定型ファインアート写真の可能性
Zen Space Photographyの提案
第4回

私は定型ファインアート写真への取り組みは、自分探しに展開する可能性があると考えている。若いときは多くの人は自分を発見するために、思いつく範囲内で様々な行動に取り組んで経験してみる。例えば自分好みの音楽を求めて、多くのジャンルやミュージシャンの曲を聞いてみた経験は誰でも少なからずあるだろう。人によってそれは読書だったり、映画だったかもしれない。
しかし自分の個性で求めていたと感じたものは、案外人気ランキング上位で多くの人の好んでいる表現だったりする。
社会にでると、学生時代には知らなかった多種多様な価値観が存在することを知り、多くの人は迷路に迷い込む。選択肢の多さのなかで、自分自身がどのような個性をもった人間かわからずに、外界から浴びせられる様々な刺激に翻弄される。多くの人は社会で一般的に共有されている、会社での尊敬/評価や、お金持ちになるなどの私的幻想を作り上げ、社会の中で他人との共同化の競争を行う。
しかしこれが自分だと思ったものは、おおむね社会や組織での役割や関係性の中でしか存在しない。私たちが頭のなかで作り上げられた思い込みにすぎないのだ。それらが思い通りになるかどうかは偶然性が大きく左右しており、個人の努力では変えられない場合も多い。現代人の悩みや生きにくさは、この思い込みへの過度のこだわりから生じる。
ここまでは前回の主張を違う視点から繰り返して述べた。

ⓒ Shinichi Maruyama

さて私が提案している定型のファインアート写真のZen Space Photographyは実践自体を通して、思い込みにとらわれない生き方を提供してくれかもしれないのだ。まず頭に浮かんでくる思考/邪念を消しさり、無心状態で自然や世界と対峙して、心が動いて「はっ、ドキッ」とする瞬間を見つけようとする。この一連の行為は自分を発見する入り口になる可能性があるかもしれない。
まず最初のステップは、自分は何が得意で苦手で、どんな個性や興味を持つ人間かを知ることになる。表現や創作は自分がどのような意思を持った人間かを発見する行為。その中で写真が最も手軽に実践できる技術なのだ。言い方を変えると、ここで提案しているのは、定型ファインアート写真の制作を通して、思い込みにとらわれずに、自分発見に取り組み、その先に自分探しを行うことなのだ。

写真で作品制作といっても、どのような考えをもって、何を撮ってよいかわからない人が多いだろう。しかし、ここでは作品テーマやアイデアなどの枠が用意されているので、写真を撮る人はそれに従って創作に集中すればよい。写真では、撮影場所やカメラの選択など、自分一人で様々な判断を下す必要がある。そして現場では、カメラをどの方向に向けるか、なにを被写体に選び、どこでシャッターを押すかを決断する。これらの撮影プロセスにはすべて自分の意思が反映される。いまのデジタル写真時代では撮影後の編集作業も含まれる。また過去に撮影した写真を見直す一連の作業の中にも自分の意思が反映されるだろう。
ここで極めて重要なのは、アマチュア写真家のように、人にほめてもらう、承認欲求を満たすための写真でない点。それだと、自分の思い込みを他人に証明するような、また社会/組織の中での役割や関係性に依存する写真表現になってしまう。他人指向ではなく、自らを探求して作品の制作意図を再確認する自分志向の行為に意味があるのだ。

定型ファインアート写真を通して意識的に世界と対峙し、自分自身の特徴が把握できるようになれば、その先に思い込みにとらわれない、やりたいことや夢が見えてくるかもしれない。写真を通しての自分発見の行為はライフワークだと考えて取り組めばよい。もし写真を通じて社会に対して意識的になれるのなら、それはそれで充実した生き方ではないだろうか。

実のところ思い込みから自由になれば、案外自分の夢やその実現などにこだわらなくなり、肩の力が抜けた素直な写真が撮れるのだ。私はいつもそのような写真家と作品との出会いを待ちわびている。


ⓒ Shinichi Maruyama

実は次回展で約10年ぶりに紹介する丸山晋一の一連の写真作品は、無心状態で自然や世界と対峙して、心が動いて「はっ、ドキッ」とする瞬間を見つけようとする写真作品だ。継続した作品制作自体が作品テーマに展開している実例になっている。5月11日から「Shinichi Maruyama Photographs:2006-2021」を開催する予定だ。興味ある人は写真展のプレスリリースを参考にしてほしい。

定型ファインアート写真の可能性
Zen Space Photographyの提案
第3回

定型ファインアート写真について、今までその概要を披露してきた。おかげさまで、ギャラリー店頭でいろいろな感想や質問をもらっている。どうも方法論に多くの人の関心が集まっているという印象を持った。
私が最も伝えたいのは、写真を撮影する行為、つまり表現による自分探しの可能性なのだ。少しばかり小難しい話になるが、今回はこの点を説明したい。

人間は社会生活を送る中で、自分自身が成長し、表現することに喜びや幸福感を感じる。将来の夢を実現したいと考えるのだ。これは米国の心理学者アブラハム・マズローの提唱する「欲求5段階説」による。心理学を学んでなくても、最近はビジネス書でもよく引用されるので聞き覚えのある人も多いだろう。
マズローは人間の欲求には階層あり、それは生理的欲求、安全欲求、所属と愛情欲求、承認欲求、自己実現欲求の5段階に分かれていると提唱した。つまり社会が豊かになって、生存にかかわる低次の欲求が満たされるとより高次のものを求めるようになる。このうち最も高度で、同時に最も人間的な欲求が自己実現なのだ。これは説得力のあるわかりやすい理論なのだが、もちろん実際面では様々な批判も存在している。ここではとりあえずマズローの考えを参考にして私の考えを進めていく。

自己実現の前に、まず自分の内面の欲求である、将来の夢や理想の自分像が何かを見つけなければならない。何を社会で実現するかを知ることだ。
子供の時は社会にいろいろな職業が存在する事実は知っているが、スポーツや自分が実際に接したもの以外はその仕事内容は知る由もない。日本FP協会が2021年に実施した作文コンクールで、小学生が「将来なりたい職業」は、男子の1位は「サッカー選手・監督」、2位は「野球選手・監督」、女子の 1 位は「医師」で、2位は「看護師」だったという。また、「ユーチューバー」が初めて男子のトップ5入りを果たして話題になった。しかし、大人になってプロのスポーツ選手のように子供時代でも知っているような仕事に就くことは非常に困難だろう。一芸に秀でた才能がないほとんどの人は、受験や就職を通して自分探しを行い、その延長線上に自己実現をめざすことになる。
学生から社会人になってからの若者期(18~29歳)には、学生時代のクラブ活動、アルバイト、趣味、社会人になってからの新入社員時代に与えられた仕事を通していろいろな経験を積み、自分の得意分野や適職の候補が探すことになる。
具体的な自分探しはこのように始まり、しだいに自分にどのような可能性があるかを意識するようになる。これは最初のうちは私的な幻想であり、自分探しとはこれを社会で疑似現実化しようと悪戦苦闘する行為なのだ。しかし実際は、ごく一部の人だけが会社で立身出世し、転職や起業で成功する。
若いうちは誰にも可能性があると妄信するのだが、年齢を重ねると可能性がなくなっていく事実を意識するようになる。残念ながら多くの人は、自分探しがうまくいかず、何で自己実現してよいかがわからないのだ。色々なことに挑戦する中で、自己喪失状態に陥ってしまう。そして自分らしさや個性がわからないまま、ほろ苦さをかみしめながら日々の生活を送り、定年を迎え、年老いていくのだ。社会生活で実際に自己実現している人は本当に数少ないのだと思う。

前振りが少し長くなったが、だから写真を通しての自分探しのための表現の可能性を提案したい。

以下、次回第4回に続く。

定型ファインアート写真の可能性
Zen Space Photographyの提案
第2回

日本人の文化的な背景を考慮したときに考えついたのが、定型のファインアート写真の可能性。最初から作品テーマやアイデアなどを用意しておき、写真を撮る人はそれを意識したうえで、そのルールに従って創作を行うというアイデアだ。
前回はその中の一つの可能性として「Zen Space Photography」という、一種の風景や都市ストリートを撮影するなかで、心で「はっ、ドキッ」とする瞬間を写真でとらえる考え方を提案し、概要を解説した。定型詩の短歌や俳句で、普段は見過ごしがちな季節の移ろいや自然の美しさを発見して表現するのと同じアプローチだと考えてほしい。

写真を撮る行為自体が、「今という瞬間に生きる」禅の奥義と重なるので、この「Zen・禅」というキーワードと定型写真とは親和性があると考えたのだ。今回は「Zen Space Photography」の心構えを以下にまとめてみた。

ブリッツ・ギャラリーでの写真展示/Kate MacDonnell

1.撮影時の心構え
・世界の認識
前回は、アメリカ人写真家ケイト・マクドネルと作家アニー・ディラードの世界観を紹介した。それはいま存在している宇宙や自然界、また都市のストリートのどこかで、誰も気付かない、見たことがような心が揺さぶられるシーンが発生し存在するはずという認識。考えるのではなく、心で「はっ、ドキッ」とする瞬間、理想的には調和して美く整っている奇跡的な瞬間の訪れを発見して写真で表現する。しかし、次にジョン・ポーソンの著作を引用したように「誰も気付かない、見たことがようなシーン」は、何か特別なものではない。普段の忙しい社会生活の中で、頭が思考でフル状態では気づかない。しかし思考を消して、無心状態で自然や世界と対峙すると、ありきたりの世界の中にも見つかるかもしれない。心が動いた時にとらえたそんなビジュアルすべてなのだ。ただし、意識して何気ないシーンやありきたりの風景を撮影するのは、ミイラ取りがミイラになる。注意が必要だ。

“Pilgrim at Tinker Creek” by Annie Dillard

・技術的考察
頭で考えて、決定的瞬間、正確なフォーカス、色彩の調和/抽象美、フレーム内のバランス/構図などのデザインやグラフィックを意識しない、デザインを過度に重視すると、独特の視覚的美学を持つ映画監督ウェス・アンダーソンWes Andersonの提示する風景「Accidentally Wes Anderson」になってしまう。  彼らは、「私たちにインスピレーションを与えてくれるユニークなもの、シンメトリーなもの、非定型なもの、特徴的なデザイン、素晴らしい建築を探求しています」と公表している。
またかつての20世紀写真では、モノクロで抽象化された世界のなかに調和を見出していた。それらはグラフィック・デザイン感覚を生かして写真での抽象表現が目的化したスタイルだ。

・意識のコントロール
浮かんでくる様々な思考/雑念と関わらにようにし、判断を避けて注意を払わないでそのままにしておき、次第に頭から消し去る。それは今この瞬間に生きるという、瞑想やマインドフルネスの実践に近いともいえる。既存のどんなシーンにもとらわれない、エゴを捨てる、よい写真、他人の評価、作品の販売の可能性などを気にしない。これが実践できるようになれば、本当に自分らしい人生を送れるようになる。そのような生き方を目指すために写真撮影による「Zen Space Photography」に取り組むのだと解釈してもよいだろう。 この行為の実践自体が、第1回で解説したように、定型ファインアート写真「Zen Space Photography」の作品コンセプトになる。

・撮影場所
世界中を移動することでそのようなシーンは発見できる可能性は高まるだろう。旅は非日常に身を置くことで、自らを日常のマンネリから脱して客観視するきっかけを無理やり提供してくれる。しかし世界に対して能動的に接すれば、身の回りにもそのようなシーンが存在している事実を発見できるのだ。

・キャプション/メッセージ
撮影場所、撮影地、撮影年月、また自分の撮影時に感じた印象などを自らが語り、記述する行為も作品の一部になりうると考える。

“A Visual Inventory” by John Pawason、 対で提示された写真にはそれぞれ撮影時のインプレッションが書かれている

・注意点
しかし、さあこれから「Zen Space Photography」を撮ろうとするのは、どうしても気負ってしまうだろう。最初は、自分の意識が消えて良い作品ができたと、この行為自体を”意識”する場合が多いのではないだろうか。
禅には野狐禅(やこぜん)という言葉がある。本当の悟りに達していないのに、自分だけは悟ったと思い込んで自己満足に陥いる状態。これは自意識がまだ消えていないのに、無我の境地で作品ができたと勘違いする状況だ。自分や他人の能力を的確に把握できないことで起こる、認知バイアスとして知られる、ダニング=クルーガー効果に近い状況だとも考えられるだろう。普段はあまり強く意識することなく、よい作品を制作するんだと、エゴむき出しにならないように、気軽に取り組めばよい。

2.作品の編集/エディティング
過去の撮影したアーカイヴスの中からの、無心で撮影された写真を探し、セレクションを行う。無意識のうちに偶然出会ったシーンを切り取った写真は、後から見直すと「Zen Space Photography」かもしれない。

3.他人の写真を見立てる/鑑賞する
自分以外の写真家や他の一般人が撮影した写真の中にも「Zen Space Photography」は存在する。それらを「見立てる」、また鑑賞して楽しむ可能性もあるだろう。
ソール・ライター、ウィリアム・エグルストン、ルイジ・ギッリ、リチャード・ミズラック、テリ・ワイフェンバックなど。またスティーブン・ショアーやマイケル・ケンナの初期作などの写真の中にも発見できる。

4.どのように始めるか
上記の”注意点”で触れたように、最初はどうしても写真撮影時に様々な邪念が浮かんでくるだろう。この心掛け自体が、新たな思い込みになるかもしれない。また禅問答のようになってきたが、「Zen Space Photography」の追求は、もしかしたら禅の修行やマインドフルネスの実践に近いかもしれない。ぜひ一生追求するライフワーク的な行為だと認識してほしい。

ここでの提案に興味ある人は、まず過去に撮影した写真アーカイブの、上記の「Zen Space Photography」の視点で見直しから始めてはどうだろう。もしかしたら全く違う時間、場所空間で撮った写真の中に精神性のつながりが発見できかもしれない。また好きな写真家やフォトブックがあれば、それらの要素を取り込んでオマージュ的な作品への取り組みも可能性があると考える。
杉本博司も写真技法を日本古来の和歌の伝統技法である「本歌取り」の技法を取り入れて、創作の幅を大きく広げている。2022年9月に姫路市立美術館で「杉本博司 本歌取り」展を開催したのは記憶に新しい。定型ファインアート写真でも好きな写真や撮影スタイルの「本歌取り」的な作品から開始してもよいだろう。

杉本博司 “本歌取り”

そして、次のステップについても述べておきたい。自分の中に明確な社会における問題点がテーマや問いとして生じてきたら、それを意識して世界や宇宙に対峙して撮影を行って欲しい。
テリ・ワイフェンバックも初期作品は「Zen Space Photography」的なアプローチで自分の周りの世界と接していた。その後に独自の宇宙や自然のヴィジョンを確立させ、今度はその視点で世界と接して創作表現を行っている。それは正当なファインアート写真の製作アプローチになるのだ。以上は、私が考えた日本的なファインアート写真のたたき台になる。久しぶりに小難しい考えを展開してきたが、いかがだっただろうか?興味ある人はいろいろな意見や感想をぜひ聞かせてほしい。反応が多ければ、勉強会などの開催を検討したいと考えている。

E-mail <fukukawa@blitz-gallery.com>

定型ファインアート写真の可能性
Zen Space Photographyの提案 
第1回

久しぶりに「日本の新しい写真カテゴリー」への文章の追加になる。今回はいままでとは全く別の角度から日本的なファインアート写真の可能性を考えてみたい。
日本人はその文化的背景から、自分の考えや思いを他人に伝える習慣があまりない。いわゆる、忖度が中心で情緒的で空気を読むハイコンテクストの文化を持つ社会だからだ。文化のローコンテクスト型とハイコンテクスト型については、日本写真芸術学会の記念講演で紹介したようにエドワード・ホール(1914-2009)の「文化を超えて」(1976年)を参考にした。現代アートの必要十分条件の、テーマやアイデア/コンセプトを自分で論理的に考えて語る行為に日本人はなじみがないのだ。
それでは、一般の人がファインアートの視点を持って写真撮影を行う別の方法がないかを考え続けてきた。日本人の文化的な背景を考慮したときに浮かんできたのが、定型のファインアート写真の可能性だ。最初から作品テーマやアイデアなどを用意しておく、写真を撮る人はそれを意識したうえで、そのルールに従って創作を行えばよいのではないかと考えた。
例えば、日本の茶道、華道などもルールやパターンの型があり、その中で創作を行う。定型詩の俳句や、短歌の叙景歌なども日本人にはなじみがあるだろう。
写真で同じような方法を行うアイデアだ。私は、「ファインアート写真の見方」(玄光社/2021年刊)やブログなどで、創作を長年継続している写真家の、無意識のアート性を第三者が見立てる方法を主張してきた。それは継続するが、今度は新たなアプローチとして、最初に見立てありきで、その枠の中で写真を撮る行為の提案をしてみたい。

写真はビジュアルなので、本当に様々な定型創作の可能性はあるだろう。その中の一つとして私の頭の中でまとまってきたのが「Zen Space Photography」という、風景や都市ストリートを撮影する写真の考え方だ。風景写真では、文脈の中で写真家のメッセージが提示されるケースはあまりない。強いてあげると、グローバル経済や、環境破壊、地球温暖化などの非常に大きな問題になってしまう。それ以外は、カメラやレンズの性能検査になる、コンテスト応募用のアマチュア写真となる。この分野は定型ファインアート写真と相性が良いのではないかと考えたのだ。また都市やストリートのスナップの中にも同様の写真が含まれるだろう。
まずキーワードの、ややわざとらしく感じる「禅/Zen」。写真を撮ること自体が、「今という瞬間に生きる」禅の奥義につながる。「いまに生きる」手段の実践として、瞑想や座禅のように、写真撮影自体には可能性があるのだ。
定型のテーマ作りでヒントになったのは以前に「Heliotropism」というテリ・ワイフェンバックとのグループ展を行ったアメリカ人写真家ケイト・マクドネルの以下のような認識だ。「いまの宇宙/世界/自然界のどこかで、誰も気付かない、見たことがないようなシーンが発生していて、存在するはず。世の中の美しさやきらめき、つかの間の閃光など。私たちの知らないうちに世界のどこかで発生して、誰も気づかないうちに消えてしまっている」

「Heliotropism」展でのケイト・マクドネルの展示

彼女は、ネイチャー・ライティング系作家のアニー・ディラードの著作「ティンカー・クリークのほとりで」に影響され、上記のような世界観を写真で表現しようとしている。そのアニー・ディラードは、以下のように語っている。「美しさと優雅さは私たちがそれらを感じるかどうかに関係なく出現している。我々ができるせめてものことは、その場所に行こうとすることです」そのようなシーンの出現を求めて、目の前の世界や宇宙の観察に集中するのは、今に生きるという禅の奥義と通底している。瞑想のように心を無にして世界や自然と対峙し、丹念に観察する。頭に邪念が浮かんだら、それを意識的に考えないようにする。頭でデザイン的にバランスの良いシーンを求めるのではなく、心が動き「はっ、ドキッ」とする瞬間、調和して美しく整っている奇跡的な瞬間の訪れを待って作品化する。

「A Visual Inventory」John Pawson, Phaidon刊

しかし実際のところ、そのような奇跡的なシーンは簡単に、また頻繁に私たちの目の前に出現しないだろう。さらに探求していたら、ミニマリズム建築家として知られるジョン・ポーソンの2012年の写真集「A Visual Inventory」に行き着いて、その著作からもヒントをもらった。彼は1996年にPhaidon社から出版された「Minimum」で、様々な歴史的・文化的文脈におけるアート、建築、デザインにおけるシンプリシティという概念を検証し、それが体現したビジュアルを1冊の本にまとめている。ミニマムの視点で見立てたモノ、建築。アート、自然や都市のシーンを提示しているのだ。「A Visual Inventory」では、 自らが長年に渡り、世界中で撮影したスナップ・ショットを見開きのペアの写真にまとめて発表している。彼は、建築家やデザイナーとしての仕事に役立つようなパターン、ディテール、テクスチャー、空間の配置、偶然の瞬間を常に探し求めている。被写体は、モノの表面テクスチャーのクローズアップ、建築物の外観やインテリアのディテール、自然や都市の風景などまで。主観を排して、実際の事物に即して撮影しているのが特徴。トリミングなしの写真は、私たちが実際に見ている何気ないシーンに近いと感じられる。彼は「その瞬間には二度と起こらないようなことを、いつも見ているのだということを強く意識しています」と語っている。この本に含まれているのは、一部にデザイン的な視点の強いものあるが、ほとんどが「Zen Space Photography」の範疇に含まれると直感した。ポーソンの写真は、マクドネルが語る、「誰も気付かない、見たことがないようなシーン」は、何か特別なものではなく、普段は見過ごしてしまうような世界に現れるシーンの中にも存在する事実を教えてくれる。

「A Visual Inventory」John Pawson, Page 20-21

先日、世田谷美術館で開催されていた「藤原新也 祈り」展を鑑賞してきた。藤原は写真家というよりも、文章を書く作家、画家、書道家として多分野で創作しているアーティストだ。同展は半世紀にわたる彼が世界を見てきた批判的な視点を、写真、文章、書で本格的に回顧する展覧会だった。展示作品の一部には、文章が添えられていない、テーマが明確に提示されないスナップ、風景、ストリートなどの写真が含まれていた。それらは撮影場所などでカテゴライズされて展示されているのだが、まさにここで展開している「Zen Space Photography」に他ならないと直感した。それは、いろいろな人の作品の中に発見できるのだ。

「藤原新也 祈り」展 図録 世田谷美術館

人間は普段生活しているとき、常に頭で思考している。そして自らの作り上げた思考のフレームワークを通して、世界の中にある自分の見たいものだけに反応している。思考の過程で様々な解釈が行われるのだが、それは過去の経験との比較になる。自分の過去の経験の範囲内で比較対象がないシーンは見えていないのだ。「Zen Space Photography」の、心で「はっ、ドキッ」とする瞬間を撮影する行為は、思考にとらわれていない、今という瞬間に生きているときのビジュアルを記憶する行為になる。
通常のファインアート作品は、新しい視点の提示を通して見る側に自らの思い込みに気づくきっかけを提供する。ここで提案しているのは、思い込みにとらわれていない精神状態で撮影した写真を、決まり事として提示すること。撮影者が無心の状態で自然や世界と対峙して、心が動いた瞬間をとらえたビジュアルは、本人がエゴを捨て評価を求めないがゆえに、すべて「Zen Space Photography」になるなのだ。そのような無の状態での撮影の実践自体が、自らを客観視している行為だと理解して取り組めばよい。
本作では、それらが社会生活の中で様々な思い込みにとらわれている人たちに提示されるわけだ。デフォルトの撮影意図を理解したうえで接すれば、彼らにとっても、自分を違う視点から見直すきっかけになるかもしれない。これが定型ファインアート写真「Zen Space Photography」の作品コンセプトになる。この「禅/Zen」のタイトルゆえに、禅問答的になっているのをどうかご容赦いただきたい。
(以上が第1回。次回は 「Zen Space Photography」の心構えや実践のアイデアを詳しく解説する予定だ )

「ファインアート写真の見方」発売
写真はアート?評価基準は?
すべての疑問を解消!

ブリッツは昨年の3月から約1年間、ずっと完全予約制での営業を余儀なくされてきた。つまり、ギャラリーは基本クローズで、予約が入った時間帯のみに感染対策を行いオープンするというものだ。この間は不要不急の外出自粛が求められていたので、集客をアピールするような告知活動はできなかった。
個人的には、昨年秋に開催した「Pictures of Hope」などは、時節が反映されたとても良くキュレーションされたグループ展だったと思っている。多くの人に見てもらえなくてとても残念だった。
長年行っている講座やワークショップは、多くの人が集まって写真作品を前に議論を交わす密になりがちな場だ。これも感染防止から1年間以上に渡り開催を自粛してきた。

ギャラリーが閉まっているので、さぞかし暇を持て余していたと思われるかもしれない。実は状況は真逆で、特に昨年夏場以降は極めて忙しかった。実は「ファインアート写真の見方」(玄光社)という本の執筆をずっと行ってきたのだ。本を書こうとしたきっかけは、ギャラリー店頭で来廊者から聞かれる素朴な疑問からだった。最近、特に若い世代の人たちから、日本で写真作品が評価される理由が理解できない、教えて欲しいという質問を多く投げかけられた。年齢的には、2000年以降に成人を迎えたミレニアル世代以降の人たちだと思う。具体的な疑問は、美術館/ギャラリーの写真展での企画意図や、木村伊兵衛写真賞やキャノン写真新世紀などの写真賞の選考理由が不明などというものだった。一般の人は、ファインアートの写真は専門家だけにしかわからない難解で特別な世界だと考えるようになっていると感じた。それゆえに本書の帯のコピーは「今こそ知りたい!評価される写真の規準と値段 すべての写真ファンの疑問を解消」となっている。
そのような人たちへの説明には、とても時間がかかった。質問者の持つ知識や情報量にはかなりばらつきがあり、解説前にまず前提条件を説明する必要があったからだ。ギャラリーの立ち話では断片的な説明しかできないので、いままでは講座やワークショップへの参加を促していた。しかし、コロナウィルスの感染拡大で、それらの開催は長期に渡り自粛が求められた。
それならば、本にまとめれば需要があるのではないかと考えたのだ。調べてみると、現代アートの見方の解説本はあまたあるが、写真をファインアートの視点から系統立てて解説する本は日本ではまだ書かれていなかった。
しかし本書はあくまでも一人のギャラリストによる、パーソナルな視点の一般向けの入門書である点は強調しておきたい。世の中には様々な意見があるのは承知している。本書は市場での取引実績を基準にして書かれている。しかし、市場を重視しない考え方もある。本書に書かれたことが絶対ではなく、数多あるファインアート写真ルールのひとつにすぎないのだ。当たり前だが、研究者や学者が書いた、専門家対象の高尚な学術書の類ではない。

本のベースは、20年くらい継続して行っている「ファインアート・フォトグラファー講座」の内容だ。これは写真をギャラリーで売りたい、という写真家の人たちへの対応がきっかけで始まった。最初のうちは、質問者に対して個別に対応し、ファインアート写真の定義、マーケットの仕組み、ポートフォリオの制作方法など、海外市場での一般的な考え方を説明してきた。その後、同様の問い合わせが非常に多かったのでセミナー形式にしたのだ。
最初はプロ・アマチュアの写真家が参加者の中心だった。次第にコレクションに興味ある人、自分でギャラリーを運営したい人なども増えて内容の範囲がひろがった。本書で展開してきた考え方は、すべて現場での参加者とのやり取りを通して生まれてきた。
今回、講座初期のレジメを見直す機会があった。本書でも触れているが、時間と共にファインアート写真の評価ルールがどんどん更新され、講座内容も変化してきた事実が確認できた。特に写真のデジタル化と現代アート市場の隆盛が、従来からある20世紀写真に大きな影響をもたらした事実が再確認できた。
2010年代になると、海外市場の方法論を日本にそのまま導入するのには無理がある事実に気付いた。それまで、セミナーを継続してきたが、その内容を参考にして作品制作を継続する人がほとんど生まれなかったからだ。そこで日本独自のファインアート写真の価値基準の提示を思いついた。本ブログの読者にはなじみのある「写真の見立て」だ。本書ではその内容の一部を紹介している。

本書は、写真好きの一般の人、アマチュア・プロ写真家、コレクターなどを対象に、ファインアート写真の見方をステップアップで学べる入門書として書かれている。実はファインアート写真には、その時々の評価ルールがあり、それを学んでいくことで見方が獲得できるのだ。

しかし、決して簡単で単純なノウハウが存在していて、それを学べば誰でもすぐに理解できるわけではない。本書を読み進めればと分かると思うが、かなり複雑な内容を含み、前提とする知識の積み上げなしには理解しにくい箇所もあるのだ。私はライフワークとして一生付き合っていける高度な知的遊戯だと考えている。教養としてファインアート写真に興味のある人、コレクションに興味ある人には最適な本だと思う。

また具体例として市場で作品人気の高い写真家/アーティストの評価理由も解説している。ロバート・フランク、ソール・ライター、アンドレ・ケルテス、スティーブンス・ショア、ウィリアム・エグルストン、ヘルムート・ニュートン、リチャード・アヴェドン、アンドレアス・グルスキー、ピーター・ビアード、ヴォルフガング・ティルマンズ、マイケル・デウイック、テリ・ワイフェンバック、アレック・ソス、ライアン・マッギンレー、鋤田正義、ヴィヴィアン・マイヤー、ノーマン・パーキンソンなどをディープに分析している。

もちろん写真表現でアーティストを目指す人も意識して書かれている。現在、新型コロナウィルス感染症の影響で写真撮影や写真展開催などの創作活動の制限を余儀なくされている人が数多くいると思う。アーティスト志望者は、まさに自らを客観視して、創作活動を基本から見直す良い時期ではないだろうか。なかなか知ることのできない、作品テーマの見つけ方、成功するキャリアの秘訣、ギャラリーの写真評価方法、フォトブック制作方法なども解説しているのでぜひ参考にしてほしい。

コレクションに興味を持つ人ももちろん対象だ。作品の価値がどのように決まるかを、20世紀写真、21世紀写真に分けて解説している。具体的に何を買うか、情報収集法、指南書ガイド、コレクション展示方や収蔵方にも触れている。また過去にファインアート・フォトグラファー講座に参加した人は、受講内容の復習にもなるだろう。

本書は、4月5日に発売予定です。約352ページのかなり分厚い本になりました。ぜひ店頭で手に取ってご覧になってみてください。
https://www.artphoto-site.com/news.html

アマゾンでもご予約可能です。

出版社のウェブサイト

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(11)
作品の見立てと市場価値の関係

今回は写真の見立てと、作品の市場価値との関係について検討してみたい。私は見立てについて、その問題点や考え方の不明瞭なところを常に考察している。
どうも日本では、作品の見立ての積み重ねが進まず、市場性が高まらないのではないかと考えている。
アート界では、買う、コレクションするのが究極の作品評価だとされている。
もしくは美術館やギャラリーなどの場合、お金(経費)を出して展示してくれる、カタログを制作してくれる、一部を購入してくれる行為に当たるだろう。
つまり、言葉よりも、お金を出すかどうかということだ。
しかし好きで買う、お金を出すのが一人や二人では市場性があるとは言えない。
ある程度の人数の評価の積み重ねの末に市場性が出てくることになる。
ここには、資金力のある人や組織の評価や好みが市場性と強く関わるという矛盾も内包している。

まずは海外の事象を見てみよう。海外にも自らが作品についてを語らないが、第3者によりテーマ性が見立てられた写真家がいる。例えば、日本でも人気の高いソール・ライターやヴィヴィアン・マイヤーなどだ。フランス人アマチュア写真家ジャック=アンリ・ラルティーグはそのはしりといえるだろう。
彼らの作品は、長年にわたる複数の人の見立ての積み重ねにより作品のアート性が認知されている。そして結果的に、複数の見立てが市場での作品価値が上昇につながっている場合が多い。

ソール・ライターの例を紹介してみよう。
2018年5月のササビーズ・ロンドンの“Photographs”オークションでは、“SHOPPER,1953”、“PHONE CALL,1957”の11 x 14インチサイズのサイン入りの、モダンプリントが出品されている。ともに落札予想価格内の1万ポンド(@150/約150万円)で落札。同じくフィリップス・ロンドンで開催された“ULTIMATE EVENING & PHOTOGRAPHY DAY SALE”では、写真集の表紙掲載作の”Through Boards,1957″が1.125万ポンド(約168万円)、“Foot on the El,1954”が1万ポンド(約150万円)で落札されている。
いずれの作品も約11 x 14インチサイズ、サイン入り、タイプCカラー、モダンプリント。コレクター人気はいまだに続き、相場も高値で安定している。ちなみに約10年前の2008年は、同様の作品の相場は2000~3000ユーロ(@130/26~36万円)だった。
ヴィヴィアン・マイヤーは世界に注目浴びた時点ですでに亡くなっていた。それゆえに死後に制作された、エステートプリントに当たる作品しか存在しない。
しかし彼女の作品は、なんとニューヨークの老舗ギャラリーのハワード・グリンバーグでエディション15で販売されている。将来的に、オークション市場で人気が高まる可能性はあるだろう。

しかし、日本の写真家は公共機関での個展開催、市町村、新聞社、企業主催の写真賞を得ても市場価値にあまり影響がない。グループ展に選出された新進写真家などは、すぐに忘れ去られてしまう。日本には写真評価の一貫した客観的評価軸がなく、展示する人、売買する人、集める人がそれぞれの独自の基準を持っている。違う価値観を持った人は、他人の見立てには関心をいっさい示さない。つまり、長年にわたる作家活動を通して、写真家のテーマ性が単発的・局地的に認知されることはあるが、それが幅広いコレクターやディーラーの見立てにつながり市場性が高まるまでにはいかないのだ。
別の言い方をすると、日本写真をアートとしてコレクションしたり売買する市場が小さいから、見立てからの作品価値への影響が少ないとも解釈できる。つまり海外では、見立てがディーラーやコレクターに広がることで市場性が一気に高まる。そもそも日本には、日本写真のディーラーやコレクターがほとんど存在しない。海外で認知されている写真家を扱うディーラーや集めるコレクターしかいない。
以前にも述べたが、海外市場においても欧米の評価基準に合致している日本写真は、見立てが積み重なることで評価上昇につながっている。現代アート的なテーマ性や、多文化主義の視点からの評価のことだ。

日本では、いまのところ見立てと市場価値とはあまり関係性がないといえるだろう。状況はかなり複雑で、様々な意見や考え方があることは承知している。私は1990年代から日本市場を見ているが、日本独自の市場が極端に小さいという状況に変化の兆しはない。どちらかというと、経済の低迷の影響で縮小しているという印象すらある。しかし現状については、いまではある程度明確に認識できていると考えている。本連載で繰り返し主張しているように、海外の人たちにも、作品制作継続を通してテーマ性が見立てられるという日独自の価値基準の存在を知ってもらうのが重要だと考える。もしそれが伝われば、海外市場での日本人写真の見立てにつながり、彼らの市場価値も規模が大きい海外市場とつながる可能性がでてくるだろう。何度も繰り返しになるが、まずは国内での啓蒙活動の継続が重要だと理解している。

日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(10) なんで日本で写真が売れないのか Part-2

前回のパート1では、なんで日本で写真が売れないのかその理由を分析してみた。

繰り返すと、欧米のファインアートの世界では、写真展開催や写真集製作は、自分が社会に対するメッセージを伝える手段である。しかし、日本では制作側、見る側ともに写真を撮影して発表する行為自体が目的で、それがアート表現だと考えている。両者の価値基準が全く異なるということだ。
海外をベースに活動する日本人写真家が評価されたケースはあるが、世界で認められる写真家が日本から出てこないのは当たり前だといえる。評価されるべきメッセージ自体が発信されていないからだ。日本では、プロの写真家、先生の写真家、アマチュア写真家は、表現者としてみんな同じフィールドの中にいる。様々な価値基準を持つ集団が存在しており、その勢力拡大を目指すとともに、狭い範囲内で切磋琢磨しているのだ。
このような現状認識の上での、日本の新しい写真の価値基準の提案なのだ。

第3者による「見立て」は海外でも行われている。ただし、それに対する受け止め方が日本とは違う。西洋では新たな創作を行うためには、アーティストは自らがとらわれている思考のフレームワークの存在を意識して、それを破らなければならないと考えられている。
そのためには、多種多様な作品テーマに挑戦してマンネリに陥らない努力を行う。
優れた写真家はキャリアを通して変化しており、多種多様な作品の中に代表作があるのだ。またそのために、様々な意見を外部から取り入れ、自らをできる限り客観視して新たな視点を獲得するように努力する。
第3者の「見立て」は、作品アドバイスと同様の意味で、作品が無意識的に持つテーマ性に気付くきっかけになる。それが意識化されてアイデアやコンセプトに展開していくことが多い。

日本では、人間の本来持っている、思い込みや考えのフレームワークから抜け出すという意味が理解されない。第3者の「見立て」は作品のテーマ性発見にあまり役立たないのだ。同じテーマを長きにわたり追及する人が多いと感じている。

現代社会のシステムでは、一般論として、私たちは年齢を重ねるに従い能力や家庭環境などにより選別されていく。社会に出る段階ではすでに皆が違うスタート地点に立っている。どうしても自分の能力に近い人間関係の中で社会生活を送り、その世界にどっぷりとつかることになる。しだいに自分の知らない世界が存在するという意識が消えてなくなる。そして比較対象が少ないことから、狭い枠の中で自分はそこそこイケていると考えるようになり、人間の成長は止まってしまうのだ。西洋でアーティストがなんで尊敬されるかというと、その枠にとらわれないように悪戦苦闘している人だからだ。彼らの存在が人間社会の未来の多様性を担保すると考えられている。

日本は全く逆で、パート1でも触れたように、自分の持つフレームの中で表現を追及するのが作家活動だと思う人が圧倒的に多い。第3者からの「見立て」が自分の枠から外れている場合は重要視しないのだ。「見立て」を通しての写真家への働きかけは短期的には有効には働かない。
戦後日本には平等幻想があるとともに、いまでも共同体社会のセンチメントを無意識に持つので、周りも自分とたいして変わらないと考える傾向が強いからではないかと私は疑っている。

それゆえに日本では「見立て」は写真家を離れて第3者が独自に行う行為となる。多くの写真家は天才ではないので、ここの意識の違いはキャリア展開に非常に大きな影響を与える。
海外では、「見立て」やアドバイスがきっかけに若い写真家が優れたテーマ性の提示に成功することがある。しかし、日本では通常キャリアの後期になって複数の人からの「見立て」が積み重なることで、写真家の作品のテーマ性が徐々に認識されるようになる。時に数十年以上の長年にわたる作品制作の継続が必要となる。それが可能なのは、自らの写真表現が社会と何らかの関りがあり、継続するモーチベーションになっているからだと思われる。これはアマチュア写真家のように長期にわたってただ写真を撮影しているという意味ではない。ここでの作品継続の意味とは、何かに突き動かされて、被写体と一体になって一切の邪念を持たずに写真を撮影し、定期的に作品発表する行為のことだ。作品制作には、膨大な時間と資金が必要になる。社会的また金銭的な評価を求める人だと、短期的に結果が伴わないと継続するのは難しい。多くの人には、個展開催や写真集出版はキャリア上の思い出作りなのだ。

このように、日本の写真家の中には、自らがモーチベーションを持って作品制作を続けられる人と、写真を仕事や趣味で撮っている人が混在している。社会との関りから写真撮影を継続する人はいるのだが、彼らの多くは自らがメッセージを発信しない。誰かが隠れたテーマ性の「見立て」を行わないと、優れた才能は埋もれて忘れ去られてしまうだろう。
特に、広告写真家やアマチュアの中には、優れた作家性が発見されずに消えていった人が多数いるのではないかと疑っている。日本独自の新しいがアート写真が認知されないと、彼らを評価する価値基準が存在しないのだ。

最近は、「見立て」の行為に興味を持つ人への啓蒙活動がより重要だと感じている。日本には写真家はあまたいるが、「見立て」ができる人は圧倒的に少ないのだ。「見立て」には、その人の経験と知識の蓄積が重要になる。それなくして、作家性や作品のテーマ性に気づくことはないからだ。これは写真分野における、知的好奇心を刺激する高度な趣味的な行為だと思う。撮影はしないが、写真を通しての自己表現でもある。
おかげさまで、「写真の見立て教室」開催への問い合わせを数多くもらっている。どうも興味を持つ人がある程度の数はいるようだ。今後は、「見立て」ができる人を養成するような全く新しい写真のワークショップを春以降に開催したいと考えている。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(9)
なぜ日本で写真が売れないのか Part-1

いまや写真界では日本で写真は売れないというのが一般論になっている。私どものギャラリーの経験でも、特に日本人写真家による自然や都市の風景がモチーフの写真が売れ難いのは明確な事実だ。
私がよく引き合いの出す例は、アート写真のオークション規模の違いだ。ちなみに欧米では2017年に現代アートを除くアート写真だけのオークションが45回程度開催され、総売り上げは約79億円になる。日本にはアート写真だけのオークションはなく、SBIアートオークションのモダン&コンテンポラリー・アート・オークションのごく一部に写真が出品されるにとどまる。ちなみにギャラリーの店頭市場の規模は、オークションと同等から2倍程度といわれている。

その理由は、日本と欧米の住宅事情に帰せられる場合が多いが、状況を分析すると売れないのは当たり前なのがわかってくる。私はその状況を踏まえて、日本では全く新しい価値基準のアート写真カテゴリーが必要だと意識した。なんで写真の評価に第3者の「見立て」が必要なのか。本連載の読者により理解を深めてもらうために、今回は写真が売れない理由の説明を行いたい。

まず作家活動の意味や定義が海外のファインアートの世界と日本は全く違う事実を指摘しておきたい。念のために最初に述べておくが、これは日本と西洋とを比べてどちらが良いとか上だとかいうことではない。ただ価値基準が違うということ。この点を誤解しないでほしい。そして日本ではこの二つの全く違った価値観が混同されているという事実を伝えておきたい。

いま海外のファインアート分野で活躍する写真家は、社会の中で何らかの問題点を見つけ出して、それを写真を通して表現したり解決策を提示するアーティストなのだ。作品が売れるとは、そのメッセージの意味をコレクターが受け止めて、両者にコミュニケーションが生じることなのだ。日本でも、写真家は表現するという意味でアーティストといわれるが、それは海外とはやや意味合いが違う。アート系の学校の出身者や、海外べースで活動している人を除くと、最初に社会に何か伝えたいメッセージがあって写真を撮影する場合は圧倒的に少ない。また世間一般は、写真家は写真家であり、ファインアートのアーティストとは考えていない。多くの写真家にとって、自分の興味ある対象の写真撮影し、展覧会を開催したり、写真集を出版するのが作家活動なのだ。
また最近は、海外の現代アートの影響で、アイデアやコンセプトを撮影後に探してきて後付けする人も若い人中心に増えている。これは本質が伴わない、外見だけを現代アート風に仕立てた作品となる。
見る側の認識も同じで、展覧会に見に行って芳名帳に記載し、余裕があれば写真集を購入することが作家支援なのだ。

写真家は何もメッセージを発信していないし、見る側も何らかのメッセージを読み解こうという意識がない。だから写真が売れる、つまりアートコレクションの対象になるはずがない。日本では写真はアート作品ではなく商品なのだ。売れるのは、インテリア向けの飾りやすい絵柄の低価格帯の写真、商業写真家のクライエントや関係者が仕事上の人間関係で買う場合。親族・友人が社交辞令で買う場合などだ。しかし、コレクターとして作品のアート性を愛でて買うわけではないので、ほとんどが1回限りとなる。
そこには欧米的なアート史と対比してオリジナリティーを評価するような客観的な価値基準は存在しない。すべてが見る側のあいまいな感覚もしくはフィーリングでの判断となる。写真がアートになる以前の20世紀写真の基準がいまだに反映されがちだ。きれいな写真、うまく撮影された写真、クオリティーの高い写真、銀塩写真なのだ。また作品の客観的な基準がないことから写真家の知名度や経歴によって大まかな差別化が行われる。
それ以外にも撮影方法の目的化や学閥など、複数の価値基準が存在している。それぞれの人が自分の価値基準が普遍的だと考える傾向が強く、どうしてもそれぞれの基準に準じたコミュニティーが生まれやすい。

まとめてみると、欧米のファインアートの世界では、写真展開催や写真集製作は、自分が社会に対するメッセージを伝える手段である。しかし、日本では制作側、見る側ともに手段自体が目的で、それがアート表現になっている。両者の価値基準が全く異なるということだ。海外の基準やデザイン性で評価された日本人写真家は何人かはいるが、日本から世界に認められる写真家が出てこないのは当たり前なのだ。認められるためのメッセージ自体が発信されていないからだ。
これはアマチュア写真の世界と全く同じ構図となる。日本ではアマチュアの個展開催や出版もアート活動だと考えられている。プロの写真家、学校の先生の写真家、アマチュア写真家は、表現者としてみんな同じフィールドの中に存在している。このような現状認識ができて、初めて日本では欧米と違う新しいアート写真の基準が必要なのだと理解できるのだ。

次回は、日本と欧米の創作における決定的な考え方の違いなどに触れたい。

(Part-2 に続く)

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(8)
うつわ作家とクール・ポップ写真

今回は、クール・ポップ写真を撮影者がどのように把握したらよいかを説明していきたい。
念のために最初に確認しておくが、ここで述べるのは欧米で売買されているテーマ性を重視した現代アート系写真ではない。またインテリア・デコレーション用に制作された写真でもない。日本独自の新しい視点のアート写真の価値観に関わる説明になる。今までに語ってきた前提をもとに考え方を展開していく。もし興味ある人は過去に紹介した内容を読んでほしい。
 
私はこの分野の写真撮影者が参考にするべきは現代陶芸のうつわ作家だと考えている。陶芸作家が制作するうつわは手作り感や素材感が残るものの、あくまでも用の美を追求している。そこに作家性を最優先するようなエゴは存在しない。無心で土の中から形を呼び起こすような感覚だと想像している。
世の中には陶磁器は氾濫している。マーケティングを重視して巧妙にデザイン・制作されたものが大量かつ低価格で販売されている。手作業で作られるうつわは、大量生産品よりは高価だ。しかしそれらはアート作品ではないので一般の人に手が届かないほどの値段ではない。その上で購入者は生活の中で使えるし、うつわどうしをコーディネートしたり、料理と合わせることで一種の自己表現を可能にする効用もある。人気カフェは、料理とうつわとの相性、それを提供するインテリアという設えと取り合わせに心を砕いている。作家もののうつわで、同じようなことが家庭でも可能になる。ありきたりの表現だが、少しばかりのうつわの贅沢で生活者の心に潤いを与えてくれるのだ。このあたりが作家ものの陶芸コレクションが人気の理由ではないかと考えている。
 
写真で参考にしたいのはうつわの販売価格だろう。アートには作品の相場がある。アート写真市場の中心地である米国では、だいたい11×14インチ程度のサイズの写真作品は新人でも200~350ドルくらいから販売されている。日本でもディーラーがそれに合わせる形で新人の写真でも2.5万円くらいの値段をつけるケースが多い。アート作品は専門教育を受けた人により制作され、将来的に作家のキャリアによっては資産価値が上昇する可能性がある。このような真摯にアーティストを目指す若手の作品なら2~3万はかなり割安といえるだろう。
しかし日本ではほとんどの場合、写真はアート作品ではない。価格設定の前提が全く違うのに、混同されている。それらの写真は商品としての価値しかない。売れた後は中古品だ。使用価値がインテリア装飾に限定される1枚のシートの商品としては、2~3万円は高価だといえるだろう。インテリア系の写真を取り扱う専門業者は、飾り易い絵柄のマット付シートで8900円から販売している。額装込みでも1.5万円くらいだ。デパートなどのインテリア小物売り場では、額装されたインテリア用の版画が売られていることがある。それらは、A4サイズ、インクジェット作品が額込みで1~3万くらいだ。
ちなみに陶芸作家の器は、茶碗で3000円くらい、大皿でも1万円以下で買えるものが多いのだ。また1枚売れたから値段が上がることはない。もちろん生活食器として日常生活で使える。
市場で価値が受け入れられない商品はあまり売れないのが経済原則だ。クール・ポップ写真ではまず市場の適正価格を探ることが必要だろう。そして、それは制作に関わるコストや投入時間とはなんら関係がない。たぶん写真家が考えているよりも低価格になる。この点も作品制作の見極めと関わってくる。低価格の販売をためらう人は、お金儲けのために写真を売りたい人なのだ。

写真にとって、うつわの用の美に該当するのは、インテリアで生かされる設えと取り合わせの可能性だろう。しかし、ここは多くの誤解を生むので注意が必要だ。それらは、写真家や業者がマーケティングを行いアート・リテラシーが低い層向けに綿密にデザインされて制作されたハッピー系版画やインテリア系の写真ではない。これはプロ写真家や業者の仕事として特に欧米では一つのカテゴリーを形成している。日本では、感情の連なりと色彩・デザインを追求した同様のスタイルを持つ写真が非常に多い。そこには良い写真を撮りたい、評価されたいという撮影者の意図が見え隠れする。また本人がそれを無意識だと思いこんでいる場合も多い。作品完成後、写真に現代アート的なストーリーを後付けする人もいる。どうしても何か撮りたいという強い衝動がない場合、撮影自体が目的化してしまう。どうしても何かを頼りにしがちになるのだ。

仕事としてインテリア用の作品制作をするのでなければ、中途半端にグラフィックやデザイン性を意識した写真作品を制作しない方が良いだろう。また本当に無心で作品を生みだしたのならば、撮影者はそれについて語らない方が良い。無理して語ろうとすると、それは作り話になってしまう。それらの特徴は、経験を積んだ専門家が見れば一目瞭然だ。
それ故にクール・ポップ写真では第3者による作品制作の見極めとテーマ性の見立てが必要だと考えているのだ。
 
話は陶芸に戻る。では新人や無名の作家のうつわはどのように買われていくのだろう。それは鑑賞する側がうつわの質感や、手作業の痕跡から感じられる作り手の精神性のような感覚を共有できるときではないだろうか。また作家ものであるにもかかわらず、いわゆるお値打ち価格である点も重要だろう。一方でイケア、無印良品、100円ショップでは、デザイン性や値段がうつわ購入の決め手になる。
これを写真に当てはめると、前者がクール・ポップ写真で後者がインテリア系写真となる。写真の被写体は様々だ。したがってこの範疇の写真は、ポートレート、シティースケープ、ランドスケープ、抽象など広範囲に存在する。
サイズ的には、作品テーマに見る側を引き込むことを意図した現代アートのような大判サイズではなく、複数作品のコーディネートが可能な小ぶりな作品が中心になると考えている。
手軽に買える作家もののクルー・ポップ写真。毎回の繰り返しになるが、まずは作品制作の見極めが行われ、写真家が作品制作を継続する過程でテーマ性の見立てが行われるようになる。その先に、写真家のブランドが構築されていくかもしれない。それはうつわ作家のブランド構築に近い過程になると考えている。また流通にも新たな可能性が生まれるだろう。特にギャラリーに販売を頼ることなく、オンラインショップなどを通して自らが顧客に直接販売する流れが生まれると予想している。

夏休み期間には、「写真の見立て教室」(仮称)を、実例を紹介しながら行いたいと考えている。

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(7)
見立ての勘違いについて

いままで日本写真の新しい価値基準として、クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(クール・ポップ写真)を提案してきた。それは鶴見俊輔による限界芸術、柳宗悦による民藝の写真版だと解釈可能で、また夏目漱石がエッセー「素人と黒人」で述べている、素人にも近いと紹介している。写真家が無心で撮影した作品と、買う側、評価する側の"見立て"がセットになって成立する。過去6回ほど書き続けながら考え方を展開してきた。興味ある人はぜひ読んでみてほしい。その考えは日々進歩・展開している。いままでの主張が一貫性を欠き、多少の矛盾点があるかもしれない。どうかご容赦いただきたい。今後も変わるかもしれないが、最新の考え方が最善だと理解して欲しい。今回はいままでに気付いた"見立ての勘違い"に触れたい。
 
写真の見立ての最初のステップは写真家の撮影スタンスを見極めることだ。経験の浅い人は、デザインやテクニック重視で制作された写真に惑わされしまう。表層に好印象を感じることが、本質の評価だと勘違いしてしまうのだ。第一印象が良い写真ほど直ぐに飽きてしまう、自分の印象による判断を疑ってみてほしい。写真に能動的に接してみよう。写真家が何を感じているのか、また何を伝えたいから撮影しているかに思いを馳せてみよう。撮影者の問いかけが読みとり可能かが判断基準になる。特にデジタル化進行で急増化している抽象写真には注意が必要だろう。

私はアマチュアリズムの徹底的な追及からこの分野の写真が生まれてくると考えている。ここにも勘違いが多いようだ。いまのアマチュアの中には、あわよくば写真家と認められたい、写真で生活の糧を一部でも得たいと考えている人が散見される。また写真での所属欲求、承認欲求を持つ人もいる。そうなると、どうしても自分のエゴが写真に反映されてしまう。アマチュア精神がプロ化して失われているともいえるだろう。アマチュアとは自由な精神性のことだ。純真に好きでやりたいことを追求し続け、プロ写真家のように写真界の評価を気にすることがなければ、真に主観的な撮影スタイルが実践できる。そのような写真が結果的に第3者から見立てられるのだ。ただし、自分のアイデアやコンセプトを自らが考えだして作品として提示する現代アート系写真はこの範疇に含まれない。ここの部分も混同や勘違いしないでほしい。

撮影や作品編集以外の写真の楽しみ方も紹介してきた。作品制作意図の見極めを行った写真を材料に、"設え"、"空間取り合わせ"を"見立てる"行為だ。ギャラリー空間のように、写真はシンプルな額にいれて、白い壁面に展示するのが一般的だ。しかし、どの写真を選んで、額装するかなど、展示方法を考える"設えの見立て"、それがどのようなスペースに合うのかを考える、"空間取り合わせの見立て"も可能ということだ。最初に展示したい場所があって、写真セレクションと設えを考えても良い。このような過程は古美術や骨董の世界では一般的。写真を素材としてもこのような一種の自己表現も可能ということだ。日本で真に写真が売れるには、欧米とは違うこのような買う側と写真との独自の関係性も必要かもしれないと感じている。
これには注意点がある。それは上記の行為はインテリア向けの写真のプロデュースと類似していることだ。多くのギャラリーやインテリア・ショップが販売手段として写真とフレームとの相性などを顧客に提案するのはよく知られている。インテリア向けの写真は、写真自体もインテリア・コーディネーションの素材でそのデザイン性を重視する。しかし、クール・ポップ写真は技術やデザインで制作された写真は評価しない。そこには"作品制作意図"の見極めが抜け落ちているのだ。インテリア・コーディネートと見立てとの混同や勘違いがよくあるので注意してほしい。

"作品制作意図"の見極めが、どのように"テーマ性の見立て"につながるかにも勘違いが多い。少し複雑なので整理整頓しておきたい。写真家にテーマ設定の意図があり、そのテーマ性を第3者が社会の価値観のなかで見立てるのが現代アート系の"テーマ性の見立て"。一方で、ここで展開しているように写真家が無心で作品を制作していて、そのなかにテーマ性を第3者が社会の価値観のなかで見立てるのがクール・ポップ写真の"テーマ性の見立て"となる。 テーマ性の見立てには見る側が能動的に写真に接するとともに、アート写真リテラシーの高さが求められる。日本では見る側にも写真のメッセージ性を読み解こうとする態度が強くないという状況もあるだろう。邪念がない写真家の内在的なテーマ性は、自分が語らないがゆえに現代アート系のように作品単体では顕在化しないのが特徴だ。長年にわたる作品制作の継続、また同様なパターンの繰り返しの中で育まれていく。

時間経過の末に、しだいに第3者から写真家本人や作品の社会との関わりのあるテーマ性が発見され、語られるようになるのだ。一人や少数の人の印象のようなものから始まり、それに共感する人がでてくれば、評価はより広く広がる。現代アートのように写真家自身の言葉でメッセージを発信するのではなく、作品の社会とのテーマ性が自然発生的に語られるようになるのだ。複数に見立てられた制作者の無意識のテーマ性が、外国人のキュレーター、評論家、コレクターに理解されようになれば写真家のブランド構築につながる。実際に過去の日本人写真家の多くはこのような過程を経て世界的に評価されたと考えている。
 
繰り返しになるが、ここに至るまでには写真家の作品制作の継続が不可欠になる。何10年もかかることもあるだろう。ここにも勘違いが多いので確認しておこう。それは商業写真家やアマチュア写真家が単に写真撮影を継続することではない。世界からの評価も認知もない中で、写真を通して何らかのメッセージの発信が継続できるかだ。それは何で写真を撮影するかを自分自身の問う行為でもある。それができるのは、写真家の継続の動機が何らかの社会との接点を持つからだろう。時間の経過の中でそれを誰かが発見して語ることになる。ただ写真を撮影しているだけでは、見立てられることはないのだ。
 
私どもができるのは、写真家の"作品制作意図"の見極めを行い、ライフワークとして写真に取り組むことを奨めるしかないと考える。クールでポップなマージナル・フォトグラフィーの価値基準を知ることが作品制作継続のモーチベーションになると期待したい。多くの人は、評価されることなく作品制作は継続できないだろう。それに気付いた人は、ぜひ写真を見立てる側での自己表現を試みてほしい。
 
いままで、ずっと予告していて実現できてないのが講座やワークショップでこの新分野の写真を解説すること。また実際に写真家の"作品制作意図"を見極め、それらをフォトフェアなどで展示したいとも考えている。決して忘れたり諦めたわけではなく、準備は着々と進行している。どうか今しばらく時間をください。