60歳で写真を始めたアーティスト
カッタネオ・アドルノのコロナ禍の気付き

日本では多くの人が会社に勤めて仕事を行っている。
経済評論家の加谷珪一氏が指摘しているように、この国は社会の自由度が低く、不寛容だ。いまでも多くの日本人は、人生で主体的に行動するのは難しく、選択肢の幅は狭く、そのうえで運がよくなければ成功しないと考えている。多くの人は会社にしがみつく人生を止む無く選択している。
一方で、会社人生を選択して定年をむかえた人は、社会との接点がなくなり生きる目的が希薄になったりする。そのような人が考える一つの選択肢が、アートで社会とつながり、生きがいを見つけることだろう。抑圧的な息苦しい社会で生きてきた人には、アートは夢のような響きを持った世界だろう。アート表現の中で、写真は機械を通してビジュアルを作るので、最も敷居が低い手段だと言えよう。かつてのアナログ写真は技術的な経験の積み重ねが求められたが、デジタル化によって本当に誰でも気軽に比較的低予算でも表現が可能となった。

今回はそのように考えている多くにとってあこがれの人、ブラジル出身の女性写真家サンドラ・カッタネオ・アドルノ(1954-)を紹介する。
2013年、彼女は60歳の時に写真を始めている。大学で写真を専攻する娘から、バルセロナで開催される写真家アレックス・ウェッブ氏による5日間の写真教室に一緒に参加するという誕生日祝いの誘いを受けたのがきっかけなのだ。彼女はそれまで写真をほとんど撮ったことがなく、まともなカメラを持っていなかったという。「カメラの使い方はまったくわからず、明らかにクラスで一番下手くそな生徒でした。しかしなぜか、とても面白くて魅力的に思えたのです。写真をやるなんて考えたこともなかったのに、最初のクリックで恋に落ちました」と当時を振り返っている。
趣味として始めた写真だが、すぐに彼女の日常的な活動へと発展していく。彼女は、写真を始める前から、すでに仕事で世界中を旅する環境に身を置いていた。写真という新しい情熱に没頭するにつれ、彼女は世界中の旅先で撮影を行う。そして専門知識やスキルを身につけ、編集方法を学び、インスタグラムを通して作品を発表するようになる。
彼女の写真は強い太陽が照る出身地ブラジルの影響があり、強い光と大胆な色彩が特徴。数年にわたり、彼女のオンライン・フォロワーは増えていき、他の写真家や業界の人々とつながりが構築されるのだ。そして2016年、彼女の1枚の写真がSony Awardsを受賞してロンドンのサマーセット・ハウスで展示される。これはストリート写真部門の60点のうちの1点で、なんと応募総数は15万点だった。それ以来、彼女の夢のような成功物語が始まる。彼女の存在は受賞をきっかけに広く写真界で認められるようになる。作品は「Women Street Photographers (Prestel, 2021年刊)」、「 Portrait of Humanity (Hoxton Mini Press, 2019)年刊」に収録される。 また2020年、2021年の「Julia Margaret Cameron Awards」など数々の写真賞を受賞。自らの写真集も「The Other Half of the Sky(Adorno、2019年刊)」、「Águas de Ouro (Radius Books, 2020年刊)」を相次いで発表している。彼女のインスタグラムのフォロワーはいまや5万人を超えているのだ。

Sandra Cattaneo Adorno, 写真集「Scarti di Tempo」

私が今回入手した「Scarti di Tempo」は、カッタネオ・アドルノの3冊目の写真集。タイトルは「時間の不一致」、「時間の切れ端」というような意味だという。2020年3月、パンデミックによって世界が停止したとき、彼女は時間が奇妙に動き始めたと感じるのだ。しかし、そのような違和感は保存されなければ、まるで何もなかったかのように、記憶から消えてしまうと感じた。そして、彼女はまるで自分が時間の「切れ端」を積み重ねているような感覚を覚えるようになったという。この経験を、写真が時間の断片を保存し、また再配置することができることを利用して形にしようと思い立つのだ。彼女は自分の想像力の内側を旅するようになり、自分の過去のアーカイブを掘り起こし、関連性のないイメージをコラージュすることで、現実と幻想の境界を曖昧にし、心のメタファーのような一連の新作を創り出すようになる。彼女は、時間、記憶、つながり、現実と幻想の境界が、どのように知覚されるかを作品で表現しようとしている。写真の組み合わせで、ストリート写真でまるで白昼夢のような抽象世界の表現を試みているともいえるだろう。

普段、私たちは時間は連続して、過去、現在、未来へと連なっているという世界観を持っている。タイトルの「時間の不一致」から解釈すると、彼女はコロナ禍においてそのような時間の流れの認識や、それを前提とする人間の人生が幻想だと気付いたのだ。私はいまのような世界情勢の変革期にアーティストが創作を行うときには、激しく変動する自分の外部ではなく、自分の内面と対峙することをすすめている。そして自分との対話から何らかの時代と連なるキーワードを見つけ出し、それが感情のフックとなるビジュアルを集めたり創作することが効果的だと考えている。カッタネオ・アドルノは、本書でこの難しい試みを見事に実践していると評価したい。フォトブック自体も、写真、デザイン、印刷、ページのシークエンス、装丁などが妥協なく見事にまとめられている。さらに本来の表現から離れ、抽象化された写真は、私たちを音楽や詩と共有するような別の領域へと運んでくれる。同書には、作家の夫が作曲したオリジナル楽譜にリンクするQRコードも収録。イメージとサウンドの重なり合うハーモニーを体感できる仕掛けが組み込まれているのだ。「Scarti di Tempo」は、所有することが楽しくなる、写真を使用した一種のマルチプル作品なのだ。

カッタネオ・アドルノのキャリアは、プロとして活躍し続けていたソール・ライターがキャリア後期に注目されてのでも、アマチュア写真家として長年にわたり写真を撮り続けていたヴィヴィアン・マイヤーが死後に写真界で再評価さられたのとも違う。60歳に初めて本格的に写真を始めた女性が僅か5年程度で写真界で認められるのはとても珍しい事例だろう。まるでアマチュア写真家の神話のような、自らの隠されていた創作の才能が60歳から一気に開花して社会で認められたのだ。インタビューを読んでみると彼女の成功の秘密の断片が見えてくるので少し紹介しておこう。

「イタリアで触れた多くのアート作品は、私の目を養ってくれました。そのおかげで目が鍛えられたのでしょう。私は気づかないうちに、それらを見て、観察していたのです。私の脳には、自らがカタログ化したアートが蓄積されていたのです」と冷静に分析を行っているのだ。これは彼女にはビジュアルのデータベースがすでに構築されていたとも解釈可能だろう
また興味深いのは、ビジネスウーマンとしてのスキル・アップが写真家としての目を鍛えたとの洞察だ。「私は役員会に参加するときに、参加者の表情に気を使います。その場で語られないことを読み解こうとするのです。この観察することはいまや私の一部になっています。これが写真撮影の時の観察眼を養うことになったと感じています」と語っている。彼女はそれまでのキャリアを通して、意識的に被写体と対峙してその表情や動作の背景を読み解く習慣を無意識のうちに身につけていたのだ。普段の趣味、生活、仕事において、常に意識的に生きてきたことが良く分かるエピソードだ。
そして、年齢を重ねた後になって写真を始めたことのもキャリアにプラスだったと考えているという。彼女はすでにビジネスウーマンとして、妻や家庭人としてそれなりに充実した人生を歩んできた。つまり、写真は彼女にとって人生のプラスアルファであり、若い人のようにこれで成功するかどうかに命を懸けているのではないという意味なのだ。
自分でも気づかないうちに培われていたアートのバックボーンと経験、そしてこの心の余裕こそが彼女の成功の秘訣なのだろう。世の中に対して能動的に行動し、また精神的に余裕をもった人生を歩んでいると、社会に横たわる誰も気づかないような視点が見えてくるのだろう。彼女のキャリアは、アートはライフワークであり、アーティストとは生き方そのものを意味する事実を教えてくれる。

“Sandra Cattaneo Adorno: Scarti di Tempo” Radius Books (2022年刊)
アートフォトサイトの紹介ページ
出版社のウェブサイト

ノースウッズ─生命を与える大地─ 大竹 英洋
ネイチャー・フォトのアート性とは?

ファインアート・フォトグラファー講座を北海道で開催するときには、ネイチャー系の写真がアートになるかと聞かれることが多い。自然豊かな北海道では、この分野で作品制作している人が多いのだ。
ファイン・アート系分野の写真家は、自然やワイルドライフ自体を撮影することはない。だが自然が作品テーマに関わるとき、作家の感動を表現する過程でそれらが撮影される場合はある。アフリカのワイルド・ライフを作品に取り込んだピーター・ベアードなどだ。
しかし、私はこの分野でもアート性を持つ写真作品が存在すると考える。
ちなみに2019年には、東京都写真美術館が企画展としてネイチャー系写真の展覧会「嶋田 忠 野生の瞬間 華麗なる鳥の世界」を開催している。同展のレビューでは、私は以下のように書いている。

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写真には価値基準が異なる様々な分野が存在している。
どの分野の写真でも、その最先端の仕事を行っている人は、アプローチは違えども、非常に高い強度を持って、また覚悟を持って被写体に接している。その姿勢には、アートの基本である何らかの感動を見る側に伝えるという作家性が意識的/無意識的に滲み出ている。
ファイン・アート系には、それを評価する基本的な方法論が存在する。従来、その範疇だと考えられていなかった分野で活躍する写真家の作品でも、誰かがその作家性を見立てて、アート系の方法論の中での存在意義が語られれば、アート作品だと認知されるようになる。
かつてはアート性が低くみられたドキュメント、ファッション、ポートレート。いまやその中にも優れたファイン・アート系作品が含まれることは広く認知されている。それは、自然写真の最前線で40年以上に渡り活躍している嶋田忠にも当てはまり、東京都写真美術館は展覧会を開催することでその作家性を見立てたと解釈している。

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この認識は、今回取り上げる大竹 英洋の作品「ノースウッズ─生命を与える大地─」にも当てはまると考える。
ノースウッズは、アメリカとカナダの国境付近から北極圏にかけて、北緯45度から60度にかけて広がる森林地域のこと。カナダ初の世界複合遺産「ピマチオウィン・アキ」も含まれる。世界最大の原生林としても知られており、カリブー、オオカミ、アメリカクロクマ、ホッキョクグマなどの、様々な野生動物が生息している。
大竹英洋(1975-)は、1999年より日本では絶滅した野生のオオカミを探しに北米を訪れノースウッズに出会っている。それ以後、約20 年に渡り、森の奥に分け入り、カナディアン・カヌーを駆使して、カナダの原野を精力的に取材/撮影。2015年秋から約1年半はオンタリオ州のレッド・レイクの町で暮らしている。また、写真家のジム・ブランデンバーグ、カヌーイストのウェイン・ルイス、フクロウ研究者のジム・ダンカン博士、この地で狩猟採集の暮らしを営んできた先住民のアニシナベなど、様々な人たちとの出会いがこの写真集化された大きなプロジェクトを可能にしている。写真集のあとがきのタイトルは、まさに「出会いが開いてくれた道」となっている。
彼の作品テーマは、アニシナベの生き方/哲学に凝縮されている。彼らは自分たちをとりまく自然を「ピマチオウィン・アキ=生命を与える大地」と呼ぶ。それは、動物も、草木も、人間も、さらには、岩や水、火や風や雪といった、あらゆる存在がこの地球から命を与えられ、生かされているという考え方だ。彼は写真集に寄せたメッセージで「この写真集が、私たち人間にもう一度そのことを思い出させ、より良い未来について考えるきっかけとなることを願っています」と語っている。

本書によると、大竹は3週間も誰とも出会わない広大なフィールドをカヌーで目的地なく漕ぎ続けたりするという。これなどは、まさに死と隣り合わせの旅だといえるだろう。非常に強い目的意識、精神力、体力がないと実践できない、ネイチャー系写真分野の最先端の仕事だ。多くの人はその行為自体に驚き、感動してしまうだろう。
アート系の視点を持つ人は、ネイチャー系写真は自然を対象とした全く異なる分野の表現だと先入観を持つ場合が多い。それは上記の例として紹介したファッション写真も同じで、単に服を撮影している写真が多い中で時代性が反映されているアート系も存在する。
ポートレート写真でも、ブロマイド的な写真が多数存在する中で、被写体とのコラボレーションから生まれた時代を象徴するようなアート系もあるのだ。ネイチャー系も全く同じで、その評価は見立てる側がニュートラルに写真家の言語化できていないシャッターを押したときの感動に、時代との接点を読み取れるかによると考える。

本書は、特に表紙などを見ると典型的なネイチャー系の写真集に見える。しかし、写真でメッセージを見る側に伝えることを意図したフォト・ブック的要素がかなり含まれている。写真のシークエンスもその要素を持ち、とても好感が持てる。遠近の自然風景、動物、森林、植物、花、キャンプ・シーン、様々な静物などのクローズアップなどが巧みに配置されていて、ヴィジュアルによるリズムが伝わってくる。
アメリカクロクマ、ホッキョクグマなどの写真は、写真家の彼らへの愛情が伝わってくる。自然動物のドキュメントというよりも、撮影者のまなざしを感じるポートレートに近いと感じる。

現在は地球温暖化が進み世界中で異常気象が発生して人類の大きな脅威となっている。地球の環境保護を訴える動きが湧き上がっている。アーティストにとってこの大きなテーマを取り上げるのはかなり難題となる。多くの人は、ただ自然風景をきれいに撮影したり、逆に被害の現場や壊れかけている地球の最前線を撮影したりしている。もちろん写真家は、その場に立ち心動かされてシャッターを押したのだろう。しかし、それを写真のフォーマットで訴求するのは極めて難しい。見る側は、非常に大きなテーマの提示に感嘆することがあっても感動はしないのだ。写真家の独りよがりになりがちで、作品と見る側とのコミニィケーションが生まれ難いのだ。

本書のような、地球の果てにある人間の手があまり入っていない場所での、20年にも及ぶ継続的な自然風景とワイルドライフの撮影は一つのアート表現になりえると考える。そこには私たちの頭の中で理想化されたステレオタイプの自然像が提示されている。実際には、もはや地球上にそのようなシーンはなかなか残されていないだろう。到達するのでさえ困難だと思われる、地球の果てのノースウッドでも、探してみればどこかに環境破壊や地球温暖化の影響は見られるのではないか。あえてそのようなシーンを写さないのも写真家の解釈であり、また自然を理想化して見せるのは立派な自己表現だと思う。私たちはそれらのヴィジュアルを見るに、こんな美しい地球の風景や精一杯生きている動物たちを大切にしないといけないと、頭ではなく心で直感的に理解できるのではないか。

上記の嶋田忠は約40年間に渡り活動することで美術館に見立てられた。大竹のこれまでの活動は20年だ。かれは、あとがきで、本書掲載の地図を前にすると「いまだに足を踏み入れていない場所、訪れたことないコミュニティーの、なんと多いことか」と語っている。間違いなく今後も活動を継続していくだろう。本書の刊行がきっかけで、彼の作品のアート性の評価は今後も積み重なっていくと思う。将来的に、美術館での個展開催も十分に可能性があるだろう。

「ノースウッズ─生命を与える大地─ 」
大竹 英洋 (著)
単行本(ソフトカバー): 216ページ
出版社: クレヴィス (2020/2/22刊)
¥2,750(税込)

デジタル時代における写真表現の最前線 「snap+share」展覧会カタログ

 アナログからデジタル時代になり、私たち一般人にとっての「写真」の意味合いが大きく変わってきた。それがどのような変化なのか、どこに向かっているかの個人的な感想を述べる人は数多くいる。しかし現状の客観的な分析と考察はあまり見ることがない。
 2019年3月30日~8月4日まで、サンフランシスコ現代美術館でシニア・キュレターのクレマン・シェルー(Clément Chéroux)企画により開催された「snap+share」展では、いまの「写真」の現状分析を「写真をスナップして/送る/シェアする」という視点からかなり突っ込んで行っている。本書は、同名の展覧会のカタログ。サブタイトルは、「transmitting photographs from mail art to social network」。


 同展では、ダゲレオタイプ、スナップ写真、ポストカードなどを郵送する行為を原点として、その延長線上に現在の写真撮影とSNSでの画像シェアーの行動をとらえて分析している。
 本書による「写真」の変化の変遷と分析を見てみよう。
まず写真流通がデジタル時代に革命的に変化したという認識が前提としてある。巻末資料によると、2018年時点で、毎日9500万点以上の写真と動画がインスタグラムでシェアされ、3億点の写真がフェイスブックにアップロードされているという。
 写真の進歩をイメージの即時性の追求という視点からとらえ、歴史的にはコダックにより写真を早く撮れるようなり、ポラロイドによりすぐに見られるようになり、インスタグラムにより他人とシェアするようになったと分析。現在は写真の第3革命期だとしている。そして現代の「写真」は、「snap+share」で象徴されるように、スナップと拡散で特徴づけられると定義。デジタル技術により、写真に物理的な重さがなくなり膨大な数の写真が制作可能となる。そして、個人のアドレス化、スマートフォンやタブレット端末での持ち運び、短期間の流通が可能となったとし、写真は一般的な言語性を獲得したと解釈。つまり写真撮影は、しゃべること、会話/言葉になったという意味だ。そして、イメージは言葉と同じように、人間のエゴを表現し、自撮りなどは、見る人の関心、承認、認識を求めており、写真は社会的な存在として、コミュニティー所属の確認、自分の状況や居場所を主張し自尊心と関係づけて提示されていると分析している。
 以上の状況を俯瞰して、本書では「写真」がもたらす現代社会の問題点として、自己中心的傾向、繋がりたがる願望、繋がりの存在を感じるためにシェアーを求めること、の3点を問題点だと指摘。現代のアーティストによる、それらの問題点をテーマとした作品を紹介している。

 美術館の仕事は、今まで関連性が気づかれなかった歴史上のアート表現を抽出して新たな視点から規定していくことにある。本展でも、各時代における写真を郵送する行為に触発されて行われてきたアーティストの表現を、広義のメール・アートから、現代の「snap+share」時代のものまでを関連付けて紹介している。「写真」のことが語られているのだが、前衛芸術の流れをくむパフォーマンス・アートなどの文脈で語られているのでアート系写真分野の人にはややわかり難いかもしれない。しかし、新たな視点から語られる写真表現の歴史は、無理なこじつけなどを一切感じさせない。とても分かりやすく多くの人が納得できる内容だと言えるだろう。現代社会で「snap+share」で象徴される「写真」をテーマにしたアーティストの表現は、アートの歴史的とのつながりが明確だと見事に定義されているのだ。

 本書では、現代社会に生きる一般人には、もはや「写真」は物理的な存在ではなくなっているという認識が示されてる。それではモノとしての「写真」はどのようになっているのだろうか?もちろん広告宣伝、医療用など用途が明確な写真は物理的に存在する。写真を使用してアーティストが制作したものも、アート作品として存在する。もし写真家が自らの表現について何も語らず、第3者が見立てを行わない場合は、写真作品は伝統工芸の職人技の一つのカテゴリーのものとして存在する。いわゆる、陶芸などの工芸品の一部ということだ。この分野の市場も存在するが、アート作品ではないので値段はリーズナブルとなる。しかし、私が「写真の見立て」でしつこく語っているように、このような作品でも写真家が長年にわたり制作を継続できれば、第3者が見立ててアートとして取り扱われる可能性があるのは言うまでもない。

本書に紹介されている作品を簡単に紹介しておこう。

Unknown Me, Collection of Peter J. Cohen 

Peter J. Cohenは、作者不詳のファウンド・フォトのポートレートのなかに「Me(私)」とペンで書かれたものをコレクションしている。まさに自撮りセルフィーの原点だ。

Stephen Shore, Greeting from Amarillo, “Tall in Texas”, 1971

写真家のスティーブン・ショア―の「Greeting from Amarillo, “Tall in Texas”」では、アメリカの西部と南部の交差点として有名なルート66の主要都市アマリロ・テキサスが舞台。ショア―は、この地の様々な建物を撮影して、大量生産のポストカードを商業的に制作した。彼は、自らの全米のロードトリップの際に各地の店のポストカード・ラックにそれらを入れていった。カードには意図してアマリロを記載しなかったことから、それらは各地におけるアメリカの原風景の写真となったという。どの地でも画一的な建築が多い事実が明らかになる。

On Kawara, 29,771 days I Got Up… 1975

コンセプチュアル・アートの第一人者として知られる河原 温の「29,771 days I Got Up… 1975」も取り上げられている。彼は1968年から1979年にかけて継続的にメールアートに取り組んでいた。毎日、朝起きると、起きた時間を記したツーリスト用カード2枚を友人や同僚に郵送し続けた。このシステマチックな仕事の記録は、時間の経過と人間の存在の証拠を提示しているという。

Thomas Bachler, From Frankfult to Kassel, 1985

ドイツ出身のThomas Bachlerは、カードボード・ボックスでピンホール・カメラを制作して様々な都市から自宅へそれらを送付している。発送時にボックスには穴が開けられ、配送中は露光が行われ続ける。到着しだい、パッケージは閉じられて現像される。そこから生まれた奇妙な画像の写真は都市間の移動の痕跡になっている。

Ken Ohara, Contacts, 1971-76

ニューヨークで撮影されたポートレート写真集「ONE」で知られる小原健も紹介されている。グッゲンハイム奨学金を得て行った「Contacts、1974-76」では、彼はフィルム入りのオリンパスRCカメラを、見ず知らずの無作為の人々に指示書ともに送り付けている。それには、カメラの使用法や、自分の周りの人を撮影して返送してくれと書かれていた。返送されると、小原はコンタクトシートを制作している。アメリカ社会のより正確な現実が提示できると考えたという。

Erik Kessels, 24HRS in Photos, 2011

オランダのアーティストErik Kesselsによる膨大なインスタレーション「24 HRS in Photo, 2011」では、24時間にイメージ・シェアリング・サイトと、ソシアル・ネットワークにアップロードされた画像すべてをプリントアウト。同館の展示ではそれらからの数千枚の写真を展示会場内に山のようにうず高く積み上げている。インターネット時代の画像の洪水を視覚化し物理的作品として提示。物として感じられる写真と、ネット上のはかない存在の写真との緊張感を表現している。

Corinne Vionnet, Agra,Paris, Beijin, and San Francisco,from the series Photo Opportunities, 2006-07

Corinne Vionnetの「Agra,Paris, Beijin, and San Francisco,from the series Photo Opportunities, 2006-07」では、彼女はエッフェル塔、タージマハル、天安門広場、ゴールデンゲイト・ブリッジなどの有名観光地のオンライン・キーワード検索を行い、数千点にも及ぶスナップ・ショットを収集。それらを合体させ重ね合わせて精妙な構造の1枚のヴィジュアルを制作。写真をシェアする文化において、有名な場所では多くの人は執拗に同じような写真を撮影していることを提示している。

Eva and Franco Mattes, Various iteration of the orijinal ceiling cat meme

本書の表紙に掲載されている。天井から頭を出して覗いている子猫の作品は、イタリアのカップルEva and Franco Mattesによる作品「Various iteration of the orijinal ceiling cat meme」。作品には「天井の猫があなたを監視している」というテキストが書かれている。猫はSNSで最も多くシェアーされている画像の一つ。作品の猫はインターネット自体の暗喩の意味を持っており、ウェブの総監視システムを非難している。

その他、19世紀から21世紀までの写真を使用した様々なアート表現41点が収録されている。テキストは英文だが、非常に分かりやすくスラスラ読めてしまう。最先端のアート表現に興味ある人はぜひ手に取ってほしい。間違いなく知的好奇心を刺激してくれるだろう。

「Snap + Share: Transmitting Photographs from Mail Art to Social Networks」
Clément Chéroux (著), Cernunnos 2019年刊, 参考価格 3600円

Art Photo Site 紹介ページ

テリ・ワイフェンバック
2冊の展覧会カタログ

IZU PHOTO MUSEUM で開催中のテリ・ワイフェンバックの「The May Sun」展。待望の展覧会カタログが完成して今週になって手元に届いた。展示は4月9日からスタートしたのだが、美術館はアーティストの来日を待って色校正やデザイン確認を行った。印刷所で本人立ち合いで色味の調整を行っているので、かなりアーティストの意図に近い完成度の高い仕上がりになっていると判断できる。

“The May Sun” Izu Photo Museum, 2017

同展の中心展示は「The May Sun」、「The Politics of Flowers」となる。カタログのカバーは、この主要2シリーズを表現するための苦心の跡が見られる。ウグイス色の布張りの装丁と、銀色のタイトル名とアーティスト名の印字で「The May Sun」を表現しつつも「The Politics of Flowers」からのモノクロの押し花のイメージを貼り付けている。図版は前半で伊豆の自然の八百万の神を表現したカラー作品24点、映像作品「Gotemba approach to Mt.Fuji」からシークエンス作を含む8点、そして「The Politics of Flowers」約60点を収録。

やや専門的になるが、カラー作品とモノクロ作品が混在すると、それぞれの色味のトーンをアーティストの意志通りに揃えるのが非常に難しくなる。本書では、なんとカラーとモノクロの印刷別に用紙を変えてこの難問を解決している。
前者は彼女の代表的フォトブックを参考にしつつ、オリジナルの質感再現を目指して採用したそうだ。後者のマット系用紙は、実際の展示作品に近いものをわざわざ探して選んだという。オリジナルに近い印刷を目指すとは、凄いこだわりだと思う。もちろん制作コストもかさむわけで、美術館のアーティストへの多大なリスペクトと配慮を感じる。
全体のデザインはナズラエリ・プレス(Nazraeli Press)から刊行されたワイフェンバックの過去のフォトブックが強く意識されている。今までに刊行された彼女のフォトブック・デザインは非常にシンプルで、個別作品タイトル・リストが記載されていない場合もある。本カタログもそれらが踏襲されている。日本では、デザイナーが自己主張しすぎて写真を素材としか見ていないように感じられる場合が多い。写真家の側もデザイナーに頼りすぎて、実際に丸投げしたりする。本カタログは写真が中心となり、それが生かされた好感が持てる仕上がりだと思う。
「The May Sun」展には、伊豆で撮影された作品展示とともに、過去に制作した「The Politics of Flowers」を組み合わせることで、いままでの一連の作品を新しい視点から見せたいという意向がある。(詳細は以前に紹介したレビューを参照してほしい。)それゆえ、同展カタログは、単に展示作を収録したのではなく、アーティストの自己表現であるフォトブックだと判断すべきだろう。
同展のテーマやアイデア、またコンセプトがアーティストから語られていないと感じる人もいるかもしれない。しかし、欧米ではアーティスト・ステーツメントが求められるのは学生や新人アーティストなのだ。ワイフェンバックのような20年以上のキャリアを持つアーティストは、評論家、編集者、キュレーター、ギャラリストなどのまわりの専門家が展覧会の視点や歴史的な意味を語ってくれるのだ。本カタログにも、サラ・ケンネル(ピーボディ・エセックス博物館)、山田 裕理(IZU PHOTO MUSEUM )の文章が掲載されている。またアート系だけでない多様なメディアによる展覧会レビューも重要になる。日本における、写真展の情報提供と感想が語られるだけの展覧会紹介とはかなり違うのだ。
実際に、彼女の過去の多くのフォトブックにもアーティストのメッセージや解説などが記載されていない。欧米のアート界では、作品制作するアーティスト、展示するギャラリーや美術館、評価・解説を行う評論家、文筆家、編集者の分業が成り立っている。やや気になるのが、どれだけ多くの欧米のアート界の人たちが彼女の伊豆での展覧会を見に来て語ってくれるかという点だ。それには美術館の国際的な広報活動の成果が問われることになるだろう。
IZU PHOTO MUSEUMによると、「The May Sun」展覧会カタログの発行数は1000部で、販売価格は3780円(税込)。洋書で同様のフォトブックは倍以上で売られている。たぶん会期終了までには完売して近々にコレクターズ・アイテムになると思う。

ブリッツでも「Certain Days」全展示作品と展示フォトブックを掲載した小ぶりのカタログを制作している。表紙は「In Your Dreams」からの作品。いままでの彼女の出版物では表紙の写真は独立して扱われてきた。今回はあえて写真上にタイトルとアーティスト名を重ねたデザインを提案してみた。ワイフェンバック本人は、とても綺麗なカタログだと文句ひとつなく了解してくれた。

“Certain Days” Blitz Int’l,2017

こだわったのが、フォトブックのパートだ。コレクターの資料になることを意識して、彼女の代表的なフォトブック情報をマニアックに紹介している。
写真集は、アーティストの自己表現として認識されているフォトブック、第3者がアーティストの作品を編集したモノグラフやアンソロジー、展覧会の資料的価値の強いカタログに分けられる。ただし優れたキュレーター、評論家が編集したものはフォトブックに含まれることもある。今回は私どもがフォトブックと判断したものを選んで紹介している。こちらは通常版の限定350部が1400円(税込)、サイン付リミテッド・エディション50部4,320円(税込)で販売中。

「The May Sun」カタログはブリッツの店頭でも販売予定。「Certain Days」カタログもIZU PHOTO MUSEUMでも販売している。2冊揃えることで、テリ・ワイフェンバックの約20年のキャリアを俯瞰できるだろう。
なお、デジタルカメラで撮影された最新作は「As the Crow Flies」展カタログ(限定400部、2160円(税込))で見ることができる。こちらも2カ所の会場で購入可能だ。
『The May Sun』
NOHARA、2017年刊 /日英バイリンガル/
寄稿:サラ・ケンネル
ハードカヴァー:120ページ、サイズ 約305x232mm、
多数の図版を収録
3780円(税込)
『Certain Days』
Blitz International、2017年刊
パーパーバック:38ページ、サイズ 約210x148mm、
多数の図版を収録
通常版限定350部:1400円(税込)、サイン付リミテッド・エディション50部 4320円(税込)

写真集レビュー : ウィリアム・エグルストンは何ですごいのか “The Democratic Forest: Selected Works”

ウィリアム・エグルストン(1939-)は、ときに”シリアス・カラー写真の父”と呼べている現代アメリカを代表する写真家。大型カメラを使ったシャープ・フォーカスで色彩豊かなカラー写真で、アメリカ南部土着の風景や人々の生活を感傷的に撮影している。彼は、生まれ持った洗練された色彩、フォルム、構図の際立った認識力を駆使して、何気ない日常風景を巧みに詩的風景へと高めていく。多くの人は彼の作品の中にアメリカの原風景の残り香を見出し共感してきた。 市場での評価も非常に高く、最近では2015年秋のフィリップスNYのオークションで代表作”Memphis, 1969-1970″が30.5万ドル(約3500万円)で落札されている。

エグルストンは、80年代に撮影した作品を1989年に”The Democratic Forest”(Doubleday刊)として発表している。”その他より違う特定の重要な主題は存在しない”と語るように、彼は高尚な主題に対するのと同様の複雑さと重要性をもって、非常にありふれたものにも取り組んでいる。同シリーズは、彼の民主的なヴィジョンを示唆した代表作品として知られている。

2015年ドイツのSteidl社は、この”The Democratic Forest”シリーズから約1000点以上がセレクションされた10分冊の豪華本を刊行。本書では、このエグルストンの代表プロジェクトの中から特別な作品68点をセレクション。2016年秋にニューヨークのギャラリーDavid Zwirnerで開催された写真展の際に刊行されている。
本書の序文はスタンフォード大学のアートと美術史を専門とするアレキサンダー・ネムロフ(Alexander Nemerov)が担当。今回はエグルストン写真に対する彼のエッセーを取り上げてみたい。
アーティストのアイデアやコンセプトのオリジナリティーの評価は歴史との対比で語られる。ネムロフ氏のエッセーで興味深かったのは、作品に対する感覚的な印象やフィーリングも、多方面の歴史との対比や類似性で語られていることだ。既に多くが語られつくした感のあるエグルストンに対する新たなアプローチといえるだろう。本人の感覚と豊富な知識が駆使されて書かれた文学的な内容の文章なので、はっきり言ってよく理解できない面もある。しかし、ただ単に自分の感想を述べるのではないのだ。作品を感覚的に述べる際に参考になるだろう。
まずエグルストンの写真が持つカラーの効用について。それが米国文化で一般的な祭りやフェア、大行進のフィーリングを醸し出しているのを、画家ウォルト・クーン(Walt Kuhn)作品を引用して指摘している。また彼の作品の持つ”空虚感”を、ルネッサンス期のイタリア人画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)と類似していると指摘。米国人画家エドワード・ホッパー(Edward Hopper)作品の無人のインテリア図版が紹介されているが、彼の絵画は人の気配を感じるのでエグルストン作品とは違うとしている。また現代アートの先駆け的な作品で知られるマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)からの影響にも触れている。

引用の範囲はミシシッピィ出身の小説家のウィリアム・フォークナーにまでおよぶ。彼の自分を見下げたような感覚をエグルストンの写真にも見ている。エグルストン作品の持つ不完全さ、緩い感じにフォークナー作品の諦観力との類似性を発見し、それが作品の永遠性を呼び起こすと指摘。このあたりの分析は、両者の作品に精通したネムロフ氏ならでは。ある程度の前提知識を持たないと理解し難い箇所だろう。

写真家では、フランス人のウジェーヌ・アジェ(Eugene Atget)がエグルストンの先例として紹介されている。典型的アメリカンの対象物とパリの街並みという、まったく違うモチーフが撮影されている。しかし二人の写真は一連の大きな流れで撮影されていると指摘。それらは、写真家の内側から出てきた衝動というよりも、彼らの置かれた世界の環境により駆り立てられた面が強いのではないかと分析。それにより、共に写された世界の永遠性の気分を強く感じる写真にしているということだ。私は、当時の二人の写真家の背景にあった時代や社会が激動する予感が、作品制作に駆り立てたと理解した。ネムロフ氏のいう永遠性は、その価値観がもはや存在しないから感じたのだろう。エグルストンやアジェの写真でよく言われる、懐かしい感じや古き良き時代の残り香などと近いニュアンスではないか。
エグルストンが何ですごいのか。今回は一例だが、それは彼の作品のなかに上記のような極めて多様な分野の歴史との対比、分析、見立てが可能だからだ。ネムロフ氏のエッセーのように、優れた作品の場合はその印象を語るときさえも、それが可能になる。このようなエッセーは、比較対象される歴史の知識を持たないと難解となる。写真なのだが絵画の評論とまったく同じなのだ。
誰かがこの役割を果たさないと、写真は単に物質的な意味にとどまる。表層が語られるだけで、アート表現の一部には含まれないのだ。特に日本では写真はアートとは別の独立した存在だと考えられている。ここの部分の仕事が成立しない状況にもなっている。写真と関係のない、美術史専門家や文芸作家ならば、より自由に興味深い視点や感想を提示できるのではないだろうか。

写真集の紹介は以下からどうぞ

フォトブック・レビュー
“Ellsworth Kelly: Photographs”
(Aperture、2016年刊)

エルスワーズ・ケリー(1923-2015)は、シンプルでエレガントな絵画や彫刻で知られるミニマリスト系の米国人アーティスト。互いに厳密に分割された色面によって構成されたハード・エッジやカラー・フィールドの絵画で知られている。
実はケリーは1950年頃から借りもののライカで写真撮影を行ってきた。彼の写真作品の一部は、1987年に全米を巡回した「Ellsworth Kelly: Works on Paper」展で、スケッチ、ドローイング、コラージュとともに紹介されている。しかし写真作品は長らく忘れ去られていて、最近になって再発見されたとのことだ。たぶん写真自体がアート表現になり得るという認識が本人にも取り扱いギャラリーにもなかったのだろう。
今回の写真集は2016年春にニューヨークのMatthew Marks Galleryで開催された展覧会に際して刊行されたもの。1950~1982年までに撮影されたモノクロ写真約42点が年代ごとに収録されている。
彼が提示する抽象的な写真世界は、絵画で表現される様々なフォルムと重なっていると感じられる。写真では、3次元の世界が2次元になる。彼はそこに写真空間独特のフォルムを探求している。視覚に入ってくる様々なフォルムは自分の視点が動くと常にに変化する。彼はそのような世界を見る行為の中で、奇跡的なバランスを持つ瞬間を見つけ出そうとしている。
本書では、彼の視覚が木や枝葉などの自然から、しだいに風景、人工物、ストリート、家屋、壁などに広がっていく過程が垣間見れる。特に1968年には、ロングアイアランドの農家の納屋を重点的に撮影。そこに写されている、小屋の扉や壁面により分断される様々なパターン、屋根の形状などは、絵画や彫刻と類似している。
その他の写真では、太陽光線に照らされた明るい場所と影の部分との対比、新たに舗装された部分がある歩道、ペイントされた道路上の白いライン、割れた窓ガラスの一部分、雪に覆われたカーブした丘陵地帯、地下室への入り口の開放部分などが表現されている。
彼の研ぎ澄まされた視覚は、実体のない、ありそうもない場所で、驚くべき魅力的なフォルムを発見している。

ケリーの写真は、モノクロによる抽象写真のカテゴリーに含まれるだろう。この分野では、アーロン・シスキン(1903-1991)が有名だ。しかし、彼の抽象作品は壁面の落書きなど2次元空間のものが圧倒的に多い。一方でケリーの多くの作品は、3次元の空間から創作されている。より写真の特性が生かされているのだ。また写真作品の中に発見できる、様々なパターンやフォルムが、彼の有名な絵画や彫刻と類似している点も大きな特徴だろう。画家エルスワーズ・ケリーの代表作との関連性がわかりやすい写真なのだ。コレクターがそこに大きな価値を見出すことは容易に想像できる。

ちなみに、上記のMatthew Marks Galleryでは、2015~2016年にプリントされた、11X14″サイズでエディション6の作品が1万5千ドル(約157万円)で売られていた。ケリーの絵画をコレクションしている美術館やコレクターには、創作の背景を知る資料としても魅力的な写真作品だと思われる。

最近は「サイ・トゥオンブリーの写真-変奏のリリシズム-」展がDIC川村記念美術館(千葉)で開催されるなど、写真家以外のキャリアを持つアーティストによる写真作品が注目されるようになっている。この現象は、写真のデジタル化進行と現代アート市場の拡大で、写真による表現自体がアート業界で広く認知されてきたことによると理解すべきだろう。

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・アート・フォト・サイト