの存在が大きいと考えている。たとえデジタルでも、ファインプリント制作には、すべての作業過程で多大なコストがかかる。しかし、大きな規模の市場があれば作品が売れるので技術への投資が可能になる。そのような状況で、ハード面の技術進歩とともに、デジタル時代のインクジェット・プリントのノウハウがプリント業者に蓄積されてきた。
私は世界中のアート写真オークションをフォローしているが、2016年にはいままで28の写真専門オークションが開催され売り上げは約64億円だ。これでも減少傾向なのだ。これにギャラリーの店頭市場がある。市場規模はオークションの約2倍程度といわれている。大まかな計算だがだいたい192億円くらいのアート写真市場が存在しているのだ。これには現代アート系写真は含まれていない。
一方で、日本には写真専門のオークションはないし、コマ―シャル・ギャラリーも数えるほどしか存在しない。作品が売れないので高いコストを支払ってプリントを制作する人はあまりいない。写真家が民生用プリンターで作品制作する場合も見られる。業者依頼は大判のロール紙にプリントするときが中心になっている。したがって、アート系デジタル・プリントのノウハウがプリント業者に蓄積されていない。現状ではデジタル・プリントの品質にはかなりのばらつきが見られる。一部には、アナログのCプリントや銀塩プリントと比べてイメージ再現力が不自然に感じる作品も散見される。したがって、写真家やシリアスなコレクターはいまだにアナログの銀塩プリントを好む状況が強く残っているのだ。
上記のウィリー氏によると、10年前の米国でもインクジェットの品質が悪く、銀塩写真の優位性を主張する人が多かったそうだ。日本はいまだにその状況にとどまっているのではないか。写真が売れないといわれて久しい日本市場。デジタル時代を迎え、その状況はさらに混沌としてきたようだ。

今回の”As the Crow Flies”展では、テリ・ワイフェンバックがカラー、ウィリアム・ウィリーがモノクロのインクジェット作品を展示している。米国のスタンダートになっているデジタルによるファイン・プリント2種類を見比べることができる絶好の機会といえるだろう。ブリッツでの写真展は12月17日まで開催しています。

写真でアーティストを目指す人へ 誰からアドバイスをもらうべきか?

ファイン・アート系の写真は、誰かが作品に価値を見出すことで初めて存在する。最初から価値があるのではない。これらはアートの歴史の中で意味付けられ、資産価値が認められる。もっと具体的にいうと、21世紀の現代で、社会的に価値がある(独りよがりでない)メッセ―ジを発していると誰か認めるということ。
それを行うのは、美術館などのキュレーター、評論家、編集者、写真家、ギャラリーのディレクター、ギャラリー・オーナーであるギャラリスト、コレクターなどである。ファイン・アート系を目指すのなら、彼らから価値を認められなければならないのだ。
ただし、なかには単なる作品に対する好み、表層的な意見、感想を述べるだけの人もいるので注意が必要だろう。私は作品に対しての立場上の責任の重さにより、発言者の意見・感想の信頼度が左右されると考える。

一番信頼できるのは、経験豊富なベテラン・コレクターの発言だろう。もし高く評価した場合、自分がその作品を購入する可能性を意味するからだ。お金を出す価値があるかの判断は真剣勝負になる。

ギャラリストの発言も傾聴に値する。高い評価は自分がオーナーのギャラリーでの作品展示や購入の可能性につながるからだ。ディレクターの意見も信頼性はあるものの、最終判断はオーナーに伺わなければならない。どうしても前記の二人よりはやや軽くなる。
ただし、コレクターもギャラリー関係者も独自の方向性や好みを持っている点には注意が必要だ。自分の作品のテイストが彼らと全く違う場合は意見はあまり参考にならない。事前の情報収集が必要だろう。

キュレーターは、美術館クラスの作品を相手にしている場合が多い。一般写真家の作品に対して責任感を持って発言する機会は少ないだろう。欧米のキュレーターは一般人向けのポートフォリオ・レビューには参加しないものだ。

評論家、編集者、写真家は、しがらみが少なく最も自由に発言できる。ただし写真の技術論や幅広い感想になりがちでもある。具体的なアドバイスが欲しいファイン・アート系を目指す人には物足りないかもしれない。しかし、キャリア初期で自分の作品の方向性が見えないアマチュア写真家などには、彼らの様々な視点を持つ意見や感想は参考になるはずだ。写真が趣味で多くの仲間とコミュニケーションを図りたい人にも適切なアドバイスをしてくれる存在だと考える。

写真を評価してもらう時には、まず自分が目指す方向を明確に認識して欲しい。それによって見てもらうべき人がおのずと決まってくる。またどの職種の人でも、経験が長い人の意見の方が信頼できるだろう。単純に判断基準となる、ヴィジュアル、アイデア、コンセプトなどの情報蓄積量が豊富だからだ。ポートフォリオ・レビューなどでレビュアーを選ぶ際はそれらの点に注意するべきだろう。写真撮影やプリント制作が上手くなりたいアマチュアは、経験豊富なプロ写真家がよいだろう。アーティスト志望で責任を持った重い発言を受け止められる人は、作品ポートフォリオの完成度によって、コレクターやギャラリー関係者に見てもらうべきだ。もしあなたが自分の写真の評価やコメントに物足りなさや、違和感を感じているのなら、見せる相手が間違っているのかもしれない。

独りよがりが失敗を生む
すぐれたフォトブックの作り方

写真専門誌アパチャーを定期購読していると”The Photo Book
Review”というフォトブック関連の情報を記載した季刊新聞がおまけに付いてくる。

アパチャー財団が手掛けている”Aperture Foundation Photo Book

Award”などは同紙を通じで情報が紹介される。同賞のことに少し触れておくと、私はフォトブックに対する賞はかなり無理がある試みだと考えている。アパチャーはフォトブックを紹介するカタログ本を出版しているので、現在進行形で優れたものを選んでアーカイブ化するという意図はわからないではない。 だがフォトブックがアート表現の一形態と理解すると、その範囲は広大となり、分野は非常に細分化される。限られた人数で1年間に多くの国々で刊行されたすべてをカヴァーするのはかなり難しいだろう。発売時期も評価に影響すると考えられる。結果的に、どうしても選者や出版社の好みや意向が反映されがちになってしまう。特に実績のない新人の場合はその傾向が強くなるのではないか。しかし、賞の企画・実行には大きな意義があるのは明らかである。上記のような様々な限界の上で導き出された結果だと認識すればよいだろう。これをグローバルな客観的な評価だと勘違いしないことが肝心だ。

さて2015年秋の”The Photo Book Review”第9号では、フォトブック制作プロジェクト時における写真家の心がけについて特集している。参考になる点が多い、非常に興味深い内容なので紹介しておこう。
編集はユトレヒトのデザイン・オフォイスの創業者Arthur
HerrmanとJeroen Kummerの二人だ。彼らは”写真撮影は孤独な作業で、そのために写真展やフォトブックなどのプロジェクトを行うときにどうしても写真家自身がすべてをコントロールしようとする傾向がある。しかし、実際には自分以外の人の専門知識を利用すること、つまりコラボが良いプロジェクトにするためには必要だ”と提案している。ここでのコラボの相手とは、編集者、タイポグラファー、グラフィックス・デザイナー、他の写真家、ギャラリストが含まれる。同紙巻頭の編集ノートでは”共同作業と互いに影響を与えあうことがプロジェクト成功のカギを握ると信じている。特にフォトブック形式での実現にはその傾向が強い”と問題提起している。”そのためには写真家はある程度の妥協しなければならない”とし、 さらに”コラボが成立するためには、信頼、正直さ、開かれたコミュニケーション、自分好みのイメージやアイデアを解き放つ能力が求められる。写真家はプロジェクトのチームを「代表」する人であるべきで、「支配」する人であってはいけない”と主張している。

同紙14~15ページに”We Say :Team Up!”として、ポスターのように箇条書きで内容の要点がまとめられているので、簡単に意訳して紹介しておこう。
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他人に対する信用は創造過程を自由に解放してくれる重要な要素だ。
自分の心地よいところにとどまるのではなく、一緒に新しい世界を見つけよう。

いつでも新鮮な視点が必要だ、聞くことに同意し、新しいことを怖がるのを止める。
願望を明確にする、イメージが実際に描写する以上にあなた自身が超えて先をいかなければならない。
オリジナルの発想に互いを引っ張っていこう。
あなたの技量、責任、調査、動機を適応させろ。
あなたのフィーリング、疑問、希望を分かち合え。
あなたの判断を正当化しろ。あなたの視点を調整せよ。
あなたの柔軟性を試せ。
様々な視点からの頻繁な議論を心がけよ。
そして、そのことで自分が居心地悪くなるだろう。
その重大な局面(転機)を大事にしろ。

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翻って、いまの日本ではこのような協力関係構築は非常に難しい。多くの人は同紙の提案の趣旨さえ理解できないのではないだろうか?まずアーティストは、自分が感覚的に正しいと信じていることを追求するべきと思っている人が圧倒的に多い。私は新人を市場に紹介する”ジ・エマージング・フォトグラフィー・アーティスト”展などで若い写真家と接することが多い。同展はいままで4回行ってきたが、残念なことに自分の枠を通してしか世の中と対峙していない人がほとんどだ。自分の興味のない情報やアドバイスはスルーしてしまうのだ。アーティストを目指すはずの新人が、まるで趣味として写真で好きなことを追求するアマチュア写真家と同じなのだ。若くして成長が止まっているわけだから、アーティストとしての将来性はかなり厳しいのではないか。

写真家、デザイナー、編集者、ギャラリストとのコラボも機能しない。常に誰かが主導権を握るような構図になっている。まずは互いに主導権争いが行われるか、主導的な人間が自分がコントロール可能な人を集めるのだ。真の協力関係が成り立つには、関係者全員が自分の持つ枠組みをいったん忘れてニュートラルになり、よいプロジェクト実現のために協力しようという態度を持たないとだめだ。自分の枠内でしか考えることができない人間が一人でもいると混迷が深くなる。日本ではこのような上記のような”Team Up!”の実現は非常に難しいのだ。優れた創作が生まれるには天才の登場を期待するしかないわけで、この辺がいまの日本で優れたアーティストやフォトブックが生まれない理由だとみている。
同紙では、”チームによるフォトブック制作を行う理由は、人間は誰も自分自身にも他人に対しても360度を見渡せる視点を持っていない、客観性はコラボの文脈の中だけで意味がでてくるという考えによる”というRobert Salazar氏の意見を引用している。つまり、それぞれが異なる考えを持って世界を理解していて、解釈はみな違うという個人主義的な前提が西洋にはある。日本では、一蓮托生的なみな同じ考えを持っているはずだという共同体的な考えがある。 これは文化的な違いなので、致し方ないかもしれない。

同紙を読んで直感的に感じたのは、紹介されている考え方はビジネスでイノベーションを引き起こすためのアプローチに近いということ。つまり、アートで新しいテーマを見つけ出し作品を創作することは、ビジネスでイノベーションを発見するのとかなり近いものではないか直感したのだ。例えば米スタンフォード大学のジェームス・マーチ教授が提唱した「知の探索」と「知の深化」では、出来る限り意識的に自分の知らない分野の知に触れることで、新しいものが生まれる可能性が高まると指摘している。
またマサチューセッツ工科大学の上級講師であるオットー・シャーマー博士が提唱している「U理論」では、人間は自分のいままでの人生で培ったフレームワークを通して世の中を把握しがちで、それに気付くことがイノベーションを起こすために必要だと指摘している。
これらは”The Photo Book Review”の、個人が限界的な視点しか持たないから、コラボが必要であるという提案の理由を説明しているといえるだろう。

今回紹介したのはフォトブック制作時でのヒントだが、もちろんこれは作品自体にも適応可能だ。作品制作での失敗は、自分の思い込みを無理やり進めることで起こる。オリジナルな作品を作るためには、まず自らを客観視してテーマ性を検証することが重要なのだが、それがなされないのだ。自分の思い通りに写真集を制作し、写真展を開催する。しかしやがて世の中が自分のメッセージに反応しない事実に気付くことになる。そして多くの人が、日本では自分の写真を理解できるオーディエンスやコレクターがいないと作品作りに挫折していく。今回の”The Photo Book Review”の特集での指摘は、アートとビジネスでは求められる人的な素養は全く違うと思われているが、かなり重なる部分があることを示唆していると感じた。感覚重視の世界と思われがちなアートの創造世界だが、実はシステマテックなアプローチが可能ではないか。そのノウハウを学び理解した上で取り組むと、優れた作品がより効率的に生まれる可能性が高まると考えられる。チームでの共同作業も、それが創作の一部だと参加者全員が理解して取り組めば、文化的背景の違う日本でも実現可能ではないだろうか。天才でなくても、複数の才能を持つ人とコラボすることで、アーティストとして成功する可能性があるということだ。ここの部分についてはやや思いつきの部分もあるので、年末の休みにじっくりと考えて改めてまとめてみたい。

 

アーティスト志望者の修業期間
ブランド確立に何年かかるのか?

年末年始の休みには、本棚を整理して昔に買った本を再読することが多い。今年は20年以上前に買ったビジネス書を何冊か読んでみた。
その中で気になったのが、日本の伝統的芸術や武道の修行におけるプロセスを示す「守破離(しゅはり)」という言葉だった。この言葉は千利休が詠んだ歌に原型があるとのことで、ビジネス書ではビジネスマンのキャリア形成にそれが応用できるようなことが書かれていた。
私はこれはアーティストのキャリア形成にも当てはまると直感した。アート写真のノウハウを指導するワークショップの「ファイン・アート・フォトグラファー講座」では、よくアーティストのキャリアをどのように積み上げていけばよいか、また認められるのに何年くらいかかるかという質問を受ける。その時に行うアドバイスは、まさに「守破離」と重なるのだ。

「守破離」の「守」とは修業時代の心がけで、師匠の発言や行動を100%守ること。先人たちが作り上げた歴史を学んで吸収するのもこの時期に行うべきことだろう。重要なのは、この段階ではとりあえず自分を捨てて全てを受け入れること。自分の都合のよい情報だけを選んでいては本人の創作の可能性は広がらない。「破」は次のステップで、「守」で得た様々な知識や情報を自分なりの考えで組み換えたり突然変異を起こさせたりすることだ、ステレオタイプの発想を破るという意味だろう。「離」は、それまでの型から自由になり自分独自のスタイルが確立されることだ。

より具体的に、現代アートの重要要素であるテーマ性に当てはめてみよう。「守」は過去の先人たちの作品テーマを徹底的に学ぶ、また真似て追体験してみること。 いくら自分が気に入らなくてもキュレーターやギャラリストのアドバイスをそのまま取り入れてみるのだ。そうすると自分中にニュートラルな様々な種類の情報のデーターベースが構築されていく。「破」で、この中かから自分の時代認識をベースに、気になるテーマをセレクションして、再解釈していくのだ。この段階では様々な試行錯誤がなされて、最終的に「離」で一貫した自分の作品スタイルが出来上がるということだ。
私は「守」が非常に重要だと考えている。多くの人は自分が良いと判断した情報にしか関心を示さない。未経験の新人の判断基準が世の中が求めている価値観とぴったりと一致すればよいのだが、そのような奇跡的な状況は非常に起こりにくいだろう。このような人は自分が変化し成長することはなく、ただひたすら自分を認めてくれる人を探し続けることになる。多くの人が成功しないのは、アーティストのベースとなる「守」を軽くみて、いきなり「破」、「離」を目指すからだ。破ったり、離れるベース自体が出来ていないのだから、うまくいくはずがない。アマチュアからアーティストが生まれないのも同じ理由による。

それではアーティストとして認められるのにどのくらいの時間が必要だろうか?「桃栗三年柿八年」ということわざは良く知られている。これは果樹の実がなるまでに長期間を要することから、何事も成就するまでには長い時間がかかるということ。「石の上にも3年」も同じような意味だ。色々なアーティストのキャリアを見てきたが、私はもっと長い時間を要すると感じている。ビジネス書でよく引用されるのに「一芸八年、商売十年」がある。どんな芸事でも一通りの基礎を体得するのに最低8年はかかり、その後に独立して一人立ちするのにさらに10年が必要という意味で、一つの分野の仕事で成果を上げるには約18年かかるということだ。アーティストのキャリア形成にかかる時間もかなりこれに近いのでないか。基礎を学ぶには8年くらいかかるだろう。またアーティスト・デビュー後に地位が確立するまでに10年で最低3回の個展開催が必要だと考えられている。アーティストとして作品が売れるようになるということは、自分自身のブランドが確立することだ。修業時代を含めてそれには20年くらいはかかる。自分の職務経験に照らし合わせても、ディーラーとしての明確な作品の評価基準が確立するのに10年以上かかった。最初のうちは自分の好き嫌いでしか作品を判断できなかったのだ。

こうしてみるとビジネス書にかかれている企業社会での成功の秘訣はアーティストに対しても当てはまることがわかる。どちらも自分の生き方を信じ、地道に学び、活動を継続することに尽きるのだ。そして一番の大敵は自分のエゴで、常に感謝する気持ちを持っていなければ自分のファン層は広がらない。自由奔放に生きて自己実現しているようなアーティストのイメージは幻想で、ビジネス界で成功するような人でないとアート界でも成功できないのだ。

どのようなアーティスト支援が必要だろうか?「守」の時期では、教育機関の役割が大きいだろう。日本ではやや技術的なノウハウ教育に重点が置かれすぎているように感じている。欧米のように実際のマーケットで活躍しているアーティストによる指導が必要だろう。

商業ギャラリーに求められるのは、「破」以降の時期の支援だろう。昨今のマーケット状況では、ブランドが未確立のアーティストの作品販売は難しい。しかし、世の中に向かって斬新な視点を提供しようとしている人に対しては、できる限りのサポートを行いたい。2015年に、そのような人たちとの多くの出会いがあることを願っている。 

アート写真の制作ヒント
気をつけたい安易な作品テーマ

東京フォト2013が9月末に開催された。作家を目指す人や、写真撮影を趣味とする多くの人が訪れたと思う。
今回の出展者は約半数が海外のギャラリーで、展示作品の多くは既に資産価値が認知されたいわゆるセカンダリー市場の取り扱い作品だった。これらの作品の特徴は、アーティストの作家性、作品メッセージ、テーマ性がすでに市場で認知されているということだ。コレクターはそれらの前提を分かった上で、イメージ、サイズ、エディション、コンディション、販売価格を総合的に判断して買うかどうかを決めることになる。国際的なフォトフェアは若手や新人が自らのメッセージを伝える場ではないのだ。
新人を一部のスペースに展示するギャラリーもあった。それらの作家は、その存在が市場である程度認められている人たちだ。いわゆる作家のブランド化の一環としてギャラリーが展示するのだ。
その判断基準はシンプルだ。過去のアート関連の展示で実際に作品がコレクターに売れたかどうか、また本人が営業努力を行っているかどうかだ。新人のメッセージはまだ市場で十分に認知されていない。彼らはフォトフェアの傍らで必死になって自分なりの情報発信を行っている。

今回、わたしどもは「New Japanese Abstruct Photography」というテーマで一つの壁面を使用して若手から中堅写真家を展示した。「新しい日本の抽象写真」というような意味だ。本当はもっと大きな規模でのグループ展を行うつもりだった。しかし、作品の選択を行う過程で挫折してしまった。どういうことかというと、抽象的な写真を作品として安易に提示する人があまりにも多いのだ。特にデジタルカメラでストレートに撮影する人にその傾向が強く見られる。アート作品でアイデア・コンセプトが必要なことは写真を撮影する人なら知識として知っている。しかし具体的に何を行うかは感覚的にしか理解していない。これは本来自分自身が能動的に社会と接することで見つけ出すものだ。しかし、最初に写真撮影ありきの人の場合、後付けでそれらしきものを付けたすことになる。単に作品要件を満たすために「抽象」を意識して制作した、とするのだ。
写真史で抽象写真を撮影していた写真家を意識したとイメージの表層の類似性だけで自作を語る人も多い。このタイプのなかにも自分の人生と真剣に向き合って、精神の緊張状態の局限での創作活動の中から抽象作品が生まれているケースも稀にある。そうなると作品は社会との関係性を持つ可能性が出てくる。
しかし、そこまで自分の心をさらけ出して表現する勇気を持つ人は少数だ。多くは自分のエゴ拡大が目的で、そんなに真剣に作品制作に取り組んではいないのだ。
実際には、真の作家性をイメージの表層だけで判断するのは難しく、ギャラリーも最初のうちは惑わされることもある。しかしある程度の期間付き合うと写真家の真のスタンスが次第にわかってくる。抽象的な写真が社会との葛藤から生まれたのではなく、方法論として撮影されている場合は作品テーマのあらたな展開がない。撮影する対象が変わるだけのワンパターンに陥るのだ。
アート写真での作家性の評価は本当に難しい。写真家の思い込みと、優れたメッセージとは紙一重の違いのこともあるのだ。見る側は、かなりの期間の現場での経験が必要だと思う。

以前に風景写真を撮影する人が、やたらに、「テーマは日本の伝統的な優美の美意識です」、「八百万の神を撮影しました」としたり、杉本博司の影響か、「禅を意識しました」とする場合が多いことを紹介した。「抽象」も含めて、これらは安易に自分の作品にレッテルを貼って安心するような行為だろう。結局、簡単に手に入れた作品テーマは決して見る側を真に感動させることはできないのだ。
それでも、単に写真をデザイン面や色彩面だけでアピールしたり、単に大きく現代アート風な設えにする人よりは将来性はあると思う。少なくとも、何らかのレッテルがあり、ビジュアルとクオリティーが優れていれば、インテリア用の写真作品としては通用するだろう。
また新人ならば確信犯でここからスタートしても良いと思う。実際、ワークショップではレッテルを写真家に提示して反応を見てみることもある。なかには実際に展示されることで、自分の作品に何が足りないかを気付く人もいるのだ。
もしアーティストを目指したいのであれば、作品の要件のみを整えて満足するのではなく、社会の中で作品がどのような意味を持つかを自分自身で考えて欲しい。その先にライフワークになる真の作品テーマの卵が見つかるかもしれない。たとえ作品制作アプローチが不器用でも、その方が見る側の心を刺激するのだ。
ギャラリーもコレクターも、そのような写真で自己表現する真のアーティストが生まれることを待ち望んでいる。

アート作品アピールのヒント
小さなことにこだわる

私はアート写真の仕事を始める前は金融機関のサラリーマンだった。
まだ入社2~3年目くらいのときに上司から受けた叱責は今でもよく覚えている。それは確か企画書のような書類を大量に制作して取引先に送る仕事だったと思うが、ハンコをきちんと押していなかったことを理由に全ての書類をもう一度作り直させられた。私は数が多かったので単に機械的に適当に押していっただけだった。確かに一部は曲がり、かすれたりしていた。捺印に気持ちが入っていないようなことをいわれた気がするが、その時は何で怒られたのか意味が明確にはわからなかった。今思い起こすと、その書類を受け取った人の気持ちを考えてハンコを押せという指導だったことがわかる。

いまは全く違うアート分野にいるが、仕事が変わっても状況は金融機関と全く同じだと感じている。作品ポートフォリオ制作から、アーティスト・ステーツメント、ビジネス連絡、打ち合わせ、広報活動、事務手続き、などのなかに様々な些細だが重要なことが存在する。
さて上記で書類に押すハンコを紹介したので、アートでの書類関係の例をあげておこう。
例えば写真展関連の開催報道資料や案内情報だ。それらは美術館系のものとそれ以外の2種類に大きく分類できると思う。
だいたい大きな組織、歴史を持つギャラリー、団体が運営している写真展の資料は丁寧に作られている。また、企業系ギャラリーは広告宣伝の一環なので、例外なくきちんとしている。一方で写真家の個人主催や新進ギャラリーの写真展関連資料のなかには、明らかに手を抜いていると感じられるものがある。それらは文章執筆、書類制作、DMなどのデザイン、郵送、ウェブ公開の様々な過程で発生する。主催者の写真家、ギャラリーの気持ちの入れ方が小さな作業に怖いくらい反映されてしまうのだ。

内容が良ければそれらは些細のことだという意見もあると思う。しかし、ブランドが確立した有名作家以外の場合、たとえ中堅作家でも中身の判断がつき難い場合が圧倒的に多いだろう。その時の判断基準になるのが展示関係の各種資料なのだ。また東京などではアート関係の膨大な情報が存在する。新聞などの大手マスコミにはそれらの膨大な報道資料が集まるのだ。その中での情報選択は人間の作業になる。きちんと作られていない感じの報道資料は内容をみる前の段階でアマチュアの写真だと判断されてしまう可能性が高いのではないか。いくら良い作品でも見てもらえないかもしれない。
よく奇をてらったデザインや写真使用で目立とうという考える人がいる。私は地味でも正統法で仕事を行うべきだと思う。実は小さいことを的確に行っていない方が逆の意味で目立つのだ。

こうやって書き続けながら、本当につまらないことを言っているなと感じる。しかし、世の中は案外そんなつまらないことで動いている。競争相手の多いビジネス世界では相手の心証を悪くする行為は絶対に避けなければならない。ハンコの押し方だけでで会社の評価が変わることもあるのだ。そしてアートも特殊性はあるがビジネスに変わりない。また、作家を評価、コレクションで応援してくれるのは組織の側にいる人が多いことも忘れてはいけないだろう。小さな所作をきちんとこなすのが重要なのは、それに全てが反映されるという意味だと理解してほしい。私の経験則だが、小さなことにもこだわりを持っているアート写真展の内容は大体レベルが高い。

アーティストに求められる素養 バランスのとれた思いやりのある性格

ショーペンハウアーの「『幸福について」(新潮文庫)という古典本が今年の春にミニブレイクした。本の帯によると、きっかけはテレビ東京の経済番組「ワールドビジネスサテライト」の本を紹介するコーナーで作家の本谷有希子さんが取り上げたことらしい。私は、「大反響いま売れています」のキャッチコピーにひかれてアマゾンで購入してみた。
アルトゥルト・ショーペンハウアーは19世紀のドイツの哲学者。彼の考えは欧州のペシミズムの源流になったともいわれる。文章はそんなに難解ではないが、内容は時間をかけて集中しないと理解できない。もっと分かりやすい本はないかと探した結果、彼の発言のエッセンスをシンプルにまとめた「ショーペンハウアー大切な教え」(イースト・プレス)を見つけた。現在、2冊を併せて読み進めている。彼の人生論にはアート関係の人にも参考になるアドバイスが書かれている。これから機会を見つけて紹介していきたいと思う。

“他人に対するとるべき態度”として以下のような項目がある。
「礼とは道徳的にも知性的にも貧弱なお互いの性質を互いに見て見ぬふりをしてやかましくとりたてないようにしょうとする暗黙の協定である。礼とは利口さ、非礼は愚かさである。敬意を表するに値しない人間にも、全ての人間に最大限の敬意いを表することを要求し、関心がないのに、関心を装うことを要求するという意味で礼は実行の困難な課題である。侮辱とは相手に敬意をいだいていないことの表明だ。世の常の礼は仮面に過ぎず、その下では舌を出していることを念頭におけ。礼をわきまえない人間は裸になったようなようなもので見られた様ではない。」

ショーペンハウアーによると、関心がないのに、関心を装うのが礼というわけだ。なかなか本質をついたやや皮肉が強い人生哲学だと思う。これを一番実践しているのはビジネスマンだろう。会社を代表して行動するのできわめて礼をわきまえている風に見える。彼らは個人対個人でつきあうのではなく、メリットがあるかないかで判断して会社の肩書で付き合いをしている。ビジネスを円滑に行い、自分自身や会社を不利な立場にしないように、相手の立場や意見を尊重して、不愉快な思いをさせないようなこころ配りを行う。
学生が会社に入るとその点を教育される。一流企業、大企業ほどそれは徹底している。まず彼らは若くても笑顔での挨拶ができる。それは自然にできるのではなく、意識的になされるのだ。就職活動の競争を勝ち抜いた学習能力の高い人がさらに高い社会性を身につけるわけだ。

個性が尊重されるアート関係の仕事はその対極のように思われている。アート志望の若者のなかには学生と変わらない態度の人もいる。相手に挨拶しない、関心を表さないのは敬意を持ってないことの表れだ。自分の考えだけを話したり、相手の意見をきかないどころか平気で反駁、否定する人もする。自分のことだけを一方的に話されては聞く側はうんざりしてくる。不愉快な気持ちになる人とは誰しも距離を置くようになる。会社ではそんな若者を上司が叱り、鍛え直すわけだ。しかし、組織に属していないと誰も社会性のなさを指摘してくれない。
ショーペンハウアーは、「交際している人が不快な態度をとったり、腹を立てる態度をとった場合、よほど大事な人間でないかぎり永久に付き合わないことが必要だ。」と書いている。ビジネスの世界では、単純にそんな個人とは距離を置くようになるだけだろう。

アーティスト志向の人は自分の気持ちに素直すぎるのだ。これは単純に世の中の仕組みを教えてくれる人が周りにいないからだと思う。私はアート関係の人は一般ビジネスマン以上に礼をわきまえた方がよいと考えている。
ワークショップでもよくいうことなのだが、ビジネスマンはたとえ性格が悪くても会社組織が身分を守ってくれる。しかし、礼をわきまえないアーティストは誰も守ってくれない。勢いがある時はメリットを感じて付き合う人もいるだろう。しかし、勢いがなくなったら落ちるところまで簡単に行ってしまう。

ニューヨークのアート・ディーラーのアレックス・ノバック氏の上げているアーティストに求められる条件は非常に興味深い。彼は”バランスのとれた性格”を”才能”よりも高い優先順位に上げている。才能があればどんな態度でも許されるとの考えは欧米のアート界では通用しないようだ。また、才能があることは当たり前で、評価はそれ以外の要素で決まるという意味でもあると思う。

実際に私の会った成功しているアーティストはみんな、相手に対する気遣いができ、話していて気持ちよくなるような性格の人ばかりだ。成功者から礼を尽くされたら誰でもその人を更に好きになり応援する。コレクターやディーラーは作品の購入を考えるだろうし、マスコミ関係者ならば良好な作品評を書くことになるだろう。売れる人の人気が更に上昇していく背景には本人の態度が影響しているのだ。

しかし、ショーペンハウアーが指摘しているように、売れている人の性格が元々よいというわけではない。彼らはあくまでも意識的に自分に有利になるように行動しているのだ。なんで彼らが他人に礼をつくせるかというと、彼らが高い目的意識を持っているからだと思う。
アーティストは、自己表現を通じて自己実現ができる選ばれた人なのだ。彼らにとって、自分の自意識の充実などよりも、そのキャリアを追求できることのほうが人生でより重要なのだ。だからそのために必要なら、またメリットがあると考えれば、確信犯で自分の嫌いな人に対しても関心があるように装うことが出来るだ。それが出来ない人は、結局アーティストの幻想だけを追っているのではないだろうか。彼らの多くは、高い自己評価と社会評価とのギャップが広がることへの不満が態度に表れるようになる。結果的にさらに人心が離れていくという悪循環に陥ってしまうのだ。

アーティストは自らの考えを追求して表現していくのが仕事だ。しかし、情報化社会が進行したことで考える力が急速に失われているともいわれている。 私は優れたアーティストが日本から生まれない原因はここにあるのではないかと疑っている。
今回取り上げたショーペンハウアーのメッセージは一回読んですぐに理解できる内容ではない。上記の本谷有希子さんは、「何度も繰り返して読んでいる」という。何度も読むとは、そのたびに自分の頭で作家のメッセージの意味を考えることだと思う。原点回帰ではないが、あんがい古典を読むことがアーティストの考える力を鍛えてくれるのではないだろうか。