“Waffenruhe” Michael Schmid, 2018 Koenig Books “Neue Welt” Wolfgang Tillmans, Taschen 2012 “ Approaching Nowhere” Jeff Brouws, WN Norton 2006 “The New West” Robert Adams, Aperture 2008 “Burtynsky Oil” Edward Burtynsky, Steidl 2009 “New Topographics ” Britt Salvesen, 2010 Steidl “Archi Tecture” Andreas Gursky, Hatje Cantz Verlag 2008 “Sichtbare Welt: Visible World” Peter Fischli /David Weiss Verlag der Buchhandlung Walther Konig 1999
2.偶然から生まれたシーンに必然的な美を見出す 私が定型ファインアート写真のZen Space Photography的と考えるのが、偶然から生まれたシーンに写真家が必然的な美を見出した作品になる。これは世界に彫刻的な美を持った何かを発見するという趣旨と重なるだろう。 またこのカテゴリーは、さらに2種類に分類できると考える。写真撮影的に、被写体に近寄ったものと、離れてされたものになる。 Zen Space Photography の詳しい定義は、以前のブログ”定型ファインアート写真の可能性/Zen Space Photographyの提案1~4”を参照してほしい。
さて私が提案している定型のファインアート写真のZen Space Photographyは実践自体を通して、思い込みにとらわれない生き方を提供してくれかもしれないのだ。まず頭に浮かんでくる思考/邪念を消しさり、無心状態で自然や世界と対峙して、心が動いて「はっ、ドキッ」とする瞬間を見つけようとする。この一連の行為は自分を発見する入り口になる可能性があるかもしれない。 まず最初のステップは、自分は何が得意で苦手で、どんな個性や興味を持つ人間かを知ることになる。表現や創作は自分がどのような意思を持った人間かを発見する行為。その中で写真が最も手軽に実践できる技術なのだ。言い方を変えると、ここで提案しているのは、定型ファインアート写真の制作を通して、思い込みにとらわれずに、自分発見に取り組み、その先に自分探しを行うことなのだ。
日本人の文化的な背景を考慮したときに考えついたのが、定型のファインアート写真の可能性。最初から作品テーマやアイデアなどを用意しておき、写真を撮る人はそれを意識したうえで、そのルールに従って創作を行うというアイデアだ。 前回はその中の一つの可能性として「Zen Space Photography」という、一種の風景や都市ストリートを撮影するなかで、心で「はっ、ドキッ」とする瞬間を写真でとらえる考え方を提案し、概要を解説した。定型詩の短歌や俳句で、普段は見過ごしがちな季節の移ろいや自然の美しさを発見して表現するのと同じアプローチだと考えてほしい。
写真を撮る行為自体が、「今という瞬間に生きる」禅の奥義と重なるので、この「Zen・禅」というキーワードと定型写真とは親和性があると考えたのだ。今回は「Zen
Space Photography」の心構えを以下にまとめてみた。
・意識のコントロール 浮かんでくる様々な思考/雑念と関わらにようにし、判断を避けて注意を払わないでそのままにしておき、次第に頭から消し去る。それは今この瞬間に生きるという、瞑想やマインドフルネスの実践に近いともいえる。既存のどんなシーンにもとらわれない、エゴを捨てる、よい写真、他人の評価、作品の販売の可能性などを気にしない。これが実践できるようになれば、本当に自分らしい人生を送れるようになる。そのような生き方を目指すために写真撮影による「Zen Space Photography」に取り組むのだと解釈してもよいだろう。 この行為の実践自体が、第1回で解説したように、定型ファインアート写真「Zen Space Photography」の作品コンセプトになる。
・注意点 しかし、さあこれから「Zen Space Photography」を撮ろうとするのは、どうしても気負ってしまうだろう。最初は、自分の意識が消えて良い作品ができたと、この行為自体を”意識”する場合が多いのではないだろうか。 禅には野狐禅(やこぜん)という言葉がある。本当の悟りに達していないのに、自分だけは悟ったと思い込んで自己満足に陥いる状態。これは自意識がまだ消えていないのに、無我の境地で作品ができたと勘違いする状況だ。自分や他人の能力を的確に把握できないことで起こる、認知バイアスとして知られる、ダニング=クルーガー効果に近い状況だとも考えられるだろう。普段はあまり強く意識することなく、よい作品を制作するんだと、エゴむき出しにならないように、気軽に取り組めばよい。
2.作品の編集/エディティング 過去の撮影したアーカイヴスの中からの、無心で撮影された写真を探し、セレクションを行う。無意識のうちに偶然出会ったシーンを切り取った写真は、後から見直すと「Zen Space Photography」かもしれない。
3.他人の写真を見立てる/鑑賞する 自分以外の写真家や他の一般人が撮影した写真の中にも「Zen Space Photography」は存在する。それらを「見立てる」、また鑑賞して楽しむ可能性もあるだろう。 ソール・ライター、ウィリアム・エグルストン、ルイジ・ギッリ、リチャード・ミズラック、テリ・ワイフェンバックなど。またスティーブン・ショアーやマイケル・ケンナの初期作などの写真の中にも発見できる。
4.どのように始めるか 上記の”注意点”で触れたように、最初はどうしても写真撮影時に様々な邪念が浮かんでくるだろう。この心掛け自体が、新たな思い込みになるかもしれない。また禅問答のようになってきたが、「Zen Space
Photography」の追求は、もしかしたら禅の修行やマインドフルネスの実践に近いかもしれない。ぜひ一生追求するライフワーク的な行為だと認識してほしい。
ここでの提案に興味ある人は、まず過去に撮影した写真アーカイブの、上記の「Zen Space Photography」の視点で見直しから始めてはどうだろう。もしかしたら全く違う時間、場所空間で撮った写真の中に精神性のつながりが発見できかもしれない。また好きな写真家やフォトブックがあれば、それらの要素を取り込んでオマージュ的な作品への取り組みも可能性があると考える。 杉本博司も写真技法を日本古来の和歌の伝統技法である「本歌取り」の技法を取り入れて、創作の幅を大きく広げている。2022年9月に姫路市立美術館で「杉本博司 本歌取り」展を開催したのは記憶に新しい。定型ファインアート写真でも好きな写真や撮影スタイルの「本歌取り」的な作品から開始してもよいだろう。
そして、次のステップについても述べておきたい。自分の中に明確な社会における問題点がテーマや問いとして生じてきたら、それを意識して世界や宇宙に対峙して撮影を行って欲しい。 テリ・ワイフェンバックも初期作品は「Zen Space Photography」的なアプローチで自分の周りの世界と接していた。その後に独自の宇宙や自然のヴィジョンを確立させ、今度はその視点で世界と接して創作表現を行っている。それは正当なファインアート写真の製作アプローチになるのだ。以上は、私が考えた日本的なファインアート写真のたたき台になる。久しぶりに小難しい考えを展開してきたが、いかがだっただろうか?興味ある人はいろいろな意見や感想をぜひ聞かせてほしい。反応が多ければ、勉強会などの開催を検討したいと考えている。
写真はビジュアルなので、本当に様々な定型創作の可能性はあるだろう。その中の一つとして私の頭の中でまとまってきたのが「Zen Space Photography」という、風景や都市ストリートを撮影する写真の考え方だ。風景写真では、文脈の中で写真家のメッセージが提示されるケースはあまりない。強いてあげると、グローバル経済や、環境破壊、地球温暖化などの非常に大きな問題になってしまう。それ以外は、カメラやレンズの性能検査になる、コンテスト応募用のアマチュア写真となる。この分野は定型ファインアート写真と相性が良いのではないかと考えたのだ。また都市やストリートのスナップの中にも同様の写真が含まれるだろう。 まずキーワードの、ややわざとらしく感じる「禅/Zen」。写真を撮ること自体が、「今という瞬間に生きる」禅の奥義につながる。「いまに生きる」手段の実践として、瞑想や座禅のように、写真撮影自体には可能性があるのだ。 定型のテーマ作りでヒントになったのは以前に「Heliotropism」というテリ・ワイフェンバックとのグループ展を行ったアメリカ人写真家ケイト・マクドネルの以下のような認識だ。「いまの宇宙/世界/自然界のどこかで、誰も気付かない、見たことがないようなシーンが発生していて、存在するはず。世の中の美しさやきらめき、つかの間の閃光など。私たちの知らないうちに世界のどこかで発生して、誰も気づかないうちに消えてしまっている」
しかし実際のところ、そのような奇跡的なシーンは簡単に、また頻繁に私たちの目の前に出現しないだろう。さらに探求していたら、ミニマリズム建築家として知られるジョン・ポーソンの2012年の写真集「A Visual Inventory」に行き着いて、その著作からもヒントをもらった。彼は1996年にPhaidon社から出版された「Minimum」で、様々な歴史的・文化的文脈におけるアート、建築、デザインにおけるシンプリシティという概念を検証し、それが体現したビジュアルを1冊の本にまとめている。ミニマムの視点で見立てたモノ、建築。アート、自然や都市のシーンを提示しているのだ。「A Visual Inventory」では、 自らが長年に渡り、世界中で撮影したスナップ・ショットを見開きのペアの写真にまとめて発表している。彼は、建築家やデザイナーとしての仕事に役立つようなパターン、ディテール、テクスチャー、空間の配置、偶然の瞬間を常に探し求めている。被写体は、モノの表面テクスチャーのクローズアップ、建築物の外観やインテリアのディテール、自然や都市の風景などまで。主観を排して、実際の事物に即して撮影しているのが特徴。トリミングなしの写真は、私たちが実際に見ている何気ないシーンに近いと感じられる。彼は「その瞬間には二度と起こらないようなことを、いつも見ているのだということを強く意識しています」と語っている。この本に含まれているのは、一部にデザイン的な視点の強いものあるが、ほとんどが「Zen Space Photography」の範疇に含まれると直感した。ポーソンの写真は、マクドネルが語る、「誰も気付かない、見たことがないようなシーン」は、何か特別なものではなく、普段は見過ごしてしまうような世界に現れるシーンの中にも存在する事実を教えてくれる。
先日、世田谷美術館で開催されていた「藤原新也 祈り」展を鑑賞してきた。藤原は写真家というよりも、文章を書く作家、画家、書道家として多分野で創作しているアーティストだ。同展は半世紀にわたる彼が世界を見てきた批判的な視点を、写真、文章、書で本格的に回顧する展覧会だった。展示作品の一部には、文章が添えられていない、テーマが明確に提示されないスナップ、風景、ストリートなどの写真が含まれていた。それらは撮影場所などでカテゴライズされて展示されているのだが、まさにここで展開している「Zen Space Photography」に他ならないと直感した。それは、いろいろな人の作品の中に発見できるのだ。
人間は普段生活しているとき、常に頭で思考している。そして自らの作り上げた思考のフレームワークを通して、世界の中にある自分の見たいものだけに反応している。思考の過程で様々な解釈が行われるのだが、それは過去の経験との比較になる。自分の過去の経験の範囲内で比較対象がないシーンは見えていないのだ。「Zen Space Photography」の、心で「はっ、ドキッ」とする瞬間を撮影する行為は、思考にとらわれていない、今という瞬間に生きているときのビジュアルを記憶する行為になる。 通常のファインアート作品は、新しい視点の提示を通して見る側に自らの思い込みに気づくきっかけを提供する。ここで提案しているのは、思い込みにとらわれていない精神状態で撮影した写真を、決まり事として提示すること。撮影者が無心の状態で自然や世界と対峙して、心が動いた瞬間をとらえたビジュアルは、本人がエゴを捨て評価を求めないがゆえに、すべて「Zen Space Photography」になるなのだ。そのような無の状態での撮影の実践自体が、自らを客観視している行為だと理解して取り組めばよい。 本作では、それらが社会生活の中で様々な思い込みにとらわれている人たちに提示されるわけだ。デフォルトの撮影意図を理解したうえで接すれば、彼らにとっても、自分を違う視点から見直すきっかけになるかもしれない。これが定型ファインアート写真「Zen Space Photography」の作品コンセプトになる。この「禅/Zen」のタイトルゆえに、禅問答的になっているのをどうかご容赦いただきたい。 (以上が第1回。次回は 「Zen Space Photography」の心構えや実践のアイデアを詳しく解説する予定だ )
ブリッツは昨年の3月から約1年間、ずっと完全予約制での営業を余儀なくされてきた。つまり、ギャラリーは基本クローズで、予約が入った時間帯のみに感染対策を行いオープンするというものだ。この間は不要不急の外出自粛が求められていたので、集客をアピールするような告知活動はできなかった。 個人的には、昨年秋に開催した「Pictures of Hope」などは、時節が反映されたとても良くキュレーションされたグループ展だったと思っている。多くの人に見てもらえなくてとても残念だった。 長年行っている講座やワークショップは、多くの人が集まって写真作品を前に議論を交わす密になりがちな場だ。これも感染防止から1年間以上に渡り開催を自粛してきた。
ソール・ライターの例を紹介してみよう。
2018年5月のササビーズ・ロンドンの“Photographs”オークションでは、“SHOPPER,1953”、“PHONE CALL,1957”の11 x 14インチサイズのサイン入りの、モダンプリントが出品されている。ともに落札予想価格内の1万ポンド(@150/約150万円)で落札。同じくフィリップス・ロンドンで開催された“ULTIMATE EVENING & PHOTOGRAPHY DAY SALE”では、写真集の表紙掲載作の”Through Boards,1957″が1.125万ポンド(約168万円)、“Foot on the El,1954”が1万ポンド(約150万円)で落札されている。
いずれの作品も約11 x 14インチサイズ、サイン入り、タイプCカラー、モダンプリント。コレクター人気はいまだに続き、相場も高値で安定している。ちなみに約10年前の2008年は、同様の作品の相場は2000~3000ユーロ(@130/26~36万円)だった。
ヴィヴィアン・マイヤーは世界に注目浴びた時点ですでに亡くなっていた。それゆえに死後に制作された、エステートプリントに当たる作品しか存在しない。
しかし彼女の作品は、なんとニューヨークの老舗ギャラリーのハワード・グリンバーグでエディション15で販売されている。将来的に、オークション市場で人気が高まる可能性はあるだろう。