新年ブリッツの予定
テリー・オニール 写真展 “Terry O’Neill: Rare and Unseen”

ブリッツの2019年は、テリー・オニール写真展“Terry O’Neill: Rare and Unseen”でスタートする。彼の写真展は、2015年の“Terry O’Neill: 50 Years in the Frontline of Fame”(テリー・オニール : 華麗なる50年の軌跡)、2016年の“All About Bond”(オール・アバウト・ボンド:テリー・オニール写真展)と、2000年代で3回目となる。
ブリッツでは、まだギャラリーが広尾にあった4半世紀前の1993年にも、“Terry O’Neill: Superstars of 70s”(テリー・オニール :70年代のスーパースター)を開催している。2015年の本人の来日時に確認してみたが、当時はロンドンのギャラリー経由で作品を取り寄せたので、彼は日本での初個展開催のことは覚えていなかった。

実は私にとって、テリー・オニールはとても思い出深い作家なのだ。
80年代、私の興味は主に現代版画だった。それが1987年2月号の雑誌ブルータスに“写真経済学”という記事が掲載され写真に興味を持つようになった。そこにはアート作品として欧米で売買されているオリジナル・プリントの情報がかなり詳しく紹介されていた。当時、住んでいたロンドンの情報を調べてみると、写真専門ギャラリーはHamilton’s、The Special Photographers Company、Zelda Cheatle、The Photographers’ Galleryくらいしかなかった。もっとあったかもしれないが、ネットがない時代、アート情報は雑誌Time Outや新聞のアート覧に頼るしかなかった。そしてロンドンのポートベロ・マーケットの近くにあったThe Special Photographers Companyで、テリー・オニールの“Bardot、Spain”という1971年に女優ブリジッド・バルドーを撮影した銀塩オリジナルプリントを185ポンドで買った。カッコいい写真だと思い、衝動買いしたのを覚えている。当時の為替は1ポンド240円くらいだったので、円貨だと約4.4万円となる。いまでは、回顧写真集”Terry O’Neill: The A-z of Fame”(2013年刊)の表紙にもなっているテリー・オニールの代表作品だ。

Brigitte Bardot, Spain, 1971.
ⓒ Terry O’Neill

当時の私は、日本で誰もやっていない海外の新しいビジネスを立ち上げたいと考えていた。同業他社がいない分野の方が成功の可能性が高いと考えたからだ。版画を取り扱うギャラリーは数多くあったし、新規に参入しても生き残り競争は相当激しそうだった。

日本でも写真専門ギャラリーが創設されつつあったが、テリー・オニールのようなアート系のファッションやポートレートを扱っている商業ギャラリーは一つもなかった。まだ、ファッションやポートレート写真のアート性が市場で認められていなかった時代だった。販売価格も20世紀の写真史を代表する人たちよりも安かった。業界では、それらはインテリア用の写真作品という低い扱いだったのだ。世界的にも、ロンドンのHamilton’sとニューヨークのStaley Wiseくらいしか、この分野の写真作品を専門的には取り扱っていなかったのだ。ブリッツの誕生も、テリー・オニール作品との出会いがあったからと言えないことはない。

さて本展は、同名写真集の刊行を記念にて開催するもの。テリー・オニールは2019年7月に80才になった。いまやダイヤモンド・ドックの撮影で知られるデヴィッド・ボウイなど、彼が親しかった多くの被写体たちは亡くなっている。関係者によると、彼は新たな視点からの過去の作品の再評価が必要だと意識するようになったと語っていたという。彼の意向により、ここ数年にわたり写真家本人と専門家により膨大な作品アーカイブスの本格的な調査と見直し作業が行われた。その過程で、20世紀後半期の音楽界や映画界の貴重な瞬間をとらえたヴィンテージ・プリントが数多く発見されたのだ。
それらにはザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイ、フェイ・ダナウェイ、オードリー・ヘップバーン、ショーン・コネリー、エリザベス・テーラーなどの未発表写真が含まれていた。
2018年の秋、アーカイブスの整理が終わり、未発表作が写真集“TERRY O’NEILL : RARE AND UNSEEN”として刊行された。本書の刊行により、テリー・オニールによる戦後民主社会を象徴する数々の名作が生まれた背景が初めて明らかになったのだ。

The Beatles are leaving London from Heathrow Airport for the US ,1964
ⓒ Terry O’Neill

本展ではテリー・オニール・アーカイブスで再発見されたデヴィッド・ボウイと妻アンジーのヴィンテージ作品、80年代にプリントされたアナログ銀塩写真作品、新刊写真集に収録された重要ヴィンテージ作品から写真家により再解釈されて制作されたエディション付き作品、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイ、オードリー・ヘップバーン、ケイト・モスなどの時代を象徴する代表作があわせて展示される。展示総数はモノクロ・カラーによる合計約30点を予定している。
会場では、プリント付き限定本、サイン本、通常版、限定T-シャツなどが販売される予定だ。

テリー・オニール 写真展
“Terry O’Neill: Rare and Unseen”
(テリー・オニール : レア・アンド・アンシーン)
2019年1月12日(土)~3月24日(日)
1:00PM~6:00PM/ 休廊 月・火曜日 / 入場無料

写真展レビュー
“ちいさいながらもたしかなこと”
@東京都写真美術館

東京都写真美術館の、新人若手写真家の写真を展示する15回目の企画展。多くの人が気になるのは、膨大な数の写真家の中から彼らが選出された基準だろう。それについては、プレスリリースやカタログには明確な説明や記載がない。
それでは本展タイトル“ちいさいながらもたしかなこと”からヒントを探してみよう。担当のキュレーター伊藤貴弘氏は、カタログ・エッセイの「おわりに」に、“彼らに共通するのは、自らの感性や考え方、アイデンティティーやリアリティーをてがかりに、社会とのかかわりを意識しながら個人的な視点で作品を制作していることだ。その姿勢は、今を生きるアーティストであれば誰しも少なからず持っていて、目新しいものではないかもしれない”と述べている。カタログの「ごあいさつ」にも同様の開催趣旨が書かれている。個人的には確かであるものでも、決して普遍的ではない点を開催者は認識しているのだ。伊藤氏は、タイトルはそのようなやや逆説的なニュアンスもあるとも語っていた。
どうも今回の新人若手写真家展は、美術館が2018年現在の時代性を最も表した写真家を審査の上で選出したというよりも、責任キュレーターのパーソナルな視点により企画されているようだ。まずこの点を知った上で鑑賞することが必要だろう。

しかしたぶんこれは美術館により確信犯で行われていると私は考えている。抽象的な言い方になるのだが、現在は価値観が多様化した時代だといわれている。いくら多様な価値観の展示を試みても、それらは取り上げるキュレーター、評論家、ギャラリスト、写真家らにとっては個人的に意味を持つが、決して多くの人が共感するような一般的なものにはなりえないのだ。そうなると、新人選出の方法論は複数の専門家による価値基準の調整を行った上で行うか、個人の専門家の視点を生かしたキュレーションかになるだろう。前者がキャノンの写真新世紀や朝日新聞出版の木村伊兵衛賞、後者が本展のような美術館展となる。個人による判断には偏りがでるという批判もあるかもしれないが、同館のようにほぼ毎年継続して行うのであれば問題ないと考える。単体としてではなく、複数の連続した企画として見ると、結果的な多様化した現代の状況が浮かび上がってくると思う。本展だけを単体で見ると視点が分かり難いと感じる観客もいるかもしれない。

選出されたのは30から40歳代の、森栄喜(1976-)、ミヤギフトシ(1981-)、細倉真弓(1979-)、石野郁和(1984-)、河合智子(1977-)。
それでは、写真家が自分なりに小さいながら確かだと認識してテーマとして取り上げて撮影しているのは何だろうか。それらは、感覚、家族、人間関係、ジェンダー、アイデンティティー、時事的な出来事、文化的差異、歴史、水の循環、視覚、方法論(撮影、プリント、展示)などだと思われる。
ちょうど、先月に「写真新世紀」の展示を同館で見た。これは世界中の人を対象とした複数の選出者による公募展。私は、外国人の作品が社会的問題点をテーマとして掘り下げて追求するのと比べて、日本人の関心が自分のことや内面に向かいがちだと感じた。大賞は、シンガポールの環境問題「煙霧」(ヘイズ)を表現したソン・ニアン・アン氏だった。同じような傾向は今回の展覧会でも見られる。それぞれの関心や興味は多種多様だが、多くの写真家の関心の前に“自分の”と付けると一貫性が出てくるのだ。社会的な事柄も、自分が個人的に関心を持つものなのだ。自分以外の人が、作品に興味を持ってもらう仕掛けへの工夫がやや物足りないと感じた。

本展の特徴は多くの人が写真以外に映像を流していた点だ。自分の感覚の流れや移ろいを表現するのには、スティールよりも映像の方が適しているからだろう。これは展示多様化の流れと、内向き表現の表れだと解釈できる。
また本展の参加者は、細倉真弓以外の4名はすべて最終学歴が海外の教育機関出身だった。しかし、作品が提示するタイトル・テーマなどの方法論は海外のファインアート系を意識しているのは分かるが、本質は自分で深く考え掘り下げるよりも、感性を重視した表現になっている。日本で教育を受けたアート系の若手の作品とあまり変わらないのが興味深かった。

いまや写真は誰でも撮影する真に民主化したメディアになった。特に日本はその最先端をいっており、写真は現代社会に生きる個々人の意識や集団無意識を反映させた表現になっていると感じる。そこには、歴史や伝統が背景のファインアートと応用芸術との違いなどない。プロ・アマの違いも存在しないのだ。このような認識に立てば、本展は写真表現に特化した美術館のキュレーターによる、現代日本の若い世代のセンチメントをサンプリングし掬い上げた非常に意欲的な試みだと解釈できるだろう。

小さいながらもたしかなこと
日本の新進作家 vol. 15
東京都写真美術館(恵比寿)

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3098.html

トミオ・セイケ 写真展 見どころを紹介(2)
「Street Portraits : London Early 80s」

ブリッツでは、トミオ・セイケの「Street Portraits: London Early 80s (ストリート・ポートレーツ:ロンドン・アーリー・80s)」展を開催中。今回は先週に続き、個別作品の見どころを紹介しよう。

一連のセッションで撮影された若い女性の写真が2枚展示されている。

デジタル・アーカイヴァル作品(左側)と、もう1枚は銀塩のヴィンテージ・プリント(右側)による。セイケによると、最初の写真では、女の子はストリートで異邦人の日本人に声をかけられての撮影だったので緊張気味だったという。2枚目の写真では、撮影場所をストリートではなく、白ペンキで塗られた住居の玄関ドア前に移している。女性の表情からは明らかに緊張感が薄れ、リラックスした様子に代わっている。その瞬間をセイケのカメラがとらえている。セイケによると、ストリートでこのような自然の表情を撮影できるのは奇跡的なことだという。
また2枚を比べると、20世紀のアナログ銀塩写真が黒と白の解釈であり、その中での抽象美の追求であるのがよくわかる。細部までの精緻な再現力では、デジタル・アーカイヴァル作品の方が優れている。銀塩写真は、部分的に黒はつぶれて、白はとんでいるのだ。銀塩と比べるとデジタルは中間トーンの再現力が優先されている印象だ。興味深いのは、長年にわたり写真に親しんできた年配の人は銀塩写真を好み、若い人はデジタル・アーカイヴァル作品の方が好きだという傾向があることだ。つまり、二つの写真表現を比べて優劣を語るのは全く意味がないということ。人の好みは、普段自分が見慣れた方に無意識のうちに親近感を持って形成されるのだろう。
かつてデジタル・アーカイヴァル作品で、銀塩写真っぽさを出そうとした写真家が多かった。しかしそれは意味のないことで、それぞれが全く別の表現だと考えるべきなのだ。セイケが2種類の写真を同時に展示しているのはそのような考えに至ったからだと思う。

若い男女のポートレートも人気の1枚だ。

二人の服装は男性が白系のセーターで女性がダーク系のコート、洋服のコントラストでモノクロームの抽象美を見事に強調した作品になっている。セイケは長年の習慣でファインダーをのぞくと、そこに見えるシーンが頭の中で自然にモノクロームになるという。たぶん、普通に街を歩いていても、そのようなシーンに無意識的に反応するのだろう。そしてフレーミングの絵作りで、黒と白の部分の調整をしているのだと思う。
セイケによると二人はかつてはお付き合いしていたが、ちょうど別れ話を終えたばかりの時に撮影されたとのことだ。そういわれると二人の表情に微妙な違いが見て取れる。男性は別れたことに未練を感じている風、一方で女性は妙にすっきりとした表情で既に新しい未来にわくわくしている感じに見えてくる。モノクロームの美しさと共にサイドストーリーを聞くとさらに味わいがある作品に感じてくる。

当時のファッションで最もアバンギャルドなのが、この若者の写真だろう。

アンティーク風のソフトハットをかぶり、ダブルのテーラード・ジャケットを羽織り、その下にはジギー・スターダスト時代のデヴィッド・ボウイがプリントされたT-シャツ、ボトムスにはサッカーなどの競技用と思われるややオーバーサイズのショート・パンツを合わせている。服のスタイル、デザイン、素材に統一感が全くないのだが、この若いハンサムな男性は自信に満ち溢れた堂々とした表情なのだ。伝統的なファッションは、数々の決まりごとがあり、そのルールの中でコーディネートを考えるが洗練されたセンスだと思われている。この写真のファッションはまさにその真逆なのだ。70年代後半に一世を風靡した、やりたいことをやれば良いというパンクの精神が色濃く反映されていると感じさせる。たぶんこのファッション・コーディネートの外し方は意図的で非常に高度な技なのだと思わされてしまう。

本展では、写真自体の洗練された美しさと共に、重層的なテーマ性、銀塩とデジタル・アーカイヴァル写真の対比、個別作品のストーリー性など、様々な見どころが発見できる。見る側は写真の表層だけを鑑賞するのではなく、ぜひ写真家のメッセージを意識的に読み解く努力を行ってほしい。コレクター、アート愛好家、アマチュア写真家が十分に楽しめる写真展だと思う。写真で行うアート表現のお手本だと言えるだろう。

トミオ・セイケ 写真展「Street Portraits : London Early 80s」は、12月16日まで開催。本展は日曜日もオープンしている。営業時間は午後1時~6時、月、火曜が休廊。