日本のファッション系フォトブック・ガイド(第8回)ホンマタカシ「ウラH ホンマカメラ」(1998年5月、ロッキングオン刊)

ホンマタカシ(1962-)は1998年12月に刊行された「東京郊外 TOKYO SUBURBIA 」(光琳社出版)で第24回木村伊兵衛賞を受賞した写真家だ。アマゾンco.jpに掲載されている商品説明によると、本書は「駐車場や住宅地、団地の中庭といったどこにでもある東京郊外の風景と、そこで今育っている子供たちを撮った64枚の写真。特別でも何でもない郊外の都市環境を、ひとつのフレームに収めた写真集」とのこと。
いわゆるドイツ人写真家ベッヒャー夫妻が取り組んだタイポロジー的(類型学)なアプローチで、同じように見える東京郊外の風景を撮影してその関係性を訴えようとしたものだ。実はその原点となる写真集が今回紹介する同年5月刊行の「ウラH ホンマカメラ」なのだ。ウラHとは、1994年にロッキングオンから創刊された月刊誌「H」を意識してのこと。同誌は現在では不定期刊になっている。

戦後日本では歴史と伝統を受け継いだ正統派ファインアートと大衆芸術のポップとが混在している状況が続いている。アートシーンの成り立ちが欧米とは全く違うのだ。この点を攻めて独自のアート理論構築を試みたのが、いまや世界的現代美術家の村上隆。マンガ、アニメ、ゲーム、フィギュアなどの延長上に日本独自のアートを追求したのだ。
村上がスーパーフラットを唱え始めたのが1998年、雑誌広告批評の「TOKYO POP」特集が1999年、「スーパーフラット」(マドラ出版)が2000年刊だ。「スーパーフラット」とは伝統的な浮世絵や日本画から現代のマンガ、アニメなどに見られる画面の平面性とともに、日本の社会、風俗、文化、芸術のフラットさをも指し示すもの。
「ウラH ホンマカメラ」で、ホンマは暗にその土壌を肯定しそこからの日本独自のアート写真文化の可能性探求に挑戦しているのだ。
本書内容は、当時の時代性を非常に巧みに取り込んでいる。表紙のニッコリ笑った常盤貴子のB級っぽいポップなポートレートから始まり、流行していた節約生活を紹介する雑誌「すてきな奥さん」を意識した小泉今日子「ステキな奥さん」、芸能人のスクープ雑誌を意識した坂井真紀の「ニセフライデー」、市川実和子「ホワッツ・ガ―リームーブメント?」、「ニセアラーキー愛情生活」、大森克己「暮らしの手帖」、「東京郊外」につながる「郊外雪風景」など。当時の商業写真界の大物である篠山紀信とアート写真界大物の荒木経惟のインタビューを収録しているのも文化の混在を意識してのことだろう。
90年代後半の節操無く消費資本主義が突き進んでいった日本で起きている様々な現象をシュールな視点で見事に撃っている。本書がハード版ではない、雑誌のような形式のペーパー版であるのもポップさ出すために確信犯で行っているのだと思う。
しかし決して軽い内容の本ではない。宮台真司のエッセー「まぼろしの郊外写真」も掲載されており、時代との接点も明確に示されている。ちょうど1997年には酒鬼薔薇聖斗事件など少年犯罪が増加した時期。その背景に生まれつき個性がない郊外のニュータウン環境に育ったことがあると分析している。この文章がホンマタカシの主要作品の明るい郊外写真と子供ポートレートの視点を明確に指示している。

「ウラH ホンマカメラ」は、ホンマの写真家、編集者、アートディレクター、美術家としての才能が遺憾なく生かされた写真集だと思う。彼はその後、欧米現代美術方面に意識的に軸足を移すことになる。たぶんその背景には「ウラH ホンマカメラ」の意図が写真界で理解されず、また正当に評価されなかったことによる絶望にあるのだと思う。現代美術において村上隆を評価した評論家椹木野衣のような人が写真界に存在しなかったことによる悲劇なのだろう。残念ながらその状況は現在でもあまり変わっていない。
個人的には再び本書にある作家としての原点に回帰して、日本独自のポップとアートが混在した写真の可能性を探求して欲しい。
村上隆は2000年代かけて展覧会「スーパーフラット」、展覧会「ぬりえ」などをキュレーションしている。写真家ではHIROMIXや佐内正史らが選ばれているが、ホンマタカシの名前はない。たぶんその理由は、最初は同じ視点を持っていたものの、その後にホンマが村上とは違う方向に行ってしまったからだろう。

古書市場で「東京郊外 TOKYO SUBURBIA 」は版元が倒産したこともありとても高値で取引されている。普通状態で2万円以上もするのだ。マーティン・パー編集のフォトブックガイド「The Photobook:A History volume Ⅱ」(2006年、Phaidon刊)で紹介されたことから、リーマンショック前の市況ピーク時には状態の良い本の海外での評価額が約10万円だったこともある。それに比べると「ウラH ホンマカメラ」はたぶん雑誌として取り扱われたであろうことから非常に低価格、なんと1,000円以下から売られている。明らかに過小評価だと思う。本連載で指摘している視点がより広く受け入れられれば、本書はホンマによる初期傑作写真集と再評価されるだろう。
雑誌形式で傷みやすいことから状態が良いものは多くは流通していない。帯付きの傷みが少ない状態のものを見つけたらすぐに入手すべきだろう。

日本のファッション系フォトブック・ガイド(第7回)小林響「tribe」(1998年、光琳社出版刊)

1990年代前半の欧米ファッション・ヴィジュアル分野では、フランス人アート・ディレクターのファビアン・バロンが大活躍していた。彼は1988年にイタリアン・ヴォーグの刷新を成功させ、1992年にはマドンナのヌード写真集「SEX」(スティーブン・マイゼル撮影)を制作したことで一躍時代の寵児となっていた。1992年9月には米国版ハーパース・バザーのリニューアルをリズ・ティルベリス編集長とともに手がける。モダンでシンプルな余白を生かしたスペース使いと、大胆かつ巧みなタイポグラフィーで低迷していた同誌を復活させた。40~50年代に同じく同誌で活躍した名アート・ディレクター、アレクセイ・ブロドビッチの再来とも呼ばれていた。

日本にも、ブロドビッチとバロンに魅了された編集者の林文浩(1964-2011)がいた。彼は雑誌シンクの編集者を経て、やがて独立系のハイ・ファッション誌「リッツ」、そして「デューン」を創刊させる。ブロドビッチといえばリチャード・アヴェドンを見出したことで知られている。バロンはパトリック・デマルシェリエやピーター・リンドバークを起用して雑誌を改革した。林も自分が憧れるバロン風の、シンプルでモダンな表現ができる写真家を探していた。

彼が目をつけたのが小林響(1955-)だった。小林は世界中の消えゆく少数民族のポートレート撮影プロジェクトに取り組んでいた。 彼はどんな遠隔地にも白バックを持参し、野外簡易自然光スタジオを設営して中判カメラで撮影を行っていた。それらはリチャード・アヴェドンが行った”In the American West”プロジェクトを思い起こす写真だった。当時はポストモダンの過剰なデザインが中心だったので、彼の白バックのシンプルなモノクロ写真は非常に魅力的に感じられたのだ。林は彼の作品を一種のファッション写真と評価した。かつてヴォーグ誌のアレキサンダー・リーバーマンがアーヴィング・ペンを起用して世界中の少数民族を現地の簡易スタジオで撮影したことを意識したのではないだろうか。
林はみずからが編集長を務める雑誌「デューン」のファッション・ページやポートレート撮影で小林を起用するようになる。「デューン」2号のニューヨーク特集で、林は憧れのバロンにインタビューしている。バロンのポートレート撮影はもちろん小林が担当。ちなみにバロンはこの中で、写真を選ぶ基準を発言している。それは、”Strength(強さ)”、”Directness(直接さ)”、”Quality(高い質)”、”Impact(衝撃性)”だという。これは人の感動を呼ぶ写真が一番重要だという意味で、アート写真の基準にもつながってくる。

90年代前半の日本のアート写真業界はいまよりもはるかに活気があった。1991年に東京都写真美術館が開館したこともあり、写真がアートとして扱われることをマスコミが非常に珍しがった。アート写真に関する新聞での記事掲載、雑誌での特集がかなり頻繁に行われていた。当時はテレビ東京の「ファッション通信」やNHKーBSの「東京発エンターテインメント・ニュース」で、写真展をニュース・トピックとして紹介していたほどだ。
ビジネス面でも、流通業の伊勢丹やパルコが写真専門ギャラリーを実際にオープンさせ、デパートでも頻繁に写真展が開催されていた。写真展のコンテンツも外国人作家の海外ギャラリーからの巡回展などが多く、いまよりも内容レベルが遥かに高かった。活気があった背景には、写真を含むアートビジネスが将来的により活況になるという予感があったからだ。
そんな明るい未来像が、そうなったときに恩恵を被るだろうと考えられる、カメラマン、ギャラリー、キュレーター、流通業者、イベント業者、デザイナー、マスコミ、編集者、コレクターのあいだで共有されていたのだ。ネットが普及する前だったので、人同士のコミュニケーションがいまより広範囲に、また頻繁に行われていた。林文浩や小林響もその流れの中で活動が注目されたのだ。 いま思い返せば、当時はまだバブル時の残り香が残っていたのだろう。景気は循環し、再び良くなるとまだ信じられていたのだ。現実には長期不況の失われた20年が始まったばかりの時期だった。

1990年のケニアから始まった小林の少数民族撮影プロジェクト。多分野の人からの作品に対する高い評価が彼の背中を押した。ちなみ1993年夏には、当時代官山にあったブリッツでも彼の個展を開催している。最終的に、彼は約5年間でアジア、中近東、アフリカ、ニューギニア、アマゾンを旅し3000人以上のポートレートを撮影することになる。
1998年ついに彼の少数民族ポートレートが京都の光琳社出版から「tribe」として写真集化される。ADはあのファビアン・バロンが担当、小林とバロンは「デューン」誌でのインタビューで知り合ったのだろう。二人の付き合いはいまでも続いているという。序文はアフリカ像の乱獲をテーマにした写真集「The End of the Game」の著者で有名アーティストのピーター・ベアード(1938-)。モノクロ図版が100以上収録された35.5X28.5cmの大判サイズのハードカバー。タイトルが印刷された透明ラミネート製ダストジャケット付きの豪華本だ。国内価格は9800円(税別)。この本は世界同時発売を前提に編集制作されている。文字はすべて英文で、光琳社版ではベアードと小林のメッセージの日本語訳のブックレットと帯が付く。米国では”powerHouse Books, NY”、フランスでは “Edition Assouline, Paris” から刊行されている。本書は世界最高峰のクリエーター、アーティストが関わった、グローバルに通用する高いクオリティーを持つ日本発のフォトブックだったと思う。当時の光琳社には、アート系の写真集で世界市場に挑戦するという意思があったことは間違いないだろう。

ベアードの以下から始まる文章は15年以上たった今でも示唆に富んでいる。
「小林響の作品には、読者にフェアであることについて考えさせる何かがある。それは、尊大さ、純粋さ、平穏さ、辛抱強さ、そして他者への思いやりといった、複雑な人間の交わりのなかで、あたたかく受け入れられるもの全てであり、現実にいま、この地上で起きている事柄とは正反対の事柄である」。彼は現実に絶望しているかのように「人間は、強欲で狡猾なこの人口爆発・汚染爆発という代表的な一例を、従来にも増して、みずからが造出した破壊機構の中にひたすら形を整えながらも取り組んでいるのである」と続ける。
最後に「結局のところ、人間が団結するには。地球外からの侵略が必要なのではないだろうか? 確実にいえることは、小林響のこの本に含ま
れているような作品、より多くの謙虚さと寛大さをもつ作品こそが、我々人間のグローバルな戦略、つまり地球に住む目的を再考するチャンスをあたえてくれる、ということである」とまとめている。

小林響の写真、ファビアン・バロンのアート・ディレクションとともに、このピーター・ベアードの序文により本書は優れたフォトブックになっている。写真のシークエンスはベアードの文章が見事に反映されている。まず20あまりのtribeたちの写真を大胆な裁ち落としのレイアウトで連続して見せ、いったん見開きの全黒ページで流れを止め、最後にオレンジ色の帯状のデザイン・スペースの手が入った頭骸骨のポートレートで終わらせている。これは、ボルネオ奥地に住む首狩り族の犠牲者の頭蓋骨だ。最後に「死」の象徴を入れることで消えゆく少数民族の「生と死」を表現しているのだろう。それはもちろん私たち全人類のことでもある。
刊行された1998年以降、ベアードの思いとは裏腹にグローバル化経済がさらに進行していく。90年代に撮影されたtribeたちの多くはいまやそのシステムに取り込まれてしまったのではないか。それゆえに、写真集「tribe」の当時のメッセージはいまでも十分に有効だと思う。

残念なことに光琳社は本書が刊行された翌年に倒産してしまった。優れた写真集が正当な評価を受けるのには時間がかかる。もしかしたら、同社の倒産により写真集「tribe」は多くの読者の手に行き渡る前に処分されてしまったかもしれない。
作家として認められた小林は、その後ファッション、広告写真家として成功する。しかし、写真集「tribe」以降の新作はまだ完成していないようだ。「tribe」のテーマがあまりにも壮大で、また被写体たちが強烈な存在だったので、それ以上の、”Strength(強さ)”、”Directness(直接さ)”、”Quality(高い質)”、”Impact(衝撃性)”を持った対象に出会えてないのだろう。

本書の国内古書市場での相場は4,000円~。流通量は少ないのは版元の倒産が影響しているのだろう。ネットではときに低価格で売られていることもあるが、透明カヴァー、帯、ブックレットの有無は要確認だ。海外では米国版中心に普通状態のものが50~75ドルで販売されている。ベアードが文章を寄せて、バロンが手掛けた90年代の優れたフォトブックとして認知されているようだ。
この写真集がレア・ブックとして更に高く評価されるかどうかは小林の次回作にかかっていると思う。彼はまだ50歳代後半、作家としての今後の展開をおおいに期待したい。

日本のファッション系フォトブック・ガイド(第6回)操上 和美「ALTERNATES」横須賀 功光「ザ グッド=バッド ガール」

今回は操上 和美(1936 – )「ALTERNATES」と横須賀 功光(1937 – 2003)「ザ グッド=バッド ガール」を紹介する。ともに1982年刊行の写真集だ。
以前に70年代後半から80年代にかけて、写真家のコマーシャルフォトとアートフォトへの姿勢が変化していくと述べた。米国では写真家はパーソナルな自己表現の可能性を追求するようになる。その活動の延長上に写真のアート性の認知がある。一方、日本はコマーシャルフォトの勢いが増していく。この時期の日本は、使用価値から象徴的価値の消費が中心になる。好景気の中、個人が消費を通して自己実現を目指しはじめたのだ。この高度消費社会到来により広告関連予算が急拡大する。その結果、予算に制限がないコマーシャルフォトの延長上にもアート表現の可能性があると多くの日本人写真家が考えるようになったのではないか、と分析した。

そのわかれ道が、今回紹介する繰上和美「ALTERNATES」と横須賀功光「ザ グッド=バッド ガール」が刊行された1982年前後の頃ではないかと思う。2冊に収録されているのはほとんどがコマーシャルフォトだ。このような写真セレクトの写真集が存在していたこと自体が今ではとても新鮮だ。当時コマーシャルフォトとアート写真とが混在していた証拠だろう。まさにそのような時代の気分が反映されていた過渡期的な写真集だと思う。いま収録写真をみると気が抜けたビールのような眠たい印象がする。当たり前だがコマーシャルフォトは写真家だけの作品ではなく、多くの人が関わる共同作業の一面を持つ。ヴィジュアルとコピーが共存することでパワーを持つことがよくわかる。

欧米の写真家も常に自己表現とクライエントとの軋轢の中で悪戦苦闘してきた。それには長い歴史があり、ロバート・フランクがアレクセイ・ブロドビッチのもとでハーパース・バザーで働いていた時くらいまでさかのぼれる。ポール・ヒメル、ギイ・ブルダンらも挑戦は行うもののコマーシャルフォトのなかに自由な表現の可能性はないと失望しているのだ。
コンデ・ナスト社のアレクサンダー・リーバーマンは、このあたりの事情を以下のように解説している。これが欧米の写真家にとっての仕事と自己表現との基本的な認識だと思う。何度も引用しているが再び紹介しておこう。
「一流の写真家の大部分は、コマーシャル写真の中での彼らの生活と並行して、別の生き方をつくりあげてきている。大きなプロジェクトに敢然と立ち向かい、人生の特異で深遠な面を記録する。彼らが使える時間の一部を“純写真”にささげる。このコマーシャルと“純写真”ふたつの関心事の結合が、われわれ人間がもつ映像の集積と、世界についてに経験を豊かにしてきた。コマーシャル写真で創造への意欲が満足させられずに悩む写真家は、仕事上の写真からの収入は純粋に創造的な試みをするための経済的な裏付けとみなす道をとることが賢明だろう。経済的な裏付けがないと写真を追求することは非常に難しい。制作にかかるコストは膨大であり、無駄になる部分があることを承知で費用をかける余裕がなければ写真で成功することは難しい。」

70年代後半くらいまではその流れは日本でも変わらなかったのだと思う。しかし2冊の写真集の収録作品をみると、二人の日本人写真家がこの時代にコマーシャルフォトの延長上にアートの可能性を追求していた痕跡が感じられる。これらの写真はギイ・ブルダン(Guy Bourdin)、チコ・リードマン(Cheyco Leidmann)、ジャン・ポール・グード(Jean-Pau Goude)の写真に似ているという意見がある。これに関しては、同様な時代背景を持つ、同じ志向の外国人写真家のイメージと偶然に似てきたのだと好意的に解釈したい。

このような動きの背景には、コマーシャルフォトを日本独特のアートととらえる動きがあったことも影響していると思う。以前、浅井慎平の時に紹介した谷川晃一が提唱していた「アール・ポップ」だ。戦後日本に流入してきた民主主義主義とアメリカ文化。共同体の中でしか生きることが出来なかった日本人はとても魅力的に写った。谷川はそのような精神を愛でて、アメリカ的な感覚を持つ人たちが好む感覚を持つモノやイメージを「アール・ポップ」という一種のアート・ムーブメントにとらえた。彼は「アールポップの時代」(1979年、皓星社刊)にまとめ、展覧会などを開催している。 それには絵画、オブジェ、イラスト、デザイン、写真、ポスター、レコードジャケットなど、大衆文化などが含まれる。同書には、アール・ポップの例として、操上和美のコマーシャルフォトとギイ・ブルダンのファッションフォトも選んでいる。しかし、自由な精神を持つ生き方を追求するには西欧的自我の確立が必要不可欠だった。また共同体的な価値観に背を向けることは孤独に耐えることと同意語でもあった。ところが実情は好景気で日本人の精神性までもが変わったわけではなかった。経済成長は共同体の締め付けを弱くする。景気がよければ組織の中でも多少のやんちゃで自由な行為は許容されるのだ。
もし日本人の本質までもが本当に変わったならば、ハイカルチャーとサブカルチャーが混在している日本社会ではコマーシャルフォトの先に独自のアートが生まれる可能性があったかもしれない。当時の写真家たちは日本人の精神性も変わりつつあると信じたのだ。実際に彼ら自身が社会の最前線で組織から自由に生きることを実践していたからだろう。

80年代以降、日本ではコマーシャルフォトが写真界を完全に凌駕してしまう。しかし、ハングリーさを失ったクリエーターから斬新な表現は出てこなくなる。洗練されたヴィジュアルよりも、強いインパクトを狙う奇をてらった表現が多くなる。 実はその兆候をこれら写真集の中で見つけることが出来る。
結局、その後のバブル崩壊と長期の景気低迷で、独立した個人ではなく共同体的なセンチメントがいまだ日本人の精神性の中に深く根をおろしていることが明らかになる。それが単に好景気で覆い隠されていただけだったのだ。景気低迷期に自由な生き方を追求すれば簡単に社会の底辺に落ちてしまう。不安になるときに人の本質が表れるのだ。
いま考えるに、日本でのアートととしてコマーシャルフォト、ファッションフォトの誕生は、戦後の非常に例外的な豊かな社会状況により起きた幻想にすぎなかったのだろう。

実はファッション写真のアート性は90年代以降に欧米で認められるようになる。80年代に二人の日本人写真家やブルダンらが信じたことが実現するのだ。ファッション写真は広い意味のコマーシャルフォトの一分野と考えればよいだろう。今ではファッション写真は単に洋服を撮影したものだけにとどまらない。非常に拡大解釈されており、二つはほぼ同じ意味に使われる。ただし、アート界ではファッション写真の方が好まれて使われる。どちらにしてもアートになりうるには、時代性がどれだけ反映されているか、また撮影時の自由裁量がどれだけ写真家に与えられるかによる。通常、写真家に自由裁量が多く与えられるファッション雑誌のエディトリアル・ページの写真はアートになり得る。また広告であっても、クライエントが写真家の個性を愛でて大きな自由裁量を与えることがある。それらもアート作品になり得る。そのような写真家の作品には、時代の移ろう気分や雰囲気が反映されている点が新たに評価されたのだ。ドキュメント写真にはよのような機能がない。いまやアート写真の一分野として確立しており、オークション、ギャラリーで取引され、美術館で展示されている。

今年東京都写真美術館で行われた操上和美の展覧会では、トイカメラなどでプライベートに撮影されたモノクロ写真の展示が中心だった。ファッションやコマーシャルフォトの展示はなかったと思う。いま彼自身、コマーシャルフォトは共同作業で写真家個人のアート作品ではない考えていることがよくわかる。
一方で同じ場所で2006年に行われたギイ・ブルダンの個展では、カラーのファッション写真がアート作品として展示されていた。ギイ・ブルダンの作品は死後の21世紀になってからアート作品として再評価されるようになったのだ。今年の東京フォトでも彼の作品がロンドンのマイケル・ホッペン・ギャラリーでフィーチャーされていた。操上は、本書「ALTERNATES」で、「ぼくは土っぽい人間だから、どっちかというと、リアリストだと思う。だけど願望としてはロマンチストでありたい。」と語っている。これが書かれた後に訪れるバブルの流れのなかで、リアリストとしてコマーシャルフォトに取り組んでいくのは非常に困難だったと思う。
80年代以降の日本では、写真家が主導するというより、クライエント、アート・ディレクターなどを巻き込んだ共同作業になっていく。操上、横須賀はそのうねりのなかで生きていくしかなかった。一方でブルダンは自身に与えられる自由裁量にこだわりを持ち続けた。それがかなわない仕事は行わなかったのだ。そこには実直なアーティストの精神線が横たわっていた。時代が後になって彼のファッション写真をアートと認識するようになるのだ。
その結果、80年代前後にはほぼ同じことを考えていた二人の21世紀に行われた写真展が好対照の展示になる。
ちなみに、2005年には東京都写真美術館で横須賀功光の展覧会「光と鬼」が開催されている。これは「光と鬼 実行委員会」主催の追悼目的の展示で、アート志向の展示とはやや意味合いが違う。

現在コマーシャルフォト分野で活躍する写真家が考えるアート表現は、以前と同じようにプライベートなものとなった。しかし、どうも撮影方法だけが追求される傾向が強い印象がある。過去の先人たちの精神性が受け継がれていないのだ。80年代以降に歴史が一端途切れてしまった影響は非常に大きいと思う。いまの日本における、歴史の積み上げのない、明確な評価軸のない状況では、写真家自身が明確な拠り所を見つけないと作品がエゴの追求に陥るリスクがある。混迷している現状の分析は別の機会に行いたいと思う。

日本のファッション系フォトブック・ガイド(第5回) ハービー・山口 「LONDON AFTER THE DREAM」(1985年、流行通信社刊)

今回はハービー・山口「LONDON AFTER THE DREAM」(1985年、流行通信社刊)を紹介する。前回の坂田栄一郎写真集と同じく流行通信社から刊行されている。よく本書は2003年にカラー・フィールド社から刊行され、2009年に改定版がでた「LONDON – chasing the dream (夢を追い求めて)」 と混同される。たしかに収録作品の内容がかなり重なるが、この2冊は全く別の写真集だ。ハービー・山口は1985年から2003年の間に、有名ミュージシャンを撮影する写真家として成功を収めている。「LONDON – chasing the dream」は、彼の知名度が高まったあとに再編集されたロンドン時代作品のベストセレクションもの。最近の日本の写真集によくありがちな作家性よりも、被写体、デザインが優先された作りになっている。

さて「LONDON AFTER THE DREAM」には83点のモノクロ作品が、「DON’T TREAD ON MY SHOELACES」、「CLIMB」、「AFTER THE DREAM」の3章にわかれて収録されている。「DON’T TREAD ON MY SHOELACES」では、子供の写真。「CLIMB」には、ミュージシャンのポートレートなど青年期の男女のポートレート。「AFTER THE DREAM」には、老人たちののポートレートがそれぞれ収められている。
不思議なことにまだ作家の知名度が低かったこちらの本の編集、デザインの方が、はるかに写真家や写真作品に対するリスペクトを感じられる。これはこの約18年間の間に写真家を取り巻く環境が変わったことを象徴している。
高度経済成長期、バブル崩壊、そして長期の景気後退が続く中、出版界では写真家の作家性よりも採算性の方が優先されるようになった。コストのかかる写真集は自費出版が一般的となり、写真家にとってもクオリティーよりも本が出ること自体が目的化してしまった。

本書は、ハービー・山口がロンドン生活で西欧文化と格闘した上で獲得した人生観が反映されたフォトブックだ。ちょうど彼のいた70年代から80年代のロンドンは不況で失業者が増え社会に閉塞感が蔓延して時期。ハービー・山口は、不況のなかでも音楽やファッションを通しての自己表現で現状打破を目指す若者に魅力を感じた。パンクとは単なる音楽のカテゴリーではなく、生き方や精神性なのだと実体験を通して理解したのだ。

彼は写真を通して西欧の精神と対峙し理解を深めている。彼の手がけるスナップ写真は被写体がいるので、相手とのコミュニケーションが非常に重要になる。写真家と被写体との対等な関係性構築には独立した個人の存在が前提としてある。彼は大学卒業後に、会社という運命共同体にはいることに違和感を覚え、自由に生きる可能性を求めて英国に渡った。ロンドンでの生活は、自由と個人として生きる意味を考える機会だったのだと思う。自由に生きるためには個人の自立が必要となる。それは同時に孤独をかみしめていきることでもある。しかし、人間は何かで自分を支えなければ生きていけない。多くの場合はそれは宗教になる。宗教をもたない日本人は何を支えに生きていけばよいのか? 本書の巻頭テキストで、ロンドンにいたジョゼフ・クデルカ(原文通り、最近はジョセフ・クーデルカと呼ばれることが多い)との会話が引用されている。
プラハの春で祖国チェコを逃れ放浪生活をしていたクデルカから彼が学んだのは、自由に生きる代償の孤独を写真で支えるということだった。ハービー・山口にとってしだいにロンドンは夢の国ではなく、リアルに生きる場所となっていったのだろう。タイトルの「AFTER THE DREAM」の意味は夢から覚め現実を生きることの重要性を悟った自分自身の意味もあるのだと思う。そしてそれを継続していくことで、本書最終章「AFTER THE DREAM」に収められているようなカッコいい老人になりたいという願望も込められているのだろう。
この時代の彼の写真がとてつもなく魅力的なのは、孤独をかみしめながら自由に生きることを実践していたからだと思う。彼は旅行者ではない、個人として生きるプロの写真家として認められ、リスペクトされるようになり、被写体たちと対等の立場で写真撮影ができたのだ。

最後に収録されている写真は遠景にビッグベンが望めるテムズ川の手前の鳩を1975年に撮影した作品「Ever」。「LONDON – chasing the dream (夢を追い求めて)」では表紙作品だ。彼は同作を、当時の将来の方向性が未決定だった自分を、どちらの方向に飛んでいいかわからない鳩に例えている、と解説している。
それから10年、写真集刊行時には目的地を定めて飛び立つことが出来たのだ。帰国後、彼は本場のパンクとニューウェーブのムーブメントを実体験した写真家として尊敬を集めるようになる。コミュニティーの内側から撮影したロッカーたちの素顔のポートレートが高い評価を受け、スナップ・ポートレート写真の第一人者のとしての地位を固めていく。

本書はダストジャケット付きのペーパーバック版。オレンジ色のダストジャケットの背部分が変色しているものが多い。1985年当時の定価は2,200円。その後、1988年に2刷が刊行されている。古書相場は、状態によってかなりばらつきがある。当時の定価以上の値段がついている。状態のよい、半透明の帯付きの初版本は流通量が非常に少なく高価だ。

日本のファッション系フォトブック・ガイド(連載第4回)坂田栄一郎「注文のおおい写真館」
(1985年、流行通信社刊)

今回は坂田栄一郎(1941-)の「注文のおおい写真館」(1985年、流行通信社刊)を紹介する。発行元の流行通信社は1966年~2007年までファッション雑誌”流行通信”をだしていた。同誌はもともとは森英恵のPR誌として創設されたもの。80年代にはファッションブームに後押しされ雑誌に勢いがあり、ADに横尾忠則を起用するなどしていた。当時の”流行通信”はいまではレアなコレクターズ・アイテムになっている。同社は当時コストのかかる写真集出版も手掛けていた。ハービー・山口の初写真集「LONDON AFTER THE DREAM」(1985年刊)、稲越功一の写真集「IRINI」(1987年刊)なども出版している。

私が「注文のおおい写真館」と出合ったのは90年代になってから。本を手にしたとき、すぐにトゥエルブ・ツリーズ社刊のブルース・ウェーバーのデビュー写真集「Bruce Weber」の影響を受けているなと直感した。ダストジャケットのデザインや色使いはかなり違うのだが、それをはずすと装丁はともに黒色とダーク・ブルーの布張り。サイズはウェーバーよりやや小さいが、26.5X33cmもある大型本だ。2冊の手に持ったときの存在感はかなり近い。和書というよりも洋書の雰囲気が強い写真集だ。

1983年刊のウェーバーの本は、アートとファッションを融合させた新しいタイプの写真集として注目された。出版したツゥエルブ・ツリーズ社は編集者ジャック・ウッディー率いるカリフォルニア州ロサンゼルス・パサデナの新興出版社。お金儲けではなく自分たちの作りたいものだけを作る、通販や書店との直接取引を謳う経営方針は業界で異彩を放っていた。コストのかかるグラビア印刷や高級紙を取り入れ、写真を生かしたシンプルなデザインの写真集はまるで写真によるアートオブジェクトだった。手に持っているだけで幸せな気分にさせてくる本だった。彼らの写真集は、良いものをコストをかけて少数限定で制作し、コレクターに売り切るというもの。販売価格は高いものの同社から出る写真集の高いセンスは瞬く間にコレクターに熱狂的に支持されるようになった。
写真集コレクションを同社の本から始めた人も多かったのではないか。彼らは現在多くあるブティック的小規模出版社のはしりだったのだ。後に定義されるフォトブックの精神を早くから理解して写真集制作に取り組んでいた出版社ともいえるだろう。

著者のブルース・ウェーバーは1982年のカルヴァンクラインのメンズアンダーウェアー広告で注目された写真家。プレ・エイズ時代の高度消費社会におけるゲイの美意識を作品に取り込んでいるのが特徴だ。彼の写真集には当時の消費社会の気分と雰囲気を見事に反映されていたと思う。私は本書はアートとしてのファッション写真を体現した初期フォトブックと評価している。

坂田栄一郎は雑誌「アエラ」の表紙を創刊以来担当していることで知られている。彼は、日本大学芸術学部写真学科卒業後、1966年に渡米。ニューヨークであのリチャード・アベドンのアシスタントを務めている。1971年に帰国。その後、広告、雑誌などで活躍している。
「注文のおおい写真館」は流行通信社が手掛けていた「スタジオボイス」の表紙の仕事がきっかけに取り組み始めたとのこと。横尾忠則、明石家さんま、村上春樹、坂本龍一、美空ひばりなど、当時の各界の有名人37名のポートレート集だ。モノクロで色々なオブジェを被写体とともに撮影するアプローチはいま見てもとてもアヴァンギャルドに感じる。コマーシャル世界での成功に満足せずに表現者として評価を求めて作品作りに取り組んだ意欲的な1冊なのだ。いまとは違い、80年代中ごろの写真家はまだアーティスト志向を持っており、仕事以外の作品作りは当たり前だった。またそれを支援しようという環境もあったことがよくわかる。

坂田は、オブジェを使ったり、ボディーパーツのクローズアップ、ブレ・ボケ・アレの導入などの実験的手法を取り入れて時代を象徴する被写体を撮影している。当時としては画期的な全く新しいスタイルのポートレートだったと思う。いまのアエラとは対極の写真だ。有名人は顔が命なので、これだけ写真家に自由裁量が与えられたポートレート撮影は日本では極めて稀だと思う。収録されている伊藤俊治氏はエッセーで、リチャード・アベドンの撮影スタンスである、“撮りたいと思った人に撮られることを承知してもらってカメラの前に立ってもらう”を引用。坂田もアベドン同様にそれを踏襲していると書いている。この構図が成り立つには、被写体と写真家とに尊敬し合う関係があることが条件になる。当時の坂田がアーティストとして高く認められていたのがよくわかる。現在、被写体とこのような関係が成り立つ写真家が何人いるだろうか?と考えてしまう。

顔がぶれて判明できないなどの実験的な手法の写真はポートレートというよりもリリアン・バスマン(1917-2012)の抽象的ファッション写真に近いと思う。バスマンはリチャード・アヴェドンとともにハーパース・バザー誌の伝説のアート・ディレクター、アレクセイ・ブロドビッチの片腕として知られた女性写真家。坂田の写真にはアヴェドンよりも、さらに彼の師であったブロドビッチの影響が感じられる。この本の収録作の正しい評価は新しいポートレート写真というよりも、高度消費社会が到来した80年代日本において、斬新さを求めるというポストモダン的な気分が反映されたファッション写真ととらえるべきだろう。
また写真集化の背景には、当時の流行通信社で写真集制作に取り組んでいたメンバーが上記のトゥエルブ・ツリーズ社の自由な編集方針への憧れがあったのではないだろうか。そして、当時の好調な経済状況により、経営側にも写真家と編集者へ自由裁量を許す余裕があったのだと思う。

この豪華本の当時の販売価格は5,800円だった。
文:佐山一郎、伊藤俊治、タイトルコピー:糸井重里、装幀・構成:清水正巳。
残念ながら日本には本書の評価基準となるべきアートとしてのファッション写真の歴史が書かれていない。従って本書は古書市場では過小評価されている。最近のネット古書店では当時の販売価格前後の価格が付いていることが多い。しかしリアルの古書店の店頭にではかなり安いことがある。低価格の掘り出し物を見つけたらぜひ買っておきたい。

写真集連載 (第3回) 日本のファッション系フォトブック・ガイド 浅井慎平 写真集「WINDS」、「海流の中の島々」など

画家谷川晃一の著書「視線はいつでもB級センス」(1981年、現代企画室刊)に浅井慎平に関するエッセー「ジャマイカを見つめるロンリーセンス」が収録されている。
これは元々はフォトテクニック誌別冊(1979年刊)の「浅井慎平/人と作品」に書かれた小論。そこに篠山紀信が浅井の写真をドキュメント写真と誤解しているエピソードが紹介されている。谷川は「クソリアリズムともいうべき奇妙な発言」と篠山をやんわりと批判。谷川は浅井の写真を、自己の存在に対するリアリズムの写真と評価している。自由の論理は、日本的な共同体的なセンチメントでは存在せず、個人主義的な考え方が前提になることを主張。彼はその視点を浅井の写真に見出しているのだ。
ちなみに谷川は戦後の進駐軍文化に影響を受けた、デザイン感覚あふれるポップな写真、イラストなどを「アールポップ」という一種のアート・ムーブメントとして評価している。彼はそれを「アールポップの時代」(1979年、皓星社刊)にまとめ、1979年の6月には池袋パルコで「アールポップ展」を開催している。浅井の写真もその中に含まれていた。ちなみに美術評論家の椹木野衣は「アールポップ」を村上隆の唱える「スーパーフラット」の先駆けと評価している。

以前、横須賀功光の写真集 「射」を紹介した時に、「70年代後半から80年代にかけて、特に米国では写真はよりアートへと接近していくが、 日本は高度経済成長による消費社会の拡大により広告写真が中心になっていく。実際、好景気により広告予算拡大によりコマーシャル・フォトの中にも写真家に自由裁量を与えられる幻想を多くの写真家が見てしまったのだと思う。アートとコマーシャルフォトとは分断してしまい現在にいたっている。」と書いた。今回、谷川の浅井評を読んで、当時の日本美術界では、欧米と同じ視点で写真をアート作品と評価する土壌が存在していたことを発見し感動した。
上記のように、その後の経済成長につれて日本人は消費中心のライフスタイルを追求するようになる。谷川の評価とは裏腹に浅井の写真はまさに篠山が批判したヴィジュアルの表層部分で愛でられるようになるのだ。つまり広告写真的な流れの中で評価されるようになる。実際に彼の写真は多くの広告に採用されている。

当時の若者は日本的でウェットではない西欧的なドライな人間関係を志向し始めていた。浅井もフォトテクニック誌別冊掲載のインタビューで、「僕の中には日本がしがみついているのね。湿度が、家が。そいつから離脱しようというのが、ビートルズであり、カリブ海であり、思ったことはやってみるということだったんでしょうね」と語っている。しかしこれはフリー・カメラマンの浅井だから実行できたこと。実際は、ほとんどの若者にとって従来のムラ社会の枠組みが会社組織に移り変わっただけだった。しかし当時は高度経済成長による余裕から表層上は組織の締め付けは強くなく、多少の自由も容認されるような環境だった。洋楽ポップス、片岡義男の小説、浅井慎平のヴィジュアルなどを消費することでうわべだけの自由を享受できる気分があったのだ。会社という共同体に身をゆだねながらも、個人的には消費の延長上に自分らしい生き方があると多くの人が妄信してしまった。

そしてバブル崩壊後の失われた20年を経験して、私たちはその前提に安定した経済成長があったことを実感している。いま70年代の日本人が思い悩んだのと同じ問題に私たちは再び直面している。当時とは状況が変わり、現代人は過剰に空気を読むことを強いられて苦しんでいる。
昨年の東日本大震災という天変地異が更に私たちを本能的に不安にさせた。未来が不透明で存在自体の不安感が高まる中、何らかの共同体の価値観に身を任せた方が楽と考える人が増えている気がする。しかし一方で、70年代の浅井の写真が持っていた眼差しのように、孤独な自分の存在を見つめ、個人として少しだけ強くなり、自由を優先して生きていくという選択肢もあると思う。価値が単一化する傾向が強いこの時代だからこそ、本当に再評価が待たれる浅井の初期写真集だ。

・「海流の中の島々」(1977年、れんが書房新社刊)
海外旅行があまり一般化していなかった当時、世界中を旅して仕事をする写真家は自由の象徴だった。一般人は、エキゾチックな場所のヴィジュアルを消費することで自由な感覚を持つことが出来たのだ。当時は欧米のミュージシャンがレゲエなどの要素を曲に取り込み始めた時期でもある。 浅井がジャマイカ、ハイチに行ったのはその影響による。
そして若者は、人の聞いていない新しい種類の曲を聞くことが個性的だと信じていた。ちなみに、日本にレゲエブームを持ち込んだ一人が浅井とのことだ。
初版定価3500円。

・「ISLANDS」(1978年、角川書店刊)
1976年5月に浅井がジャマイカのモンテゴ・ベイで収録した波の音は1977年にレコード化される。いまでは環境音楽の古典といわれ、CD化もされている。前作と本書はそのビジュアル版という意味合いがあるのだろう。本書には有名な、「Bird Watchers’ Bar」の写真も収録されている。初版定価2900円。82年、84年に再版されており、たぶん発行部数は一番多いのではないだろうか。

・「ウィンズ 風の絵葉書」(1981年、サンリオ刊)
スリップケース入りの豪華本。定価はなんと1万円。しかし、古書市場での現在の評価は決して高くない。いまでもアート系ではなくコマーシャル系写真集と思われているのだろう。
たぶんややベタすぎるサブ・タイトルの「風の絵葉書」が誤解を生んだのだと思う。しかし、当時としては高額な値段設定を考えるに少数販売のアートブックが意識されていたのではないかと思う。ちなみに1980年に刊行されたアーヴィング・ペンの洋書写真集「Flowers」は50ドルだった。その時の為替レートは1ドルが約210円位だったので、ほぼ同じくらいの10,500円になる。収録写真は海外で撮影されたものなのだが、高度経済期の日本の若者の気分や雰囲気が色濃く反映された一種のファッッション写真としても評価できると思う。

第2回日本のファッション系フォトブック・ガイド 篠山紀信「オレレ・オララ」&「ハイ!マリー」

いまでもグラビアの第一線で活躍している売れっ子写真家の篠山紀信(1940-)。2009年には美術手帳で特集が組まれるなど、アートの枠組みで彼の仕事を再評価しようとする動きも散見される。
写真集で市場が最も高く評価しているのが、「晴れた日」(平凡社、1975年刊)だ。”The Photobook:A History Volume 1 “(Mrtin Parr &Gerry Badger,2004年刊)、と”802 photo books from the M.+M. collection”(2007年、 Edition M+M刊)に掲載されている。また、フォトブックのオークションにもたびたび出品されている。これは1974年に起きた様々な出来事を無造作に配列したもの。写真はスタジオ・ポートレートから、自然風景、ニクソン大統領のテレビ映像など無作為なセレクション。ガイドブックの解説では、日本人の予測不能な自然への不安、日米関係など、を無作為に並べることで当時の日本人にとっての重要な出来事を提示している。自然と社会の中で任意に生きる人間の人生が表現されていると評されている。なかなか難解なのだが、時間が連続していないという禅的な視点での評価なのだろうか。その他、彼の写真集では、「食」(潮出版社、1992年刊)がたまにレアブックのオークションにでてくる。
前回の横須賀 功光 「射」でも指摘したが、篠山の場合も欧米的な感覚を持ったクールでドライな写真を収録したものは市場で高く評価されていない。その他、初期のヌード作品を収録した2冊の写真集、「篠山紀信と28人の女たち」(1968年、毎日新聞社刊)、「Nude」(1970年、毎日新聞社刊)は、ヌード写真集のガイドブック「BOOKS OF NUDES」(2007年、Abrams刊)に収録されている。
特筆すべきは、金子隆一編の「日本写真集史」(2009年、赤々舎刊)には上記2冊が掲載されている点だ。私は金子氏にお会いして話したことがあるが、同氏は70年~80年代日本では商業写真に才能のある写真家が集まっていた事実を良く理解されている。その分野の代表として確信犯で篠山の2冊を収録したのだと思う。

日本には欧米にない雑誌の増刊形式で刊行されるタイプの写真集がある。それらはどうしても欧米の感覚では写真集と認められないだろう。雑誌のほうが書店で売りやすいこと、既存雑誌のフォーマットを使用できること、企業のタイアップ広告を掲載できることなどが登場してきた背景だろう。
今回は篠山の70年代前半に出されたこの雑誌形式の写真集2冊を紹介する。これらはフォトブックとして評価しても全く問題がない高いアート性と完成度を持っている。

まず、1971年5月に集英社プレイボーイ特別編集として刊行された「オレレ・オララ カーニバル 灼熱の人間辞典」。1971年のブラジルのリオ・デ・ジャネイロのカーニヴァルを4日間でドキュメントしたもの。当時まだ30歳だった篠山の写真撮影への凄まじいパワーを感じる。人間の欲望、エネルギー、汗臭さ、サンバのリズムまでがカーニヴァルの熱狂シーンとともに伝わってくる珠玉のドキュメント。男性誌プレイボーイ特別編集ということもあり、セクシーなダンサーや、解放的なヌードも全編に散りばめられている。カラー、モノクロ、様々なトーンの単色カラー印刷が全体のリズム感を作り出している。
リオを撮った有名写真集には現代で最も影響力あるのファッション写真家であるブルース・ウェバーの「O rio de Janeiro」(1986年、Alfred A.Knopf刊)がある。内容は、ドキュメント手法を取り入れ、完全に計算尽くされて制作されたリオの魅惑的シーン。洗練された、ときにゲイ・テイストが入ったウェーバーの世界観が見事に再現されているのだ。この本も、「オレレ・オララ」と同様に、カラー、モノクロ、様々なトーンの単色カラー印刷を駆使したデザインになっている。この点に関しては、同書は「O rio de Janeiro」のブックデザインに影響を与えた可能性があるといわれている。

もう1冊は、週刊プレイボーイ別冊としてでたアサヒカメラ1972年10月号臨時増刊の「ハイ!マリー」だ。日系ファッションモデルのマリー・ヘルヴィン(Marie Helvin)とその姉妹の7日間のハワイ・モロカイ島での休日をドキュメントした作品。美しい常夏のハワイの自然の下での、水着あり、ナチュラルなヌードありで、憧れの彼女と自由にヴァケーションを過ごす男性のファンタジーの世界だ。
計算されているのだが、果てしなく自然でモデルとの距離感を感じさせない写真が続く。被写体への愛さえ感じさせるスナップ風のイメージの完成度は高い。「オレレ・オララ」と同様に、カラー、モノクロ、様々なトーンの単色カラー印刷などが混在したページ展開はいまでも斬新だ。
マリー・ヘルヴィンはその後ロンドンに渡り、写真家デビット・ベイリーと結婚する。1980年刊の写真集「Trouble and Strife」のモデルといえば思い出す人も多いだろう。ちなみにこのタイトル名はロンドンの下町言葉で「奥さん」という意味。
今回紹介した2冊ともにアート・ディレクションは鶴本正三(1935-)が行っている。これらは篠山と鶴本とのコラボレーション作品でもある。

上記2冊とも雑誌形式のペーパーバックのため、傷みやすいのが欠点だ。古書市場では状態によって販売価格にはかなり幅がある。経年経過による、傷み、汚れがある普通状態で、「オレレ・オララ」は7,000円~。「ハイ!マリー」は更に傷みやすい雑誌と同じ製本なので状態の悪いものが多い。こちらは普通状態で、4,000円~。個人的には、この2冊の方が「晴れた日」よりもポップで素直に篠山らしさが出ていると感じている。この時代の篠山の作品は、私が専門のアートとしてのファッション写真のカテゴリーに入る。
2冊とも雑誌形式なので発行冊数は多いと思われるが、状態よく保存されていたものは少ないだろう。間違いなく市場では過小評価されているので、状態のよいものはいま買っておきたい。

(第1回)日本のファッション系フォトブック・ガイド 横須賀 功光 「射」

最初の1冊は横須賀功光(よこすか・のりあき)(1937-2003)の「射」(1972年刊、中央公論社刊)。
横須賀は、日大芸術学部卒業後にフリーカメラマンになり、資生堂などの仕事を行っている。1983年からは欧州各国のヴォーグ誌のフリーランスのスタッフ・フォトグラファーとして活躍。キャリアを通して主に広告分野の仕事を行っている。

本書は、1971-72年に中央公論社から出版された「フォトシリーズ・映像の現代」の第9冊目。このシリーズで選ばれた写真家は、奈良原一高、植田正治、深瀬昌久、東松照明、佐藤明、立木義浩、石元泰博、横須賀功光、富山治夫、森山大道の10人。古書市場での評価が一番高いのが森山大道による映像の現代10 「狩人」。現在の相場は、状態より約15万円~。良い状態のものは高価だ。これだけが、”The Photobook:A History Volume 1″(Martin Parr &Gerry Badger,2004年刊)に選出されている。
また、植田正治、深瀬昌久、東松照明、石元泰博も人気が高い。相場は3万円~。広告、雑誌、ポートレートで活躍している立木義浩や横須賀功光は本シリーズの中では人気が低い。
ちなみに、神田神保町の老舗古書店の小宮山書店さんでは、10冊揃いで65万円の値をつけている。

この企画ではガイドブックに収録されていない本を紹介すると前回書いた。しかし「射」はAlessandro Bertolotti著のヌード系写真集をセレクトとした「BOOKS OF NUDES」(2007年、Abrams,NY刊)に収録されている。
それも、褐色のヌードダンサーをスタジオで撮影した「亜」のページがダストジャケット表紙にそのまま使われているのだ。そのシンプルでモダンな写真は日本人離れした魅力を持っている。この本が何で海外のガイドブックに掲載されていないかは中身を見れば一目瞭然だろう。収録作のほとんどは欧米的な感覚を持ったクールでドライな写真ばかり。つまりいくら日本人離れした感覚でも、しょせん本家本元の欧米人にはかなわないということなのだ。 彼らが好んで選ぶのは、欧米とは異質な文化を持ったウェットな日本人写真家によるフォトブック。つまり価値基準が違うがゆえに選ばれているのだ。
残念なのは、日本では欧米と同じ評価軸で現代日本のアート写真が論じられていること。これが、いまの日本で写真作品とオーディエンスとのリアリティーのギャップが生じている理由でもあるだろう。

本書で興味深いのは、巻末にあるカメラ毎日の山岸章二氏の作品解説だ。一部を以下に抜粋しておく。

・・・だがここにたいへん日本的な状況が彼を待っていた。
それは写真雑誌を中心とした創作活動で、時には写真展、写真集の形をとるにせよ
とにかく作家としての力量を問い、問われる試練である。
写真家は手の内にした職人芸だけに満足せず、企業もまた完成されたスタイルで技術にだけ着目するのではない。
つまり一流を保つためには、与えられた課題にはプロとして応え、一方で倦まず自分の殻を破って作品を作り出す努力が要求される。・・・
(山岸章二)

60年代にかけて写真は真実を伝えるメディアとしての地位はテレビなどに代わられてしまう。 その後、自己表現のツールとして展開していくことになる。興味深いのは70年代前半の日本では欧米と同じように写真家にとっての作品制作の重要性が語られていることだ。その後、山岸氏は、海外の写真家やキュレーターと交流を持ち、 欧米の視点で日本写真を評価しようと努力を続けるが、79年に亡くなってしまう。70年代後半から80年代にかけて、特に米国では写真はよりアートへと接近していく。しかし日本は高度経済成長による消費社会の拡大により広告写真が中心になっていく。実際、好景気による広告予算増大により、コマーシャル・フォトの世界でも写真家が自由裁量を持って表現できるという幻想を多くの写真家が見てしまったのだと思う。アートとコマーシャル・フォトとは分断してしまい現在にいたっている。山岸氏の早すぎる死が日本の写真界にかなり大きな影響を与えたと思う。

本書は、帯、ビニールカバー付きで完本。当時の定価は2500円だった。古い本なので販売価格は状態による。だいたいの相場は、1.5~3万円くらいです。

日本のファッション系フォトブック・ガイド 近日連載開始予定!

フォトブックのガイドブックが発売されて日本人写真家は世界的に注目されるようになった。”The Book of 101books”(Andrew Roth, 2001年刊)、”The Open Book”(Hasselblad Center,2004年刊)、”The Photobook:A History Volume 1 & 2″(Mrtin Parr &Gerry Badger,2004-2005年刊) が相次いで刊行され、いままであまり知られていなかった60年代~70年代の日本のフォトブックが欧米に紹介されたのだ。当時の好景気によるアートブームと相まってそれらの古書の相場は大きく上昇した。そして、金子隆一氏による、日本のフォトブックのガイドブック”Japanese Photobooks of the 1960s &’70s”が2009年に発売されるにいたった。
私は上記ガイドブックのセレションにやや不満があった。収録されている日本人写真家のものはアート系ばかり。当時のコマーシャル・フォト、ファッション分野の最先端で活躍していた写真家のフォトブックがほとんど含まれていないのだ。
一方で外国人の場合は、ファッション系の、アレクセイ・ブロドビッチ、リチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペン、ブルース・ウェーバーも収録されているのだ。特に”The Open Book”にはファッション系写真家が多くセレクションされている。実は、金子氏にそのことを話したことがある。彼は、日本におけるその分野の写真は歴史が語られていないことから評価軸が存在しないと指摘された。欧米のファッション写真の一部はアート作品として認められている。それは、80年代から90年代に独自の歴史が専門家により書かれたからだ。日本でも同様の歴史研究が行われないと、コマーシャル、ファッション系写真家が評価できないということ。またリサーチに必要な雑誌などの資料がなかなか揃わない事情もお話しいただいた記憶がある。
ファッション系写真家の本が選ばれない理由はもう一つあると思う。この分野は当時の日本人のあこがれをビジュアル化していた。つまり欧米的なクールでドライな感覚の写真が多かったのだ。しかしこれは欧米の写真家では当たり前のセンス。だから、欧米の評論家は日本独特の文化が反映された、ウエットな感覚のものを選んでいる。ここにも多文化主義の考えが色濃く反映されているのだ。

ファッション系写真の魅力とは何だろう。それはアートとしてのファッション写真の魅力と同じと考えている。この分野の写真家は何かの記録ではなく、自らがカッコいいと感じた瞬間にシャッターを押している。それらにはその時代独特の気分や雰囲気が色濃く反映されている。難解なアートではなく、現代に生きる一般人でも視覚的、感覚的に共感できるイメージなのだ。前述のように、欧米ではそれらはアートの一分野として認められたが、日本では基準がないので評価されていない。しかし21世紀以降は価値観が多様化した。作家に独自性があれば歴史以外の評価軸があってもよいのではないか。現代アートのように、様々な価値観をベースに過去の写真家の仕事の評価は可能だろうと思う。いまや皆が共通の夢を持っていた時代が写っている写真なら、それだけでも現在を考えるきっかけになる。
それらの優れた仕事を見つけ出し評価することが歴史を綴ることになると思う。彼らの仕事は雑誌の中や写真集として残っている。しかし、雑誌類を集めるのはかなり難しいので写真集を探して紹介することが現実的だと考えた。
日本のファッション系フォトブック・ガイドは、フォトブックを通して日本のアートとしてのファッション写真を語る試みなのだ。まとめて紹介することは永遠にできそうもないので、時間がある時に書きためていこうと決意した次第だ。

ここでは、ガイドブックに掲載されていない、コマーシャル、ファッション系写真家のフォトブックを不定期の連載で紹介していきたい。いままで、古書店を回る機会があるごとにそのような本を探し、買い集めてきた。ほとんどが、古書店の棚の隅で非常に安く売られているものばかりだ。紹介することで、それらの真の価値が再認識され相場が多少なりとも上昇することを願いたい。コレクションを続けるうちに、この分野の写真家による優れた本の多くは自費出版であることが分かってきた。儲かった写真家の中には、その資金を写真集制作につぎ込む人がいる。お金に糸目をつけずに制作されたものも数多くある。しかし、それらは少量生産で一般に出回ることはない。私の知らないところにもまだ素晴らしいフォトブックが眠っている可能性があると考えている。そのようなフォトブック情報があればぜひ教えていただきたい。

さて最初に紹介する1冊だが、色々と悩んだ末に比較的知られているものを選んだ。横須賀功光(よこすか・のりあき)(1937-2003)の「射」(1972年、中央公論社刊)だ。

楽しみにしていてください!