本展は、長島有里枝(1973-)の公共美術館での初の展覧会。初期作のセルフ・ポートレートから新作までを一堂に展示する、キャリア中期の回顧展になっている。
彼女は学生時代から約24年間にわたり写真を撮影し続けているが、本展に至るまでに、いくつかの幸運に恵まれている。まず90年代のヘアヌード・ブームに乗ってキャリア初期に注目されたことだろう。当時、アート表現ならへアヌードも当局に容認されるという解釈が巻き起こった。出版業界はヌード写真バブル状態になった。どのようなスタイルでも、ヌードを撮影する写真家は一夜にしてアーティストになったのだ。それにはセルフヌードを撮影する写真キャリアの浅い若い女性も含まれた。この辺のきっかけは荒木経惟が登場してきたのと同じ構図だ。ちなみに長島は荒木に評価されて、1993年に“アーバナート#2”展でパルコ賞を受賞している。
また90年代中頃に起きた、若手女性の写真を評価する“ガーリー・フォト”のブームに乗ることもでき、2001年に木村伊兵衛賞を受賞している。この女の子写真ブームに対する的確な評価と解説は、同展カタログの掲載のエッセーで編集者のレスリー・マーチン氏が行っている。興味ある人は一読を奨めたい。
キャリア初期に評価されたことや、社会的ブームに後押しされた幸運を多くの人は羨むかもしれない。しかし人生はその後も続いていく。認められたワンパターンの撮影スタイルに陥り、そこから永遠に抜け出せない場合や、初期作を超えられなくて消えていく人も数多くいる。特に日本では若い女性が目新し方法論を駆使して表現しただけで面白がられる傾向がある。しかし、若い表現者は次々あらわれ、また誰しも年齢を重ねていく。
長島の素晴らしさは、キャリア初期に評価された後も、約24年間にわたり、留学、結婚、出産、離婚などのライフイベントを乗り越えて活動を継続してきたことに尽きるだろう。資料によると、最近は活動の幅を広げてエッセー執筆や、共同作業で縫い合わされたテントやタープのインスタレーション作品も発表している。写真展では異色の、巨大なインスタレーションは同展会場で鑑賞することができる。
最初に注目されても、まったく評価されなくても、作家活動を何10年も継続するのは普通の人には絶対にできない。それが可能だったのは、本人にカメラや写真を通じて社会とコミュニケーションを行うという強いモーチベーションがあったからだ。作家活動を継続した末に、本人の持つ社会と関わりを持つ語られないテーマ性に専門家が気付くようになるのだ。長島の場合、一般的に認識されている作品のテーマ性は、本展キュレーターの伊藤貴弘氏が指摘するように“社会における「家族」や「女性」のあり方への違和感”となるだろう。
同氏は、本展のカタログでは、英国の女性小説家のヴァージニア・ウルフ(1882-1941)の評論『自分だけの部屋』から「女性が小説を書こうとするなら、お金と自分だけの部屋を持たなければならない」を引用。見事に長島作品と歴史との関係性も見立てている。
またカメラがデジタル化して、誰にでも簡単に写真が撮れるようになった。いまセルフィー(自撮り)といい、自分自身の写真を撮影する人たちが数多く存在する。写真の専門家は、カメラはアナログだったものの、長島はその元祖的な存在だと評価している。
今回、初めて彼女の話を聞く機会をえた。美大出身で挑発的なセルフ・ヌードなどを撮影しているので、かなり個性的で自我が強い人かと先入観を持っていた。しかし意外にも、ナチュラルで虚勢を張ることない、全く嫌みのない人に感じられた。自分のプライベートなことも抵抗感なく晒すことができるのだが、そこには見る側に同情を求めるような嫌らしさは微塵もないのだ。無理して格好をつけて、自分が消化していない現代アート的なコンセプトを語ることもない。初期作品での、女性肉体のヴィジュアルが男性に消費されることやその背景の社会構造への違和感を淡々と語っていた。ここらへんがキュレーターや編集者などが、上記のようなテーマ性の提示だと指摘したいところだろう。しかしこれは意識的というよりも、自然と湧き上がってきた感覚的なものではないだろうか。
ビジュアルの良し悪しにこだわることなく、彼女は自然体で被写体に向かいあって撮影しており、人に褒められる良い作品を制作しようなどといった邪念が少ないのだと思う。キャリア初期に写真家として認められた後も偉ぶり虚勢を張ることもないスタンスに変化がないのだ。
想像するに、初期作で全員が躊躇なくヌードになるような家族環境が彼女のような社会のしがらみをあまり気にしない存在を育んだのだろう。写真には撮影者の人格が投影されるといわれるが、このような取り組み姿勢があるからこそ、彼女の写真に多くの人が引きつけられのではないか。
長島はまだ40歳代中盤、美術館での回顧展を開催するには異例の若さだ。キャリア初期での成功が大きく影響しているものの、邪念を持たずに長い期間に渡って表現を継続すると、第3者が作家性を見立ててくれる好例といえるだろう。
本展開催は都写真美術館にとっても英断だったと思うが、写真文化の振興を標榜するという同館の方向性と見事に合致していると思う。エゴとお金にまみれた現代アートやマーケットとは一線を画す、独自の写真文化萌芽の可能性を感じた。本展は写真を撮る若い人に、写真家のキャリア展開のひとつの道筋を示しているのではないだろうか。
長島有里枝
そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。